16 黄鉄鉱の巨人
「避けて避けて逃げて!」
もはや誰の声かも分からぬ声が岩壁に反響する。
リベルは脱出口を見た。
そこが塞がれた直後、彼はそこがどんな状態となっていたのかは見ていない。
ゆえに違いははっきりしないが、アーディスとリガー――そして、ギー・レスが、仲間が閉じ込められたままの状態でいることを良しとするとは思えなかった。
採掘道具を駆使するなり何なりして、今も懸命の脱出口確保作業を続けているだろうが、
「間に合わない――」
そのとき、エルカが叫んだ。
リベルの心胆を寒からしめるほどに血塗れになった彼が、〈氷王牢〉を振って怒鳴っている。
「いいからそのまま突っ込ませろ! 亜竜を潰せ!!」
リベルは息を呑んだ。
――確かに、亜竜はなおものたうつように暴れ狂っている。
失血で欠けるにせよ、それはものの数秒でという話ではない。
更に言えば亜竜にも死が訪れない以上は、欠けた亜竜を解体するという作業は必須だ。
確かに、巨人を亜竜を圧し潰す格好で仕留めることさえ出来れば、それに勝ることはないが――
「無理だって!!」
悲鳴を上げたのは誰だっただろう、リベルも、意識こそ出来ていなかったものの、喰いしばった歯の間から同じ言葉を漏らしていたかも知れない。
「こっちに突っ込んで来たあの巨人を、どうやって仕留めるのさ! もうみんなぼろぼろじゃん!」
オーリンが叫ぶ。
さしものエルカも言葉に詰まった。
だがそのとき、右の頭から血を失って、狂乱状態に陥った左側の頭の、その巨大な牙がオーリンの頭上を危うく掠め、オーリンは素早く変説して、「でも、もうそれしかないか!」と怒鳴る。
そしてもはや止めようもなく、黄鉄鉱の巨人はこの巨大な岩窟に足を踏み入れた。
巨人の右手が地面を浚う。
負傷があって思うように動けず、危うくその指に掴まれそうになったウェインにディドルが飛びつき、必死になって奥へと彼を引き摺っていく。
メイが盛んに悪態を漏らし、平常時であればリベルはその語彙の豊富さに感心しているところだった。
「もう無理です、もう無理です!」と、珍しくもラティが声を荒らげており――
リベルは黄鉄鉱の巨人の進路から慌てて逸れつつ、息を喘がせ、痺れたような手で、ともかくも〈焔王牙〉を握り直す。
あと一頑張りだ、と自分に声を掛けようとしたその瞬間、彼の左手に別の手が重なった。
「――――」
視線を向ける。
ヴィレイアがそこにいる。
相も変わらず血塗れだが、リベルが心からほっとしたことに、最後に見た瞬間から傷が増えた様子はない。
彼女が、露わになった額の下の、大きな濃緑の双眸で、岩窟を揺らして押し入って来た巨人を見上げている。
勇者たちの罵声と悲鳴が木霊する。
背後では亜竜が左の咢から炎を吐き出し、身悶えしながらもなお、岩場を崩してのたうち回るように暴れている。
巨人と、謂わば擦れ違う格好になって湖に逃れられればいいが、現実的にはそれも難しい。
ヴィレイアの瞳がリベルを向いた。
彼女がにっこりと微笑んだ。
「――大丈夫、私がやるよ。役に立つわ、リベル」
「――――!」
リベルは絶句した。
岩窟が揺れ、巨人が更に二歩を進む。
躯体が大きいのだから一歩も大きい。
既に、眼前に小山が聳え立ったかのように感じる距離に迫っている。
巨人の紅い独眼が、足許を走り回る勇者たちを探している。
彼の爪先に蹴立てられて、岩場が薄い紙切れのように捲れ上がっている。
そしてそばではなおも、亜竜が断末魔の力を振り絞って小さく炎を吐き出し、暴れ続けており――
「ヴィリー、駄目だ」
考えるよりも先に、リベルはそう言っていた。
「おまえ一人に危ないことはさせない」
「大丈夫よ」
ヴィレイアは、確信の籠もった、朗らかでさえある声音でそう告げた。
リベルは総毛だった。
今この瞬間、彼は、ヴィレイアが目の前からいなくなることがあれば、それを自分がどれだけ耐え難く思うのかを自覚した。
彼の恩人、――左隣にいるのがいつの間にか当然のことになった、彼の相棒。
「――リベル、何してるの! いったん逃げて!」
アガサの怒鳴り声を、遠くに聞こえる異国の言葉のように聞き流す。
リベルは無意識のうちに、ヴィレイアの腕を左手で強く握った。
彼女がどこにも行かないように。
「駄目だ、ヴィリー」
ヴィレイアが目を丸くして、ほんの刹那、苦笑する。
そして腕に掛かったリベルの左手を、丁寧な仕草で持ち上げた。
彼女が微笑み、リベルと目を合わせる。
「絶対に大丈夫よ。心配しないで。
私の加護はとっても強いの」
それから、ヴィレイアは彼の指先に口づけた。
「あなたは誰よりそれをよく知ってるはずよ。リベル――私の幸運の勇者さま」
そして素早くリベルから離れてしまう。
咄嗟にそれを追おうとしたリベルを、唐突に目の前に湧いてきた影兵霊が押し留める。
「――っ、ヴィリー!!」
ヴィレイアが、亜竜の眼前に躍り出た。
血が止まらず、呻くような声を立てながら徐々に動きに精彩を失っていく双頭の亜竜、その亜竜と、今しもこちらに向かって無造作に手を伸ばす黄鉄鉱の巨人、その間に立つように。
亜竜がヴィレイアに気づいた。
反射のようにその咢が開いた。
同瞬、黄鉄鉱の巨人もまた、眼前にふらふらと彷徨い出てきた人間に目を留めたらしい、屈むような仕草を見せ――
「ヴィリー!!」
リベルは叫んだ。
もはや絶叫だったが、同時にエルカも叫んでいた。
一方、ヴィレイアは欠片も動じていなかった。
いつもの彼女からすれば、もはや違和感すら覚えるほどの落ち着きようで、その唇が動いた――
「――やれるものならやってみせてよ」
ヴィレイアが右手を動かす。
リベルにとっては見慣れた、地底から何かを招くようなその手振り――
黄鉄鉱の巨人がよろめいた。
無数の影兵霊がその足許に群がっている。
その様は、さながら小人の軍勢によろめく大の男のよう――
地響きを立てて、黄鉄鉱の巨人が前方に向かって、即ちヴィレイアと亜竜に向かって倒れ込んだ。
元より片腕を失くして均衡も覚束なくなっていた、それが響いたことがよく分かる。
亜竜もまた、万全ならば巨人程度、ものの数ではなく跳ね返していただろうが、今や彼は血の大半を失いつつあるのだ。
目は霞み、身体には力が入らなくなっているはずだ。
凄まじい大音響とともに地面を震わせ、巨人が亜竜を圧し潰す格好で倒れ込む。
聞くに堪えない悍ましい音が上がり、亜竜の翼の骨格がひしゃげ、皮膜が破れる。――だが、瞠目せよ――この質量が圧し掛かってさえ、亜竜の骨は折れていない。鱗は屈していない。内臓は無事なままである。
巨人の、岩が軋むような長々とした苦悶の声――彼が残った右腕で地面を探り、起き上がろうとする。
そしてヴィレイアは、もはやリベルが声もなく無事を祈ったヴィレイアは、すんでのところで巨人を躱していた。
彼女が、リベルを発狂寸前に追い込む危なっかしさで、文字通り影のように寄り添う影兵霊の手を借りながら、黄鉄鉱の巨人の左脚を登り始めている。
まさにそれは、ささやかな登山に他ならない。
そして当然ながらヴィレイアの登頂を待つことなく、巨人は身を起こそうとしている。
リベルは己の髪が逆立つのを感じた。
まさに腹の底が抜けるような恐怖に血の気が引く。
「ヴィリー!」
形振り構わずそちらへ走ろうとしたリベルを、しかしなおも、やんわりと――だが堅固に、影兵霊が押し留めた。
黄鉄鉱の巨人の上で、ヴィレイアが顔を上げる。
目を移す。
足許から、今しも起き上がろうとして、ぐるん、と首を回して彼女を見据えた巨人の顔貌へ。
ここで仕留めるか、あるいは振り落とされるか。
ヴィレイアは息を吸い込み、確かに逡巡し、しかしそれを振り切って、
「――本当にごめんなさい!」
両手を高々と掲げる。
無数の影兵霊がどこからともなく湧き出し、その場にいた全ての勇者を促して伏せさせ、勇者たちの顔を彼ら自身の影の身体で覆った。
リベルも同じく視界を奪われ、そして、聞いた。
ヴィレイアの、決然とした、断固たる号令。
「――契約、真、陽精!!」
ディドルとメイの、驚愕というにもあり余る、息を呑む声。
――音が満ちる。
通常の、ヴィレイアが影契約を結ぶときに聞こえる――あの、精神で聞く鈴の音ではなかった。
耳ではなく精神で聞くとしか表現のしようのないものであることは同じ――だがこれは荘厳な鐘の響き、銅鑼の響き、百万の鈴が一斉に鳴る響き。
陽精――光のないところにも光を齎す、あらゆる法術師が重宝して影契約を結んでいる精霊が、その全ての契約を振り切り、破棄した。
この瞬間、この国のみならず世界中で、殆ど全ての法術師が異変を察知したはずだ。
ちょうど――つい先日にあった、治癒精が働きを失ったときと同様に。
そして一度失われた契約は、儀式を経ねば戻らない。
もし仮に、今このとき、陽精頼りで鉱路を進んでいた勇者隊があれば、それでなくとも陽精を使っていた誰かがあれば、その衝撃、損失は計り知れない。
陽精が、ヴィレイアの、万人に一人の極上の法気に吸い寄せられる。
――大型の鉱路生物のそばにあって、精霊との影契約は顕現しない。
だが真契約ならば。
ヴィレイアの法気を喰った陽精が、高々と掲げた彼女の両手に、それこそ太陽が顕現したかの如き明かりを灯す。
淡い金色を呈する強い光が拡がる。
光は一息のうちに強くなり、ヴィレイアの姿を光のうちに塗り潰し、この岩窟から影さえ駆逐する。
影兵霊が消え失せた。
だがそのときには既に、勇者たちは自らの目を庇っている。
直視すれば目が焼けるほどのその光。
色彩を塗り潰し、陰影を消し飛ばし、眩しさの余りに熱すら齎すその光。
岩場に流れ出した亜竜の血液が、焼け焦げるようにして蒸発していく。
湖面を熱波が駆け抜けて、湖水に乱反射する光が更に岩壁を焦がしていく。
痛みに呻いたのは誰だっただろう――容赦ないその光量に圧倒されて、勇者たちの肌が焼ける。
痛みすら感じるほどに。
弱々しく暴れていた亜竜ですらも、この一撃がとどめとなった。
制御の効かない暴力的な光に照らされ、ついに頭上の、そしてあちこちに散らばっていた、光晶すべてが眩しさを吸収し切れず、爆発するように発火する。
炎を撒き散らし、崩れ落ちてくる頭上の光晶の岩盤――
凄まじい光を直視した巨人が、眼球を焼かれ、のみならずその眼球から差し込んだ光によって脳を焼かれて絶命する。
それどころか光は黄鉄鉱の巨人の中にまで入り込んだかのようだった。
巨躯の節々、岩と見紛うその身体の継ぎ目というべき箇所全てから、白い光が放射状に溢れ出す。
そして僅か数秒後、轟音とともに、まるで泥人形を動かしていた手品が尽きたかのように、黄鉄鉱の巨人は砕け散り、崩れ落ち、堆い岩石の小山と化した。
*◇*◇*
「ヴィリー!!」
リベルは半狂乱になって絶叫した。
黄鉄鉱の巨人が、文字通り崩壊して小さな岩山と化している。
辺りは一気に暗くなった――頭上の光晶が悉く爆発したためだ。
発火した光晶がそこかしこに落ちて、燻るように燃え続けている。
再び、あちらこちらの影の中から、するすると影兵霊が這い出し始めた。
欠落し、欠落してなお動こうとする亜竜に組み付き、鱗を捲り上げては影の剣で突き刺し、解体を始めようとしている。
あれほど生気に満ち溢れていた亜竜が、息絶えて眠りに就くのではなく、ただの生理反応として、意思などなく動こうとする様には、言葉に出来ないほどの醜悪さと哀感を覚える。
そして、乏しい明かりの中でさえ、ヴィレイアが黄鉄鉱の巨人の崩落に巻き込まれたことは見えていた。
足場が崩れて脱出できず、そのまま黄鉄鉱の岩山の中に姿を消したのだ。
そちらに走り寄ろうとするリベル、その腕を後ろからメイが掴んだ。
「影兵霊が新しい命令に従って動いてるってことは、あの子は無事よ! どのみち影兵霊が助けるわ! それより考え無しに近付く方が危ないわよ!」
「それがなに!?」
リベルは、後から思い返しても信じられないほどの短慮さで言い返した。
メイを振り払う。
「あいつが顔を出したときにそばに誰もいないなんて、そんな目には絶対に遭わせない!」
ディドルの手許で、桃色掛かった白い光が灯っている。
――治癒精の光だ。
大型の鉱路生物が息絶えたことにより、仮契約の顕現が戻っている。
ディドルが、まずは最も重傷であるラティに駆け寄り、治療を開始する。
メイも、振り払われた以上はもうリベルがどうなろうがそれは本人の責任であると割り切って、ウェインに駆け寄って同じく治療を開始した。
リベルは走りながらもその場に〈焔王牙〉を突き刺して両手を空にすると、巨人の亡骸でもある黄鉄鉱の色合いの岩山を登り始めた。
左手の親指の、黒い指輪に軽く口づけする。
「――ヴィリー? どこにいる?」
応答はなかったが、影兵霊の一人が、岩山の一箇所を頻りに叩き、探っているのが見えた。
リベルは苦も無く身体の均衡を保ってそちらに向かう。
足許でがらがらと岩が崩れる様は、まさに不安定な岩山の上にいるときそのもの。
目的の場所に行き着くや、リベルは、人の頭部ほどの大きさに砕けた黄鉄鉱の色合いの、触ってみても岩としか思えない、巨人の亡骸の破片を放り投げ始めた。
勢い余って爪が割れ、血が滲んだが気づかなかった。
リベルにとっては永遠にも等しい数分後、彼女自身も脱出に向けてもがいているヴィレイアの、細く白い手が見えた。
胸が詰まったリベルがその手を握ると、まさに命綱を見つけたようにしがみ付いてくる。
リベルは半ばその手を引き摺るようにして、周囲の岩を更に魔法で排除しつつ、力任せにヴィレイアを引っ張り上げた。
顔が見える。
ヴィレイアは新鮮な空気を音を立てて吸い込んだ。
咳き込み、しかし彼女がすぐさま右手の指を振る。
「か――解除、陽精」
そう呟き、語尾でまたげほげほと噎せる。
リベルはヴィレイアを抱え上げるようにして、完全に彼女を巨人の亡骸の外へ出した。
そうしてみると酷い有様だった。
岩山のように見えても、これは一個の生物の体内だったのだと実感する。
ヴィレイアの、いつも髪を纏め上げるのに使っている黒いリボンは切れてどこかにいってしまっており、白百合色の髪にも白い肌にも、そしてもちろん衣服にも、べっとりと緑色のヘドロが纏わりついている。
今は辺りが暗いために然程でもないように見えるが、明かりがあればいっそう悲惨に見えるだろう。
更にいえば、臭いも酷かった。
生々しい、金属臭と汚水を綯交ぜにしたような悪臭がする。
リベルはともかくも親指でヴィレイアの頬を拭ってやり、息せき切って尋ねた。
「――怪我は?」
「ん、大丈夫よ」
ヴィレイアは答えたものの、息を吸うのもつらそうに顔を顰めている。
そして、リベルの肩を押して距離を取るよう促した。
片手で胸元の時精時計の首飾りを探って無事を確認しつつ、ヴィレイアは掠れた声で言った。
「本当に大丈夫。リベル、何回も言ってる気がするんだけど、心配しないで」
リベルは頑としてヴィレイアから離れなかった。
「おまえ、今さっきまで生き埋めになってたんだぞ」
「言ったじゃない、私は運がいいんだって。
――そんなことより、陽精と真契約しちゃった。どうしよう、他の人たちからすれば大迷惑だわ――そんな言葉で収まるかどうか」
「治癒精を分捕るほどじゃないだろ。
――脚は? 怪我してない?」
「ないない、大丈夫。――でも本当に最悪。ものすごく臭い」
髪に触れたヴィレイアが悲しそうな顔をする。
リベルはもはや臭いに拘泥している場合でもなく、鬼気迫る顔をしていた。
――ヴィレイアは負傷している。
そしてそのあと、この巨人の体内に生き埋めになった。
深く考えなくとも、感染症の危険には思い当たる。
「そんなことはどうでもいいから。今すぐ自分を治療しろ、ヴィリー」
「あなたが先よ。気づいてないの、血塗れよ?」
「おまえに言われたくないよ」
言いながら、リベルはヴィレイアを抱き締め、そのまま抱え上げた。
ヴィレイアが「わっ」と声を上げたが頓着せず、足許を慎重に探り、岩山を半ば滑り落ちるようにして下る。
もちろん全身の傷が劈くように痛んだが、
(もういい、もう大丈夫……)
ここで岩魚でも出て来ようものならば、リベルは苛立ちに絶叫する自信があるが、さすがに亜竜の縄張りには岩魚もおるまい。
どすん、と、やや不格好に地面に行き着いたリベルとヴィレイアに、真っ青になったエルカが飛びつくように走り寄って来る。
その腕が、陽精の光に負けて真っ赤になっている。
「リベル! ヴィリー! 血だらけじゃねえか!」
「おまえに言われたくねぇよ! 左腕は!? 動くの!?」
リベルも真っ青である。
ヴィレイアが咳き込みながらリベルから離れ、右手の指をぎこちなく振った。
「――契約、影、治癒精」
凛とした、精神で聞く鈴の音が響く。
同時に指先に灯った桃色掛かった白い光を、ヴィレイアがリベルに向けた。
続いて左手にも同じ光を灯し、エルカに向ける。
リベルとエルカの声が揃った。
「おまえが先だろ!!」
「……――今さっき何が起こった?」
ベイ・レスが、愕然とした口調で囁いた。
「あの子、――儀式なしに陽精と真契約結んだの?」
「僕も初めて見たときは卒倒しそうになりましたけどね」
と、ベイ・レスを治療しながらディドルが呟く。
なぜかその口調が自慢げで、リベルとエルカは訳もなくそちらを睨んでしまう。
「俺らのヴィリーなんだけど……」
エルカがぼそっと呟く一方、勿論のことその声は聞こえなかっただろうディドルが、抑えた声ながらも憧れの籠もった口調で続けている。
「さっき話した、当時僕がいた勇者隊を助けに来てくれたときも、ヴィレイアさん、儀式なしで契約を連発してましたから」
「有り得ないでしょ……」
メイが、完全に化け物を見る目でヴィレイアを見つつ。
「陽精でしょ? そこまで強い精霊ではないけど、どうやれば儀式なしで契約なんて出来るのよ……」
オーリンとラティも、若干怯えたような目でヴィレイアを見ている。
アガサが手を伸ばし、そんなラティの膝をべしりと叩いた。
彼女はメイに治療されながら、脱力したようにその場に倒れ込んでいる。
「というか、外に出たらものすっごい問題になりそうなんだけど、」
と、アガサ。
「陽精との真契約も、普通に犯罪じゃなかった? どうやって情状酌量してもらう?」
「構うもんか」
ウェインが大声で言った。
治療の終わっている彼が、オーリンに歩み寄って彼の肩を犒うように叩いた。
その力が強すぎ、オーリンの身体が若干傾いで耳輪がちりんと高く鳴る。
「オーリン、今日もいい動きでありがとな。
――お嬢ちゃん、誰が言葉ひとつで陽精と真契約を結んだなんて信じるよ。――ここにいる連中の胸にだけ仕舞っとけばいいだろうよ。
お嬢さん――ヴィレイア、マジで助かったぜ」
ヴィレイアが瞬きし、困惑したような、はにかんだような微笑を見せた瞬間、爆音が轟いた。
リベルが咄嗟にヴィレイアを引っ張り寄せ、エルカがそんなリベルの前に飛び出す。
とはいえ一秒後、その一瞬の緊迫は霧散した。
「――えっ、あれっ、もう終わったの?」
脱出口を確保し、こちらに顔を出したギー・レスが、きょとんとした顔で叫ぶ。
その後ろではアーディスも、身構えた闘志をどうすればいいのか分からないという顔。
リベルはほっとして、笑い出した。
ベイ・レスが立ち上がり、駆け出して、ギー・レスを抱擁してお互いの頬をつけた。
「もう会えないかと思ったよ、半身。怪我はどう?」
「こっちの科白だよ、半身。怪我の具合は?」
アーディスがこちらに足を踏み出す。
アガサが跳ねるように起き上がって、彼に突進した。
「アーディス、アーディスっ、大変だったのよ!」
アーディスが笑ってアガサを受け止め、その頭を撫でる。
「おう、役立たずですまなかったな。
――リガーももうこっちに呼んで、大丈夫そうだな」
同時に、リベルも疲れ切った声音でそばの二人に囁いていた。
「――《死霊の姫君》絡みの発見はなかったにせよ、頑張った方だろ。
ここで戻っても、バンクレットさんも何も言わないだろ」
*◇*◇*
全員が満身創痍ではあったが、治癒精の恩恵により概ねの回復を見た。
ヴィレイアが陽精と改めて影契約を結び、岩窟はあかあかと照らし出されている。
リベルが心底呆れたことに、ヴィレイアはなんとしても自分の状態をなんとかしたかったらしく、豪胆にも怪魚が犇めいているはずの湖まで引き返し、顔や手を洗い、濡らした手で髪を梳いてささやかながらもヘドロを取り除いた。
そして幸いにも、湖面を舐めた強烈に過ぎる陽精の文字通りの威光を受けて、怪魚たちは湖底近くでじっと静かにしているようだった。
そんな彼女に付き添ったのはメイとディドル、そしてヴィレイアの暴挙を聞いたリガーで、三人の法術師が口々に、「儀式なしで契約できるってどういうこと?」だのとヴィレイアを問い詰めていた。
そんな質問攻めから戻ってきたヴィレイアに、リベルは〈焔王牙〉を差し出した。
彼の左の腰には、エルカから戻された〈氷王牢〉が鞘に収まって下がっている。
「ごめん、勝手に使って」
「〈焔王牙〉も、リベルに使われる方が本望かも知れない」
ヴィレイアは潔く言いつつ、リベルから〈焔王牙〉を受け取った。
「でも、私には松明代わりでも必要だからね。
リベル、いつか私が〈焔王牙〉だけ残して失踪したら、リベルが使っていいよ」
「馬鹿じゃねえの」
リベルは思わず笑った。
「失踪するなよ、捜す手間が掛かるんだから」
「捜しちゃ駄目だって」
冗談めかせてそう言いつつ、ヴィレイアは、りん、と軽やかな音を立てて〈焔王牙〉を鞘に収める。
アーディスとウェイン、そしてラティが周囲を歩き回って、帰路について議論している。
湖に架かる橋に戻るべきか、ウェイン隊が辿ってきた道を戻るべきかの議論だ。
ウェインが、「俺たちが来た道を戻るべきだと思う」と慎重に言って、アーディスがウェインから往路の様子を詳しく聞こうとしている。
ウェインは少々苦い顔だった――辿った鉱路の情報は出来る限り伏せるのが、勇者の本能なのである。
とはいえ、ここまでくればもはや三つの勇者隊は一蓮托生である。軽く息を吸い込んで、事細かに鉱路について話し始めている。
アガサとオーリンは疲れ切った様子で座り込んでおり、時々言葉を交わしている様子だ。
オーリンが不溶石の欠片をアガサに手渡し、アガサがそれを口に放り込んで噛み砕き、水を飲んでいるのが見える。
ギー・レスとベイ・レスはぴったりと寄り添って脱出口付近に腰を下ろしており、ディドルとメイが、リガーに向かって「あの双子、欠けるような目に遭った後はああなるのよ」「落ち着くまでは話し掛けても無駄」と説明していた。
その後、三人はぼそぼそと帰路の物資について、悲観的な意見を交わし始めた様子である。
影兵霊は亜竜を概ねのところで解体し終えており、既に四肢は湖に放り込まれ、今は眼球を抉り出された左側の頭も運搬中、右側の頭と胴体、そして尾だけが黄鉄鉱の巨躯に押し潰されるようにして、そこに鎮座している。
ヴィレイアに〈焔王牙〉を戻したリベルはその巨躯をまじまじと観察し、ついでに亜竜の身体から落ちた、深紅の色合いの鱗を数枚拾い上げた。
(これがあれば、エルカとヴィリーと三人でちゃんと指輪を作れる……)
続いて、黄鉄鉱の巨人の残骸を見上げる。
そんなリベルの背中に、どん、とエルカが体当たりしてきた。
「なにしてんの?」
「いや、こいつを持って帰りたいなって」
エルカは顔を顰めた。
「なんで?」
「おまえだよ。おまえの武器を仕立てたいんだよ」
「金掛かるじゃん」
「長い目で見ればそうでもない。買ってぶっ壊してまた買って――ってやってるよりは、思い切ってちゃんとしたのを仕立てた方がいい」
エルカはふむ、と一考した様子だったが、すぐに気まずそうに呟いた。
「……リベルくん、お兄ちゃんは金がないんだよ」
リベルは横目でエルカを見て、嘆息した。
「お兄ちゃん、弟がそのくらいは出してやるよ」
「――マジで?」
「そのくらいは、そりゃあ」
エルカの表情に、期待と遠慮と喜びと心苦しさが、交互に立ち現れていった。
リベルは顔を顰めた――不快だったのではなく、例によって彼の不器用な顔面が、適切な表情を象ることが出来なかったために。
「いいんだって、俺の金をどう使おうと俺の勝手だろ。黙って見守れよ」
エルカは曖昧な声を漏らし、がしがしと頭を掻いたあと、小さく礼の言葉を呟いた。
リベルが「いいって」と手で制すると、彼はしばらく黙ったあと、ぱっと顔を上げて、きょろきょろと周囲を見渡した。
そして、ヴィレイアが離れたところをふらふらしているのを見て取ると、声を低めて。
「……で、ヴィリーにはなんて返事したの?」
「は?」
全く脈絡がなく、かつ、何の心当たりもないことを尋ねられ、リベルはぽかんとする。
「返事……?」
「あれっ、違うの?」
エルカは薄青い目を見開いて、素っ頓狂な声を出した。
「ヴィリーが巨人の前に飛び出す寸前、おまえに何か言ってたじゃん。振る舞いからして、俺、絶対にあれは愛の告白だと思ったんだけど」
「…………」
リベルは目を見開いて硬直した。
エルカが、「おーい」と目の前で手をひらひらさせると、はっと我に返って咳き込み、
「ないっ! ないない、あるわけないだろ!」
「いや、傍から見てても」
「相棒なんだから親しいのは当然だろ……」
「おまえが湖に飛び込んだ後の、ヴィリーの狂乱ぶりを見せてやりたかった」
エルカがしみじみと呟いた、そのときだった。
「――リベル」
ヴィレイアが呼んだ。
その声――のんびりとして、何かの戯れに相棒を呼んだような、そのような声音では断じてなかった。
警戒した、硬い声。
リベルははっと顔を上げ、即座にヴィレイアに目を向け、そして彼女が、湖の方向をじっと見つめていることを見て取り、同じ方向へ視線を向けた。
湖とこの岩窟を区切っていた岩壁が崩れ落ちた今、そこは瓦礫の山となっている。
その堆い山の上。
――そこに、一人の男が立っていた。
遠目であって目鼻立ちははっきりとは見えなかったが、中肉中背、特段の特徴もないように見える。
ただし、身に纏う装束は極めて異質だった――時代遅れというにも程がある、まさに旧王朝時代の武人の格好。
全身を覆う甲冑の、兜だけを脱いでいる格好。
兜を脱いでいるために、褐色の巻き毛が肩にまで落ちているのが見える。
肩からは袖のない外套が踵まで垂れ落ちているが、その外套は――元々がどんな色合いだったのであれ――もう随分と色褪せていた。
そして特筆すべきは、その腰の剣。
遠目にもずっしりとした重みを伝える拵えの、柄から鞘の先端までが滴るほどに煌びやかな黄金を呈す大剣。
まるで革命前夜の御伽噺から抜け出してきたような騎士が、そこに立っていた。




