09 地底湖
「そういえば、あなたもかなりいい武器を持ってるわよね」
アガサが、ヴィレイアが右手のそばに置いている〈焔王牙〉を見ながら言った。
〈氷王牢〉をヴィレイアから受け取りつつ、リベルはどきりとした。
先ほどはふとした思いつきで〈氷王牢〉をヴィレイアに手渡したが、この会話の流れで、ヴィレイアの実力を知らしめてしまう結果になるとまずい。
(いや、もう既にアガサがかなりヴィリーに苛ついてるから、性格の不一致で引き抜きの話も来ない可能性が高いけど……)
ヴィレイアは首を傾げ、〈焔王牙〉に目を落としてから、のほほんと答えた。
「そうなんです、便利で気に入ってます」
「おまえ、もはや松明代わりに使ってるもんな……」
リベルがげっそりと呟き、ヴィレイアはその言葉に皮肉は一切感じなかったのか、〈焔王牙〉を持ち上げて鞘から一インチほど刀身を抜き、暖色の微かな光と陽炎を吐き出す一級品の武器を前に、真顔で言った。
「何なら夜通しこうしていようか?」
「マジで、それを鍛えた人が泣いてそう」
リベルは呻いた。
アガサが興味を惹かれた様子で、「ちょっと持ってみていい?」とヴィレイアに打診している。
ヴィレイアが「どうぞどうぞ」と〈焔王牙〉を鞘に収めて彼女に差し出した。
アガサが服の裾で掌を拭ってから、慎重に〈焔王牙〉を受け取る。
そして意外そうな顔をした。
「わ、思ってたより軽い」
「そう、軽くなくちゃ振り回せませんからね」
得々とそう言うヴィレイアに、リベルは思わず溜息。
「身体を鍛えろよ」
「え、やだ。時間かかるし、楽しくないもの」
「おまえさあ……」
リベルとしても、ヴィレイアには大恩ある立場だ(ヴィレイアはそれを否定するが)。
ゆえに出来るだけ小言は控えようと思っているものの、金遣いと怠惰さにおいては、思わず口を衝いてしまう小言。
アガサが、ゆっくりと慎重に、薄紅色の刀身を鞘から引き出した。
――〈焔王牙〉は沈黙した。
アガサががっくりと項垂れる。
「これもなの……」
リガーがヴィレイアに断りを入れ、〈焔王牙〉を手に取ったが、〈焔王牙〉は頑として、美しい宝石以上の姿を見せようとしない。
リベルが止める間もなく、アーディスにせっつかれたラティが怖々と〈焔王牙〉を手にした。
が、結果は変わらず。
アーディス自身もそれは変わらず、アーディスはひゅう、と口笛を吹いた。
「こいつぁ驚いた。もしかしてお嬢さん、実はかなりの腕利きか?」
リベルは人知れず動悸を覚えた。
エルカはこの会話に飽きてきたのか、リベルの右肩に凭れて眠ろうとしている。
手を伸ばして、ヴィレイアがアーディスから〈焔王牙〉を受け取る。
そして彼女は肩を竦めて、のんびりと笑った。
「まさかぁ」
ちらりと彼女の右隣のリベルを見てから、ヴィレイアははにかんだ様子で言った。
「リベルに助けてもらえていなかったら、私は今どこでどうしてたんだろうって思うくらいですよ」
*◇*◇*
翌日も一同は奥へ進んだ。
鉱路は相変わらず冷たく濡れており、そのうちにヴィレイアが洟を啜るようになった。
歩き続けると、身体の内側は温まってくるが、手足の末端は常に冷えているような具合になる。
小さな懐炉を全員で回しながらの行進となった。
リガーがこっそり火酒を持ち込んでいたことが露見し、アガサの本気の叱責(「本当に信じられない、縁切るわよ、これで何回目よ?」)と、囂々たるエルカからの批難(「不公平だ! 俺の分は!?」)の的となる一幕もあった。
勇者たちは淡々と、ケルンを築き、行き当たった資源を採掘する(エルカは、アーディスの採掘の腕前に素直に恐れ入ったのか、途中からは教えを乞うていた。教えを乞われることなど生涯初だっただろうアーディスは、かなりまごついていた)。
エルカがこの鉱路に入って間もなく気にしていた先人のケルンの残骸も、ここまでは確認できていた。
鉱路生物には遭遇した――化けコウモリ、青紫色に光る掌ほどの大きさの蝶の群れ、またも八本脚のトカゲ。
脚は四本だが、体長九フィートほどもあり、そして首に襟巻のような真紅の襞を持ち、火を噴くトカゲ。
それらを排除しながら進み、坑道が急に開けたと思うと、そこには一面に黄金色の、ほうき草に似た植物が群生していた。
ほうき草との違いは色と、葉の先端が膨らんでいることだけだった。
エルカがものは試しとばかりに石を投げてみると、ほうき草の一つが目にも止まらぬ速さで伸び、先端の膨らみがぱかりと口を開け、その石に食らいついた。
「あんなのに齧られるなんてごめんだ」
リガーが真顔で呟き、リベルがヴィレイアをつつく。
「ヴィリー、出番だ」
間もなくして、黄金色のほうき草の群れは焼き尽くされ、灰と、噎せ返るような悪臭のする煙と、肌がひりつく熱気だけがその残骸となった。
全員が咳き込みながらそこを通ったが、最後にリベルが振り返ったときには既に、地上の植物には有り得ない生命力を以て、積もった灰のあちこちから、ほうき草の新しい金色の芽が次々と芽吹き始めようとしていた。
更に鉱路を進みつつ、リベルは兄貴分の顔色をちらりと窺った。
そして、そこに自分と同じ懸念を見て、ある意味で安堵した。
「――あんまり危なくないな?」
リベルが確認するように言うと、エルカはこくりと頷く。
――確かにここまですんなりと進んできたわけではないが、過去十年に亘って甲種評価を揺るがぬものにしてきた鉱路である。
下手をすれば夜も休めないことを考慮に入れていた。
にも関わらず。
「そうだな。覚悟してたほどじゃない」
その遣り取りを聞いていたのか、アーディスがのんびりと口を挟んできた。
「そういや、リベル。なんだってこんな鉱路に用があるんだ? おまえらは俺たちと違って、資源採集するでもないし。ここ、結構いいのが採れるぜ。いいのか?」
リベルは曖昧な声を出した。
「ちょっと奥の方まで入ってみたくて」
「なんで?」
リベルはちらりとエルカを見て、ヴィレイアを見てから、応じた。
「ちょっとした金持ちの道楽に付き合ってると思ってくれ」
アーディスは真剣な心配の眼差しでリベルを見た。
「――なんか変なことに巻き込まれたりしてないか?」
リベルは躊躇いがちに微笑んだ――そうすると実年齢より幼く見えた。
彼の不器用な顔面は、心配された照れくささを表現できなかった。
「そこは大丈夫。ありがとう」
今度は、鉱路がぐっと狭くなった。
天然の大広間じみた空洞で坑道が行き止まりになったかと思いきや、そこから身を屈めなければ入れないほど狭い洞穴が開いているのだ。
それ以外に口を開けている道は、悉くが十数フィートで行き止まりになっていた。
余談だが、勇者には閉所に恐怖を覚える者が多い。
狭い鉱路であれば、鉱路生物に追われたときの逃げ場がない。
その経験が、閉所に対する恐怖を植え込んでいくのだ。
リガーが透過視精の影を狭い坑道の奥へ差し向ける。
そうしながら彼が、「こいつはどうして法術師として何もしないんだ?」と訝る視線をヴィレイアに送ったのを察して、リベルはさり気なく彼とヴィレイアの間に立っていた。
ヴィレイアはといえば、リガーからの怪訝そうな眼差しを感じ取った様子もなく、頭上の岩壁を見上げて「明りクラゲがいる……」と呟いている。
間もなくして、リガーが耳許で透過視精の影から情報を受け取り、一同に向かって声を上げた。
「よし、野郎ども」
「あら、私は?」
「それと我らがアガサちゃん」
「けっこう」
「狭い通路はそんなに続かない。せいぜいが三十フィートくらいだ。その後は開けた空間に出る――たぶん、でっかい地底湖かな。
このまま進むか?」
リベルは頷いた。
――鉱路における食物連鎖を考えれば、最初に餌になっていくのは明りクラゲだが、その明りクラゲが必要とするのは竜の眷属の生命の揺らぎだ。
ゆえに明りクラゲは地上を漂っている――そのため、鉱路生物の多くも陸地に棲息する。
とはいえ、亜竜の中には水中で生きるものもあり、明りクラゲの亜種には、水中を漂うものもいる。
だが総じて――もちろん、水中に危険な鉱路生物が潜んでいる可能性も無きにしも非ずではあるが――、鉱路生物が生活の拠点を築くのは陸地が多いのである。
リベルが頷いたのを見て、アーディスも頷いた。
「よし、行こう」
*◇*◇*
這うようにして狭い通路を進むと、リガーが言ったように唐突に視界は開けた。
通路を抜けた者から順番に立ち上がり、通路の出口を開け、身体を伸ばす。
通路から出て立っていられる場所は広くはなく、殿を務めたラティは、かなり窮屈そうに立ち上がる羽目になっていた。
その通路から、如何なる自然の悪戯か、見事に真っ直ぐに続く一本の橋のように、岩が伸びている――いやむしろ、ここが一面の岩場だったのが、長年かけてこの橋状に残った岩場以外が削り取られたと言った方が正しいのか。
その橋の行方は見えない。
視界の向こうで闇に呑まれるまで続いている。
その橋を三百から三百五十ヤードほど進んだところの右手側には、黄鉄鉱の色の岩山が、黒々として見える湖面から突き出すように聳えている。
湖面――そう、そこはリガーの言に違わず、地底湖だった。
一同は思わず、感嘆の目でそこを見渡す。
澄んだ湖面が視界の右側に向かって、見渡す限り続いているのだ。
左手側には岩壁が続いている――その岩壁の所々に、洞穴の入口じみた穴が開いているのが見える。岩壁の向こうにも別の空間があるのだろうと思われた。
洞穴の向こうで、ちらちらと明かりが瞬いているのも見えている。
湖面までの距離はおよそ六十フィートほどか。
湖は時折波立ちつつも、概ね穏やかに凪いだ、鏡のような水面を見せている。
仔細が見て取れるわけは明らかだった。
頭上に、夥しい数の明りクラゲが浮かんでいるのだ。
その白く優しい光が、暗がりに慣れた目にはいっそ眩しいほどだった。
更に、頭上はただ岩壁が広がっているのではない――巨大な岩が、文字通り浮いていた。
「――すっげぇ純度の浮揚璧だ……」
アーディスが敬虔な口調で呟く。
巨大な岩が微動だにせず、頭上高くに浮かび上がり、そこから銀色の羊歯が溢れんばかりに垂れ下がっている様は、いっそ幻想的でもあった。
羊歯の陰にも明りクラゲが瞬きながら見え隠れして漂っている。
リガーは目を細め、岩の橋の行方を見極めようとしているようだった。
その耳許で、透過視精の影である銀色の小魚が盛んに跳ねている。
「かなり長いな、この橋……。渡るか?」
「往路に使える時間はまだ一日ある」
リベルが答えた。
「出来れば進みたい。何かあれば途中で引き返す」
リガーはアーディスを振り返った。
「見たところ岩魚もいない。アーディス、進んでいいか?」
アーディスは湖面を見渡した。
「――ああ、進もう」
岩の橋を渡るのは、二人並ぶのはまず不可能だった。
そのため、先頭からリベル、アガサ、リガー、ラティ、ヴィレイア、アーディス、エルカの順となった。
これは自然とそうなったのだが、ヴィレイアがまさか後方につくとは思わなかったリベルが、進み始めてしまってから心配そうにヴィレイアを振り返るのと同様に、エルカは心配そうにリベルを見ていた。
岩の色は白っぽい。
進みながら見下ろせば、水面は遥か下に見える。
だが、さすがに水面の下、水中の様子は窺えない。
明りクラゲの光は陽光とは比べるべくもない貧弱さなのだ。
リベルの背後からは、ヴィレイアが朗らかにラティに話し掛けている声、エルカとアーディスが何かをぼそぼそと言い交わす声が聞こえてきている。
アーディスが「初めて会ったときはとんでもねぇ奴だと思ったけど、案外やるじゃねえか」と言っているのがリベルの耳に入った。
「――最近はずっとエーデルにいたの?」
唐突にアガサがそう尋ねてきた。
リベルはちらっと彼女を振り返ってから、応じる。
「まあ、大体そうだな」
「住み心地はいい?」
「ダイアニとそんなに変わらないよ」
少し黙ってから、アガサは小声になった。
「……なんで急に出て行ったの?」
リベルは、位置関係が前後である以上アガサには見えないと分かりつつ、苦笑した。
――背中の焼き印が鈍く痛む気がしたが、それは錯覚だと分かる。
あの艱難の日々は真実、もう過去のものとなったのだ。
「言ったじゃん、資源税がめちゃくちゃ引かれるからだって」
「それにしても急だったし」
「ごめんごめん」
「戦力急減で本当に迷惑したんだからね。
――今の隊の人たちとは……上手くやれてるみたいで」
「まあ、うん」
「ラティはすごく心配してたわよ。あんた人見知りだから」
「ありがと。
――そっちは? 俺が抜けたあと、別の人を誘ったりしなかったの?」
「今のところはしてないわね。あんまりいい人もいないし」
「そうなのか」
「出来れば若い人がいいのよ。私も、同年代がいないと退屈だもの」
「その割に、おまえ、同年代の俺への当たりもきつかったよな」
アガサが、「え」と動揺した声を上げたので、リベルはさっと彼女を振り返った。
何かの異変を見つけたのかと思ったのだ。
だが、紫色の猫目を見開いたアガサは、驚いた様子でリベルを見上げていた。
「えっ――あの、もしかして私の態度、駄目だった?」
リベルは朱色の瞳を瞬かせ、溜息を吐いて前に向き直った。
面倒そうな、しかしながら穏やかな彼の普段の口調で、リベルは呟いた。
「いや、別に。おまえの性格ってそういうもんだろ」
右手に、黄鉄鉱の色の岩山が近づいてきた。
まじまじと見るに、光沢といい色合いといい、まさに黄鉄鉱の質感だ。
その頂は仰ぎ見るに余るほどの位置にある。
リベルがアーディスを振り返り、「あの山も何かの資源?」と尋ねようとしたときだった。
出し抜けに湖面が割れた。
リベルが辛うじて知覚できたのは、水面が割れる――音に重さがあるが如き壮絶な飛沫と波の音。
そして頭上から降ってきた、驟雨のような水滴――
この場を鳥瞰した上で、通常よりもゆっくりと物事を見る目を持っている者がいれば、状況は明らかだった。
まず、湖面を割って現れたのは、巨大な尾鰭と、そこから続く銀色の身体だった。
優に六十フィートの距離がある湖面から岩の橋の上にまで達して、なおその尾鰭の持ち主の全容は見えないが、魚というよりは蛇に近い輪郭、鰭を持つ異形の蛇の長い尾が振られたかのような一幕。
まるで、誰かが意図せずして合図を送ったかのように、唐突に振り上げられ、振り落とされた尾。
湖面が割れてからその尾が岩の橋を直撃するまで、人間の瞬き一つの間。
その尾が誰かを直撃していれば、さすがに躱すことなど出来ない速さ、直撃した人間は脳髄を零して欠落しただろう。
勇者は加護を持つとはいえ、こうした理不尽な欠落に直面した勇者は数知れない。
だがこのときは、幸いにも尾鰭はリガーとラティの間に叩きつけられた。
岩の橋が揺れるほどの衝撃――だがこのときに、それが何かの尾鰭であると見て取ることが出来ていた者などいない。
揺れた足許によろめき、巨大で、濡れて、強靭な何かが岩を叩く大音響を聞く。
何が起こったのかを把握すべく脳が空転する、数秒の間隙――
尾鰭から、驟雨のように水滴が降る。
岩の橋の上に、あっという間に小さな池が出来ていく。
叩きつけられた尾鰭が、勢いよく左右に動く――明らかに、獲物がこの橋の上にいることを知覚しており、それを湖へ叩き落とそうとしている動き。
殆ど反射じみた動きで、エルカが銃を抜いた。
発砲――この混乱の中、彼の前にいたヴィレイアとアーディス、そしてラティに掠らせもせず、精確極まる弾道で銃弾が尾鰭を抉る。
だが彼我の大きさの差は象と蟻、尾鰭はなおも暴れ狂い――
「――下がれ!」
「走って――」
「他にもいるかも!!」
次々に声が上がる。
足許は突如として悪路の様相を呈している。
尾鰭に最も近い位置にいたラティとリガーが飛び退ろうとし、狭い足場でリガーと入れ違うようにして、リベルが〈氷王牢〉を抜きながら前へ出る。
そうしながら、咄嗟にリベルは怒鳴っていた。
「ヴィリー、そのまま!!」
〈焔王牙〉を抜こうとしていたヴィレイアが目を見開いて動きを止める。
――リベルがヴィレイアを留めたのは、偏に彼女が危なっかしいからだ。
この場合の「危なっかしい」は、茶目っけ抜きの批判である。
彼女は剣術を知らない。燃え上がる〈焔王牙〉を、二人並んで歩くことも難しいこの橋の上で振り回されてしまうと、最悪の場合味方の誰かを負傷させることすら有り得ると判断したのだ。
その瞬間、まるで武器を持った特等勇者がそばにいることを察したかの如き素早い動きで、尾鰭がずるずると岩の上を滑り、頑強な岩肌を削りながら、落下するような動きで湖へ戻った。
湖面を割って姿を隠す巨大な尾鰭が飛沫を上げ、その水滴が六十フィートの距離があってなおリベルの頬にも落ちる。
水音、――静寂。
いっそ白々しいほどの静寂が、ぴんとその場に張り詰める。
ヴィレイアが何か言おうとした。
彼女が、間にいる数人を飛び越えて、リベルに駆け寄りそうな顔でこちらを見ている。
しかしリベルは、「しばらく静かに」と合図――異変を音で察知する余地を残すためだ。
誰もが動きを止め、息を殺し、足許の湖の状況に耳を澄ませ、目を凝らした数秒――
アーディスが囁く。
「戻るぞ」
否やはなく、全員が素早く、足音も殺して元来た方へ踵を返す――
――そのとき、再びあの巨大な尾鰭が、今度は橋の反対側から落ちてきた。
まさに落下というべき――その尾鰭が湖面を割る瞬間に、誰も反応できないほどの素早さで持ち上げられていた尾が、凄絶な速度と重さで叩きつけられようとする。
轟音――石榑が周囲に吹き飛ぶ。
堪え切れずに上がる悪態と小さな悲鳴。
岩の橋にぶつかった尾鰭が細かい岩の破片を巻き上げて、まるでその先端に目があるようにくねりながら勇者たちに向かって突っ込む――
このとき、リベルが一度リガーの方へ立ち位置を変えていた以上、一同の最も後方の――つい先ほどまでは進行方向からみて先頭だった――立ち位置にいたのはアガサだった。
尾鰭を目でというよりは気配で追うリベルの視界が、無意識のうちに状況を掻い摘もうとしたかのように、幾つもの静止画を送るような具合になる。
アガサの足許を叩く巨大な尾鰭。
彼女の足許で岩が罅割れる。
吹き飛ぶ岩の破片。
アガサが冷静な動きで飛び退る――引くべき方向へ踏み出せば、そのまま尾鰭の直撃を受けるところだったのだから当然に。
そして尾鰭が大きくうねる。
アガサの足許に。
さしもの一等勇者も立ち往生した。
いや、正確には、立ち往生というには短すぎる、ただの一瞬の躊躇いだった。
前と後ろ、どちらへ飛び退るべきかの逡巡――そこに立っていたのがリベルであっても、同じく逡巡したことに疑いはない。
そして尾鰭が、叩きつけるようにアガサの足許を浚った。
その瞬間の表情は見えない。
アガサの身体が岩の一本橋から転落していく。
尾鰭の主は、獲物が一人転落していることには気づかないのか、あるいは他の獲物も狙ったのか、なおもその尾を暴れ回らせる。
悲鳴じみた怒鳴り声。
アガサの名前を呼ぶ叫び声。
その瞬間、最も彼女に近い立ち位置にいたのはリベルとリガーだった。
そして、動くべきはリベルだった。
リガーは法術師だ――しかも多数の精霊と契約を結んでいる法術師だ。
彼が欠ければ、それは一人の損失よりも重い痛手だ。
法術師は本来、安全圏に置いておくべき存在なのだ。
「――――」
認めたくはないが、その一瞬、リベルはアガサを見捨てることを考えた。
このまま残った全員で湖上の橋から退却するのが、結局のところ最も損失の少ない好手である可能性もある――
だが同時に、激烈に、リベルは背後にいるエルカとヴィレイアの視線を意識した。
かつてエルカを見捨てた自分、そしてそのエルカを助け出す、得難い機会をくれたヴィレイア――
――その二人が見ている前で、おめおめと誰かを見捨てるわけにはいかない。
そう思った瞬間、リベルは足許を蹴っていた。
走り出しながら〈氷王牢〉を鞘に収め、物資の入った袋をしっかりと身体に固定して、アガサを追って岩の橋から飛び降りる。
既にアガサは湖に落下した――叩きつけるような水音と、白く上がった水しぶきがその証左。
そして今、リベルの眼前にも迫る湖面は黒々と暗い。
水中にいる化け物が、この冗談のように大きな長虫一匹だけであることを、望み薄だと知りながらも強く願って大きく息を吸い、
「――リベルっ!!」
リベルは湖面に激突した。
構えて飛び込んでなお、その衝撃に息が詰まり、冷たい水に肺と心臓が危険な軋みを上げる。
高々と上がる水しぶき。
リベルの視界を占める無数の泡。
口から気泡を吐き出しつつ、なんとか水中で目を見開き、勘を頼りに方向を見定める。
湖は、その底の方がぼんやりと明るい――水中に棲む明りクラゲの亜種の群れがあるのだ。
そしてその明かりの中に、有り難くない影が複数見える。
水を吸った衣服が身体を湖底へ引き摺ろうとするのを感じながらも、リベルは懸命に暗い水中を蹴り、泳ぎ始めた。




