01 昼下がりの待ち合わせ
ラディス傭兵団、延いてはショーズ商会の許から命からがら逃げ出し、仮初の自由を手に入れたとき、リベルが身に着けたのは非常な用心深さだった。
揉め事を起こして、万が一にも法務官の前に連れ出されることになり、身許を探られれば、リベルは商会の手許に戻される。
――それを避けようとするがために、可能な限り人を避ける癖がついて、十四歳の頃――つまり、劇的脱出の直後――には、病的なまでの人見知りぶりを発揮していた。
歳を重ね、アガサたちと隊を組むようになると、それも少しは和らいだが、用心深さゆえの人見知りは彼の人格に定着した。
三等勇者になった折に、鉱路で行きがかり上助けた男性がいたが、その男性と――リベルが一等勇者となり、アガサたちと隊を組み始めた頃――再会したときにも、感極まって「あのときはありがとう!」と抱き着いてきた男性をひらりと躱してしまったことがある。
そのときには、勢い余ってすっころんだ男性の顔面に痣を見て、更にはアガサたちの呆れ果てたような眼差しを受けて、反省して小さくなったものである。
また、リベルは、いざ法務官の調査が入ったときには、取るものも取り敢えず逃げ出さなければならなくなる――それを常に意識していた。
そのため、彼の生活は質素なものとなり、どれだけ貯蓄があろうとも、贅沢は避けて暮らすようになった。
――さて、一方のエルカである。
ヴァフェルムの邸宅から自由の身で退出し、「旅券がない以上、おまえが稼げるのは勇者稼業くらい」というリベルの指摘もあって、どうせなら――ということで、エーデルの町で勇者となったエルカ。
ちなみに、エルカが勇者になるに当たって必要となる、保険等にかかる費用については、全額リベルが負担し、更にはエルカの部屋探しに奔走したのもリベルであった。
そうして勇者となったエルカは、勇者としてリベルとヴィレイアと共に探索をこなし、採掘してきた資源を勇者組合で換金し、「その金はおまえのだよ」とリベルに告げられ、自由に処分していい財産を持つのは人生で初めてのことでもあり、「まじで!?」と叫んだ。
傭兵団にいた経験から、探索も手慣れている彼である。
リベルと、あるいはヴィレイアと、あるいはリベルとヴィレイアとの三人で探索をこなし、ヴィレイアが相も変わらぬ浪費家ぶりで、その成果を全て溶かすのを後目に、彼は驚異的な速度で探索をこなし、貯蓄して、間もなく組合に預託金を納め、三等勇者となった。
そうして単独探索の権利を手に入れたエルカは――
――はっちゃけた。
「おまえ、マジで、もう、なんなの」
エーデルの勇者組合の食堂で、リベルは頭を抱えた。
治癒精の一件からおよそ二箇月、冬の気配が近づく日の昼下がり。
リベルの右側で、エルカはばつが悪そうにしている。
「酒場で酔っぱらうのはいいよ、おまえにはそのくらいの権利はあるよ。
――けど、なんで有り金を使い果たした後に酒場に入るの!?」
「いやあ、ついつい。自由の身で飲む酒ってほんと美味い」
「うん、そうかもな。俺は酒は飲まないけど。
――で、酒場で俺に代金をつけとくのも、百歩譲っていいよ。そのくらいの権利はあるよ。――でもなんで俺にそれを言わないの!?」
「いやあ、忘れちゃっててさ」
「そのお蔭で、俺、自分の部屋に怒り狂った酒場のご主人をお迎えするのが今朝でもう四回目だぞ!?」
「ごめんごめん、悪いと思ってるって」
「おまえそれなりに貯金あったじゃん! それを溶かす勢いで呑んだり買ったり、マジでさあ……!」
「いやあ、贅沢って一回やると楽しくって、やめられなくてさ」
「おまえにデートすっぽかされたっておかんむりの女の子、なんで俺の家を教えるの!? うちに来て泣かれたの、昨日でもう六回目! 昨日の子なんて、俺の家の浴室に立て籠っちゃって、出て来てくれるように説得するのに三時間掛かったんだぞ!」
「よく数えてるなー」
「しかもおまえ、他の女の子との約束が被ってたのを忘れてたって、俺はどう言い訳すりゃ良かったの!? お茶出して、ひたすら愚痴を聞きまくった俺の気持ち、分かる!?」
「いやあ、なんか可愛い子がいると、『俺、もう自由なんだ……』って実感が湧いてきて口説いちゃうというか」
「おまえ……、――ヴィリーは駄目だぞ」
警戒心を剥き出しにしたリベルに、エルカはひらひらと手を振る。
「さすがに無理むり、ヴィリーは俺にとっても大恩人」
「ならまだいいけど……」
不安そうながらもそう言ったリベルに、エルカはまじまじと視線を向ける。
「おまえ、心広いな。俺なら、自分に酒代をつけられるとか、我慢できて二回だわ」
「分かってるならやるなよ。
――けどまあ、おまえのやることは五年は我慢してやろうって決めてだな、」
「――なんか、悪いな」
「なのにおまえが、その堪忍袋の緒をめちゃくちゃに切り裂こうとしてるとこだよ」
「えっ、マジで気をつけるわ」
姿勢を正すエルカ。
「けどおまえ、結構貯金あるのに、まだ三等に上がんねぇのな」
「まあ、いや、別にまだいいかなって……」
エルカは薄青い瞳で瞬きする。
「ヴィリーに預託金分の金貸して三等に上げてやるのかと思えば、そうでもないし」
「うっ……」
リベルは思わず胸を押さえた。
――治癒精の一件が終わったあと、リベルは大金を手に入れる機会を放り捨ててまで彼らを助けたヴィレイアに、どんな形であれ恩返しは必要だと決意した。
そして、まず間違いなく彼女を喜ばせることができ、かつすぐに実行可能なその方法の一つが、ヴィレイアに三等勇者に上がるに足るだけの金を献上することだということは、すぐに閃いた。
実際にリベルは銀行に向かって、宛先をヴィレイアにした小切手を切ったのだ。
あとは渡すだけ、渡すだけなのだが――
「いや、それは……」
ごにょごにょと口の中で呟くリベル。
――治癒精の件での礼を口に出そうとすると、ヴィレイアはひらひらとそれを躱してしまう。
その上、エルカとも行動するようになった途端、「私は別の勇者隊の人たちにくっ付いていってもいいし、リベルはエルカといたら?」と告げるようになった。
これでヴィレイアが纏まった金を手にしてしまえば、ヴィレイアは万歳三唱、すぐさま彼女がかつて所属していたフロレアの勇者隊に連絡を取るだろう。
そして、光の速さでそちらへ戻るだろう――
――そうなると、礼として金を渡しただけで、ヴィレイアとの関係は終わってしまう。
それは避けたいという自分本位な足踏みで、リベルはまだ小切手を渡せていなかった。
「あー、まだヴィリーと一緒にいたいわけね」
したり顔でエルカが言って、ばしばしとリベルの背中を叩いた。
リベルは鬱陶しそうにその手を振り払う。
「別に妙な意味じゃないって……」
「ってかヴィリー、これまではおまえのこと独り占めに出来てたのに、おまえが俺にも構うから気ぃ遣ったり拗ねたりしてねぇ?」
「別に……なんか最近は前よりよそよそしいことも増えたけど」
「えっ、それって拗ねてんじゃん。悪いことしたかな」
「違うだろ、なんで拗ねるんだよ」
「はいはい、この唐変木。
――おっ、ヴィリー」
エルカが食堂の入口に目を向け、剣ダコの目立つ片手を挙げる。
ちょうど、ヴィレイアが食堂に入って来たところだった。
白百合の色の長い髪を背中に流したヴィレイアが、にこっと微笑んで手を振り返し、小走りにリベルとエルカに駆け寄って来る。
ひら、と閃く白百合色の髪。
身に纏うのは、彼女によく似合う深青色の外套――そのお値段で形成されつつあった彼女の貯金を吹き飛ばした逸品である。
季節が秋から冬へ動き始めている今、季節柄を考えた買い物といえなくもなかったが、動いた金額を聞いてリベルが表情を失くしたことはもはや言うまでもない。
「おはよう、リベル、エルカ」
元気よくヴィレイアが言って、ベンチのリベルの左隣に滑り込む。
その胸元で青い時精時計が弾む。その表面に浮かぶ数字は、「一〇三七」。
「ジョーゼル小父さまはまだ?」
「まだだな、今のところ」
リベルが応じて、少し曲がっていたヴィレイアの外套の襟を直してやった。
そばによると、今日のヴィレイアからは花のような香りがする。
――こいつはまた新しい香水だが髪油だかを買ったらしい、と、リベルは当たりをつけて苦笑した。
「昼メシ食った?」
「ううん、まだ」
ヴィレイアはふるふると首を振り、濃緑の瞳を少しばかり細めて、探るようにリベルを見た。
真っ白な長い睫毛に大きな双眸が煙る。
「――リベル、昨日、お客さん来てた?」
エルカが爆笑してテーブルに顔を伏せ、そんな彼を右腕で押し遣ってから、リベルは苦り切った表情とうんざりした語調で。
「なんで知ってんの?」
「近くを通ったときに、すごく気まずそうなあなたが、ものすごくしょんぼりした女の人を連れて出て来るのが見えたから」
首を傾げるヴィレイアに、リベルは溜息を吐いた。
「あれ、俺のお客さんじゃなくて、エルカのお客さんだよ。エルカに約束すっぽかされて、しかも教えられてた部屋がエルカの部屋じゃなくて俺の部屋だったってんで、マジでもう大変だった……」
「エルカの?」
ヴィレイアが濃緑の瞳をきょとんと見開く。
リベルは、自分越しにエルカを覗き込む彼女の肩をぐいっと掴み、元の位置に戻した。
「そう。ノックされるじゃん、ドア開けるじゃん、あっちも俺も同時に、『誰?』って。
まあ、そういうのももう六回目だったんだけど……すげぇ既視感だった……」
ヴィレイアが笑い出し、リベルは「ちょっとは同情しろよ」と言いつつ、話を元に戻した。
「昼、まだなんだよな? なんか頼む? 俺、奢るよ」
「ううん」
ヴィレイアが首を振り、その拍子に外套の上をさらさらと白百合色の艶やかな髪が滑った。
彼女は髪を耳に掛けながら、真面目に続けた。
「ジョーゼル小父さまが来るなら、何かいいものを奢ってくれるんじゃないかと思って」
「マジか、おまえ。たかる気なの?」
「え、俺もそのつもりだったんだけど」
「おまえもだいぶ肝が太いな……」
リベルが呆れたのも道理、「ジョーゼル小父さま」ことジョーゼル・バンクレットは、このケセルク共和国の議員、エメット・ヴァフェルムの側近の軍人である。
本来ならば、一介の勇者程度が対等に話せる相手ではない。
治癒精の一件の中で、リベルとエルカは念願の自由を手にしたが、彼らが対価として示したものがなかなかに扱いが際どい、爆弾としてすら作用するであろう事実であったがために、この二箇月というもの、あらゆる理由をつけて入れ替わり立ち代わり、軍人たちがリベルたちの様子を見に来ている。
ヴィレイアは当初、それに本気で腹を立てた様子だったが、リベルが宥めた。
――様子を見に来る程度で、介入はしてこないのだから御の字である。
そして今日は、バンクレットがそうした軍人の一人に伝言を預け、「三人と会いたいので予定を空けておくように」と依頼してきた日なのである。
ちらりと食堂の入口を窺ったが、バンクレットの姿はまだ見えない。
リベルはベンチの上で左側に身体を向け、努めてさり気ない態度で切り出した。
「――おまえ、最近、探索行ったの?」
「行ってないよ」
ヴィレイアがのほほんと笑って返す。
なんとなくリベルはほっとした。
「あ――そう。俺もしばらく行ってない。今度行こうぜ、金もそろそろないだろ」
ヴィレイアが分かりやすく眉尻を下げたので、リベルは笑ってしまった。
「ない……」
「だろうと思った。おまえ、ほんとに節制が出来ないよな」
ヴィレイアは片頬を膨らませた。
それからぷくっと息を抜き、上目遣いにリベルを窺う。
「探索、他の人とは……?」
「あのさあ」
リベルは右手で頬杖を突き、左手の親指に嵌めた指輪をアピールする。
「一応、おまえが俺の相棒なんだけど?」
ヴィレイアが瞬きし、彼女の右手の親指を、咄嗟のように左手の親指で撫でる。
――そこに、リベルと揃いの黒い指輪が嵌められている。
ヴィレイアの顔に、一瞬、見慣れない感情が浮かんだ。
――思い悩むような、苦しそうな、それでいて嬉しそうな――
だが直後には、彼女はぱっと明るく笑っている。
あの一瞬の表情は錯覚だったかと、リベルが思うほどに朗らかに。
「――だよね。そうだよね。リベルがあんまり私のお金の遣い方を叱ってくるものだから」
リベルはほっと息を抜いた。
最近は妙によそよそしいというか、距離を置きたがるような風情が見え隠れするヴィレイアが、気安く返答してくれたことへの安堵が湧き上がってきた。
――治癒精の一件が終わってからというもの、ヴィレイアの、リベルへの接し方には――なんというべきか――波が出来た。
以前までのように、嬉しそうに話し掛けてきて、親しみ深く接してくれることもあるかと思えば、唐突に距離を置いて、「探索は他の人と行ったら?」と勧めてきたり。
リベルとしては、二人の出会い方が出会い方だ、もしもヴィレイアが、「もう貸し借りはない」という気持ちで、リベルと組むことに消極的になっているのであれば、かなり寂しい。
(――こいつに限って、ないとは思うけど、『あれだけのことをしてやったのに、三等に上がる預託金も立て替えないのか』とか思われてたらどうしよう……)
何度かそんなことを考えた程度には、以前までの、あけっぴろげに懐いてくれていたときとの差が大きい。
とはいえ、小切手を渡した途端に離れて行かれては、それはそれで礼をし損ねた気分になりそうで小切手を渡せない、自分勝手なリベルの葛藤。
唯一相談できるエルカにヴィレイアの態度について相談してみても、先刻のように、「おまえを独り占め出来なくなって拗ねてんじゃないの?」という、斜め上の回答が返ってくるばかりで、リベルはかなり戸惑っていた。
「――いや、おまえの金遣いは荒すぎる」
そう言って、リベルは横目でエルカを見遣る。
「まあ、こっちに同じくらい酷い奴もいるから、俺がちょっとおかしいのかなと最近思い始めたんだけど……」
「けち」
エルカが笑いながら言って、ヴィレイアが噴き出す。
「そうだよ、けちだよ」
「そんなだから貯金できないんだ」
「違うの、貯金しようかなとは思ったの、でも見て、この素敵な外套」
「いや、似合ってはいるけどね……」
「でしょ!? お店に置いてあったんだけど、寸法もぴったりで、運命だなって……!」
「はいはい、分かった分かった」
「一度逃すともう捉まえられないのが運命なのよ」
「分かったって。じゃあ、引き続きおまえが散財できるように、探索行こうぜ。その感じだと、もう有り金がピンチなんだろ」
「……なんで分かるの?」
「顔見たら。なんだかんだで半年近い付き合いだぜ」
ヴィレイアが、ぺちり、と両手で顔を覆う。
リベルは小さく笑った。
「バンクレットさんの用にもよるだろうけど、出来るだけ早いとこ行こう。おまえが乾涸びたら大変だ」
ヴィレイアの表情が、ゆっくりと動いた。
曙光が差す東の空の色が移り変わるような具合に。
少しだけ眉を顰めた顔――それから、堪え切れない嬉しさが表情に拡がっていく。
そして、心からの、明るい朗らかな笑顔へ。
「うん、うんっ。
――エルカ?」
「俺は、手が空いてたら一緒に行くよ。
おまえらと違って単独探索も出来ちゃう身分だから、俺」
したり顔のエルカに、リベルは肩を竦める。
そのとき、声が掛かった。
「――楽しそうで何よりだ。
久しぶりだね、ヴィレイア。――リベル、エルカも」
胸元に幾つかの徽章が光る、山鳩色の軍服を纏った偉丈夫。
ヴィレイアがベンチの上でくるりと向きを変え、彼女のそばに立った、上背のある金髪の軍人を見上げた。
「ジョーゼル小父さま!」




