17 死霊の騎士
誰もが束の間、息を呑んだ。
は、と息を吐き、メイが呟く。
「……他の勇者隊――って感じじゃ、ない……?」
更に言えば、その騎士の立ち姿には、その場の全員に既視感を抱かせる違和感があった。
――つまるところが空虚さ。
その人物の核を成していたものが欠落しているという、欠け人に特有の、あの違和感。
つまり、どこからともなく現れ、瓦礫の山の上に立っているその騎士は、もう既に生きてはいないのだ。
「――昔の勇者隊か?」
ウェインが自信なさげに呟いた。
「欠落して、ずっと彷徨っていたとか……?」
「放っておこう」
アーディスが唸るように言った。
「親戚縁者がまだ生きてるなら、最後に一目会わせてやるために連れ帰るのもいいさ。――けど、見たところだいぶ昔の奴だろ。縁者ももう欠け絶えてるだろうさ。
今更わざわざ日の下に連れ出して、共和国に突き出して、あいつを陸艇の部品やら下水の水門やらにすることはないだろう」
騎士を仰ぎ見たオーリンが、「うん」と呟いた。
「いかにも誇り高そうだ。このままにしておこう」
リベルはヴィレイアを一瞥した。
ヴィレイアも当然、生きている人間と欠けている人間を取り違えるほど目は悪くないはずだ。
そして、欠け人は生者の脅威にはなり得ない。
そもそも生命に起因する感情がないのだから、害意を持ちようがなく、仮に誰かが欠け人に「あいつに危害を加えろ」と命令したとして(そして、欠け人がその命令を理解できたとして)、襲われた側も欠け人に「やめろ」と命令すればそれで片が付くからだ。
それはこの世の常識で、ヴィレイアも当然弁えている。
それでも欠け人が現れたことを警戒した――その意図を窺うためだった。
ヴィレイアは不安そうな表情で、素早くリベルとエルカのそばに戻る。
彼女が何かを言おうとした、その瞬間だった。
瓦礫の山の上で、欠け人の騎士が動いた。
ゆらりと揺蕩うような動きは、まさに欠け人に独特のものだ。
だが直後、欠け人の騎士は、欠け人であるとは俄かには信じ難いほどの敏捷性を以て瓦礫の山を駆け下りていた。
「――――?」
その場の全員を襲ったのは、驚きにも満たない違和感だった。
犬が後肢だけで立ち上がって歩き出したときに覚えるであろう、珍しいが手を叩くほどではないといった、注意の喚起。
瞬きのうちに、欠け人の騎士は瓦礫の山を駆け下りて、この岩窟に踏み込む。
欠け人とは思えないほどに、しっかりとした足取りで走っている――肩から下がる外套が靡く。
直後、この場には不似合いなまでの華やかな色彩が煌めいた。
黄金の鞘から、同じく目の覚めるような鮮やかな黄金色の刃が鞘走ったのだ――
――いや、違った。
欠け人が、明確な意思を以て、その大剣を抜いていた。
「――――!」
その欠け人に最も近い位置にいたのはオーリンとアガサだった。
アガサが、反射的にだろう、数歩を下がる。
彼女の紫色の猫目が見開かれている。
そしてオーリンは、これもまた反射だったのだろう、欠け人の方へ片手の掌を見せ、明瞭に言った。
「やめろ」
この命令は単純で、だからこそ全ての欠け人が聞き取ることが出来るものだ。
動作をやめろ。行動をやめろ。
――だが、欠け人の騎士は刹那すら立ち止まらなかった。
「――オーリン、下がれ!!」
異変を察知したウェインが吠えるように叫んだが、その声が轟くと全く同時に、飛び退ろうとしたオーリンを追って、黄金の切先が弧を描いた。
――血飛沫。
オーリンが袈裟懸けに一刀両断され、目を丸くした表情のまま、二秒のあいだよろめいた。
胸から、腹から真っ赤な血が噴き出し、あっという間に足許に血溜まりができる。
新たに零れる血がその血溜まりを叩き、粘る音を立てて波紋を拡げる。
よろめいたオーリンが、傷を庇おうとしたように背中を丸める――その口許からも血が零れ、オーリンはただただ驚いた、信じられないという表情で、その血を受け止めようと片手を持ち上げようとして――
前のめりに倒れた。
水をいっぱいに詰めた革袋が地面に落ちたような音がして、いっそう血溜まりが拡がり――
「オーリン!!」
複数人の絶叫が木霊する。
リベルはもはや一秒も考えず、一足飛びに前に飛び出しながら怒鳴った。
「ヴィリー、血を止めて治療して!」
言われるまでもなく、その場の全ての法術師が治癒精の光を手許に灯している。
欠け人は、まるで当然のことをするように、欠け人が皆浮かべている空虚な表情のまま、オーリンに向かって更に一撃を振り下ろそうと、
――銃声。
アガサが短銃を引き抜いて発砲。
弾丸が欠け人の頬を掠め、欠け人が端然とした仕草でアガサに目を向け、
――打撃音。
飛びついたリベルが、形振り構わず欠け人に跳び蹴りを見舞った。
欠け人が後ろによろめく――即座に体勢を立て直しながら、リベルが渾身の力で欠け人に体当たりする。
〈氷王牢〉で斬り掛からなかった理由は単純だった。
リベルがこのとき優先したのは、相手の身体を確実に破壊することではなく、相手を確実にオーリンから遠ざけることだった。
この欠け人がそばにいる限り、法術師がオーリンへ近づけない。
もちろん距離があってなお治癒精の恩恵が彼に向かっているが、やはり至近距離で治療を施すことが望ましい。
欠け人がよろめき、オーリンから数歩の距離が開くや、ディドルとメイが息せき切ってオーリンに駆け寄った。
それから僅かに遅れてリガー。
そして走り出そうとしたヴィレイアを一刹那留めて、エルカが彼女の腰から〈焔王牙〉を引き抜いた。
「ごめん、貸して!」
「使って!」
エルカの手の中にあっても、〈焔王牙〉は生き生きと薔薇色に輝いている。
エルカが飛ぶようにリベルの助太刀に向かう。
メイがオーリンの頭を持ち上げ、小声で祈りの言葉を呟きながら、治癒精の桃色掛かった白い光を、絶えず彼の身体に送り込む。
ディドルは掌を真っ赤に染めながら、オーリンの腹部に手を押しつけている。
まるで溢れる血を指で掴んで体内に送り返そうとするように。
「駄目だ、駄目だ、駄目だ……」
オーリンと欠け人との間に、瞬きのうちに六フィートに及ぶ氷壁が形成された。
万が一にもオーリンの治癒を邪魔させないための、リベルの咄嗟の判断だった。
ウェインと双子が、転ぶようにオーリンのそばに駆けつける。
ギー・レスとベイ・レスが咄嗟に手を伸ばし、「触るな!」とリガーが一喝。
「無暗に動かすんじゃねえ!」
そのときには氷壁の向こうで、リベルの〈氷王牢〉の剣戟を、欠け人が正確に捌き切っていた。
一秒のうちに〈氷王牢〉と黄金の剣、二振りの間で激しく火花が散り、リベルの表情に驚愕が浮かぶ。
――国一番の剣豪を名乗るつもりは毛頭ないが、それでもリベルの剣術は、多少邪道なところはあれ、並みの士官であっても押すだろう水準のものだ。
それを、ただの欠け人が捌いた?
だが、欠け人はオーリンから更に一歩離れた格好になる。
間髪入れず、エルカが怒鳴る。
「リベル、離れろ!」
リベルが飛び退る。
同瞬、欠け人の足許から、ごうごうと紅蓮の炎の渦が巻き上がった。
亜竜の鱗には傷ひとつつけられない炎であっても、人の身であればひとたまりもない。
――そのはずだった。
炎が消し飛ぶ。
エルカの表情を見るまでもなく、それがエルカの意図したことではないことはよく分かる。
まるで上から見えない掌が叩きつけられたかのように、火の粉を散らして鎮まる炎――
余波を喰らって、リベルが築いた氷壁が崩れ落ちた。
それどころか、黄鉄鉱の巨人の亡骸、そして亜竜の二つの頭部までもが震える。
亜竜の、もはや生きてはいない眼が開いて、欠け人の騎士を生気のない視線が追っている。
炎の中から立ち現れた欠け人の騎士の姿は、炎に包まれる前と何ら変わりない。
外套の裾すら焦げていない。
どこも燻ってなどいない。
炎の残滓を照り返す、黄金の大剣を端整に構え、従容として足を運び――
この欠け人をオーリンに近付けてはならない。
もはやその一念のみでリベルとエルカが飛ぶように欠け人に肉薄する。
耳を劈く剣戟の響き、三振りの剣の間で火花が散る。
欠け人の騎士からオーリンを、延いてはその治療に当たる勇者たちを隠すようにして、影兵霊が隊列を組んで壁になった。
ヴィレイアがリベルをじっと見つめていたとしても、影兵霊にリベルへ加勢するよう命令するのは躊躇われただろう。
影兵霊は強大な霊だが、騎士のような戦い方が出来る霊ではない。
ああして切り結んでいるリベルとエルカ、そして欠け人の騎士の中に差し向けてしまえば、近づくそばから影兵霊が返り討ちにされかねない。
そして、嵐のような剣戟は、その渦中の者に撤退を許さない。
影兵霊の物量で押すことも難しい状況で、しかも恐ろしいことに、欠け人の騎士には万の影兵霊であっても、淡々とただ斬り捨てていきそうな、底知れない不気味さがある。
――そして何よりも、ヴィレイアの注意は今だけはリベルとエルカから逸れていた。
彼女は全ての注意をオーリンへ、その心臓を死霊がいるべきはずの空漠へと捧げられようとしているオーリンへ向けていた。
エルカの握る〈焔王牙〉が、再び欠け人に向かって火を吐いた。
渦巻く炎が欠け人の表情のない頬にあかあかと光を踊らせる――だが、欠け人はそれを一顧だにしない。一秒ののちには炎が掻き消える。
「何の手品だ……?」
リベルが戦慄して呟く一方、オーリンに駆け寄ったアーディスも呟く。
「あれは――あれは本当に欠け人か?」
「欠け人に擬態する――そういう鉱路生物では……?」
ラティがアーディスの傍らで囁く。
リガーがちらりとラティを見上げて、唇を曲げた。
「確かに、大型でさえなきゃ影契約にも影響がないのも頷けるけどな」
リガーの手はオーリンの顎を支えて気道を確保している。
血が喉に詰まって、オーリンの呼吸が切迫している。
そしてそれ以上に、危険な早さで彼の肌が冷たくなろうとしていた。
リガーは横を向けたオーリンの顎を支えたまま、殆ど祈るように呟いた。
「頑張れ、頑張れ」
オーリンを囲む四人の法術師の表情は、いずれも切迫している。
ヴィレイアは治癒精に惜しみなく法気を喰わせながら、オーリンの手を持ち上げて頬を寄せ、熱精とも影契約を結んで、冷えていく彼の身体を温め、逆に傷口を冷やして止血を助けようとしている。
メイとディドルはもはや啜り泣いていた。
二人とも法気のありったけを治癒精に喰わせているが、治癒精がどう働いているかは、術者が最もよく分かることだった。
十数秒ののち、メイが涙に濡れた目でウェインを見上げた。
その眼差しの意味を、ウェインが正確に汲み取った。
息を吸い込み、ウェインが片手で目許を拭う。
そして、肩を震わせるディドルの後頭部を乱暴に撫でた。
「――もういいよ。ありがとな」
ディドルがオーリンから手を離し、血塗れの両手で顔を覆った。
リガーが奥歯を喰いしばる。
――治癒精が、いくら法気を喰わせてももはや働かないことを、メイも察したのだと分かった。
もう助からない。
「だめ」
ヴィレイアが発作的に呟いた。
四つ灯っていた治癒精の光は、今や彼女のもの一つになっていた。
「だめ、だめ――ここでやめたら欠けてしまう」
「どのみち助からん」
「それでもだめ。万が一があるかも知れない。
この人がここで欠けるって、誰が決めたっていうの」
「――もう手遅れだ」
ウェインが呟き、ヴィレイアにオーリンの顔を見るよう促す。
ヴィレイアは呼吸を震わせ、蒼白になりながらも、――見た。
オーリンの、つい数分前までは生き生きと表情を浮かべていた顔貌に、あの――生にも死にも分類されぬ停滞に落ち込んだ、意思を失い、感情を失い、ただ唯々諾々と命令を聞き取ってはそのように動くだけとなった、――欠け人の虚無を見た。
オーリンの腕がゆっくりと動いた――立ち上がろうとしている。
ヴィレイアの息が詰まる。
治癒精の光が遂に途絶える。
彼女の喉から嗚咽とも悲鳴ともとれぬ呻き声が上がったが、メイが手を伸ばし、ヴィレイアの頭を抱え込むようにして黙らせた。
「しっ、だめ。――きみのところの二人に、オーリンがどうなったか知らせちゃだめ。動揺は隙になるわ」
ヴィレイアは眩暈を覚えながら、必死に顔を上げた。
そして、エルカとリベルが欠け人の騎士と切り結ぶ、まさにその途方もない速度の剣戟を見た。
リベルとエルカと切り結んでなお、欠け人であるはずの騎士は一歩も譲っていなかった。
その振る舞いに、リベルはもはや舞踏めいた、芸術めいた何かを感じ取っている。
迷いのない足取り、切り結ぶ相手がどうしても体勢を崩す、その一瞬で取る間――それすらも予定調和というような。
二対一で切り結ぶとき、二人で挑む方にはこの上ない贅沢――挟撃という贅沢が許される。
確実にがら空きになる相手の背中を、もう一人が狙うことが出来るという贅沢が。
ゆえに、その数の不利を覆すには、圧倒的な技量の差、あるいは奇を衒うような策が必要になる。
そして、信じ難いことに、この欠け人の騎士が持っているのは技量――それそのものだった。
大上段から振り下ろされる〈焔王牙〉を受け止める――〈焔王牙〉の薔薇色の刀身と黄金の刀身の間で火花が散る。
それと同時に、背後から斬り掛かるリベルを、まるで背中に目があるようにするりと避ける。
避けると同時にエルカを受け流し、リベルに向かって押し出してみせる。
欠け人が振り抜いた黄金の切先がリベルの鼻先を掠め、リベルが仰け反ってそれを躱すと同時に、半身を捻って〈氷王牢〉を叩きつける。
その刀身を、欠け人のはずの騎士が、受け止めるのではなく真上からぴしゃりと叩き伏せてのける。
それら全てが須臾のうちに起こる。
リベルが〈氷王牢〉を振る。
途端、欠け人の周囲をぐるりと囲むようにして、巨大な氷の棘が生えた。
その全ての切先が円の中心――即ち欠け人を指して瞬きのうちに伸びていく。
欠け人は、淡々とした、機械のような仕草で黄金の剣を真っ直ぐに立てた。
直後、耳障りな轟音とともに、全ての氷が粉砕される――ばらばらと散らばる透明な氷の欠片。
「――あれ、あの剣、鉱路産だ」
エルカが激しい呼吸の合間に声を上げる。
「たぶん特性は――」
欠け人が氷の欠片を踏み拉きながら一歩を踏み出す。
ダンスの合間のように優雅に。
そして黄金の大剣をリベルに向かって振り下ろす――リベルは〈氷王牢〉の刀身を左手で支えてそれを受ける。
〈氷王牢〉の黒い刀身に霜が降り、黄金の剣をも凍らせようとする――途端、彼我の得物の大きさを考慮しても理不尽なほどの重さがリベルを襲った。
足裏が岩盤にめり込むのではないかという重み。
手首に激痛が走り、腕が痺れ、肩が軋む。
堪え切れずに後ろに倒れたリベルの首に黄金の剣が迫るが、猛然と突っ込んだエルカが真横から欠け人に体当たりし、黄金の切先はリベルの首から一フィートの岩場を噛んだ。
ごっ、と重い音がして、岩場に蜂の巣状の罅が走っていく。
リベルは欠けもの狂いで地面を転がり、欠け人から距離をとって懸命に立ち上がる。
彼の息も荒い。
「――重さだ。あの剣の特性。とにかく重い。
火を消したのも、よく分かんないけど真上の空気を重くしたとか、そういうタネだろ」
喘ぎながらリベルが言って、エルカが「だろうな」と応じる。
他の勇者たちが、間近で切り結ぶ三人の位置関係から、手を出しあぐねていることは感じ取っていた。
だが、
「リベル、気づいてると思うけど――」
「――ああ、マジで御伽噺の騎士さまっぽいな」
呻くような小声の遣り取り。
――リベルとエルカが鉱路産の武器を、その特性を使わない限り、この欠け人も鉱路産の武器の特性を使っていない。
そこには一種の礼儀や騎士道めいたものを感じる。
生前の記憶がそうさせているのだとしても、欠け人に残るのは記憶の残滓程度のはずである。
それを思えば不可解ではあるが、
「使われるよりは地力で張り合った方がまだ目がある」
「賛成」
エルカとリベルが、欠け人を挟んで猛攻を掛ける。
剣と剣がぶつかり合う凄絶な、甲高い音。
その音が驟雨のように響き渡る。
刀身と刀身の間で火花が散り、突き、受け、流し、斬る、全ての動作が目まぐるしい。
リベルの頬から、手の甲から、肩から血が飛ぶ。
エルカの腕から、耳朶から血飛沫が舞う。
埒外にいる者たちからすれば、目で追うことも出来ない高速の舞踏。
欠け人の騎士は、欠け人なのだから表情ひとつ変えない。
全ての剣戟を受け、それどころか攻めに転じてみせるその技量。
〈氷王牢〉と組み合ったと見えた次の瞬間には、〈氷王牢〉の刀身の根元を己の剣で押さえ、リベルの腹部に蹴りを見舞って彼を吹き飛ばしている。
ばさり、と広がる外套を目くらましに襲い掛かるエルカを、殆ど丁寧でさえある剣捌きで完封してのける。
咳き込んだリベルが跳ね起き、再びエルカと二人で騎士を挟み撃ちにする。
二人ともが、呼吸を忘れたように一心に攻め、鍔迫り合ったリベルはそのとき、欠け人の騎士の瞳を見た。
取り立てて特徴のない、凡庸な顔立ち――享年は恐らく若かった、まだ二十代か、三十代前半だったはずだ――その顔貌の中の、生と死の間の停滞に落ち込んだ者特有の、あの虚無を呈する褐色の瞳。
蝋のような色合いと質感の頬。
背筋が粟立つ。
間違いなく欠け人だ。
だというのに、この異常な強靭さは。
エルカが背中から騎士に斬り掛かる。
騎士が身体を捌いてそれを躱し、左手で腰の鞘を、刀身に劣らぬ煌びやかな黄金を呈する実直な形の鞘を抜いた。
欠け人にはあるまじきことに、この騎士はリベルとエルカの力量を見抜いている。
エルカがリベルに対し、技量と場数において勝ることを察している。
ゆえに、騎士は大剣をエルカに向け、鞘でリベルを抑えようとする。
「――っ、この……っ!」
リベルの頭に血が昇った。
もはやがむしゃらな動きで鞘に〈氷王牢〉を叩きつけ、僅かに下がったその手首を、渾身の力で蹴りつける。
全く同時、エルカは片手の騎士と全力で鍔迫り合っている。
欠け人の左手が緩み、リベルは間髪入れずにその左手首を蹴りつける。
がらん、と乾いた音がして、黄金の鞘が騎士の手を離れて落ちた。
リベルは咄嗟にその鞘を蹴り飛ばす。
くるくると回転しながら岩場を滑る、純金よりも煌めく黄金の鞘が、陽精の明かりを反射して眩しく光った。
ぱっ、と、欠け人の騎士がそちらを振り返る。
エルカを押し返し、鞘の方へ駆け寄る素振りを見せる欠け人――
その瞬間、この日最大の後悔がリベルを襲った。
エルカも薄青い目を大きく見開く。
――鞘が滑った先はオーリンがいる方向、即ちヴィレイアがいる方向だ。
そちらへ向かって、欠け人の騎士が地面を蹴ろうとしている。
(まずい――)
――危機感の余りに緩慢に流れるその一瞬、
――『今度は私が、あなたの幸運の勇者になってあげる』
――あの橋の上で。
その瞬間、焦燥の余りに澄み渡った思考、走馬灯のように浮かんだ記憶が、リベルの頭の中で閃きの火花を生んだ。
――どうしてヴィレイアは欠け人を見て警戒したのか。
――今より昔、共和国制が樹立されるより以前であっても、勇者は存在した。
組合などというものは存在しなかったが、勇者は至るところにいて、鉱路より資源を持ち帰っていたのだ。
そして勇者が社会的に高い地位にあったのは、人工の加護が開発されるよりも以前まで。
勇者が群雄割拠の時代を迎えてより、勇者とは使い捨てのならず者を指す言葉となった。
――ならば、このような位の高い騎士の出で立ちの男性が、鉱路に踏み込むはずがあろうか。
そんなことがあったとすれば、それは歴史の転換点――
――バンクレットは言っていた。
ここは、この鉱路こそ、《死霊の姫君》と目される、旧王朝の姫君が落ち延びた可能性のある鉱路。
そして革命の嵐の中にあってさえ、王家の姫君に仕えた者たちが、王女をただ一人で鉱路に迷い込ませたはずはない。
――ヴィレイアは一目見て、あの騎士の装いに対する違和感から、その可能性を思い浮かべたに違いない。
黄金の大剣を佩く彼が、ヴェストラーチェ王女の近侍である可能性。
今なお鉱路のどこかで彷徨う死霊の主に、欠けてなお付き従う忠義の騎士であるという可能性。
――ならば。
刹那のうちに思考が動く。
騎士の外套がひとつはためく、その間にも満たぬ須臾の思考。
――リベルは法気には恵まれなかった、ゆえに詳しくは分かりようもないが、時精と契約すれば、物と媒体として過去の出来事を知ることも不可能ではないという――事実、ヴィレイアはそうやって、リベルが過去にラディス傭兵団にいたことを突き止めた。
突き止めて、あの橋の上でリベルに会いに来た。
――リベルの目にはゆっくりと回転しているように見える、実際には勢いよく回転して岩場を滑っているのだろう黄金の鞘。
これを、もしも、この騎士が生前から携えていたとしたら――
――彼がこの鞘を持っているときにこそ、時間に漣を起こし、そばにあるものにその瞬間を焼きつけるほどの強い情動を覚える、そういった出来事があったとしたら。
あったとして不思議はあるまい、なぜならば時は革命の日だった。
欠けてしまえば人間は、記憶に突き動かされて行動するなどと、そのような感傷的な奇跡の手の届かぬところへ行ってしまう。
家族であっても恋人であっても、欠け人に何らの変化を起こせるものではないのだ。
だが、この騎士はそもそも、欠け人としては異常――そしてその異常性が、彼が《死霊の姫君》の騎士であるからこそ生じたものだとすれば。
ならば、万が一にも。
――『今度は私が、あなたの幸運の勇者になってあげる』
あの日、ヴィレイアは言っていた――
「ヴィリー!!」
リベルは叫んだ。
鞘が転がって僅かに一秒。
「図書館!!」
叫んだ言葉は我ながら意味不明、エルカでさえも面喰らっただろうが、ただ一人ヴィレイアだけは正確にその意図を察した。
――『時精と契約すると、図書館の資料から過去のことが分かったりするのよ』
ヴィレイアが飛び出し、回転しながら転がった黄金の鞘を、命綱を掴み取るように拾い上げた。
そちらへ走る騎士の鼻先に、リベルが〈氷王牢〉を振り下ろす。
しかし騎士は、欠け人であるから当然に、怯むなどということはあるはずがない。
恬淡とした動きで、騎士が黄金の大剣で〈氷王牢〉を受け止め、押し遣り、振り抜く。
その黄金の刀身を〈氷王牢〉で受け止めたリベルが、受け止めきれずに背後に吹き飛んだ。
それを追うヴィレイアの濃緑の瞳が、切迫して見開かれる。
ヴィレイアが鞘を左手に抱え、慌ただしく右手の指を振る。
彼女の唇が動く。
そして聞こえる、耳ではなく精神で聞く、凛とした鈴の音――
斬り掛かるエルカを、騎士は力任せの仕草で地面に叩きつけた。
岩場にまともに背中を叩きつけられ、さしものエルカも目の前が暗くなる。
リベルがやっとの思いで立ち上がり、よろめきながらも兄貴分の危機を助けるために飛び出そうとした、そのとき。
「――〝アンリ〟!」
ヴィレイアが叫んだ。
震える声で、しかしはっきりと。
「――――」
欠け人の騎士の動きが止まる。
彼が顔を上げる。
茫洋とした眼差しがヴィレイアを見る。
その動きを見て、ヴィレイアはいっそう声を張り上げた。
「〝アンリ、ここは落ちる、下賤どもに殿下の髪一筋とて目通り奉らせてはならぬ〟、〝殿下の許へ疾く〟!」
一瞬、完全な静寂が岩窟を満たした。
そして、出し抜けに、欠け人が身を翻した。
一切の迷いもなく――さながら、主人の笛を聞いた猟犬のような忠実さで、欠け人とは思えぬ俊敏さを以て瓦礫の山を登り、その向こうへ姿を消す。
――張り詰めた沈黙。
騎士の踵が落とした最後の石榑が転がる、その微かな音の余韻が消えるまで、全員が息を呑んで身動ぎを憚る。
一分、二分を数え、そして五分を数えた頃に、ようやく脱力するようにして数人が膝を突いた。
ディドルが肩を震わせて嗚咽を漏らし、ウェイン隊が肩を寄せ合う風情を見せる。
リベルは咄嗟にはヴィレイアにもオーリンにも駆け寄ることが出来ず、〈氷王牢〉を杖のようにして縋りついていた。
危難が去って、唐突に身体の中にどっと、乾留液のような疲労が溢れ出したかのようだった。
神経が異常を察する能力を唐突に取り戻したかのように、手指や腕が痺れている。脚や二の腕、背中の筋が痛む。
呼吸を落ち着かせようとしながらも、リベルは、ただ驚愕の目をヴィレイアと見交わした。
――他の誰が聞いても、全く意味が通らないように聞こえただろう、ヴィレイアの叫び。
だがあれを、革命の只中の王族の近侍の声として聞けば。
それは、とても――
――筋が通る。
ならば――あの黄金の騎士が、真実、旧王朝の姫君に仕えていたとすれば。
だとすれば、この鉱路の奥に死霊の主の姫君が彷徨している――
それはもう、夢物語や与太話ではなくなった。




