15 号令一下
その瞬間のリベルの頭の中にあった思考は二つだけだった。
――一つ、このでかぶつがヴィリーに怪我をさせた。
(俺の幸運の勇者に)
二つ、こいつがいる限り、治癒精はヴィリーを癒せない。
(堪え性のない軟弱な奴なのに)
いつもと同じ、あの感覚があって――日頃の大人しさ、あるいは人見知りの自分、そういったものが、自分の後ろにぽつねんと置き去りにされているような感覚、ここにいるのはもっと血気盛んな、征服欲に満ちた別のリベル、そのような――それがいっそう強い。
同時に、周りが見えなくなるということもなかった。
意識した思考は二つだけであれ、もはや無意識の水準で、リベルは状況を把握していた。
――ばらばらに吹き飛ばされた勇者たち、捲れ上がり、崩れた岩石の下敷きになっているのはラティとウェイン。
無傷の者は一人もいない――目に見える範囲には。
ラティのそばについているアガサも、左半身を夥しい量の血に染めており、蟀谷を切ったのか半顔も真っ赤に染まっている。
エルカは、エルカは――
エルカは死角にいるらしい、見えない。
無事かどうかも分からない。
他にも、ベイ・レスとディドルの姿が見えない。
一呼吸のうちに、リベルはそれらを見て取って、同時に、湖を逆巻かせながら身を潜めた黄鉄鉱の巨人が、こちらを窺いつつも、亜竜には敵わないという歴然たる事実を思い出してこちらに手を出しあぐねていることも把握する。
――ならば、当面の間は、敵は亜竜のみ。
「――魔法使い!」
リベルは声を張り上げた。
「ウェインとラティを動けるようにして! 傷の浅い奴は他の奴を助けろ!」
自分自身の負傷は意識しなかった。
痛みは無視できる。
自由の身で味わう痛みならば。
そして彼を自由にしてくれたのは、
「ヴィリー、待ってて、すぐ治療できるようにしてやるから」
「リベル、待って!」
背後で上がる叫び声も一顧だにせず、リベルは息を吸い込む。
――その手の中で、〈焔王牙〉が燃え上がる。
燃え上がる〈焔王牙〉の光輝が気に喰わないというように、かっと開いた亜竜の左の咢から漆黒の炎が吐き出される。
迸った火焔は当初的を逸れ、リベルの前方十フィートの位置にある岩場を丸い形に溶かした。
真っ赤に溶けてぐんにゃりと変形していく岩石――その岩石の熱でさえ、周囲の空気を焦がすような。
その炎の奔流が、真っ直ぐにリベルに向かった。
リベルは一歩も動かなかった。
背後にはヴィレイアがいる。
ここを躱せばヴィレイアが炎の餌食になる。
使い慣れない〈焔王牙〉を持ち上げる。
鉱路の業物を扱う、その感覚は筆舌に尽くし難い――だが、〈氷王牢〉と同様に、〈焔王牙〉はリベルに応じた。
薔薇色の刀身が生き生きと煌めき、直後、眩しいばかりの炎の奔流が、漆黒の火焔を迎え撃つように吐き出される。
爆音――衝撃。
足許が揺れる、この空間が揺れる。
熱波で岩場が震え、人の頭部ほどもある大きさの岩が弾けるように転がっていく。
だが、〈焔王牙〉の炎は亜竜の炎を防ぎ切った。
影兵霊が音もなく密やかに近づいてきて、彼の主人であるヴィレイアを腕の下に庇う。
ヴィレイアが何かを叫ぶ声がくぐもって聞こえる。
ディドルがベイ・レスに駆け寄り、彼を助け起こし、魔法使いである彼をウェインの方へ半ば担ぐようにしながら連れていく。
途中、岩場の凹凸に躓きながら、彼は強張った顔で。
「――僕のせいですかね、僕が入ってきたから、亜竜が――」
「つべこべ喋るのはやめて、僕を我らが筆頭のところへ連れて行ってくれ」
ばらばらになった勇者たちが、吹き飛ばされた先で各々這うようにして起き上がり、立ち上がり、為すべきことをしようとしていた。
足許には、勇者たちの手を離れて飛んだ得物が転がっている。
小銃、短銃、長剣。
腰から下が捲れ上がった岩場の下敷きになったラティのそばに跪いたアガサは、彼女自身の痛みに全身を劈かれ、気が遠くなりそうになりながらも、状況を窺うことは忘れていなかった。
亜竜の右の首が、ぐるりと勇者たちを見渡したのが霞む視界の中にはっきりと見えていた。
アガサはラティの手を強く握った。
仮にこの手を離してどこかへ逃げ込めば助かる見込みがあるならば、彼女はそうする――逆の立場であれば、ラティもそうするだろう――勇者というものはそういうものだ。
それは決して仲間への愛情が乏しいのではない、勇者隊が全滅すれば、欠け人となった仲間たちが鉱路で彷徨うことになる――ゆえに一人でも生き残ることを優先する、そういうものだ。
だが、双頭の亜竜はこちらを紅い瞳ではっしと見据えている。
亜竜を二頭同時に相手取るようなもの、そう言ったのは誰だっただろう――
(言い得て妙だわ)
リベルは左側の頭を完封しているが、右の頭は自由だ。
リベル自身もそれを見て取り、焦っていることが分かる。
三年も一緒にいたのだから、離れていようが視界が霞もうが表情の機微は分かる。
そして亜竜には強靭な四肢がある。
間もなく高所から舞い降りて、頑強な四肢で勇者たちを引き裂きに掛かるだろう。
スズメバチに刺された人間がスズメバチの皆殺しを決意するように、この亜竜は人間を皆殺しにすることに決めたようだった。
対亜竜の戦闘の場合は、数十人単位で亜竜の四肢と尾を抑え込み、更に十数人で急所を抉るべく頭部を襲う――これが定石だ。
この人数ではそれが出来ず、ゆえに変則的な戦略で挑んだ――結果は、
(ご覧の通り)
亜竜の右側の頭で、咢が大きく開く。
その喉の奥で炎がちらつく。
長く優美な首を、ぼごり、と、熱の塊が駆け上がろうとしている。
精霊が使えない以上、そして逃げ込むべき死角がない以上は、間もなくここを襲う炎の豪雨を凌ぐのは絶望的で――
そのときアガサは、〈氷王牢〉に気づいた。
目の前――ほんの十数フィートのところに転がっている。
切先から柄までが滑らかに黒い鉱路の逸品。
吹き飛ばされたときにさしものリベルも手放したのか、あるいは、
(またあの子を庇ってやろうとして手を離したのか)
ヴィレイア。
嘘のように綺麗な顔をした少女――勇者とは思えないほど振る舞いがたどたどしい――にも関わらず実力は特等相当だという――けれど、今のところはそれが表れているのは、彼女が使役している影兵霊という強大な霊においてのみだ。
そして影兵霊も、この状況をひっくり返すには至っていない、今も影兵霊は厳重にヴィレイアを守っているだけだ。
そしてなお腹が立つのは、それと同様アガサも、今のところは抜きん出た功績を挙げていないということで――
(――〈氷王牢〉が使えればここは凌げるのに)
閃くようにアガサがそう考えた、まさにその瞬間、左側の頭を相手取るリベルが怒鳴った。
「――頼む!!」
一瞬にも満たぬ間、アガサはその声を自分に向けられたものだと思った。
だが身体は動かなかった。
彼女に〈氷王牢〉は扱えない――それを知っている。
〈氷王牢〉を扱うことが出来るのは、唯一リベルだけ――
そのとき、後方から、走るというよりまさに飛ぶようにして、人影が、
「――エルカさん……?」
ラティの掠れた囁き声を、アガサは果たして実際に聞いたのか、それとも思いを同じくするがゆえに聞いたように思ったのか。
エルカも無傷ではない――それどころか全身血塗れだ。
その彼が、だがなお滑らかな動きで〈氷王牢〉を拾い上げようとし、
「――だめ」
アガサは囁いた。
「リベル以外には棒切れよ」
エルカが〈氷王牢〉の柄を握った。
――直径にして三フィートほどの氷柱が、亜竜の顎の下から突き出し、ものの見事に亜竜の、今まさに炎の奔流を吐き出そうとしていた咢を殴りつけた。
亜竜の呻き――地響きにも似たその声――
〈氷王牢〉の、黒い刀身に霜が降りている。
冴え冴えと冷気を吐き出す、リベル愛用の、彼にしか扱えないはずの――
「――え?」
驚愕に息を呑んだのはアガサとラティだけ、アーディス隊のうちこの場にいるのはこの二人だけだったのだから然もあらん。
エルカが、口の中のどこかを切っていたのか血を吐いて、それから怒鳴る。
「――リベル、怪我は!」
その声音を、何と言おう――初対面からして酒代をリベルにつけるなど、常識を逸した行動でアガサたちの度肝を抜き顰蹙を買ったエルカだったが、今この瞬間の声音一つに、それら全てを覆すものが籠もっていた。
――本心からの懸念、切実なまでの愛情。
向こう側でリベルが応じる。
驚きも何もない、むしろ嬉しそうな――頼もしそうな声音で。
「大丈夫!」
「ヴィリーは!?」
「無事!」
「最高」
エルカが呟いた。
表情は「最高」とは程遠かったが、それでも彼が、この状況にあってなお、一切何事も絶望視していないということは明瞭に分かった。
「ようし」
エルカが呟き、唇を舐めた。
各所でじわじわと動きつつある勇者たちを見渡して、彼が朗々と声を張り上げる。
「動ける奴は動いてくれよ。
――成功も失敗も、後世の間抜けが決めるものだ。
野郎ども、後世の間抜けの目をかッ開くに足るだけの活躍を!!」
*◇*◇*
炎。炎。炎。
岩が砕ける。
破片が頬を、耳朶を切る。
氷柱。上から、横から、真下から。
今やその場は乱闘というに相応しい様相を呈している。
誰も秩序だった動きをしていない。
秩序などくそくらえと言わんばかりに、ただひたすら、一つの目的――亜竜の動きを止めること、その目的のための最短経路を動こうとしている。
冷静さを残しているディドルが、脱出口を塞ぐ形で崩れ落ちた岩山を見るために再び走った。
そして大声で叫ぶ。
「ベイ・レス! メイさん! ――ウェインさんとラティさんを掘り出したらこっちをお願いします! 岩が溶けててとてもじゃないけど素手じゃどうも出来ない!」
さて、魔法においてよく知られている特性の一つに、「同じ結果を引き寄せようとする魔法であっても、状況によって難度が変わる」というものがある。
昼日中の平和な路地で小石を拾いに行くのと、鉱路の危険の只中で小石を拾いに行くのでは、行為としては等しくとも、意味は大きく異なるのだ。
亜竜が猛り狂うこの場において、脱出口を確保する魔法の難度たるや想像を絶する。
リベルは瞬間、己がそちらに向かうことを考えた――疑う余地なく、この場で最も大きな心袋を持っているのは彼である。
だがすぐに考えを改める。
――エルカがいるとはいえ、ここを譲れば誰かが欠ける。
そして何より、
「必要ない! 亜竜にかかれ!」
リベルが怒号する。
「脱出口は外からアーディスとリガーが何とかしてくれる!!」
炎。炎。炎。
岩が砕ける。
破片が頬を、耳朶を切る。
氷柱。上から、横から、真下から。
亜竜の鱗の煌めき。
牙の閃き。
皮膜が空気を孕む音。
尾が岩場を砕く音。
鉤爪が空を切る鋭い音と、気配。
真上から勇者たちに襲い掛かった亜竜の、人間よりも遥かにゆっくりとした呼吸のリズム――色と光のない炎のように熱いその吐息。
オーリンが、小柄な身体を活かした身軽さで、亜竜の尾の先端に飛びついた。
無論亜竜にとってはものの数ではないが、オーリンは驚異的な身体能力を見せて亜竜の尾から背中に這い上がる。
ネズミが背中を這っていることに気づいた人間のように、亜竜が身悶えしてオーリンを振り落とそうとする――瞬間、ラティから離れたアガサと、脱出口であった場所から駆け戻ってきたディドルが、意図せずして息を合わせた形になり、岩場を蹴って跳び上がっていた。
岩場から六フィート足らずのところに亜竜の脚が下りたその瞬間を見逃さず、渾身の力で亜竜の四本指にしがみ付く。
アガサは左の前肢に、ディドルは左の後肢に。
狙いは同じだ。
小さな鱗がびっしりと生え揃った、まさに猛禽によく似た形の亜竜の足指にしがみ付きながら、アガサは腰の短銃を探った。
彼女の猫目が見据える先は、
「――まあ、人間だけだとこんな傷を作るのに何日掛かるのかしらって話だから――あの巨人はよくやったわ!」
亜竜の横腹の傷。
間近で見れば、鱗が引きちぎられて肉が露出しているのがよく分かる。
その傷口は急速に塞がりつつあり、早くも血は止まろうとしていたが、なお傷口は柔らかいままだ。
熟し過ぎた果実のような傷口――
アガサは右手で短銃を持ち上げた。
左腕で亜竜の脚にしがみついているが、暴れ狂う亜竜のために狙いが定まらない。
亜竜はまるで虫を払うようにアガサを振り放そうとしている。
ぐいんぐいんと頭が揺れて、アガサは深刻な吐き気すら覚えた。
視界が流れる線に見えてくる――上下の感覚が失せそうになる。
それでも銃を保持し、引き金を引く。
不傷石の煌めき。
狙いを逸れて亜竜の無傷の鱗に当たった銃弾が跳ね返り、中の一発は跳ね返ってアガサ自身の頬を掠めた。
ディドルも全く同じ考えなのだろう――彼の右の手首を囲むように、きらり、と赤い光が走る。
途端、あちこちで砕けた岩場の欠片がぐらりと持ち上がり、直後、銃精の名のとおり、銃弾に等しい勢いでそれらが発射される。
銃弾と岩の破片が、少なくとも幾つかは、亜竜の抉れた傷に突き刺さった。
「――――!」
亜竜が不愉快そうに唸る。
辛抱強いこと――とアガサは思う。
生傷に銃弾を叩き込まれるなど、人間であれば、絶叫待ったなしの拷問だ。
そして、なお亜竜の背中の突起を手掛かり足掛かりにしてしがみついていたオーリンが、このとき身を起こした。
彼が勢いをつけて亜竜の背中から身を躍らせ、そして見事な動きで短刀を一閃――柔らかい皮膚で早くも塞がろうとしていた亜竜の傷が切り裂かれ、凄まじい量の血が噴き出す。
今度こそ、亜竜が喉も裂けんばかりに絶叫した。
二つの喉が震え、大音声に岩壁が震える。
激しく動く尾が更に岩場を破壊する。
顔面どころか上半身を亜竜の血に染めて落下するオーリン――それを、文字通り影のように佇む影兵霊が受け止める。
「うわっ、有難いんだけど超怖ぇ……」
オーリンがげぇげぇと亜竜の血を吐き出しながら呟く一方、アガサは口惜しさで気も狂わんばかりになっていた。
――あの一撃を、〈流閃花〉で加えていれば勝利は確定していた。
「――これだから他の勇者隊とはやり難いのよ!」
直後、ベイ・レスとメイが、一斉に亜竜に向かって銃弾も尽きよとばかりに掃射を開始する。
そしてこの二人が戦線復帰したということは、つまり、
「――歳は喰ったが欠けるにはまだ早い!!」
腰から下を血に染めながらも、ウェインが大砲を拾い上げ、亜竜に向かって砲弾を撃ち出す。
ラティが脚を引き摺りながら動き始めるのを、アガサは視界の端に見た。
そして安堵に息を吐いた瞬間、とうとう亜竜がアガサとディドルを放り出すことに成功した。
宙を吹っ飛ぶ一瞬――直後、ひやりと冷たい指が全身を這うような悪寒とともに、影兵霊が自分の身体を受け止めたことが分かった。
背筋が粟立つ――だが、影兵霊は主人の命令に従って、淡々とアガサの身体を地面の上に下ろした。
吹き飛んだ拍子に頭から血が引いたらしい――眩暈がする。
首を振り、大きく深呼吸したそのとき、自分の名前を叫ぶ声をアガサは聞いた。
「アガサ! こっちに来い!!」
炎。炎。炎。
岩が砕ける。
破片が頬を、耳朶を切る。
氷柱。上から、横から、真下から。
リベルは亜竜の左側の頭を見ている。
大きく開いた咢、そこに並ぶ真珠のような牙の列。
喉の奥からせり上がる炎――頬がちりちりと痛む熱気に目を細める。
蠢く真っ赤な舌、それらが真上から彼に迫っている。
リベルがなおも引き裂かれずに生きていられる理由としては、他の勇者が絶えず亜竜の気を引いているから、それに他ならない。
少なくとも、巨人に与えられた傷を抉られた瞬間に、亜竜からは冷静さが吹き飛んだように見えた。
〈焔王牙〉は燃え上がっているが、リベルはその切先を下げていた。
亜竜の胴や尾には他の勇者が組み付いている。
影兵霊がちらちらと動いているのが見える。
亜竜の紅い目――
「こっちだ、こっちだ」
リベルは囁く。
「ほら、俺に近付くのが怖いか?」
亜竜の喉から唸りが上がって、その鼻面がぐっと降りてくる――
瞬間、リベルは左手を伸ばし、亜竜の巨大な牙を掴んだ。
当然ながら亜竜が再び頭を擡げようとする。
その喉から発せられる不快の声音はもはや身体全体で振動として聞くと言った方が正しいものだ。
片手の握力だけで身体を持ち上げる。
素早く亜竜の咢に足を掛け、そしてその足を喰いちぎられる間際、殆ど軽業師めいた身軽さで亜竜の鼻面に攀じ登った――ラディス傭兵団にいた間にも、何度となく彼の命を救ってきた身ごなしで。
自欠願望めいた、更にいえば超人的なその動きに、どよめきめいた声が上がる。
ヴィレイアが悲鳴を上げた声が聞こえてきた。
いや――悲鳴を上げたのはリベルを見てのことではない?
ささやかな違和感がリベルの脳裏を掠めたが、激怒した亜竜の紅い瞳が三フィート足らずの間近にあるこのときにあって、さすがに周囲に気を配る余裕はなかった。
亜竜の鼻孔は二つの細い切れ込みだ。
そこから細かな鱗が亜竜の顔貌全体を覆って、頭上に残る光晶の明かりを弾いて、宝石のように煌めいている。
鼻孔から灼熱の蒸気が噴き出す。
亜竜が、無礼千万にも己の顔面に足を掛けた、同じ退化した竜ではあれど、亜竜よりも更に格下となる人間を睨み据えている。
リベルは亜竜の巨大な鼻面に跨るような格好になって、〈焔王牙〉を持ち上げた。
右手の中で煌々と輝く、ヴィレイアの愛剣。
熱を孕むその武器を、亜竜の左目に向かって突き出す。
かちり、と、〈焔王牙〉の切先が亜竜の瞼に止められる感触。
鉱路の業物を以てしても、亜竜の瞼すら貫けない。
亜竜の急所は眼球か口内、その二箇所のみ。
またしても悲鳴。
ヴィレイアの切迫した悲鳴に、振り返りたいという感情がむくむくと湧いてくる。
万全ではない彼女に何かの危険が迫っているとしたら?
だが、ヴィレイアには特等勇者の実力がある。
リベルから二フィートのところでは、亜竜が激昂している。
加えて、ヴィレイアの悲鳴には恐怖の色の他に、もっと強い――警告の色があった。
具体的に何かを叫んでいるようだったが、亜竜の鼻息の轟き、翼の皮膜が空を切る音が響く中にあって、リベルにその言葉は聞き取れない。
亜竜が激しく首を振り始めた。
リベルは両膝と左手で亜竜の鼻面にしがみ付き続ける。
ぶんぶんと振り回され、耳許で風が唸っている。
リベルは堪らず、〈焔王牙〉で亜竜の横面を叩いた。
亜竜はそれを歯牙にも掛けないが、それでいい――
――このときリベルは、自分が役割を果たしたこと、亜竜の二つの頭脳が持つ注意全てが自分に向いていることを確信した。
エルカが亜竜の右の頭の真下、ちょうど亜竜の死角に入る場所にいた。
彼が〈氷王牢〉を振る――リベルが扱うときと殆ど遜色のない素早さで、彼の足許から氷柱が伸びた。
エルカを持ち上げるように。
エルカともう一人を。
エルカは亜竜の右の咢のそばに立った。
そして、なんら迷いのない動きで、無表情のまま、片割れの頭と格闘するリベルを面白そうに眺める右の頭の、その咢に半身を入れた。
重くて大きいものを持ち上げるときの、まさにその動き。
肩から半身をそのものの下に入れて、全身を使って持ち上げる、あの動き。
だがこのとき、エルカが持ち上げたのは重い荷物でもなければ資材でもなく、亜竜の上顎だった。
短剣のような牙は避けたものの、鋭い歯列がエルカの肩に喰い込み、血が噴き出す。
口内に落ちた血飛沫の味を拾って、亜竜の大きな舌が全くの反射でエルカに向かって動く。
エルカは表情ひとつ変えず、〈氷王牢〉を持ち上げた――それを察したかのように、亜竜の舌がのたうって口蓋に張り付き、引っ込もうとする。
同瞬、エルカは迷いなく、金剛不壊の〈氷王牢〉を、もはや半身を亜竜に喰わせるような姿勢になりながらも、亜竜の口の中に突き立てた。
――リベルは、そしてエルカも、頭を二つ持った経験はない。
ゆえにそれがどのような思考の錯綜を生むのかを知らない。
だが少なくともそのとき、亜竜の二つの頭脳の間で、反射と信号の交錯が起こった。
それは、長らく何の傷も負ったこともなかっただろう亜竜が、久方ぶりに感じる痛み――巨人に負わされた傷の痛み――のために混乱していたからかも知れない。
また、あるいはそれは、この場にいる勇者全員の加護の賜物だったかも知れない。
〈氷王牢〉を口内に突き込まれた亜竜が絶叫した。
口の中は亜竜の急所の一つだが、それも内側から喉を裂いてこそ。
口蓋を多少抉られた程度では、この後の食事に多少の不都合が生じるだけだ。
ゆえに亜竜は大きく首を振り、頑強な顎に支え棒として差し込まれた〈氷王牢〉を押し出そうとし――
――しかしこのとき、このほんの数秒前まで、亜竜は全ての注意をリベルに向けていた。
その思考の残滓。
双頭の異形の弊害。
エルカを振るい落とすべく振った頭は、しかし意図の半分程度しか動かなかった。
残る半分の力は左側の首に動員され、既に体勢を崩していたリベルを、ものの見事に眼下の岩場に叩き落とした。
叩き落とされたリベルは痛みに呻きつつ、なんとか転がって仰臥の姿勢から俯せになり、更に這うようにして膝で起き上がった。
――そして、それが目に入った。
リベルの朱色の瞳が見開かれる。
周囲は既に叫喚している。
血の気が引くとはこのことである。
ヴィレイアが警告していたのはこれだったのだ。
痛む肺に精いっぱいの息を吸い込み、リベルは悲鳴じみた声を上げた。
「――エルカ!! エルカ、まずい! 早くしろ!!」
エルカは応じない。
さしもの彼も応じている余裕はない。
意図した半分程度しか動かなかったとはいえ、それでも激しく振られた亜竜の口許に留まり続け、エルカは――その場の全員が彼の正気を疑ったことに――亜竜の口の中に腕を突っ込んでいた。
ギロチンの歯が落ちるように噛み合わされようとする亜竜の牙を、しかし支え棒として差し込まれた〈氷王牢〉が喰い止めている。
そして〈氷王牢〉が、徐々に亜竜の灼熱の口内に霜を押し拡げている。
その冷たさに、俄かに麻痺したようになった亜竜の太く巨大な舌を、エルカが、非常識極まることに、両手で掴み、力づくで引きずり出した。
そして怒鳴る。
「やれ!!」
エルカにぴったりと寄り添って氷柱の上に立っていたアガサが身を乗り出した。
彼女が握るのは鉱路の業物、短剣と片手剣の中間の長さを持つ剣の形をした、〈流閃花〉。
その性質は、液体の流れを促進すること。
〈流閃花〉の青白い切先が、亜竜の舌を切り裂いた。
――亜竜の治癒力を以てしても〈流閃花〉の性質には逆らえまい。
遅かれ早かれ、この亜竜は失血から欠けることが確定した。
エルカが〈氷王牢〉をがっちりと喰い込んだ亜竜の口内から引き抜く。
亜竜の絶叫に耳が割れる――頭が痺れるようなその轟音。
右手で〈氷王牢〉を、左手でアガサの腰を抱えて、エルカが暴れ狂おうとする亜竜の牙から逃れて氷柱を蹴り、地面に向かって飛び降りる。
その彼を、しとどに血が溢れ、早くも血でうがいが出来そうな有様となっている亜竜の牙が追う。
その牙も、溢れる血でぬらぬらと赤く染まって滴を落としている。
亜竜の口内から溢れた血が、驟雨のように岩場を叩いて跳ね返る。
がちん、と、肌から三分の一インチのところで亜竜の牙が合わさる、肌が粟立つような感覚を得てから、エルカは地面に背中から落下した。
着地を決めたくとも、大荷物が二つもあってはとても無理だ。
手を離すと、アガサは力なく地面を転がり、しかしまだ亜竜が欠落したわけではないということ――更に言えば、欠落した亜竜を解体するという大仕事が残っていること――を忘れてはおらず、すぐによろよろと起き上がろうとする。
――そして、リベルと同じく、それを見た。
「――は?」
アガサは茫然と呟く。
エルカも起き上がり、そしてアガサと同じものを見て、負傷を感じさせない敏捷な動きで跳ねるように立ち上がり、問答無用でアガサの腕を掴んで引き摺り立たせた。
亜竜が、まるで溢れ出る血の重さに耐え切れなくなったかのように、重い音を立てて四肢を地面に着けた。
彼は、右側の咢から止め処なく血を零しながらも、己にこれだけの苦痛を舐めさせた連中を只で帰してなるものかとばかりに、なおもエルカとアガサ、リベルを追って双頭を巡らせている。
その息が荒い。
激しい呼吸に岩窟がまるごと震えるようだ。
そして、翻って湖からは。
左腕が崩壊した、黄鉄鉱の巨人が、波を蹴立てて再びこちらへ突進しようとしていた。




