プロローグ
その部屋は狭い。
その部屋はいつもはがらんとしている。
その部屋では汚れた薄い敷物が、灰色の石の床の上に広げられている。
空の木箱が幾つか、無頓着に散らばっている。
今、その木箱のうちの幾つかは、即席の椅子として使われている。
窓はほんの小さな、丸い明かり取りが一つ、壁の上の方に開けられているのみだったが、その硝子は汚れ切ってしまっていて、透過する光はほんの僅かだった。
それでは光源が足りないとばかりに、あちこちに光晶のカンテラが無造作に置かれて、てんでばらばらな方向に光を振り撒いている。
その狭い部屋に、今は十人ばかりの人間が集まっていた。
時おり扉が開いては、如何にも楽しげな、退屈凌ぎを探しに来たような顔で、更に誰かが入って来ることもあれば、あるいは時間を確認して、舌打ちして悪態を吐きながら部屋を出て行く者もある。
――部屋の真ん中、娯楽の好奇の視線を受け、口笛や野次を向けられているのは、年の頃十一か、十二とみえる、まだ幼い少年だった。
赤錆色の短い髪が特徴的だった。
顔立ちは、まともに見れば年相応の愛らしさを感じさせる程度には整っているはずだったが、今は見る影もない――殴られて頬が腫れ、唇が切れて血が滲み、左目も青紫色の大きな痣に半分程度が塞がれてしまっているとあっては。
傷のない肌も血の気が引いて真っ青になっているとあっては。
まだ見開かれている右目を見れば、その虹彩の色は鮮やかな朱色。
両眼から、次から次へと涙が零れている。
顔面だけでなく、全身が惨憺たる有様だった。
――そう、全身が見えていた。
着衣は毟り取られて、少年は全裸になっていた。
その背中側――腰に近い位置、中心よりもやや右に逸れた位置に、赤黒い焼き印が捺されている。
上下すら確認せずに無造作に押し付けられた、装飾文字で「ラディス」と記されているだけの無愛想な焼き印が。
そして今や、背中一面から夥しい出血があった。
――鞭で打たれたためだ。
縦横に走る傷から、鮮血が滲んで背中を濡らしている。
そして火傷――腕にも脚にも腹部にも、焼けた火かき棒を押し付けられたがゆえの、痛々しく真新しい火傷が無数にある。
焼けた皮膚の臭いがあって、皮膚がじゅくじゅくと熟れているのが分かるほどの。
周囲の大人たちは笑い、野次を飛ばして、あるいは顔を顰めて金銭の受け渡しを行っている。
「鞭打ち、これで何回目?」
「三回!」
「オーラスの勝ちだ」
「おい、ベルムンド、七オレガだぜ、耳揃えて寄越しな」
「ちぇ、ひ弱そうだから二回で諦めると思ったのによぉ」
「ひ弱なもんかよ、栄誉ある小隊長さまになるんだぜ」
どっ、と爆笑。
「次、誰の番?」
「俺だよ。火かき棒がいいな」
少年がしゃくり上げるように泣く。
それでいっそう周囲が笑う。
「嫌ならさっさと誓約すりゃいいのに」
「これで何分?」
「一時間と――五分だな」
「頑張るねえ。こないだのちびは七分だったな」
火かき棒を手に男が進み出る。
火かき棒は真っ赤に熱されて輝いている。
少年は傷だらけの身体で後退ろうとするが、足はとっくに折られている。
体勢を崩して倒れ込んだ横腹に、無頓着に火かき棒が押し当てられる。
じゅっ、と、まさに肉が焼ける音。
誰かがのんびりと、「あー、これ終わったら肉食いてぇ」と呟く。
少年は声も嗄れんばかりに悲鳴を上げる。
声が罅割れて、彼は血を吐くが、弱々しい悲鳴は上げ続ける。
「やめて」
彼は殆ど囁くように懇願する。
「やめてよ」
周囲の大人たちは、それをまるで何かの芸を見るような顔で聞いている。
その中の誰かが、苛立った顔で懐中時計を引っ張り出し、時刻を確認した。
「俺はあと十分で出なきゃいけない。ベン商会との商談に同行しろって言われてる」
「あと十分くらいは頑張りそうだけどな、こいつ」
「傭兵団の餓鬼の監視員を呼んで来いよ、誰か。こいつがいつも一緒にいるのはどのちびか知ってるだろうし。そいつを引っ張って来て同じようにすれば、案外あっさり誓約するんじゃねえの」
少年が目を見開いて、たった今口を利いた男を茫然と凝視する。
彼は恐怖よりも驚愕を強く感じている。
――これほど醜悪な人間がいるのか、と。
「――だめ」
少年は呟く。
殆ど無意識に。
「それはだめ」
少年は、先程の誰かの言葉を信じるならば一時間と五分前に、唐突に彼が呼び出されたときに相棒が見せた表情を覚えている。
思い返している。
つらそうに、切なそうに眉を寄せて、「変に抵抗すんなよ」と素早く囁いてきた、あの顔。
「じゃあさっさと誓約しろよ、こっちも暇じゃねえんだしさ」
低い声の恫喝。続いて笑い声。
「いや、おまえ、今日は一日暇なんだろ」
「朝から楽しみにしてたじゃないか、見てたからな」
「これでこの餓鬼があっさり五分で陥落してたら、おまえ、それはそれで文句言ってたんだろ」
「いやいや暇じゃねえって。俺、このあと、奥さんと素敵な晩餐の予定だからさ」
「じゃあ、のんびりもしてられないのか」
口々に笑い声。
少年にはもう彼らの目許は見えていない。
ただその口の形、歪んだ口の形を覚えているだけだ。
そして、その指。
一方向を指差す、そのたくさんの指。
「誓約しろ」
「誓約しろ」
「誓約しろ」
たくさんの指が示す先――明かり取りの窓の下、木箱に腰掛けているのは、この部屋の中で唯一、痛みに身悶えしてもいなければ、嘲笑してもいないものだった。
――だが、生憎と人間ではない。
竜の眷属ですらない。
鉱路のものでも地上のものでもない、因果を掌る神秘の生き物。
――〈言聞き〉。
木箱に腰掛ける〈言聞き〉は、他の〈言聞き〉と寸分違わぬ姿をしている。
即ち、六フィートを超える長身。
その長身を覆う、裾を足許に引き摺るほどの長さの丈の、焦げ茶色の繻子の光沢を持つ外套。
その外套は釦がきっちりと留められており、外套以外の装束は窺い知れないが、外套の裾から覗く足は、一風変わった形の黒い靴に覆われているように見えた。
外套のフードは深く下ろされていて、顔貌は見えない――今はまだ。
たっぷりとした外套の袖から、手の指先が覗いており、よくよく見れば、その手が人間のものではないことは明らかだった。
指が異様に長く、関節が人間の指より一つ多く、そして爪がない――指先は尖っていて、肌の色は淡い灰色をしているのだ。
そして〈言聞き〉は、その左手に、彼らを彼らたらしめていると言って過言ではない、全ての誓約が記されているという象牙色の、小さく分厚い本を抱えていた。
少年は〈言聞き〉を見る。
〈言聞き〉が、端然と誓約を待っていることを理解する。
「……なんで……」
少年はわななく声で呟く。
血が滲んで腫れた唇が震える。
両眼からは次々に涙が零れていく。
「なんで大人に味方するんだ……」
周囲の大人たちのうち、誰かが煙草を吸い始めた。
紫煙の匂いが、血と焼け焦げた肉の臭いに混じって漂う。
「これさー、大丈夫なの。さっき、思いっ切り脚折ったけど、こいつ、また使えるようになんの? 使えないなら誓約させても無駄じゃん」
「大丈夫だって。後で法術師に診せるから」
「それに、別に傭兵団で使えなくなっても無駄じゃないよ。こいつ、なかなか可愛い顔してたじゃん。もし片脚失くしたりしたら、それこそウォンスリーさまとかに売りつければいい」
「あー、あの、可哀想な格好の男の子が堪らなく好きっていう変態ね……」
「おい、下手なこと言うなよ、お得意様だぜ」
どっ、と爆笑。
煙草を吸っていた男が、笑い過ぎて煙に咽ている。
少年はいよいよ激しく震えている。
痛みだけではなく悪寒が、危険なほどの悪寒があった。
彼は帰りたかった。
いつもの寝床に潜り込みたかった。
寝床に潜り込んで、誰よりも頼りになる、いつも必ず自分を守ってくれる、相棒の強い手を握っていたかった。
こんなところからは出て行きたかった。
「やめて――やめさせて……」
不意に、〈言聞き〉が動いた。
右手を持ち上げて、外套のフードをゆっくりと下ろしたのだ。
――露わになる〈言聞き〉の顔貌。
爆笑していた大人たちがそれを見て、一様に顔を顰める。
誰かが足許に吐く真似をしている。
少年にもその異形が見えている。
〈言聞き〉は静かに、左手の上で象牙色の本を開く。
「おっ、誓約か?」
誰かがわくわくと期待を籠めて呟く。
少年は必死に首を振る。
――求められている誓約をしてしまえばどうなるか、彼は理解していた。
つい先日、その誓約を交わしていたオーゲルが欠けたからだ。
オーゲルは彼よりも年上だったが、口癖のように言っていた――「頼むよ言う通りにしてくれよ頼むよ俺だってこんなことはしたくないでもおまえたちが言う通りにしてくれないと俺はおまえたちを欠けさせることになるんだよ頼むよ仲間を撃ちたくない」。
いつも早口で。何かに祈るように。
「――やめさせて……」
少年は震える声で囁く。
そしてもう一度、駄目押しのように鞭で打たれ、何かの箍が外れたように絶叫し、悲鳴を上げる。
「やめてくれ、やめさせてくれ、なんでこんなに酷いことが出来るんだ!!」
周囲の大人たちが一瞬、ぽかんとした後、堪えかねたように笑い始める。
誰かが木箱の上で、ひぃひぃと脇腹を擦って笑い転げる。
「『なんでこんなに酷いことをするんだ!』だとよ!」
少年の甲高い声を真似た声、それに応じる爆笑。
煙草を吸っていた男は笑い過ぎ、とうとう煙草を足許に落とす。
だが、少年は周囲の大人たちには叫んでいなかった。
詰るように彼は絶叫している。
世界に向かって自分の意思を示すことの出来る最後の機会が今とばかりに。
「人生終わってもまだ逃がしてくれないのか。
だったらほんとに終わらせてくれよ、大昔みたいに死なせてくれよ!!」
異形の怪物が――〈言聞き〉が、頷いてそれを聞いている。
象牙色の本と少年の顔を見比べながら、穏やかでさえある仕草で。
だが表情などは窺えるはずもない、その異形の顔貌からは。
――〈言聞き〉の顔貌。
人の頭部ほどの大きさの顔貌――そこには口も、鼻も、頬も、額もない。
そして頭部全体が顔貌となっていた。
頭部の前面から後頭部に至るまでを、びっしりと覆っているのは、独特の形の肉塊。
喩えるならば、小さな薔薇――灰色の薔薇の花が、ぎっちりと並べられているような。
そして薔薇の花を思わせる形の肉塊は動いている。
花弁の開閉を繰り返しているかの如く。
その動きが、所謂瞬きに相当するものだと、それは誰にでも分かるだろう――
――なぜならば、その薔薇の花を思わせる灰色の肉塊、そのそれぞれの奥で蠢き、回転し、脈打つような収縮を繰り返しているもの。
それは夥しい数の、漆黒の虹彩を持つ眼球だった。




