21 紕い惑う
ヴァフェルムが半ば立ち上がっている。
とはいえ冷静さは残していた。
「この鞘、こちらで預っても?」
「構いませんけれど、読むのは二百年前の思念ですよ。時精にかなりの法気を喰わせられる術師でないと読み取れません。
――リエラなら大丈夫でしょうけれど」
ヴィレイアが顔を顰める。
「ただ、リエラに裏付けを頼むのはお勧めしません」
「なぜ?」
ヴァフェルムの静かな問いに、ヴィレイアは言い難そうにしながら。
「――私が読み取った記憶は二つで、一つは……お姫さまがいた、たぶん離宮だと思うんですけれど、そこが落ちるところです。大混乱で……誰かがアンリに、殿下のところへ行けと叫んでいました。
実際、私がもう一度同じことを叫んだら、アンリはお姫さまのところに戻って行きました――思念が残るくらいですから、彼にとっては本当に衝撃的な、必死になった記憶だったんでしょうね。
ただ、あともう一つが……」
言い淀んでから、ヴィレイアは声を小さくした。
「――処刑場の記憶なんです。
アンリが、ヴェストラーチェ王女の弟に当たると思うんですが、まだ小さい王子さまを助けようとしていて。でも助けられなくて、ギロチンで子供の頸が斬られるのが、はっきり見えてしまう記憶なんです」
温室の外に視線を向けてから、ヴィレイアは呟くように。
「――リエラには衝撃的だと思います」
ヴァフェルムも、温室の外のリエラを見つめた。
リエラが、硝子越しの視線に気づいた様子で振り返り、きょとんと目を見開く。
バンクレットが苦笑して、「なんでもないよ」と手を振ってみせた。
ヴァフェルムが息を吐き、ヴィレイアに視線を戻す。
彼は平静を取り戻しているように見えたが、片手の指先で忙しなく大理石の円卓を叩いており、内心が窺えた。
「そうか――いや、そうか。
ありがとう、まさかこれほど――」
ヴァフェルムが言葉に詰まり、バンクレットが「ヴァフェルムさま」と気遣うように呼び掛ける。
ヴァフェルムは「平気だ」と言うようにバンクレットに掌を見せてから、言葉を続けた。
「まさかこれほど、直截的な証拠を掴んでくれるとは思わなかった。心から礼を言う。
竜が死を取り戻す、その最初の――本当に大きな一歩だ」
共和国議員の一人に礼を言われるという異常事態に、リベルは思わず目を瞑ってしまった。
ヴァフェルムが息を吐き、片手で顔を拭って、三人を順に見た。
最後に目を向けたヴィレイアをじっと見て、彼は、リベルが感知しなかった何かを、ヴィレイアの瞳から汲み取ったらしい。
僅かに身を乗り出した。
「ヴィレイア。処刑を見たというならば、きみはもしかしたら、共和国の成り立ちは暴力的なものだったと思ったかも知れない――だが違う。共和国は正義だ。人民は血を流して自由を勝ち取ったのだ」
ヴィレイアは微かに、氷のような微笑を浮かべた。
「ギロチンの下で泣いていた子は、まだ十二歳でした。これからやり直す余地がありました」
「それ以上の危険を孕む血を持っていたのだ」
「それでも、彼を笑いものにして見世物みたいに殺す権利が誰にあったんですか」
「これまで、彼の血筋が虐げてきた人民たちに」
ヴィレイアは何かを言おうとして、しかし言葉を呑み込んだ。
彼女は丁寧に微笑んだ。
「……そう思っておられるんですね」
ヴァフェルムは、なお数秒、じっとヴィレイアの目を見つめた。
二人は無言で視線を交わし、ややあって、ヴァフェルムが息を吐いて目を伏せた。
それから目を上げ、ヴァフェルムは今度はリベルたち三人に向かって言う。
「これからは仮説ではなく事実を基にして動くことが出来る。
また協力を頼むこともあるだろうが、――まずは今回の礼をしよう」
ヴィレイアが微妙な膨れ面になった。
言いたいことはあるが報酬は楽しみだという顔だ。
リベルは取り敢えずほっとして、彼女が牢獄に放り込まれなかったことに内心で乾杯した。
エルカはといえば、「もっと早くそれを言えよ」という顔でヴァフェルムを見ており、リベルは思わず彼の向こう脛を蹴った。
ヴァフェルムは外した片眼鏡を弄びながら、三人を順に眺めた。
「これほどの成果を持ち帰ってくれたのだから、報酬は一人あたり一千オレガ――」
リベルは大きく目を見開いた。
一生を遊んで暮らせる額からは程遠い――ヴァフェルムからしても、一生を遊んで暮らせる金額をぽんとリベルたちに渡してしまって、リベルたちが国外逃亡してしまうのは心外なのだろう、絶妙な額の報酬といえる――が、しばらくは遊んで暮らせる。
(ヴィリーはもっといい部屋に移れる)
そう考えた瞬間、殴られたような衝撃がリベルを襲った。
――一千オレガ。大金だ。
ヴィレイアが元の勇者隊に戻るに足るだけの。
瞬時に凍りついたリベルの足を、彼もまた茫然としながらエルカが蹴って、呟いた。
「……おまえに払ってもらうはずだった、あの鍛冶屋の金。自分で払えるみたいだ」
「……そうだな」
リベルも辛うじてそう答える。
怖くてヴィレイアの表情を見ることが出来なかった。
今にも彼女が「今までありがとう!」と満面の笑みで言うのではないかと思うと、ヴィレイアの身動ぎにすらどきどきした。
だがそのとき、ヴァフェルムは淡々と続けた。
「だが、ヴィレイア。きみにだけはそうはいかない」
「――え?」
「――は?」
「――はい?」
三人の声が見事に揃い、バンクレットさえもが唖然とした。
「――ヴァフェルムさま?」
ヴァフェルムは一同に「黙って」と身振りで示し、本の上に片眼鏡を置くと、両手を組んで身を乗り出した。
そして、言った。
「――ヴィレイア、きみ、今度こそ、人類の宝である陽精を独占したことについて、申し開きはあるかね?」
*◇*◇*
ヴィレイアは絶句した。
彼女の長い睫毛が、忙しなくぱたぱたと瞬いた。
「は?」
ヴァフェルムは厳しい顔をしている。
「私が誰か忘れたのか。
――法術師から、陽精との影契約が切れたという報告が相次いで、既にそれは議会に昇った。
精霊との契約用の香草は需給の均衡が崩れたことから品薄、価格高騰は避けられない。しかし法術師の必需品をそうまで高値で売るわけにもいかん――勇者組合推挙のゲッセンタルクが黙っていない。
商人から利益を取り上げるのはフィアオーゼが黙っていない。
――いいかね、これから議会は紛糾するのだよ。
私の立場を考えてくれ。今、まさに死霊を取り戻そうとするこのときに、他の議員との軋轢は避けねばならないのだ。
私が、陽精を盗んだ法術師に謝礼を払ったなどと、そんな事実を作るわけにはいかない。
むしろ罪に問わないだけ、便宜を図っていると思ってくれ――通常ならば、陽精との真契約は全財産の没収と十年の投獄に値する罪だ」
「――待ってください!!」
思わずリベルは声を荒らげた。
「証拠! 証拠はあるんですか! 陽精と真契約したのがヴィリーだっていう証拠!
ないなら言い掛かりですよね!?」
ヴァフェルムはリベルを一瞥した。
「だから、本人に尋ねている」
ヴィレイアに視線を戻し、ヴァフェルムは淡々と。
「ヴィレイア、申し開きがあるならば言ってくれ。私はそれを信じよう」
「ヴァフェルムさま!」
バンクレットが声を荒らげた。
「余りの仕打ちです――今回のことについて、彼女の協力は不可欠だったはずです!」
ヴァフェルムが、僅かに驚いた様子で軍人を見上げた。
「ジョーゼル?」
バンクレットは唇を引き結んだが、その蟀谷が痙攣している。
「――――」
ヴィレイアはぽかんと口を開けて茫然としている。
「なんかの嫌がらせ?」
エルカが猛然と叫んだ。
その叫び声に、温室の外の護衛とリエラが振り返ったほどだった。
「さっきヴィリーが、処刑についてなんだかんだ言ってたから、それに対する嫌がらせ?
無茶苦茶だろ! ヴィリーはあんたの役に立ったはずだ!!」
「エルカ!」
ヴィレイアが息を吹き返して、叫んだ。
「だめだめ! 言い過ぎ!」
「けど!」
喰い下がるエルカに警告の眼差しを送ってから、ヴィレイアはヴァフェルムに視線を戻した。
リベルは、「白を切れ」という合図で、彼女の脚をそっと蹴る。
証拠がないならば逃げ切れるはずだ。
ヴィレイアが息を吸い込んだ。
リベルは祈りを籠めてぎゅっと両手を握り締めた。
息を止め、ゆっくりと吐き出してから、ヴィレイアは項垂れて、言った。
「――……はい」
リベルはぽかんと口を開けた。
エルカも絶句している。
(待て待て待て……)
恐慌に陥るリベルの視線を受けながら、ヴィレイアは悄然と認めた。
「――はい、私が陽精を盗みました」
「違う――」
思わず言い差したリベルの足をヴィレイアが踏んで黙らせる。
ヴァフェルムは組んだ両手を口許に当てた。
「そうか」
短く言って、微かに苦笑する。
「心配せずとも、司法からは完璧に守ってやろう」
(そりゃあ、あんたが軍の親玉だからな……!)
憤然と自分を睨むリベルに、今度ははっきりと苦笑して、ヴァフェルムは三人に退出を促した。
「今夜は泊まっていきなさい。リベル、エルカ、報酬の支払いは明朝、小切手で。
――ジョーゼル、三人を連れて行きなさい」
*◇*◇*
「有り得ないだろ!!」
バルコニーから廊下に戻るや、エルカが癇癪を爆発させた。
今にも壁を殴りそうだ。
そのときはリエラもそばにいたが、「何があったんですか?」と言わんばかりのぽかんとした表情。
リベルもさすがに我慢ならず、バルコニーの方を睨んだ。
「完全に言い掛かりだ。支払いを渋ったんだ」
ヴィレイアはしゅんとしている。
その彼女の肩を掴んでがくがくと揺すぶり、リベルは思わず大声で。
「なんで! 白を切らなかったんだ!」
「だって……」
と、ヴィレイアは悲しそうに眦を下げる。
リベルはしおしおと彼女の肩を離した。
「ごめん……」
「私が白を切ったら、他の人が冤罪で捕まるかもと思ったら、つい……」
「容疑者はこの国じゃなくて世界中にいるんだぞ!?」
リエラが、「陽精の件がばれちゃったの?」と、目を丸くして指先で口を覆う。
珍しいことに、ヴァフェルムの裁可に対してバンクレットまでが憤然としていた。
「――これはさすがに過ぎた仕打ちだ」
ヴィレイアが鼻を啜って、悄然としたままバンクレットの外套を摘まんだ。
「ジョーゼル小父さま……」
バンクレットは眉を寄せて、ヴィレイアの手を握って腰を屈めた。
「かわいそうに、もう一度私からも申し上げよう」
ヴィレイアはふるふると首を振り、力なく言った。
「――とても悲しいので、今夜は美味しいものが食べたいです……」
「もちろん、料理人に伝えよう」
「広いお風呂に入りたいです……」
「湯殿の支度も整えさせよう」
「ふかふかの――」
「もちろん最上の客室を手配していただけるよう、ヴァフェルムさまにも伝えるとも」
ヴィレイアは顔を上げた。
「本当ですか?」
「もちろん――」
「やった!」
ヴィレイアが両手を握る。
リベルとエルカは、それを神妙な眼差しで見ていた。
彼女が無理に明るく振る舞い始めたのか、それとも好待遇さえ受けられれば、実際に大金を失ったことはどうでもいいのか、それがよく分からなくなったのだ。
無理をしているに決まっている――と思える状況ではあったが、その割にはヴィレイアの表情は明るかった。
そして――リベルは、殆ど惨めな気持ちになりながらも認めた。
――そして、リベル自身も明るい気持ちになりつつある。
バンクレットもまた、何とも言えない眼差しでヴィレイアを見下ろした。
彼が何か言おうとして口を噤み、迷う風情を見せてから、リベルたちをちらりと見て、無邪気に喜ぶヴィレイアの肩に軽く触れる。
「――ヴィレイア。ちょっとおいで。話がある」
ヴィレイアが瞬きして、訝しそうにしながらも頷く。
「あそこの角で待っていて」とリベルたちに告げたバンクレットが、ヴィレイアを連れて反対方向へ歩き去るのを見ながら、リベルは思わず壁に自分の額を打ちつけた。
「――俺、最低だ」
*◇*◇*
「――ヴィレイア」
リベルたちから十分に距離を置き、念のために階段を半階分下りた踊り場で、バンクレットはヴィレイアに向き直った。
「ヴィレイア、私はきみの事情をヴァフェルムさまに話していない――だからこそ、ヴァフェルムさまもこのような仕打ちをされるのだ。話していいなら――」
「駄目です」
ヴィレイアは素早く言った。
周囲を見渡し、使用人すらいないことを確認する。
声を潜めて、彼女は言葉を重ねた。
「絶対に駄目です。そんなことをしたら、ジョーゼル小父さまがあのとき、ヴァフェルムさんに嘘を吐いたことが知られますし――」
「それはどうとでも――」
「駄目です」
ヴィレイアはぴしゃりと言った。
バンクレットは黙り込んだが、数秒ののちに口を開いた。
「――少なくとも、私からももう一度、ヴァフェルムさまにお考え直し願おう。
どうしても駄目なら、ヴィレイア、私がきみにそれなりの額を支払ってもいい――さすがに一千オレガとはいかないが――」
「――――」
ヴィレイアは息を吸い込んだ。
踊り場の色とりどりのステンドグラスの窓から、その色に染まった陽光が淡く落ちている。
外は晴れていたが陽光は弱く、風花が散っていた。
その風花のあえかな影が、ステンドグラス越しにも分かる。
ヴィレイアは足許の、薔薇色の光溜まりをじっと見つめた。
そして唐突に、吐き出すように言った。
「――リベルは私がお金を欲しがっていると思っています」
「――――?」
バンクレットが眉を寄せ、訝しそうにする。
ヴィレイアは唇を噛んで、囁くように続けた。
「私――私が、〈鉱路洪水〉を起こしたことはご存知でしょう?
そのあと……メメットたち……元いた隊の人たちと話をしていて……」
ヴィレイアは目を擦った。
「……フロレア傘下でなければ、私たちはまた一緒の隊でやっていけるから、四等からやり直すだけのお金が出来たら連絡して、また一緒にやっていこうって……」
深呼吸して、ヴィレイアは声の震えを抑えた。
「――だから、それなりのお金が入ったら、リベルは当然、私がメメットたちのところに戻ると思っています」
「戻りたくないの?」
バンクレットが穏やかに尋ねる。
ヴィレイアはゆるゆると首を振った。
「メメットたちのことが大好きです。たぶん……家族ってこんな感じかなって、思っちゃいけないのにずっと思ってたくらいです。
――でも……」
考えを整理するような間を取って、ヴィレイアは両手で青い時精時計を包み込んだ。
しばらく唇を噛んでから、ヴィレイアは呟いた。
慄くように、その言葉が唇に火傷をさせるかのように。
「――リベルのことが好きです」
「――――」
彼女の罪、彼女の危難のときに現れて、見返りも求めずに颯爽と彼女を救った英雄。
そのくせ彼自身のことを救うのは下手だった――不器用な青年。
――『……連れ戻されるのはどうしても嫌だ』
絞り出すように言ったあの声、あの瞬間――この人が不幸でいることは間違っているのだと、当然のように思ったあの瞬間。
(あのときだった)
ヴィレイアがリベルに恋をしたのは、あのときだった。
彼の幸運になりたいと思った、彼を救いたいと思った、彼に幸福でいてほしい、笑顔でいてほしいと思った、――あのときだった。
「これからずっと彼のそばにいたいと思うくらいに大好きです。
……あの人からは……あの人は、奇蹟そのものみたいな香りがする。
そばにいるだけで、何もかもがちゃんと幸せな方向に動くような――」
そこまで言って、ヴィレイアははっとして口を噤んだ。
だが、バンクレットはもちろん笑ったりはしなかった。
ヴィレイアは息を吸い込む。
きっぱりと。
「――でも、駄目なんです。お分かりでしょう?」
見上げるヴィレイアから、バンクレットは目を逸らした。
「私がそんな風に思ってるのが分かって、リベルが困ってくれるならいい――でも、彼は本当に優しいので……」
ヴィレイアは目を閉じ、瞼に力を入れてから、また目を開けた。
「……そのうえ、私が彼を助けたことがあると思ってるんですよ。
私が無茶苦茶なことをしているのを見ても、呆れているだけで嫌ってくれないんですよ。
もし万が一、リベルが私を好きになってしまったら、――私は自分が許せません」
バンクレットは両手で顔を拭い、ヴィレイアの肩におずおずと手を置いた。
「――ヴィレイア。私から、どうとでも理由はつけられるよ。《死霊の姫君》のことがあるから、きみは絶対にリベルとエルカと一緒にいなければいけないんだと、あの二人の前できみに命令することも出来る。
そうすれば、大金が手に入っても元の隊に戻らないことを、リベルは妙には思わない」
ヴィレイアは首を振った。
「駄目です。リベルは――鉱路の中で、小父さまには分からないでしょうね、ずっと私を見ているんですよ。私、本当に最低です。
彼が私を気にしているのが、嬉しくて堪らなかったんです。ものすごく嬉しかったんですよ――最低なことに」
「ヴィレイア……」
「だから、今のままが……私が纏まったお金を手に入れたらお別れする、そういう関係のままが、いちばんいいんです。
でないと私、どんどん駄目になってしまいます」
ヴィレイアは鼻を啜った。
「だから鉱路で、陽精と真契約して良かったって、――私、本気でそう思ったんです」




