13 百戦錬磨
エルカはその場で凍りついていた。
彼はこう決めていた――追手が現れた場合は、まずは金髪の少女を人質にとる。
彼女を欠けさせるわけにはいかない相手の事情を盾にして、交戦することなくこの場を切り抜けようと。
だが、その全てが脳裏から吹き飛ぶ衝撃。
――リベル。リベルだ。
――傭兵団で生きる目的もなく、ただ欠けたくはないという一心のみで生き抜いていたときに、目の前に放り込まれてきた同い年の男の子。
――他の友人たちのようにすぐに欠落したりせず、生きてそばに残ってくれた相棒。
――それがゆえに、何を措いても守ってやった相棒。
――時おり小さく微笑むことで、あるいは声を上げて笑うことで、人間とはこういうものだということを、彼に忘れさせずにいてくれた相棒。
――十四歳のあのときまでは、およそ彼の生きる意味だったと言っても過言ではなかった、相棒。
――生きていたのか。どうしてここにいる。
――彼が前触れもなくいなくなったとき、エルカは裏切られたと強く感じた。彼はきっと、届くはずない自由への憧憬に負けて、自ら欠けるような真似をしたのだと思った。だが、どうやらそれは違ったらしい――リベルは商会により、〈言聞き〉へ誓約を立てさせられている身分だ。ならば商会の意思に逆らえるはずがない。唐突に姿を消したのは商会の命令だったのか。
――そしてまた、ここにいることも商会の意思か。
――だがどのみち、リベルが一言も告げずにエルカの前から消え失せたことは変わらない。
――エルカは今この瞬間も、商会の命令を忠実に守っている。にも関わらず、商会はリベルをここに向かわせたのか? なぜ?
――なぜ、商会の意思でここにいるはずのリベルが、「助けに来た」などという世迷い言を口走るのだ?
――どうして……
どうして、今さら、どの面を下げて。
「――助けに来た?」
エルカは呟いた。
「俺をか?」
驚くべきことに、リベルは頷いた。
その仕草は十四歳のときと変わっていなかった――
――そのことに、無性に腹が立つ。
「そうだ、エルカ。分かってる、おまえは……」
「俺をか? おまえが? 弱っちいおまえが?」
エルカは声を大きくした。
少女がそばで息を呑み、エルカの背中にしがみ付くようにするのを感じる。
――獅鷲がこちらに気づくことを恐れているのだ。
「エルカ、いいか、俺は――」
「おまえがぴんぴんしてここにいるってことは、おまえはまだ商会に捕まってるってことだな? なんで商会が俺に監視がいるって思ってるのかは知らねぇが、だったら助けるも何もねぇだろ。
それとも、何か? おまえが今いるところは、傭兵団よりは居心地がいい場所だってか?」
「違うよ」
リベルが硬い顔で、しかしはっきりと言った。
明りクラゲのランタンの光で見える、強張った顔つき。
「違う――商会は、俺が生きてることは知らない。――少なくとも今はまだ」
「は?」
エルカは心底面喰らい、しかしすぐに、わざとらしく笑ってみせた。
「は? 何それ。じゃ、おまえは何か? 〈言聞き〉の裏を掻くことが出来ましたなんて、そんなふざけた冗談を聞かせに来たのか?」
「エルカ、違う。いきなり消えて悪かった――俺は自由だ。助けに来たんだ」
エルカは堪え切れずに笑い出した。
本気の嘲笑だった。
「――そうか、おまえは自由か」
相手の冗談に合わせてやるようにそう言って、エルカは肩を竦める。
「けど、俺は自由じゃないぞ」
「だから――」
「俺を助けに来たって? どの面下げて?」
エルカは正面から、かつての相棒を見据えて首を傾げる。
「いいこと教えてやろうか。
――おまえが消えたあと、小隊長は誰に押しつけられたと思う?
俺だ」
叩きつけるように告げたが、エルカが予期したような衝撃は、リベルの瞳には走らなかった。
――そのことが、よりいっそう許し難い。
(おまえ――おまえは、自分が消えたら、次に誓約を押しつけられるのは俺だって分かってたのか)
エルカは一歩下がった。
もう自分の表情を自覚できていなかったが、どうやら俺は笑っているらしいぞ、と、彼の表情を見たリベルの表情を見て察する。
エルカの動きに合わせて、少女も震えながら動く。
頻りに背後を――背後の獅鷲を気にしている。
だが、獅鷲はまだ、リベルにもその連れにも見えていないはずだ。
エルカは眩暈を覚えていた。
声が震えようとするのを叱咤する。
喉元に、吐き出せば怒鳴り声や呪詛になりそうな熱い塊が込み上げてきていて、それを必死に呑み下しながら、冷静さを張りつけた言葉を並べてのける。
「おまえが、仮に――本当に、自由になったんだとしてもだ。
――俺にとってはそのお代は高くついたな。
おまえの自由と引き換えに、こっちは〈言聞き〉に誓約させられた。逃げたりしません、商会の意思に背いたりしません、もしそんなことをしようとしている奴がいれば、そいつを欠けさせます――ってな。
実際、おまえも知ってるポルとエレノは俺が欠けさせたぞ。今ごろどっかの陸艇で部品として使われてる」
リベルの表情が動いた。彼が息を吸い込んだ。
リベルの隣にいる白百合の髪の少女が、案じるようにリベルとエルカを交互に見ていて、その仕草にすらエルカは苛立つ。
何かを言おうとしたリベルの機先を叩き折るようにして、エルカは激しい語調で続ける。
「おまえが本当に自由だっていうなら、俺が、それを許せなく思う気持ちも分かってくれるよな? なあ、リベル?」
「――――」
「ついでに、俺としちゃ思うんだが――」
エルカは更に一歩を下がり、背後に広がる天然の大広間と自分の立ち位置を、正確に脳裏に思い描いた。
ちらりと右に視線を流す。
――そこに、金髪の少女の上着を被せたままのランタンがある。
――光源は、リベルが震える手に持つランタンと、背後から差し込むカガヨゴケの光。
エルカは右手でベルトを探る。
短銃の銃把に手が触れる。
――硬いその感触を、ぎゅっと握り締める。
「おまえが本当に自由なら、――俺は商会の連中から、誰にも姿を見られるなって命令されてるもんでね。
――こうしなきゃな」
そして、エルカは素早い動きで短銃を抜き、ぴたりとリベルの胸に狙いをつけた。
そして、微塵の逡巡もなく引き金を引いた。
――坑道に轟く銃声。
金髪の少女が悲鳴を上げる。
リベルは白百合の髪の少女を突き飛ばすようにして横っ飛びに銃弾を躱した。その肩を危ういところで銃弾が掠める。
リベルの衣服が裂けたが血は出ていない。
――銃声の木霊が消えていく。
そのとき、本気の驚愕、戦慄と紛うほどの驚倒がエルカを襲っていた。
――リベルが商会の指揮下で動いているのであれば、この行為は商会の意図に逆らうものであり、エルカは〈言聞き〉への誓約に背いたことになっていたはずだ。
ゆえに、エルカは己が、人生全てが焼き尽くされる苦痛に苛まれることを、半ば以上は覚悟していたのだ。
――それがなかった。エルカの行為は真っ当なものとして、誓約に許された。
ならば、
「――ははっ」
笑いが漏れる。
「嘘だろ……」
暗がりの向こうに見える、リベルの朱色の瞳。
「――おまえ、マジで自由になったのかよ」
*◇*◇*
エルカの銃弾から庇って突き飛ばした場所で、ヴィレイアが見事に尻餅をついている。
――本当に、己の法気に甘えるばかりで身体を鍛えることをしない少女である。
ぺたん、と体勢を崩したまま、盛んに濃緑の瞳を瞬かせるヴィレイア。
「――え、あの、落ち着いて話を……」
「出来ないだろうな」
リベルは押し殺した声で囁いた。
「落ち着いて話をした途端、エルカが〈言聞き〉の誓約でやられる」
「うわぁ」
ヴィレイアが、よたよたと立ち上がって両手を払い、右手を半端な高さに持ち上げた。
「――じゃあ、物理的に動けなくする?」
その仕草から、彼女が影兵霊を呼ぼうとしていることは分かった。
――リベルは言葉を詰め、そしてその理由は、およそヴィレイアが思う理由とは違うものだっただろうが、すぐに言った。
「……無駄になるかも知れないけど、頼む」
無駄に? と、訝しそうに繰り返しながらも、ヴィレイアが地底から不吉なものを招く仕草を取る。
繊細に閃く白い指先に招かれて、地獄の底から名の知られる、強大な霊が姿を現す。
「――影兵霊」
僅か数時間前、アインヴェルにおいて、影兵霊が欠落に追いやった傭兵たちは数知れない。
影の形をした兵士を一人と数えるならば、その一人一人は儚いものであっても、斬ろうが撃とうが尽きることなく溢れ出てくる影の兵士を、人の身で捌くには無理があるのだ。
次々に影の中から這い出す古代の姿の兵士たちに、さすがのエルカも驚いたようだった。
だがそれ以上に、エルカの背後にいる金髪の少女――十中八九、彼女こそが件の法術師だろう――の驚きが濃い。
茫然と唇を開け、絶句して影兵霊を見る少女の表情に戦慄が昇る。
「影兵霊……?」
少女がわななく声で呟く。
――影兵霊を知らない法術師はいない、そして影兵霊が、おいそれとは契約を交わすことの出来ない霊であることを知らない者も。
そしてエルカもまた、影兵霊の名前を聞いたことはあるはずだ。
だが、目の当たりにするのは初めてだろう――強い霊である、ということしか知らないだろう。
無数の影の兵士たちが、それぞれに影の剣を抜いた。
エルカが短く息を吸い込む、その微かな音をリベルは聞いた――いや、聞こえたはずもなかったから、それは記憶だったのかも知れない。
息を短く吸い込む音。合図。
生存を勝ち取るためにエルカが全力を尽くす、その号令。
――エルカが、たとえ、本心ではリベルと話をしてもいいと思っていたとしても、それは出来ない。
動ける限りにおいて、エルカは敵対者に抗わなければならない。
〈言聞き〉の神秘の瞳は誓約を通して今も彼を見ていて、彼の行いが誓約に反するものであるかどうかを、彼の認識如何に関わらず、冷徹に判断する。
ゆえに。
リベルが本当にエルカを助けるべく行動を起こすつもりならば、それはエルカの敗北の上にあってこその行動となる。
だが、リベルはまだ動けない――文字通りに蠢く影兵霊が、雪崩を打ってエルカに襲い掛かっている以上は。
瞬き一つのうちに、エルカは先頭の影兵霊から飛び退っている。
金髪の少女がしゃがみ込んで悲鳴を上げる――しかしヴィレイアには、彼女を傷つける命令を下す意図はない。
影兵霊が影の手を伸ばす。
影の剣を振り上げる。
全てエルカに向かって。
瞬き一つのうちに、エルカは影兵霊の先頭の数人を銃弾で撃ち、雲散霧消させている――だが影兵霊は無限に吐き出され、影の中から這い出してくる。
エルカは顔色も変えない。
淡々とした手つき、余裕のある、踊るような足取りで身体を運びながら、冷静に引き金を引き続け――
そして、エルカがリベルを見た。
瞬間、リベルは、彼が助けを求めているのかと、お門違いも甚だしいことを考え――
――ぱん。
銃声。
エルカが構えた短銃の銃口に火花を見た瞬間には、数多の影兵霊の合間と頭上を越え、その一筋しか有り得ない、絶妙な弾道を見事に辿った弾丸が、過たずにリベルが掲げ持つランタンを撃ち抜いていた。
がしゃん、と、割れ砕けて落ちるランタン。
リベルの手に痺れが走る。
砕けた硝子から、ふよふよと明りクラゲが漂い出て――
リベルが何を考えるよりも早く、ぱん、ぱん、と、淡々とした銃声が、しかし絶え間なく空気を抉って、
「え、うそ」
ヴィレイアの狼狽した囁き声。
数多の影兵霊に組み付かれ、今しも飛び退り、身を捻ってそれを避け、そちらへも発砲しながら、なぜそうも正確に狙いをつけられるのか――
エルカの撃った銃弾が、小さな明りクラゲを正確に狙い撃った。
外した弾は僅かに一発、明りクラゲが残り一匹となったときだった。
辺りが暗くなる。
だがエルカの背後、坑道が大きく広がる先から、青白い光がなおも差しており――
エルカが左手の指を鳴らした。
それが合図だった。
めりめりと凄まじい音がして、エルカの背後――坑道が広がり、天然の大広間じみた空間が形成されている、その奥――から差し込んでいた、ほの明るい青い光が途絶した。
――カガヨゴケだ。
リベルはそう気づく。
カガヨゴケがこの奥で群生していて、エルカがそれを魔法を使った力技で岩壁から引き剥がしたのだ。
エルカの心袋は平均に比べればかなり大きい部類だが、それでもリベルには遠く及ばない。
カガヨゴケがどれだけの規模で群生していたのかは知らないが、それでも、それらを毟り取るに値する事象を心袋に放り込んだ以上、エルカはもうしばらく他の魔法は使えるまい。
鉱路が闇に包まれる。
天然の大広間の奥から、低く唸る人外の声が聞こえ――
――同瞬、影兵霊の気配が消えた。
蠢いていたささやかな気配、ヴィレイアの命令ひとつで万にも及ぶ軍勢を作ることが出来るはずの精霊の、ひそやかな気配が完全に途絶えた。
「……ヴィリー?」
思わず囁く。
さすがにこうも真っ暗になっては、リベルにも何も見えない。
動くに動けず、リベルは覚えず息を潜める。
どこか近くで、件の法術師であろう少女が啜り泣く声が聞こえている。
そしてヴィレイアの、苦り切った声。
「――影兵霊って、完全な真っ暗闇とか、影も落ちない明るさの中だと、顕現してくれないんだよね……」
ぼやくように。
「こんなに短時間で気づかれたのは初めて」
リベルは耳を疑った。
第一に、伝説的な精霊にそんな弱点があったことに。
第二に、
「おい、そんなの聞かされてないぞ」
「あなたが常々、私に剣術だの鉱路のことだのを勉強しろって言うように、あなたが精霊についてお勉強していれば、とうに知ってたことだと思いますけど?」
「精霊のことを詳しく教えてもらうなんて無理だろ、法術師は最初から知ってんだから。おまえ、俺にはそういうことを言っとけよ」
「なんで私の切り札の弱点を教えないといけないのよ」
「同じ隊だろ」
「ちょっとの間だけね。最初からそう言ってたじゃない」
ひそめた声での早口の遣り取りの、その最後の一言に、リベルは自覚する以上に傷ついた。
――三年を共に過ごしたアガサたちの隊ともしなかったことに、リベルは彼の過去をヴィレイアと共有した。
それだけ信頼している。
にも関わらず素気ない言葉を向けられたことに、こんな場合であっても、寂寥に近い気持ちが込み上げてきたのだ。
リベルが言葉に詰まる間に、ヴィレイアはいつもの、あの指を振る仕草を取ったようだった。
「――契約、影、陽精……あぁ、駄目か」
呟き、ヴィレイアが苦笑する気配。
「この奥に大きい鉱路生物がいるみたい。そのせいで、影契約は上手く働かない」
リベルは息を吸い込んで、気持ちを切り替えた。
「――そりゃ、大変」
「と、思うでしょう? でも大丈夫」
ヴィレイアが、天然の大広間に足を踏み入れながら得意げに囁いて、そして視界に暖色の光が溢れる。
彼女が腰の〈焔王牙〉を抜いたのだ。
陽炎揺らめく薔薇色の刀身が、それ自体が巨大な灯のように、温かな光で坑道を照らし出す。
真下から照らされたヴィレイアの、生命そのもののような濃緑の瞳が生き生きと煌めく。
再び生まれた影の中から、次々に影兵霊が這い出す。
「私がなんのために〈焔王牙〉を鍛えてもらったと思う?
いつなんどきも光源に困らないようにするためよ」
「――ま、光が生命線になるならそうだよな」
リベルにとっては聞き慣れた声がした。
「けど俺も、無策で辺りを真っ暗にするわけがないと思わねぇ?」
直後、いつの間にそこまで距離を開けていたのか――天然の大広間の奥まで下がっていたエルカが、獅鷲の巣に向けて、迷うことなく、立て続けに発砲していた。
弾が尽きたらしい、エルカが短銃を足許に投げ捨てる。
その硬い武器が地面に落ちる硬質な音――
――それを掻き消すかの如くに上がる咆哮。
微睡んでいた番の獅鷲が、彼らの時間に邪魔が入ったことに腹を立てている。
そして、そこにいるのが、竜の眷属――彼らにとっての、最上級の贅沢な食事であることに気づいた。
ばさり、と、二頭の獅鷲がそれぞれ翼を広げる。
淡褐色の翼――差し渡し十フィート以上。
紅い瞳を光らせて、咆哮した獅鷲が巣から翼を羽搏かせて舞い上がる。
「獅鷲――」
ヴィレイアが息を吸い込む。
亜竜には及ばないが、面倒な鉱路生物の一種だ。
「おまえが相手しろ」
リベルは言いながら、〈氷王牢〉を抜いて、足を踏み出す。
「俺がエルカをなんとかするから。――絶対、その子に怪我させるなよ」
その子、と言いながら〈氷王牢〉で金髪の少女を示し、少女がぶるぶると震えるのを見て、直後にはたと気づいて切先を下ろしつつ、リベルはなんとか冗談めかせて。
「何しろ、大事な治癒精を人質に抱えてんだから、その子」
ヴィレイアは頷きながらも、気遣うようにリベルを見ている。
「影兵霊なら、獅鷲の相手をしてこの子を守りながらでも、あなたの相棒を物量でなんとかすることも出来るけど――」
「駄目だよ」
リベルは穏やかに、しかし断固として応じた。
「さっき、あいつが余裕綽々だったの見てなかった? 物量で押すにしても時間が掛かり過ぎて、バンクレットさんたちが来ちゃうだろ」
もちろん、ヴィレイアがエルカを欠落させるつもりならば、時間がかかるはずがない。
エルカが如何に腕利きとはいえ所詮は人間が一人。
万にも及ぶ軍勢を相手に長時間抗えるはずもない。
だが違うのだ、リベルはエルカを欠けさせたいのではないのだ。
彼を、出来るならば。
「――俺がやるよ」
リベルの朱色の瞳を、ヴィレイアは二秒ほど見つめた。
彼女も何か思うところがあったようだった。
だが長くは逡巡せず、ヴィレイアは肩を竦めて、頷いた。
「了解」




