10 お手をどうぞ、勇者さま
三人がようやくその場から解放されたのは、その場に(三人の主観によると)颯爽と現れたヴァフェルムが、「やあ、私の招待客が良い酒の肴になっているようだね」とゲッセンタルクと二人の首長に話し掛け、注意が三人から逸れたときだった。
ヴァフェルムのそばにはいつの間にやらバンクレットもいたが、勇者三人が三人とも、さすがに疲れた顔をしているのを見て取って驚いた様子で、さすがの手際の良さでリベルたちを回収してくれたのである。
とはいえ、すっかりその気になった小説家がリベルについて動いたために、バンクレットはこれまでの経緯を、いかにも言い辛そうにするヴィレイアから聞き、爆笑したいのを必死に堪えていることが分かる顔で、「じゃあ、リベル、私と一緒に少し残ろうか」と言い出し、ヴィレイアとエルカを先んじて自由の身にしてしまった。
「なんで俺!?」
「きみの冒険譚じゃないか」
そう言われるとぐうの音も出ないリベルである。
そもそも、〈鉱路洪水〉のことが心的外傷になっているだろうヴィレイアを、好奇心からの詮索に晒したくない気持ちもあって、リベルはぐっと踏み留まった。
――尤も、小説家が微に入り細に入り尋ねてきたのは、〈鉱路洪水〉の惨状のことではなく、リベルとヴィレイアが如何にして出会って相棒になったのかという経緯だったのだが。
心情をいえばその部分も話したくはなく、可能な限りでだんまりを決め込むリベル。
特に、ヴィレイアが――一度とはいえ――亜竜が残っていることを知った上でしらばっくれようとしたことだけは、断じて漏らすまいと口を引き結ぶ。
バンクレットが、いい具合に小説家の想像力を掻き立てるようなことを、しかしながら実際には何の事実でもないような仄めかしを続けることによって、小説家の注意をリベルから彼自身の空想に向け、更に小説家に立て続けに酒を飲ませることで、ようやくリベルを自由にした。
ヴァフェルムは勇者組合の首長二人と会話を続けており、じゃっかん面白くない様子ながらも、ゲッセンタルクもそこに留まっている。
バンクレットはその様子を見て、リベルの背中をばん、と叩いた。
「お手柄じゃないか。ヴァフェルムさまがこうも勇者組合の首長と接近されたことはない。ヴァフェルムさまもお喜びだろう」
励ますようにそう言われたものの、リベルはぐったり。
「そんなに疲れた? 勇者組合の首長は他の組合の首長と違って、ざっくばらんな方が多い印象だが」
バンクレットはそう言ったものの、リベルは呻くように、
「ざっくばらんかどうかはどうでもよくて、知らない人ってだけで疲れます……」
と。
バンクレットは「そうだった」と神妙に言ったものの、唇の端が痙攣していた。
そのときにはヴィレイアもエルカも見当たらず、リベルは覚えず、「二人ともどこ……」と心細げに呟いてしまう。
バンクレットが愉快そうに笑いながら、知人を見つけてヴィレイアとエルカの背格好を説明し、「どこに行ったか見た?」と尋ねる。
バンクレットの知人――こちらも軍人のようで、酒精が入って顔は赤くなっていたが、意識も正気もはっきりしていた――は、しばらく記憶を手繰った後で、「ああ、そうそう」と手を打った。
「あの、どこぞの軍人かっていう身形のいい坊主だろ。
――横にいるその御仁も大概だが。……どっかの坊ちゃんか?」
「彼も勇者だよ」
「そうは見えんぞ! 勇者にもえらく容姿端麗な奴がいるんだな」
「だろう? ――リベル、褒められているよ」
「――……あの、俺のことは置いておいてもらって」
「ああ、そうだったそうだった。
お捜しの坊主なら回廊に上がっていってたな。たぶん、舞踏室じゃないか?」
「エルカ、踊れないのに……」
バンクレットが心配そうに呟き、軍人は面白そうにバンクレットを覗き込む。
「へええ、ジョーゼル、甥っ子かなんかかい? 心配するなんて珍しいな?」
「そのようなものだ。
――女の子の方は見たかな。私にとっては娘みたいなものなんだが」
「おっとそれなら、あの男は八つ裂きかな?」
軍人がげらげら笑ったあと、グラスを持った手で庭園の方角を示した。
「おまえが言う嬢ちゃん、真っ白な髪の可愛い子だろ。人酔いしたのか何なのか、庭園の方に出てったぜ。で、男が一人、それをふらふら追い掛けてった」
バンクレットは憂慮の表情になったが、「まあ」と、己に言い聞かせるように呟く。
「ヴィレイアには千人の護衛がついているようなものだから」
リベルは溜息を吐いた。
「ここにいる人間は、誰一人としてヴィリーに怪我ひとつさせられないと思いますよ」
*◇*◇*
そうは言ったものの、リベルは庭園に通じる廊下に出た。
これは外の空気を吸いたくなったためだったが、庭園までの道程は苦難だった。
すっかり酒精が回った招待客たちが廊下に屯しており、気を抜けない。
バンクレットはエルカへの心配が大きかったらしく、リベルを置いて舞踏室の方へ向かっていった。
リベルにはどうにも、彼がエルカの帰宅を危ぶんでいるように見えた。
リベルは、酔った男性が絡んでくるのを躱し、社交の場で己の許容量を見誤った若い淑女が、およそ淑女らしからぬ態度で廊下の長椅子に寝そべっているのを見て見ぬ振りをし、そうしつつも、彼女に不埒な手を伸ばそうとした男の後頭部を叩いて止め、十歳そこそこと見える男の子と女の子が壁際に膝を並べてしゃがみ込み、初恋を育んでいる様子を見守る衛卒に、「二人の邪魔するなよ」と牽制されながら、やっとのことで庭園に続くテラスに出た。
テラスにも招待客がいた。
多くが男女の二人連れで、その殆どがくすくすと笑い合っている。
テラスから庭園へ降りる階段は、向かって左側にある。
その階段の先は石畳の小径になっており、その石畳が分岐して、ある小径は生垣の迷路へ、ある小径は沈床園へ、ある小径は庭園を流れる小川の畔の四阿へと続いているのが、あちこちに仕掛けられた光晶の照明で見て取れる。
小径にもぽつぽつと人影が見えるほか、庭園には少なからぬ人の気配があった。
リベルは深呼吸した。
初春の月とはいえ、まだまだ空気は冷えている。
夜陰に凛と澄んだ冷たい空気が、胸の中を洗うようだった。
見上げてみれば、夜空に雲はないが、地上の明かりが眩しくて、特に明るい星しか目につかない。
背後からはなおも祝宴のざわめき。
頭上の窓のどこかからか、楽団が演奏する曲が零れて聞こえてきていた。
風が吹き、庭園で草木がそよぐ、ざわめきというにも微かな音が耳に届く。
リベルはテラスを縦断して、庭園を見下ろす欄干に肘を突いて息を吐いた。
そしてそのとき、眼下の一点にヴィレイアを見つけた。
小径の一つ、小川の畔の四阿のすぐ近くにいる。
(――ん?)
思わず欄干から身を乗り出してしまったのは、ヴィレイアの様子がおかしかったからだ。
――具体的には、ぐったりしているように見える。
そばに身綺麗な男が一人いる。
彼が全身を使って、ヴィレイアの肩を支えているようだ。
「――――!」
公平を期してみれば、男性は完全に困惑した様子で、今この場でヴィレイアを放り出せる場所があるならば喜んで放り出す、という態度を見せていたのだが、リベルがそれを汲み取ることは出来なかった。
かっと頭に血が昇るのを自覚し、リベルは弾かれたように、テラスから降りる階段に向かっていた。
「――ちょっと!」
二人のそばに辿り着くなり、リベルは声を荒らげた。
おろおろしていた男性は、一筋の光明を見出したような顔をしたが、その表情を観察する間もあらばこそ、リベルは日頃の人見知りを思えば信じられない振る舞いで彼に詰め寄り、彼がぎこちなく支えるヴィレイアを自分の方へ引き取った。
手を回すと、ヴィレイアの腰は細い。
髪がさらさらと手の甲を撫でる。
「こいつに何かした?」
喧嘩腰のリベルに、男性は慌てて首を振り、両手を振って潔白をアピールした。
「違う! きみ、彼女の知り合い? なら良かった――看ていてあげて。
いや、話している途中で急にそんな風になってしまってね……」
「なんかしたの?」
男性は、リベルが腰から二振りの剣を提げていることを見て取り、彼の表情が鬼気迫るものになっていることを認識し、身の危険を覚えたのか、じゃっかん蒼くなった。
「いやいや、本当に何も……」
そのとき、リベルはヴィレイアの、傍目には力なくだらんと垂れているように見える手が、ぎゅっと自分の外套をつまむのを感じ取った。
「――――」
瞬きし、目を閉じたヴィレイアの顔を見る。
数秒そうしてから、リベルは息を吸い込んだ。
「……俺の連れなんで、俺が面倒みます」
「助かった」
あながち冗談でもない口調でそう呟き、男性はそそくさと議事堂へ戻っていった。
リベルはそれを見送って、彼が十分に離れてから、腕の中でじっとしているヴィレイアに向かって言った。
「――あの人、もう行ったけど」
途端、ぱちっと目を開けるヴィレイア。
言うまでもないが元気そうである。
「ふう、良かった」
しっかりと自分で立ちつつそんなことを言うヴィレイアに、リベルは頭痛を覚えた。
「いや、こっちは肝が冷えたけど」
「私はびっくりしたけど」
ヴィレイアは悪びれなくそう言って、リベルの「説明して?」という目付きを見て取り、決まり悪そうに笑った。
「えーっと、ジョーゼル小父さまと置いて行ってごめんね?」
「その後」
「お庭が見たいなって思ってうろうろしてたんだけど、さっきのあの人が声を掛けてきて、しつこくて」
「何もされなかったか」
「あんまりにもしつこいから、気絶した振りをしたんだよ。絞り出す返事も限界で、会話を強制終了するには、いきなり叫びながら走り出すか、ばたっと気を失うかの二択だったの」
「……極端な二択だな」
「私もそう思う。――そこに四阿があるでしょ? 適当にそこに置いて行ってくれないかと思ったんだけど、駄目ね。あの人、気が利かなかったわね。
――あるいは私が重かったか」
ヴィレイアはしばし深刻な表情になったが、じっと自分を見下ろしたあと、「いやでも、ドレスが重い……」と呟いた。
リベルは溜息を吐いて、ヴィレイアの腰の辺りを抱き締めて、ひょい、と彼女を持ち上げてみせた。
唐突に足が地面から浮き、「わっ!」と声を上げるヴィレイア。繻子の靴が脱げ掛ける。
「ほら、軽いよ。むしろもうちょっと鍛えた方がいい」
「いや、それはあなたが力持ちってだけじゃないかな……」
地面に下ろされたヴィレイアが、不意打ちに憤慨した様子でそう呟いたが、リベルはそれを聞き流した。
「どこかに連れて行かれてたらどうするつもりだったんだ」
「そうなったら影兵霊の出番です。それにあの人、気は弱そうだったし」
「結果的に立ち往生になってたじゃないか」
「それが誤算だったのよね。――まさかリベルが来てくれるとは思わなかったけど」
ヴィレイアがじっとリベルを見つめて、リベルは息を吐いた。
「バンクレットさんと一緒に置いて行かれて、やっと解放されたとこだったんだよ。外に出たくて……」
「なるほどね」
ヴィレイアが明るく笑って、リベルの顔を覗き込んだ。
濃緑の瞳がきらきらと笑っている。
「じゃあ、息が詰まっちゃったリベルさん。しばらくお散歩しようか」
リベルはほっとした。
ともかくも、庭園は他の場所に比べてみれば人がいない。
「そうしたい」
二人は沈床園へ向かう小径をぶらぶらと歩いた。
ドレスのスカートをつまみ、淑やかながらも元気よく歩くヴィレイアの数歩後ろをついて歩き、その所作を眺めながら、リベルは思わず呟く。
「――おまえ、着飾るのも慣れてんのな」
それが聞こえなかったのか、ヴィレイアは返答しなかった。
沈床園に向かって、風情ある苔の生えた石段が、四方から下っている。
大きな長方形を成す沈床園の中央には、何も支えていない飾り柱が三つ、優美に佇んでおり、その根元には白い石のベンチ。
飾り柱とベンチを取り囲む池があり、飾り柱とベンチは謂わば小さな島のように、その池の中央に鎮座している。
池には小さな洒落た橋が架けられ、その外側、沈床園の大部分は、豪勢に配置された数々の花壇で埋まっていた。
花壇には、まだ花を咲かせていないものもあったが、淡い色合いの三色菫は、夜目にも鮮やかに咲き誇っている。
「うわあ、綺麗!」
ヴィレイアが歓声を上げて、ドレスの裾を慎重に持ち上げて石段を下っていく。
数歩後ろにいたことが災いして、リベルは彼女を止め損ねた。
せめてもと後ろから声を掛ける。
「滑らないようにしろよ」
「はーい」
暢気に応じるヴィレイア。
リベルは周囲を見渡して、沈床園の付近には人影がないことを確認した。
光源に乏しいからだろう――とはいえ、周囲には光晶の照明が惜しげもなく使われているから、暗がりとはいえリベルにははっきりと物が見える。
夜目が利かなければ勇者はやっていられないのだ。
辺りは静まり返り、そよそよと風にそよぐ草花のそよめきと、遠くから風に乗って聞こえてくる音楽と、談笑の微かな声しか聞こえない。
リベルはヴィレイアに続いて、沈床園に向かって石段を下りた。
間近で見下ろすと、確かに三色菫が咲き誇る花壇は見事だ。
石段の一番下の段に立ったヴィレイアが、苦笑してリベルを見上げている。
彼が隣に立つと、彼女は揶揄うように言った。
「もう、そんなに心配しなくても。
さすがにここで階段から転落するような私じゃ、とっくに鉱路で欠けてたと思わない?」
「ドレスで鉱路に行くわけじゃないだろ」
リベルは言って、溜息を吐いた。
「人に酒ぶっかけたり、気絶を演じたり、目を離すとおまえがとんでもないことをしてる気がする」
「そうかなあ」
しらばっくれるヴィレイアに苦笑して、リベルはふと思いついて外套を肩から外し、ヴィレイアの後ろの石段に広げた。
「はい、座ったら?」
「――――」
ヴィレイアが絶句してリベルを見つめ、リベルは気まずくなった。
「……なんだよ」
「――嘘でしょ」
ヴィレイアが両手で顔を覆って呟き、促されるままに腰を下ろしながら、呻くように言った。
「どこでそういう仕草を覚えてきたの?」
「なんのこと?」
リベルは困惑したものの、〈焔王牙〉と〈氷王牢〉を一時的に剣帯から抜いて脇に置き、ヴィレイアの右隣に腰を下ろしながら、反問した。
「そう言うおまえは、どこで気絶の真似なんていう機転を覚えたんだ」
ヴィレイアが音の出ない口笛を吹きながらそっぽを向く。
他所から微かに差す光晶の明かりを受けて、夜陰に白く浮き上がるようなその頬を見て、そのときリベルは唐突に、自分がヴィレイアについては何も知らないに等しいことを意識した。
ヴィレイアはリベルの生い立ちを、かなり正確に知っているが、リベルはヴィレイアの生い立ちを知らない。
――どこで生まれたのか、どんな家族だったのか、どこで育ったのか、なぜ勇者になったのか。
とはいえ、話す気のないヴィレイアを問い詰める気はなかった。
リベルは軽く息をつく。
「――おまえが見えたとき、本当に肝が冷えたんだぞ。何があったのかと思って」
ヴィレイアはリベルに向き直った。
「ごめんなさい。でも、まさか見られてるとは思わなかったし。
――それに、心配しなくても私は大丈夫だよ」
リベルはまじまじとヴィレイアを見つめた。
夜陰に浮かび上がるような、艶やかな白百合色の髪――複雑に編まれて結い上げられたその形、半ばが背中に流れる曲線。
前髪が掛かる額、困ったように寄せられた眉、睫毛の長い大きな濃緑の双眸。
軽く首を傾げるその仕草。
華奢な肩。
所在なげに膝の上に置かれている、レースに包まれた細い手指。
指に嵌まったままの、赤と黒、二つの指輪。
「いや――」
そのとき、リベルはあの瞬間に一気に頭に血が昇ったわけを、遅まきながらも朧気に理解した。
「――俺は、たぶん……」
ヴィレイアが警戒するように眉を顰める。
それには気づかず、リベルは言葉を選びながら呟いた。
「おまえが――他人から、おまえが納得できないようなことをされるのが嫌なんだ」
「…………」
ヴィレイアは瞬きして、ゆっくりと苦笑した。
彼女が目を伏せる――長い睫毛が目許と頬に影を落とす。
ヴィレイアは、無意識にいつも胸元にある時精時計を探ろうとして、今はそれを身に着けていないことを思い出したようだった。
ヴィレイアは小さく呟いた。
「……人生なんて、納得できないことの方が多いんだよ」
リベルは肩を竦めた。
――それは彼も分かっていた。
ただ――彼の人生における、最も大きな理不尽を覆してくれた幸運の勇者に。
「けど、おまえはそうじゃなきゃいいなって、俺は思うよ」
ヴィレイアが瞬きして、目を上げて、リベルを見た。
近い距離で朱色と濃緑の瞳が合った。
リベルはどきりとしたが、ヴィレイアは何かをじっと考えているようだった。
濃緑の瞳は間違いなくリベルの朱色の瞳を見ていたが、その更に奥を見据えているようでもあった。
彼女が、あやふやに声を出した。
「……リベル――もし、……もし、私が……」
「――うん?」
リベルが首を傾げて、先を促す。
どきりと跳ねた鼓動が収まっていなかったがために、ヴィレイアが続ける言葉が小声であれば聞き逃してしまいかねなかった。
だが、断じて聞き零したくはなかった。
無意識のうちに、リベルがヴィレイアの方へ頭を傾ける。
ヴィレイアははっとした様子で息を呑み、言おうとしていた言葉を呑み込んだようだった。
誤魔化すように彼女が笑って、リベルから視線を逸らす。
「……近くない?」
「あっ、ごめん」
リベルは慌てて二人の間に距離を置き、首を傾げる。
「――それで、なに?」
「――――」
ヴィレイアはにっこり笑った。
その笑みが――明るい笑みに違いなかったのに、妙に寂しそうにさえ見えて、リベルは動揺した。
「ヴィリー?」
「なに言おうとしてたか忘れちゃった。冷えるね、ここ」
「…………」
リベルは眉を寄せた。
ヴィレイアが何かを呑み込んだことを察したためだったが、他人の事情に首を突っ込むには、彼はこれまで、人生から人付き合いを排斥し過ぎていた。
無言のまま、リベルはジャケットを脱いで、それをヴィレイアの肩に掛けた。
ヴィレイアは目を丸くする。
「リベルが寒いでしょ」
「……俺はおまえと違って軟弱じゃない」
リベルは呟くようにそう答え、わざとらしい膨れ面をするヴィレイアに苦笑する。
そして、ジャケットがずり落ちそうになったヴィレイアの左肩を押さえ、そのまま彼女を引き寄せて、抱き締めた。
夜気を吸い込んで冷えた、滑らかな繻子の肌触り。
手の甲を滑る髪の、くすぐるような感触。
いつもとは違う香水の匂い。
その奥の、ヴィレイア自身の香り。
――治癒精の騒動の最中のあの夜、アインヴェルで、リベルの自由のために奔走する彼女を抱き締めたときと、全く同じ香り。
ヴィレイアの呼吸のリズム、心臓の、僅かに速まった鼓動。
リベルにとっては自由そのものに等しい、朗らかで明るい、その香りと気配。
脈絡のないリベルの挙動に、ヴィレイアが驚いた様子で目をぱちくりさせる。
嫌がる様子はなかったが、抱き締め返そうかどうかを逡巡するように、彼女の両手が半端な高さに挙げられる。
「……急にどうしたの?」
「――――」
リベルには、妙にヴィレイアが寂しそうに見えていた。
リベルの知らない、理不尽な仕打ちを彼女が受けたことがあるのではないかと思えた。
「俺は――」
彼はくぐもった声で囁いた。
「俺はずっとおまえの味方だから、何か困ったことがあったら、すぐ言って」
「――――」
「おまえが――」
リベルは言葉を切った。
「おまえがフロレアの隊に戻ったあとも」と続けるつもりだったが、その言葉が喉につかえたためだった。
(――戻ってほしくない……)
そのとき、かつてなく強く、リベルはそう思った。
ヴィレイアは、如何なる所以かは分からなかったが、彼の人生の表裏を分けるものにすらなっていたのだ。
――彼女がいる人生と、そうでない人生。
(戻ってほしくない。――一緒にいてほしい。
俺が、こいつの、一番そばにいたい)
だが、ヴィレイアがフロレアの古巣に戻りたがっているというのは、リベルからすれば彼女自身から聞いていることだ。
それを蔑ろにすることは口に出せなかった。
ただ――もしもヴィレイアが、考えを変えてもいいと思ってくれるなら。
人生の多少の時間を、リベルやエルカのそばで過ごすことに使ってもいいと思ってくれるのなら。
(それを、確かめるくらいは……)
これまで彼は、人生から人付き合いというものを、最低限の分だけを残して排斥してきた。
ラディス傭兵団にいたときは、誰かと親しくなったとしても、〈言聞き〉への禁則契約のゆえに、その誰かを手に掛けることになるかも知れないという恐怖から。
仮初の自由を手にした後は、その自由が仮初のものであるがゆえに、いつ全てを手放すことになるか分からなかったから。
――そして今は。
(……ヴィリーが自由にしてくれて……)
ふと、脈絡なく、ヴィレイアに似合う色を選んだときのことを思い出した。
――『世の中にはこんなにたくさん色があるのか……』
慄くようにそう言ったリベルに、ヴィレイアは何と応じたのだったか。
――『どの色でもお手に取れますよ』
今になってその言葉が、彼に自由を齎してくれた彼女の言葉が、彼に値しないものなど一つもない、という意味に聞こえた。
実際に与えられるかはさておいて、手を伸ばしてみることは自由だと。
(……――だったら、もしかしたら、ヴィリーのそばを望んでも許されるかな)
リベルはかろうじて呟いた。
「――おまえがどこにいても」
「――――」
ヴィレイアは気を呑まれた様子でしばらく黙っていたが、やがてやんわりとリベルの肩を押して、距離を取らせた。
そしてはにかんだ様子で笑窪を作って、小声で言った。
「……大袈裟だよ」
「そうかな」
リベルは笑った。
ヴィレイアは照れたように俯いたあと、勢いよく顔を上げて、今度は悪戯っぽい朗らかさでリベルを覗き込み、かと思うと右手を持ち上げて、つん、とリベルの額をつついた。
「て――なんだよ」
不意打ちに額を片手で覆い、半眼になるリベルに、ヴィレイアはふふっと笑う。
「おでこを出してるのは新鮮だと思って。それも格好いいと思うよ」
リベルは身繕いの時間を思い出し、堪える顔になった。
それを見て、ヴィレイアがくすくす笑う。
「――ありがと」
「ねえ、けっこう声を掛けられてたでしょ」
「覚えてないな。それにどっちにしろ、おまえほどじゃない」
「嘘だー。ねぇ、誰かとダンスした?」
「俺が暖炉の前ですっ転んでたのを忘れたらしいな」
「はい、忘れました!」
「このやろう」
ヴィレイアの頭を殴る真似だけして、リベルは立ち上がった。
右手で〈氷王牢〉と〈焔王牙〉を持ち上げ、左手をヴィレイアに伸べる。
そして、揶揄うように語尾を上げて、言った。
「――お手をどうぞ、勇者さま」




