11 年貢の納め時
「ねえ、ああいう前振りの後は、普通はダンスに誘ってくれるものなの」
「よし、よく聞け。一に、俺は踊れない。二に、あそこには音楽がなかった」
「一に、あなたなら出来る。二に、ちょっとは聞こえてた」
そんなことを言い合いながら議事堂に戻り、テラスに続く階段に足を掛ける。
ちょうどテラスにバンクレットと、不貞腐れた様子のエルカが出て来たところだった。
ヴィレイアが二人に気づき、右手でジャケットを押さえながら背伸びして左手を振ると、気づいたバンクレットが手を振り返し、「上がっておいで」と手招きする。
リベルは再び剣帯に二振りの剣を戻し、外套を肩から羽織っていた。
ジャケットはヴィレイアに進呈したままになっている。
テラスへの階段を上がると、バンクレットが神妙な顔でそれを出迎えた。
「ヴィレイア、きみが良からぬ輩に捕まったのではないかと心配していたのだが、大丈夫そうで……」
そこまで言って、ヴィレイア、ヴィレイアの肩のジャケット、それからリベル、と、視線を何巡もさせるバンクレット。
ヴィレイアはにっこり笑った。
「大丈夫ですよ、ジョーゼル小父さま。――あ、これですか? 寒いって言ってみるものですね!」
「ああ……うん……」
バンクレットが目頭を押さえたが、リベルからすれば意味が分からない。
彼はバンクレットの斜め後ろにいるエルカに近付いて、彼を矯めつ眇めつした。
「――なに不貞腐れてんの」
実をいえばエルカは、不貞腐れた表情をゆっくりと顔面から剥離させ、何やら非常に楽しそうな表情へ移行途中だったのだが、質問には答えた。
「可愛い女の子と喋ってたら、悪鬼みたいな顔をしたバンクレットおっさんに引き剥がされた」
バンクレットがくるりとエルカを振り返る。
「先程も言ったが、エルカ。きみが仲良く話していたのは、きみの招待主とは微妙な関係にある方のご息女だ」
「だって見分けようもねぇじゃん。なのにいきなり引き剥がすから」
「合図したのにきみが見て見ぬ振りをするからだ。あと、私にはきみが飲み過ぎているように見えた」
「へい、すみませんっした、親父さん」
エルカが冗談めかせて言う。
バンクレットは微笑んだものの、ヴィレイアに袖を引かれ、そちらに向かって「なにかな?」と身を屈めた。
そして、ヴィレイアが「私の時精時計……」と言い出したことに愁眉を寄せる。
「もちろん持っている。――ヴィレイア……」
エルカはバンクレットに舌を出してから、リベルに視線を戻してきらんっと目を輝かせた。
「ヴィリーを追っかけてったの?」
リベルは首を振る。
「いや、外の空気を吸いたくなってのんびりしようとしてたら、ヴィリーが気絶の振りを披露する場面に出くわしたから、回収してきた」
「どういう状況かいまいちよく分かんねぇけど、二人でなんか話してきたの?」
リベルは口籠った。
会話の内容を詳らかにする気にはなれなかった。
「……話ってほどのものは……」
「ああ、ごめん、なに話したか知りたいわけじゃないんだ」
エルカは素早くそう言って、不可解な手振りをした。
どうやら、彼自身にも自分が何を伝えたいものか、はっきり分かっていないらしい。
「俺は……つまりだ、その……」
「エルカ」
リベルは遮って呼び、何やらひそひそと囁き合っているヴィレイアとバンクレットから距離を開ける方へエルカを引っ張った。
テラスのもう片方の端近くまで行って――ここならば声もあちらには聞こえるまい――、ちらっとヴィレイアの様子を窺ってから、声を低める。
「――あのさ、エルカ。ヴィリーのことだけど」
エルカはぱっと自分の口を両手で覆った。
目を見開いて丸くしている。
「うん――うん? どうした?」
「俺……」
リベルは言葉に詰まったものの、なんとか続きを絞り出した。
「俺、ヴィリーに、このまま俺たちと一緒にいる気はないか、訊いてみようかと思って……」
「――――!」
エルカがいっそう大きく目を見開き、がしっとリベルの肩を掴んだ。
「いいぞ! いいぞ! そうだ!」
「しーっ!」
思わず兄貴分を制して、リベルは視線を下げつつ、もごもごと続ける。
「無理強いするつもりはないから、フロレアの隊に戻りたいって言われたら、引き留めはしないんだけど。
――ただ……おまえが言ってたみたいに、そのときは……せっかくだからエーデルに来てくれって頼むのも……いいかも知れない」
今度は勢いよく抱き締められた。
覚えず、「ぐえ」と声が出てしまう。
エルカは破顔していた。
「いいぞ! お兄ちゃんは嬉しい!! やっと自覚したか!」
「……自覚?」
リベルは咳き込みつつ、眉を寄せる。
「そりゃ、出来れば一緒にいたいっていうのは前から思ってたけど……」
「――――」
「エルカ?」
黙り込んだエルカに声を掛けると、彼は驚愕とはこんな顔であるという手本のような表情を浮かべていた。
「――……え、マジで?」
エルカが薄青い色の目を瞠り、がくっと項垂れた。
「嘘だろ……」
「ごめん、なに?」
眉を顰めるリベルに、エルカは若干疲れた仕草で手を振る。
「いや……いい。いいんだ。気長にいこう。
俺としては、おまえを眺めてるのは楽しいし」
「意味が分かんないんだけど……、俺ってそんなに面白いか」
「初めて会ったときから思ってたよ」
エルカは言って、不意に大人びた表情で微笑んだ。
「おまえが笑うの、俺、好きだもん」
リベルは噴き出した。
「なんだそれ」
それから表情を改め、リベルはまたももじもじと。
「――で、その……賄賂とかじゃないけど、やっぱりあれかな、なんか贈り物とかと一緒に頼んだ方が、ヴィリーもこっちに気持ちが動くかな……?」
エルカは両手で顔を覆った。
「この期に及んで……」という独り言が聞こえてきたが、定かではない。
リベルが忠実に兄貴分からの意見を待っていると、やがて手を下ろしたエルカは言った。
「そうだな。なんなら、どっかで見繕えば? せっかくヘルヴィリーにいるんだし」
リベルは顎を撫でた。
「今度のは、ヴィリーに自分で選んでもらうってのも変だよな」
「変だな。だから――」
エルカは指を立てた。
「俺たち、今日のためにヘルヴィリーにいたんだろ。たぶん明日にはエーデルに戻っていいって話になると思う」
「――ん」
リベルは少しばかり顔を顰めた。
バンクレット邸の居心地が良かったためだが、もちろんのこと生活のためにはエーデルに戻り、鉱路探索をこなさなければならない。
「で、ヴィリーにはなんか俺が適当なこと言って、一緒に帰るからさ。
おまえ、ちょっとこっちに残って、ヴィリーのために何か見繕ってから戻って来いよ」
リベルは少し考えたが、良案としか思えなかった。
「――そうだな。ヴィリーのこと頼める?」
「おう、ヴィリーも子供じゃないからな、やろうと思えば一人で帰れると思うぜ」
「それは分かってんだけど……」
エルカは慈しみ深い表情を浮かべる。
「心配なんだな。分かった」
「あと、帰る道々でヴィリーが不渡りの小切手を出さないように見ててやって」
「なんだっけ、それ――ああ、貯金よりでかい金額の小切手を切らせるなってことね。了解」
リベルは頷く。
――余談だが、勇者たちが金を使うとき、現金ではなく小切手を使う慣習は、勇者組合が長年かけて勇者たちに植えつけてきた慣習だった。
これにより、銀行を通じて、資源換金の際の資源税の誤魔化し――つまるところが勇者の名義貸しによる等級の誤魔化し――を防げるところが大きいからだ。
ゆえに勇者は、急な出費に備え、いつ何時でも取引している銀行が発行する白紙の小切手の束を懐に入れて行動する。
そして決して稀とはいえない頻度で、小切手の不渡りを引き起こし、経済的な欠落を迎える勇者が存在している。
リベルはまだあれこれ言いそうになったが、口うるさくするのはそこで自戒して、生産的な方向へ会話の舵を切った。
「――あいつ、何なら喜ぶかな」
エルカはヴィレイアの方をちらりと窺ったあと、リベルをじっと見つめた。
そして、端的ながらも確信を籠めて言った。
「――たぶん、なんでも」
*◇*◇*
その夜、彼らはバンクレット邸へは戻らなかった。
祝宴がお開きになり、三々五々に人が帰る頃には、既に夜半を回った刻限に達しており、乗合馬車も辻馬車も動いておらず、
「馬車を用立ててもいいが、御者をこの時間に叩き起こし、郊外まで遣らせるのは気の毒だ」
というヴァフェルムの鶴の一声により、リベルたちはヴァフェルム邸に迎えられたのである。
とはいえ、最初からヴァフェルムはそのつもりだったのではないかと思えた――そうでなければ辻褄が合わないと思えるほどに整った客室を見れば。
が、客室への感想も後回しにして、リベルは盛装を脱ぐや否や、巨大な寝台にばったりと倒れ伏して眠り込むこととなった。
疲労があってなお、長年の習慣が勝利し、目が覚めたのはいつもと変わらない時間だった。
リベルは伸びをし、頭から冷たい水をかぶって、自分自身の衣服に着替えた。
そして、昨夜に着た盛装をどうするべきか、狼狽えて考え込んだ。
そのうちに部屋にノックの音が響き、リベルが警戒心満点で扉を開けると、そこに立っていたのはバンクレットだった。
リベルはほっとして、数インチしか開けていなかった扉を全開にする。
バンクレットはわざとらしく額の汗を拭う仕草を見せた。
「ふう、まったく、我があばら家と違ってヴァフェルムさまの邸宅は広いからね。甲斐甲斐しくきみたちを起こして回るだけで疲れてしまう。
――リベル、朝食の支度が出来ている。警戒される前に言っておくと、小さな部屋で、きみたち三人だけの朝食だ。私も一緒に摂りたいが、如何せん仕事だからね。
エルカはもう送り出したから、途中の廊下で眠っていなければ先にテーブルに着いているだろう」
リベルはこくりと頷いたが、自分が何に狼狽していたかを思い出して、盛装の始末に困っていることを必死に訴えた。
朝食を一緒に摂れないならば、バンクレットに相談する機会はしばらくないだろう。
訴えを受けて、バンクレットはむしろ面喰らったようだった。
「困るも何も、持ち帰ればいい」
「これを? なんで? 着ないですよ」
バンクレットは溜息を吐いた。
「きみがそう言うということは、エルカも同じことを言い出すかな。とはいえ、それはきみたちに誂えたものだしね。――私が預かっていようか。
部屋に置いておきなさい。回収しておくから」
「助かります」
リベルのほっとした表情に、バンクレットは苦笑。
一方のヴィレイアだが(彼女はいちばん最後に起こされ、眠そうに目を擦りながら姿を見せた)、リベルが心底驚いたことに、同じくバンクレットに衣裳一式を預けることにしたようだった。
「それって、もしかして換金するつもりはないってこと?」と、リベルとエルカは若干前のめりになったが、そうではなかった。
どうせ売るならばヘルヴィリーで売る方が高く売れる。
また、春先までは財布の紐を固く締める商売人が多いことから、それこそ建国祭の後にでも売り払った方が実入りがいいと判断したようだった。
どのみち、建国祭まではあと三十日もない。
「おまえ、浪費家なのに、堅実なところもあるんだな」
リベルは思わず感心してそう呟いてしまい、「そうじゃないだろ!」とエルカに頭を叩かれた。
リベルが一人でヘルヴィリーに残ることについて、ヴィレイアは大騒ぎした。
「私も残って美味しいものを食べたい!」というわけだ。
リベルは、予想していたこととはいえたじろいだが、エルカが手厳しく言った。
「ヴィリー、リベルは貯金があるから多少の豪遊が出来るんだ。
俺とヴィリーは素寒貧仲間で先にエーデルに戻るの。あと、エーデルにも美味い店はある」
「エーデルの目ぼしいお店は大体行ったわ。
ジョーゼル小父さま、お小遣いくれないかなあ」
「たかるな」
リベルは気まずい思いで微笑んだ。
「まあ、遅くても、帰るのが一日遅れになるってだけだから」
――そのはずだった。
*◇*◇*
勇んでヘルヴィリーの商店街区に繰り出したものの、そもそも購入するものを考えていなかったのだから、初手からリベルは躓いた。
最初に――腰に提げた〈氷王牢〉を見てのことだろうが、彼を勇者と見分けて眉を顰める店主の視線をやり過ごしつつ――宝飾品店を訪れたが、ものの数分でリベルは、自分にこういった品物を見る目がないことを認めざるを得なくなった。
更に言えば、こういったものを贈られて、ヴィレイアが喜ぶのかも分からない。
(まあ、綺麗なものは好きそうだけど……)
続いて帽子屋を訪れ、人の頭部を象った人形が被る帽子をおずおず眺め、棚に並ぶストールや、春物の手袋を見渡したが、そのうちに入ってきた女性の一団に追い遣られ、気づくとリベルは店を出ていた。
その次には、リベルはずらりと並んだ香水の瓶を見渡していた。
この店の店主は、珍しくも彼を勇者と見て取っても邪険にはしなかった。
が、リベルはここでも断念した。ヴィレイアの好みの香りが分からなかったからである。
もちろん、彼女が身に着けていた香りならば分かるが、似た匂いの香水を贈られても、彼女は持て余すだろう。
その結論に至って店を後にする頃には、悩んだ時間が長かったために、リベルの鼻はすっかり馬鹿になっていた。
通りに出たリベルは、赤錆色の髪をがしがしと掻き回す。
人混みの中にあって、前から後ろから、見知らぬ人々がリベルにぶつかる。
リベルも足を進めてはいるが、速足に進む人々の中には、追い抜きざまにリベルを振り返り、顔を顰める者もいる。
それが、歩く速度に対して顔を顰めているのか、あるいは彼の身形を勇者のものと見て取ってけしからんと思っているのかは、リベルには判断がつかず、またどうでもいいことだった。
(こ――こんなに悩むとは……)
馬鹿になった鼻を正気に戻そうと深呼吸する。
そうしながら、リベルは半ば自棄になって考えた。
(いっそ花束でも贈るか)
綺麗なものではあるのでヴィレイアも喜ぶだろうし、花は枯れるものなので、気に入らなかったとしても日にちが経てば捨てるものだ。
考えれば目的には適うものだが、
(ただそれだと、思いっ切り俺が求愛してるみたいになるんだよな……)
片手の掌で口許を覆い、考え込む。
(菓子でも買ってく……?)
口に合わなかった場合を考えると悲惨だが。
(やっぱり帽子とか手袋とか……?)
考え込むリベルに、そのとき人混みの中で誰かが勢いよくぶつかった。
「――いてっ」
普段ならぶつかることもなく躱していただろうが、人混みの中、しかも熟考中の出来事である。
リベルは蹈鞴を踏んでよろめき、そしてぶつかった相手も、小さく叫びを上げてその場に蹲った。
二人を避けて人混みが流れていく。
中には好奇心の眼差しをこちらに投げる人もいたが、誰も立ち止まらず、迷惑だと言わんばかりに鼻を鳴らして歩いていく。
リベルが勇者の身形のゆえに顰蹙を買ったとすれば、相手は明らかに貧民層であることが分かる身形のために顰蹙を買っていた。
彼はまだ十代半ばと見える少年だったが、寸法の合っていない薄汚れた服で、伸びっ放しの髪、リベルが内心で、「この子はヘルヴィリーの商店街区に何の用があるんだ?」と首を傾げるような格好をしていたのである。
リベルは身を縮め、自分がぶつかった以上、そそくさとその場を離れることも出来ず、さりとて蹲った相手に手を差し伸べる勇気もなく、数秒のあいだその場に立ち竦んだ。
が、ややあって立ち上がろうとした少年が、痛そうに左手で脇腹を押さえながら、「助けて」と言うように右手を伸ばしてきたので、さすがに左手でその手を掴んで、彼を助け起こした。
少年は感謝するように、左手も脇腹から離し、両手でぎゅっとリベルの左手を握り締め、
(――ん?)
リベルは違和感を覚えて眉を寄せた。
――少年は脇腹を押さえていたが、リベルと衝突したときも、彼は脇腹は打っていなかったはずだ――
そしてそのとき、あってはならない感覚があった。
「――っ、おい!!」
リベルが怒声を上げたときには、既に少年はくるりと踵を返し、人混みを巧みに縫って駆け出している。
リベルもすかさず後に続いたが、ヘルヴィリーの混雑はダイアニともエーデルとも格が違う。
彼が僅かにもたついたその隙に、この人混みに揉まれることにも慣れている身ごなしを以て、少年は路地へと駆け込んでいた。
「ふざけんなよ! 待て!!」
リベルは怒鳴った。
周囲から嫌味なひそひそ声が聞こえてきたが、リベルはそれを無視した。
なにしろ、
(あいつ――掏りかよ!)
しかも、抜き取られたものは、リベルの二つの指輪――
――勇者としては必須の、ヴィレイアとエルカと連絡を取り合うための、唯一無二のあの指輪だ。
身形からして、少年も物心ついたときから生活のために掏りをしてきたのだろう、鮮やかな手並みだった。
同じく最低な環境で育ったリベルとは、磨いてきた才能の方向が違う。
リベルが、鉱路生物や人間を相手に戦う方法を学んできたのに比して、彼は油断を誘って金品を掏り取る技術を学んできたのだ。
更に言えば、ヘルヴィリーを主な狩場にして生き延びてきたのだろう。
それを思えばあらゆる点で、一枚上手をいかれたことには納得はするが、
(でも許せるか!)
一瞬――本当に一瞬、〈氷王牢〉で辺りを氷漬けにしてでも少年の足を止めることを考えたリベルだったが、商店街区のど真ん中でその暴挙に及んだ結果として衛卒に捕まり、吊るし上げられたところをバンクレットに迎えに来てもらい、彼が悲しそうに溜息を吐くところを想像してしまうと、それは出来なかった。
(せ――せめてもうちょっと人気のないところで!)
やっとのことで人混みを抜け、狭い路地に駆け込むリベル。
少年はかなり先を走っており、しかも悪いことに、仲間と合流している。
他の連中も少年と同年代だった。
彼らもまた、掏りの戦果を挙げてきたのか、それはリベルにとってはどうでもいいことだ。
なんなら、ある程度の金額を記した小切手を掏られていても、また稼げばいいからと諦めただろうが、
「おい! 替えが利かねえんだぞ、それ!!」
絶叫するリベル。
――あの漆黒の亜竜の鱗も、双頭の亜竜の鱗も、予備として保管しているものはない。
つまり、替えが利かない。
リベルが指輪を失くしたとなれば、高い金額で亜竜の指輪を購入するか、あるいは別の亜竜を仕留めてその鱗から新たに指輪を作らなければならなくなるのだ。
平生であればそれも已む無しと呑み込んだかも知れないが、
(よりによって今!!)
ヴィレイアに、なんとか自分たちの許に留まってほしいと頼む直前に。
しかも、あの漆黒の亜竜の鱗は、あの指輪は――
――『もうしばらくよろしく、ヴィリー?』
――『また短い間だけ、よろしくお願いします。私の幸運の勇者さま』
(絶対だめだ、あれは駄目だ!!)
路地の行く手、何かの空き箱や樽が積み上がった狭い道を、軽々と越えて走っていく少年たち。
リベルは息を吸い込み、〈氷王牢〉を僅かに鞘から抜いた。
途端、少年たちの足許が氷結する。
この不意打ちに、「うわっ!」と声を上げて転ぶ少年と、何とか堪えた少年、勢い余って壁にぶつかった少年。
「やべぇ、法術師だ!」
「勇者かも!」
そんな叫び声が上がり、少年たちに負けず劣らず身軽な動きでリベルはそのすぐ後ろに迫る。
が、貧民街育ちの根性がものを言い、少年たちは間一髪で再び走り出していた。
「勇者かな!」
「じゃあこれ、値打ちもん!?」
「知らない! じいちゃんに訊いてみなきゃ!」
少年たちが巧みに路地裏を疾走していく。
リベルの方へ空き箱を倒し樽を転がし、形振り構わぬ逃走ぶりだ。
そうやって襲い来る空き箱を吹き飛ばし、あるいは砕き、樽を躱してリベルが背後に迫ったそのとき、彼らが一斉に、用水路と見える暗渠に飛び込んだ。
「――――!」
慌てて用水路を覗き込むリベル。
どうやら水で満ちているわけではなく、水路の脇に通路が走っている格好となっている地下隧道が、一部地上に露出したような状態の暗渠だ。
少年たちは、更に質の悪いことに二手に分かれたらしい――誰が指輪を持っているのか分からない以上、リベルは勘を信じた博打に出ざるを得ないが、
――そのとき、
「……なんだ、騒がしい」
誰かの声がした。
聞き覚えのない声だった。
だが、リベルは動けなくなった。
――水路に小舟が浮いている。
小舟といっても、その上には小屋のような造りの船室が設えられているものだ。
だが、立派なものとはいえず、使い込まれた雰囲気がある。
そして、その小舟は通路に寄せられた位置で一時的に係留され、波に乗って上下している。
そのそばには三人の人影があった――船首から伸びる綱を手で持ち、自ら小舟を留め置いている男が一人と、その男と向き合って何かを話していたらしき男が一人。
そしてその男のそばで不安げに立ち尽くしている、まだ十二か三と見える年頃の少女。
たった今、声を出したのは綱を持っていない方の男――そのようだった。
リベルは息も出来なくなった。
――久しぶりに、本当に久しぶりに、あの感覚があった。
――〈言聞き〉の神秘の瞳に見られている、あの感覚。
男が振り返り、走り去っていく少年たちを見て顔を顰め、そして顔を上げて、地上から暗渠を見下ろすリベルを見上げる。
――特段の特徴のない、中年の男だ。
瞳の色は薄い灰色で、リベルを見上げる表情は眩しげで不快げ。
一度も会ったことはないと断言できる――だが。
リベルの心臓は早鐘を打っている。
名乗られなくとも分かる――分かってしまう。
誓約は未だに有効だ。
――この男はショーズ商会に属しているに違いない。
かつてリベルが無理強いされた誓約の、その主人の一人に含められるに違いない。
そして、リベルが今も対抗できている、言い換えれば対抗しているだけに過ぎない堅固な誓約、――その主体となる主人が目の前にいるとき、まだなおその意思に背くことが出来るのか。
――それはどうやら、絶望的だった。




