10 遭遇
「くっそ誰だよ鉱路は水中の方が安全とか抜かしたやつ!」
悪態と一緒に水を吐き出しながら、リベルは這う這うの体で黄鉄鉱の色合いの岩山に辿り着いた。
えづくように水を吐くアガサの腕を左手で掴み、どっちもどっちの酷い有様である。
そして二人が二人とも、黄鉄鉱の色合いの岩山を背後にしていた――そう、後退るようにして後ろ手に岩を探り、湖底から屹立する岩山のごつごつした凹凸を辿り、身体を水から引き揚げたのである。
二人の目の前では、湖面が唐突に沸き立ったかのようだった――凄まじい数の怪魚が押し寄せ、波が立ち飛沫が弾け、文字通り沸騰したかの如き大騒ぎ。
橋の上にまで尾鰭を伸ばした長虫の姿は見えない。
それがいっそう疑心暗鬼に近い恐怖を煽る。
眼前に押し寄せているのは、身の丈五フィート程度の、蒼銀に光る鱗を持ち、盛大に広がる鰭がまるでドレスのようにたなびく、闘魚に似た形の怪魚の群れだった。
水中でこの連中に齧られそうになり、リベルが半ば気絶していたアガサを水面に向かって押し上げて、泳ぐというよりはむしろもがくようにしてここまで辿り着いたのである。
げほげほと激しく咳き込みながら、アガサがつい先ほど六十フィートの高さから湖に転落し、半ば失神していたとは思えない動きで、小銃の銃身を握り、銃把で飛び掛かってくる怪魚を殴り飛ばしている。
発砲しないのは、不傷石が濡れて使いものにならなくなっているからだ。
一方リベルも〈氷王牢〉で怪魚の横面を殴り飛ばすことに精を出しており、これは単純に、〈氷王牢〉で辺り一帯を凍らせようものなら、巻き添えで自分とアガサも凍りつくからだった。
言うまでもないが、二人とも頭のてっぺんから爪先までびしょ濡れになっているのだ。
右手で〈氷王牢〉をぶん回しつつ、リベルは悴む左手を口許に近づけ、親指に嵌めた黒い指輪に軽く口づけした。
髪から垂れる水滴が目に入るが、目を閉じれば魚に喰いちぎられて欠ける。
(それはマジで嫌だ)
というわけで目を見開き、怪魚をぶん殴り、全身が乾いていくまでの過程を心袋に詰め込んで己を乾かそうとしながら、リベルは指輪に向かって怒鳴った。
「――ヴィリー! ヴィリー!! そっちは大丈夫か!?」
一方アガサも、小銃で怪魚を撃退しながら、同じく左手の青い指輪に向かって叫んでいる。
「アーディス! ラティ、リガー!! 私は大丈夫!」
怪魚が暴れ狂っているために聞こえないが、橋の上が騒然としていることは想像に難くない。
いやむしろ、仲間が目の前で湖に落ち、あるいは飛び込んだのだから、橋の上の連中が落ち着き払っているとなると、リベルとしてはかなり落ち込む。
『リベルっ!!』
が、想像の十倍は悲痛なヴィレイアの声が聞こえてきて、リベルの胸はこれまた痛んだ。
『リベル、大丈夫!? 今なにが見えてる!? そっちに行くわ!』
「来なくていい来なくていい!」
リベルは大慌てで叫ぶ。
彼の足は、なおも湖の中で岩を踏んでいる状態――その爪先に喰いつこうとした怪魚の頭を、咄嗟に蹴り飛ばす。
ばしゃっ、と跳ね散らかる冷たい水、もはや足先は感覚がない。
靴で水を汲んだような有様で、あちこちから水滴が落ちる。
「今はあの金ぴかの岩山にいる! 取り敢えず大丈夫、アガサもこっちで捉まえた!
エルカに、俺は無事って伝えて!
そっちは!? そっちは大丈夫!?」
『すぐに行く!』
「話を聞けって! 今、馬鹿でかい魚の群れに襲われてて――」
まさに目の前に躍り上がってきた一匹を、〈氷王牢〉で切り裂くと同時に殴るような具合で撃退する。
ばしゃん、と湖面に落ちるその一匹の後から、無数の魚がなおも迫る。
岩山は足場として最適とはいえず、湖面から遠ざかるには難がある。
「――そっちまで襲われたら話にならないから! 足場もないし危険すぎる!
それよりヴィリー、おまえは大丈夫なの!?」
ヴィレイアの声が遠ざかる。
亜竜の指輪は、正確には声ではなく意思を伝達するものなのだ。
声が聞こえなくなったということは、ヴィレイアの意識が他に向いたのだ。
その間に、アガサのかなり切実な声がすぐそばから聞こえてきた。
「やばいやばいやばい、こいつらめちゃくちゃお腹空かせてるんじゃない? 目が血走ってるもの」
「魚の目が血走るもんか!」
「雰囲気の話だってば!」
アガサは今なお濡れ鼠で、リベルともども寒さに震えながら怪魚を撃退している。
空いている手で背後の岩壁を探って身体を持ち上げようとしているために、左手が岩でこすれて血が滲んでいる。
そしてそれはリベルも同様だった。
リベルは何とか足を引っかけられる出っ張りを見つけて身体を持ち上げ、続いてアガサの腕を掴んでそばまで引っ張り上げた。
ようやく湖から足を引っ張り出せた状態だ。
「ありがと」
「いいよ。
――ヴィリー? ヴィリー?」
再度指輪に向かって問い掛けるが、ヴィレイアからの応答がない。
嫌な予感に胸がざわめく。
岩の橋を見上げたが、ここからでは一直線に伸びる暗い影にしか見えない。
しかも、リベルが見ているのは鉱路の奥へ続く方向だ。
ヴィレイアたちがいる箇所が見えるのは、岩山の反対側からなのだ。
数フィートとはいえようやく湖面から距離を置くことができ、息を吐いてから、悴む左手で髪を掻き上げたアガサがリベルを見る。
冷えた唇が紫色になって震えている。
「ありがとう、助けてくれて。来てくれなかったら溺れて欠けるところだったわ」
「一瞬見捨てようかと思った。
くそ、上の状況、そっちで分かる?」
アガサが指輪に蒼褪めた唇で口づけする。
「アーディス? アーディス?」
彼女が首を振る。
その短い髪から滴が飛んで、リベルは顔を顰めて左手を振った。
彼の稀代の大きさの心袋に事象が詰め込まれていく――魔法で、アガサの髪や衣服から、速やかに水分が乾いていく。
だが、なお足許に殺到し、躍り上がりながらこちらに牙を剥く巨大な闘魚たちが撒き散らす滴で、間もなくして濡れ鼠に逆戻りしそうだった。
何しろ、湖面までは僅か二フィート余りしかない。
リベルは息を吸い込み、〈氷王牢〉を振った。
彼にとっては命取りに思えるほどの冷気が漂い、リベルとアガサの足許から凝固が広がる。
数秒後には、そこに即席の氷の岸辺が出来ていた――ただし、下から凄まじい怪魚の猛攻を受け、ぐらぐらと揺れているが。
岸辺というより筏に近いか。
だがともかくも一息はつける。
リベルはなおも指輪に向かって怒鳴った。寒さで声が震える。
「ヴィリー? ヴィリー?」
『――リベル』
ようやくヴィレイアの声が聞こえた。
リベルは傍目にも自分の表情が緩むのを自覚した。
「ヴィリー、おまえは――そっちは大丈夫なの?」
『今からそっちに行く』
断固としたヴィレイアの声に、リベルは眉を寄せる。
「そっちで何か――」
『こっちのどたばたのせいか分からないけど、元来た方からすごい量の――』
声が一瞬途切れ、リベルは発狂しそうになった。
「ヴィリー!」
『――ああ、ごめんなさい。すごい量の、さっき見たでしょ――青い蝶が押し寄せて来てるの』
リベルは橋を振り仰いだが、その様子は見えなかった。
骨の髄まで冷気が沁み入り、頭の中に靄が掛かったような具合になるのを、眉間に力を入れて追い払おうとする。
「それは――燃やせないのか?」
『ちょっとだけ、それもやってみたの。煙が凄くて、今度はそれで通れない。風精を使おうにも、近くに大きい鉱路生物がいるのかな――影契約が使えなくて。今まで通ってきた場所にいた鉱路生物が、一気にこっちに押し寄せてきたみたいな有様よ』
再び声が途切れる。
だが、今度はすぐにまた声が聞こえ始めた。
『アーディスが、――エルカ、大丈夫だってば、今のところリベルの声は元気そう――、あ、ごめんなさい。アーディスが、この先ずっとこれだと戻れないから、一か八かで一度そっちに降りて、湖を渡ってみようって。
湖の、開けてない方の岩壁――穴が幾つか開いてるでしょ。他のところに繋がってるかも知れないから、そっちから戻れるかも。
――エルカ、まだだってば! リベルは大丈夫だから!』
「いや――」
リベルは反対しようとした。
余りにもリスクの高い考えだ。
向かった先が行き止まりだった場合、手持ちの物資が尽きるまでに帰路を見つけられなければ飢えて欠けることになる。
しかも、
「――アガサ、おまえ、物資は?」
リベルが振り返って尋ね、アガサが青い顔で首を振る。
落下した拍子に紛失したという意味だ。
リベルの方は、飛び込もうと決めて飛び込んだこともあり、物資は欠けもの狂いで抱えていた――これについてはアガサを責められない。
不意打ちで橋から突き落とされて、よく生きていたと褒めるべき場面だ。
『大丈夫、ここから離れさえすれば透過視精で探索できるから。物資不足で誰かが欠けることは絶対にない』
ヴィレイアが、リベルからすれば怪訝を覚えるほどの確信を籠めて断言した。
「けど――」
反駁しようとするリベルを封じるように、ヴィレイアは付け加えた。
『お忘れみたいだけど、私は運がいいのよ』
「――――」
リベルは棒を呑んだように黙り込んだ。
ちらりと視線を向けた先で、アガサも彼女の隊の面々から、同じ説明を受けたところであるらしかった。
唖然としたような顔をした彼女が、リベルと目が合うとぎゅっと唇を引き結んだ。
紫色の猫目が強気に光る。
「――もう、なるようになれ、だわ」
リベルは指輪に目を戻した。
そしてその拍子に、即席の床として張った氷が、真下からの怪魚の猛攻により罅割れているのを発見した。
〈氷王牢〉を振り、氷を張り直してから、リベルは言った。
「――了解。
どうやってこっちに下りるの? 言っておくけど、湖の中はでかい化け魚だらけだぞ」
「滑り台」
隣から、アガサがリベルの方へ身を乗り出して囁いた。
「リガーが、〈氷王牢〉で橋の上からここまで、滑り台みたいな氷を作り出せないかって訊いてるわ」
リベルはざっと距離を見積もった。
「やってみる」
〈氷王牢〉が生む氷といえど、強度には限界がある。
そしてその強度は、〈氷王牢〉から離れるほどに弱くなる。
ゆえにリベルが作り出したのは、滑り台というよりも、そそり立つ氷柱が徐々に低くなって階段の体を成したものが、途中からようやく滑り台の用を足すよう連続する、欠陥品といっていいだろうものだった。
ついでに着地地点の問題もあった。
今なお、リベルとアガサの足許には怪魚が殺到し、隙あらば躍り上がろうとしているのだ。
氷の筏は二度欠けた。
黄鉄鉱の色合いの岩山の一部を凍結させ、氷の岸辺を固定しようとしたが、上手くいかない。
別方向を凍結させる作業に気を取られているのみならず、寒さもあってリベルの集中力が途切れがちなためか、他の理由か。
(他の理由じゃないことを祈る……)
アガサも、氷を割って顔を出そうとする怪魚をぶっ叩くことに疲れた顔をしている。
リベルは内心ではらはらしていた。
エルカを心配するのは、リベルには出過ぎた真似というものだ――彼ならば、曲芸も斯くやという動きで、難なくここまで辿り着く。
だがヴィレイアは。
彼女は、確かに元は特等勇者として指定されていただけはある能力を持っている。
だが、身体能力は多少心得のある十七歳の少女の域を出ないのだ。
自分が造り出した滑り台が欠陥品であったがばかりに、彼女が怪魚犇めく湖に落下しようものなら、リベルは悔恨の余り自分の首を落とすだろう。
落ち着かないがあまり、リベルは何度か指輪を使ってヴィレイアに声を掛けそうになったが、自重した。
慎重に足を運んでいた彼女が、リベルからの呼び掛けに気を取られて足を滑らせようものなら取り返しがつかない。
リベルにとっては数時間にも等しかった数秒後、ようやく、仲間たちがこちらへ近づく気配――氷の軋む音、足音、息遣い、互いに注意を促すために掛け合う声――がした。
貪欲に氷を削る怪魚を、先回りして氷を砕いた上で〈氷王牢〉で串刺しにし、氷の上に水で希釈された薄い青色の血が広がるのを見る。
開いたその穴からちゃぷちゃぷと水が浸入してくるのを再び凍らせながら、リベルはそちらを向いてじりじりと待つ。
そして、
「リベルっ!」
真っ先に滑り台を、滑るというよりは転がるように下ってきたのはヴィレイアだった。
彼女が揺れる氷の上でよろめきながら立ち上がり、リベルへ突進してくる。
そのとき、咄嗟に氷に手を突いてしまい、冷たい氷に皮膚が張りつき、それをべりりと引っ張る様が見えた。彼女の掌が赤くなる。
ヴィレイアの表情は、戦慄、安堵、不安が綯交ぜになったもの。
リベルは、鉱路の中にあって自分でも信じられなかったが、足許に〈氷王牢〉を放り出し、ぐらつく氷の上を駆け寄ってくるヴィレイアを抱き留めた。
ぶつかるようにして胸の中に飛び込んでくるヴィレイア、彼女の体温、彼女の息遣い。
背中に回される彼女の腕に、ぎゅっと力が籠められる。
鎖骨の辺りにヴィレイアの額が擦り寄って、黒いリボンがリベルの顎を撫でる。
一つに編まれている彼女の白百合色の見事な髪は、若干ほつれつつあった。
リベルは揺れる足許を踏ん張り、ヴィレイアの背中に両手を回し、ぎゅっと抱き締め、それから彼女の髪を撫でた。
「だいじょう――」
「リベル、大丈夫っ!?」
がば、と顔を上げたヴィレイアが、リベルの言葉をへし折る勢いで叫んだ。
ヴィレイアの濃緑の瞳との距離が余りにも近いことをようやく意識して、リベルは思わず、両手で彼女の肩を掴んで距離を確保する。
「大丈夫、俺は大丈夫。そっちは――」
「リベル!!」
と、今度はエルカ。
滑り台を、ヴィレイアと違って殆ど駆け下りるようにして一足飛びに降りてきた彼が、リベルの左肩を掴んで自分に向き直らせる。
「無事か!」
「無事だよ、おまえの目は節穴か」
「この馬鹿!」
ぎりぎりとエルカの手に力が籠もり、肩の痛みにリベルは顔を顰める。
「エルカ――」
「心臓が止まるかと思った。二度とするな」
リベルはエルカの顔から目を逸らせた。
殆ど悲痛ささえ感じさせる懸念の表情に胸が詰まった。
「――悪かった」
アーディスたちも次々に氷の上に着地していたが、アガサに対する犒いと「無事で良かった」という歓迎は控えめだった。
ヴィレイアとエルカの動揺具合が、他の全員を冷静にしたかのようだった。
「無事で良かった、取り敢えずさっさと足場がちゃんとしてるところに移って――」
アーディスが言い差したが、リベルはそれを聞いていなかった。
彼はヴィレイアを見ていた。
ヴィレイアが、敵意すら籠めてアガサを睨むのを見ていた。
慌てて彼女の腕を引く。
「ヴィリー、怒るものじゃない。あそこに立ってたのが誰でもこうなってたよ。俺でも」
「でも結果としてその人のせいだわ。あなたに何かあったら――」
アガサが振り返った。
既に怒った顔をしているが、対するヴィレイアも、リベルが見たことのないほど激怒した顔をしている。
リベルは助けを求めてエルカを見たが、エルカに仲裁する気が全くないことを見て取れただけだった。
彼もまた、腹に据えかねるという顔をしてアガサを見ていた。
――つい先ほど、アガサを見捨てることすら考えたリベルを動かしたのは、背後からのこの二人の視線だった。
にも関わらず実際は、リベルが危険な目に遭ったことについて怒髪天を衝く勢いであるとは。
アーディスとリガーが、アガサとヴィレイアの間に割って入ろうとした。
しかし、生来が気の強いアガサは既に口を開いている。
「私が悪かったと思ってるわけね、へえ、なるほど」
「喧嘩するな」
リベルは〈氷王牢〉を拾い上げ、鞘に収めながら声を大きくした。
がしゃん、がしゃん、と、氷が割れる音が連続して響いている。
この不安定な足場を真下から突き上げる怪魚が氷を砕く度に、ラティが巨大な槌でそれを氷の下へ押し返しているのだ。
日頃の気弱さが嘘のような蛮勇ぶりだったが、その背中が如実に、「他人の喧嘩に割って入るくらいなら、ここで淡々と鉱路生物に対処していたい」と語っていた。
アガサがリベルを睨んだ。
「随分と今のお仲間さんがお気に入りのようだけど」
「そうだよ。ヴィリーは俺の恩人だ。
それに、喧嘩するとおまえが負けるぞ、アガサ。
ヴィリー、大人げないからそんなに怒るな。心配させて悪かった」
「あなたは悪くない」
ヴィレイアが呟いたが、濃緑の瞳がなおもアガサを睨んだままだ。
リベルは怪訝そうにするアガサを見て、とうとう言った。
「いくらなんでも、俺がただの四等勇者と組んで上手くやれるはずないだろ。
――こいつ、俺と同じだよ。元々は他の組合で特等勇者だった」
「――はい?」
アガサが愕然として目を見開く。
一方、リガーが得心した様子で口笛を吹いた。
「――やっぱり。その子、法気は相当のもんだと思ってたんだよ」
「待て、じゃあこの子、元々はフロレアの特等勇者か?」
唐突にアーディスがそう言って、リベルは眉を寄せる。
「なんで――?」
「〈フィード〉で見たんだよ。おまえ、フロレアの〈鉱路洪水〉の後始末をしたんだろ――ダイアニの特等勇者だって〈フィード〉には出てたけど。
そのときフロレアの元特等も一緒だったって出てて――」
途端、腹を立てていたのが嘘のように俯くヴィレイア。
リベルは意固地なまでの口調で返していた。
「別にどこだっていいだろ、元いた場所なんて」
「なあ、とにかくここを離れようぜ」
リガーが声を張り上げた。
「ここじゃ治癒精も使えねぇ、透過視精も、陽精もだ」
「そうだよ」
アーディスがはっとしたように言った。
「リガーの精霊を邪魔してる、でかい鉱路生物がいるはずなんだ」
「湖の中に、そりゃもううじゃうじゃ――」
リベルが言い差した、そのときだった。
――ぐらり、と湖が揺れた。
それは巨大なものが身じろぎしたせいだった。
黄鉄鉱の色合いの岩山が震える――否、動いている。
湖に漣が立つ。
間もなくしてそれが大波となり、辛うじて浮かんでいた氷の筏がひっくり返り、リベルたちはまとめて湖に向かって転がり落ちた。
途端、怪魚に全身を齧られることを予期したリベルだったが、驚いたことに潮が引くように素早く、怪魚たちはこの場から逃げ出している。
どうにも餌を諦め切れなかったらしき一匹だけがラティに噛みつこうとしたが、ラティは水中とは思えぬ身ごなしで、巨大な槌でその脳天をかち割った。
湖面を叩いて必死に顔を出すリベルたち、そして眼前では、
「マジかよ!」
水を飲みながらもリガーが叫ぶ。
――黄鉄鉱の色合いの岩山が立ち上がっていた。
そそり立つ岩肌、軋みながら巡らされる山頂――すなわち、その頭部。
どうして気づかなかったのか、リベルは自分の頭を殴りたくなった。
〈氷王牢〉で凍結させられない時点で察するべきだった。
これは、岩山に見えていたこれは、巨大な鉱路生物だ。
巨人が湖の中で膝を抱えて微睡んでいたのだ。
そして巨人が目覚めたことを察して、怪魚たちが慌てて逃げ出していったのだ。
ゆっくりと立ち上がった黄鉄鉱の色の巨人が、重低音を奏でながら欠伸をする――山頂の少し下に、唐突に巨大な洞穴ができ、その洞穴から甲高い風の音が鳴り響くかの如き、桁違いの規模の欠伸。
ごろごろと雷鳴のような音を立てながら、岩山の一部が分離していく――否、腕が上がる。
山頂近くで、瞼が開いた。
唯一柔らかく見える紅い目玉、巨大な独眼が、ぐるん、と回って足許を見渡す――
リベルは、立ち泳ぎするエルカに腋の下を支えられているのを感じていた。
弟分が溺れることを案じているのだ。
同時にリベルは無我夢中になって手を伸ばし、ヴィレイアの腕を掴んで引き寄せ、離れ離れにならないように抱き締める。
不意打ちの転落で水を飲んだのか、ヴィレイアがげほげほと咳き込み、ようやく顔を上げる。
黄鉄鉱の巨人を見上げ、彼女が大きく目を見開く。
その額から水滴が垂れ、長い睫毛に溜まった。
ぱちぱちと瞬きして水滴を払うヴィレイアの顔を拭ってやりたいが、そんな場合ではない。
「これだから甲種鉱路は!」
悪態を吐きつつ、リベルは空いた右手で〈氷王牢〉を探り、引き抜いた。
ぱきっ、と硬質な音がして、間もなくそれが連続して響いた。
怪魚が静まった湖の一面が凍っていく。
氷は白い冷気を漂わせながら範囲を広げ、岩の橋の下を通り、その向こうの岩壁へと伸びていく。
げほげほと水を吐きながら、その氷の上に這い上がっていく一同。
氷の冷たさが肌をひりつかせ、「助かった」という言葉とともに悪態も漏れる混沌具合。
口に入った水は苦い。
何かの拍子で鼻からも水が入り、鼻腔の奥から喉にかけてがつんと痛む。
エルカが氷の上に這い上り、すかさずリベルに手を貸す。
リベルは性急に氷の上に身体を乗せて、すぐさまヴィレイアを抱え上げた。
ぐっしょりと濡れたヴィレイアは普段よりも重い。
白百合色の髪がぺったりと背中に張りついている。
彼女が激しく咳き込み、氷の上で四つん這いになる。
アーディスたちはもう既に氷の上に立ち上がり、今しも黄鉄鉱の巨人の独眼が、ぴたりと自分たちに向いたことを、戦慄とともに悟っていた。
――竜の眷属、ひ弱に退化した竜が足許にいることに、巨人が気づいた。
雷鳴のような大音響。
巨人の、洞穴の如き大きな口が開き――笑っている。
哄笑。大笑。
あるいは無邪気なまでの喜び。
好物が食卓に並んでいるのを見た子供のような。
湖が激しく波立つ。
巨人が動き始めたのだ。
屈み込み、ごつごつとした岩のような手を伸ばし――
「――影兵霊!!」
ヴィレイアが叫んだ。
リガーが、「なんだって!?」と訊き返す一方、あちこちの影から――水上からさえ這い出してくる、異形の影の化け物たち。
その強大な霊に向かって、ヴィレイアが命令した。
「あいつを止めて時間を稼いで!」
影兵霊は強大な霊だ――それこそ死霊と並び称されることもあるほど。
とはいえヴィレイアに言わせれば、死霊はそれこそ格が違うらしいが。
影兵霊の強大さは、それが無尽蔵であることと結びつく。
無数の兵士の姿をした霊、これらが全て一つの霊なのだ。尽きることのない兵力は脅威だが、同時に一人一人は儚く脆い。
見るからに頑強な、黄鉄鉱の巨人を独力で斃すには至らない。
だがそれでも盾としては使える。
リベルはヴィレイアに手を貸して立たせながら、彼女の顔色を窺った。
「大丈夫か?」
法術とは、精霊に法気を喰わせることだ。
影兵霊が打撃を受ければ受けるだけ、影兵霊はヴィレイアの法気を要求する。
「ぜんぜん平気よ」
ヴィレイアは応じたが、顔色は悪い。
とはいえこれは寒さのゆえのことのようだった。
リベルとしては彼女を温めてやりたいが、今は、
「逃げろ!!」
黄鉄鉱の巨人の掌が落ちてくる。
それを受け止めた影兵霊が雲散霧消――だがすぐに別の影から倍の人数となって這い出してくる。
つるつると滑る氷の上を、七人の勇者たちが一目散に走る。
リベルはふと懐かしさめいたものを覚えた――アガサたちと組んでいた頃には、こういったことはよくあった。
大型の鉱路生物を斃して、さあ一息――というときに別の鉱路生物が現れ、悪態をつきながら逃走したことが何度あったか。
氷の起伏に足を取られ、リガーが勢いよく転んだ。
アーディスが駆け抜けざまにその腕を取って助け起こし、顔面を強打したために顔を顰めて鼻を押さえるリガーの背中を叩く。
リガーが転んだ理由は一つ、初めて見るのだろう影兵霊を、わざわざ振り返って凝視し過ぎたがためだ。
岩の橋の下は、上空の明りクラゲの光も遮られた影になっている。
そこから無数の影兵霊が這い出してくるのを見て、先頭近くを疾走するアガサが、堪えかねた様子で悲鳴を上げる。
「なにあれ! なにあれ!」
影兵霊は勇者たちに見向きもしない。
影で出来た古風な剣を掲げ、古風な戦装束の裾をたなびかせながら、黄鉄鉱の巨人へ向かって押し寄せていく。
アーディスも「おわっ」と声を上げた。
殿を走っているラティも、前方から押し寄せる影の軍勢に目を見開いている。
ヴィレイアの息が早くも上がり始めた。
彼女は右手をリベルに取られ、左側をエルカに守られて走っている。
ぜぇぜぇと乱れ始めた彼女の呼吸に、リベルは思わず、
「だから身体を鍛えろって言ってるのに!」
岩の橋の下を通過。
氷の上を半ば滑るようにしながら、岩壁に向かって一直線に走る。
岩壁には幾つか洞穴が口を開けており、最も手近の一つに駆け込むのが良策だろう。
洞穴の向こうに光源がある――あちら側は明るい。
全ての洞穴が、同一の広い空間に通じているようだった。
背後で氷が割れていく音が轟く。
振り返らずとも分かる、巨人が影兵霊を雲霞の如くに振り払いながら、氷を割ってこちらを追って来ているのだ。
水しぶきが立つ音――氷の破片が背中に飛んでくる。
だが、洞穴に飛び込んでしまえば、身体の大きさが仇となる――巨人はもうこちらを追っては来られない。
氷が砕ける悲鳴じみた音はすぐ背後に迫っている。
走るというより勢いで滑るような格好になりながら、リベルは半ば怒鳴るように、
「走れ走れ走れ!」
岩壁まで残り数十フィート。
背後から氷に亀裂が伸びていく。
足許がぐらぐらと揺れ、倒れそうになるヴィレイアを、離して堪るかと腕を掴んで引き寄せる。
岩壁に向かって飛びつく勇者たち。
洞穴の位置は足場より高い。胸の高さに洞穴の下端がある。
アーディスがアガサを押し上げ、アガサがアーディスとリガーを引っ張り上げる。
リガーがラティの手首と襟首を掴んで引き上げ、アーディスがリベルに手を伸ばすのを、リベルが問答無用でヴィレイアをその手に押しつける。
エルカが自力で洞穴に這い上がり、リベルの首根っこを掴んで引き摺り上げる。
振り仰げば、巨人はすぐそばに迫っている。
今しもこちらに手を伸ばす――勇者たちが口々に、「奥に行け!」と己と仲間に向かって叫ぶ。
洞穴の入口近くにいては、巨人の掌ならばその入口を通ってしまう。
巣穴から引き摺り出されるネズミよろしく掴み出されて喰われるなど、どうにかごめん蒙りたいものだ。
そのとき、全く別の声がした。
「――はいはい、伏せてて」
もはや状況を認識するよりも早く、一同が身体を伏せる。
何かが空を切る音――そして爆発音。
爆砕され、濛々と立ち込める氷塵。
爆発の威力に、巨人が不愉快そうに足を緩め、緩慢な仕草で手を動かす――
――束の間得た猶予に、リベルたちは肩で息をし、顔を上げ、喘ぎながら声の主の方を見遣った。
洞穴の奥の広い空間から走り出して来たらしい、別の勇者の一団だった。
同じ勇者隊であることが分かりやすいようにという意図だろう、全員が似た意匠の白っぽい戦闘服を身に着け、中の一人が、不傷石を用いているものと分かる大砲を肩に担いでいる。
その砲口から細い煙がたなびいており、たった今撃たれたものはあの砲だということが分かる。
息を荒らげるリベルたちを見渡して、その大砲を担いだ勇者が言った。
「よし、生きのいい連中だな。
――命を助けたことに免じて、協力してもらおうじゃないか」




