01 軍人おでまし
「だからさあ!」
リベルは頭を抱えて呻いた。
「ヴィリーおまえ、なんでそう、要らないものにひょいひょい金を遣うわけ!?」
理解に苦しむといった様子の朱色の瞳を向けた先では、彼の相棒が罪のない様子で濃緑の瞳を瞬かせ、可憐な顔貌にとぼけた表情を浮かべている。
「要らなくないもん」
「普通に暮らせば五日分の食費相当の豪勢な晩飯を食うことの、何が必要!?」
「美味しかったもの。五日分相当、私は満足したわ」
「じゃあ五日間メシを抜けるのかよ!」
「抜かないよ。怒らないでよ。――ねえ、リベルは稼いだお金を殆ど全部貯めてるけど、何に使うの? 使いたいときに使わなきゃ、楽しまなきゃ。明日にはどうなってるか分からない人生だよ?」
「……一応、人生は続いていくって考えるのが賢明だろ」
「今なら楽しめることが、明日には楽しくなくなってるかも知れないもん。
別に迷惑はかけてないでしょう、隊のお金を遣ったわけでもないし……」
「おまえ俺に借金してんの忘れた? フロレアまでの旅費と帰りの分と、こないだおまえに見つけてやった部屋の契約金!」
「――忘れてませんとも」
「目ぇ逸らしただろこら。
剣術も勉強しろっつってんのにつまんないとか言いやがってこの……」
言い争う二人に、「またやってる……」と言わんばかりの顰蹙の、あるいは微笑ましい瞳を向ける他の勇者たち。
ここはエーデルの勇者組合の食堂。
朝食どきの最も混雑する時間帯に、隣り合って座る若い勇者の二人が言い争っている様は、最近よく見られる光景となっていた。
片や、赤錆色の短髪に朱色の瞳、ほっそりとした体躯ながらも鍛えていることが分かる身体つきの青年。
片や、白百合の長い髪に濃緑の瞳、可憐な顔立ちに触れなば折れんたおやかさの少女。
二人は揃いの漆黒の色合いの指輪を着けている――青年は左手親指に、少女は右手親指に。
二人が二人して四等勇者であって、そして二人が二人して業物と分かる剣を携えているので、一度目を惹いてしまえば目立つことこの上ない。
元気にやいやい文句をつけている青年が、他から話し掛けられれば途端に人見知りを発揮して、借りてきた猫の如くに大人しく礼儀正しくなることも相俟って、一部の歴戦の勇者からは完全に面白がられていた。
ああもう、と、苛立たしげに顔を顰めてそっぽを向いたリベルが、左手でコップを掴んで持ち上げ、その肘が左側にいるヴィレイアに直撃する。
ヴィレイアはやんわりと掌で防御して、殊勝な表情で言い出した。
「――リベル、本当の本気であなたに感謝してるのよ。忘れたりなんてするはずないでしょ」
「いやさすがに、毎日感謝されてるんだから、おまえが忘れてるとは思わないけどね。
俺が今問題にしてんのは金勘定のことなんだよ。あとおまえの怠け癖」
疲れたようにリベルは呟く。
――亜竜の一件があり、ヴィレイアのリベルへの感謝は枯れ果てることを知らないようだ。
リベルが嘆いた金遣いの荒さには、東方の特別な山羊の乳からしか作れないとかなんとかのチーズを使った高級な甘味を、ヴィレイアが勢いで大量に購入したことも含まれるが、ヴィレイアは頓着なく――というか健気さと甲斐甲斐しさまで感じさせるような純真無垢さで、「お礼だから」と、リベルに好きなだけそれを食べさせてくれた。
とはいえリベルは、必要最低限の食事を摂ることしか普段はしないので、ぜひ食べてと念を押されてもなお、怖々と手を出すことしか出来なかったが。
――亜竜の一件から、およそ二箇月。
二人して真面目に鉱路探索をこなしているのだから、本当ならばもうとっくに、三等へ上がるための預託金に充てる程度の金は溜まっているはずだったが。
ヴィレイアはその浪費癖が祟って、未だに碌な貯金もなく、彼女の以前の仲間への一報を入れられずにいた。
リベルに叱られて、ぶすぅ、と拗ねた顔のヴィレイアが、行儀悪くもテーブルに片頬を載せる。
テーブルを滑って流れ落ちる白百合の色合いの艶やかな髪、いつもは鳩尾に下がっていて、今はその姿勢の拍子にテーブルに乗った形になった、青玉の色合いの時精時計。
その時精時計には数字が浮かんでいる。今は「一一〇六」。
そのとき、食堂の入口側で騒ぎが起こった。
リベルはそちらを向いたが、もう慣れたのかヴィレイアはそちらを一瞥もしない。
ただ嫌そうに眉間に皺を寄せて、「最近多いね」と零すのみ。
揉め事から聞き取ることの出来る罵声の言葉は、ここ最近こうして揉め事が起こる度に聞くものと大差ない。
「おまえが真面目にやらないから!」
「だから、探索に入る前から治癒精が使えねぇって言ってただろうが!」
――揉め事は、組合だけではなく、驚くべきことに鉱路においても起こっている。
鉱路での仲間割れは欠落への最短経路だというのに、それすら頭から吹き飛ばしたらしい危険な勇者隊から、二人して回れ右して距離を置いた回数は知れない。
あるいは町中ですら、治癒精に関する何かを訴えようとした挙句に、衛卒から袋叩きにされている人を見かけることすらある。
袋叩きにされた連中にとっては不幸なことに、最近になってエーデルの町の療院は、その悉くがドアに閂を掛けて休業していた。
リベルが見かけた勇者隊の揉め事は、大概が「治癒精と契約しているはずの法術師が懈怠した」という内容で起こっているが、リベルとヴィレイアが探索に入るときは、二人して無傷――あるいは、ただでさえ「影兵霊」が法気を占拠して余裕のないヴィレイアに治癒精との影契約を結ばせるまでもなく、リベルの魔法で治癒を速められる程度の軽傷で済むことばかりで、果たして法術師の懈怠なのか治癒精の不調か、それはリベルにもヴィレイアにも分からなかった。
最近では組合も、法術師たちからの申告を受け容れ、〈フィード〉に、「治癒精不調?」との注意喚起が貼り付けられている。
厄介事からは距離を置くに限る。食堂の入口で揉め事が勃発している以上は、しばらくここから動けない。
リベルがそう判断し、食べ終えた朝食の皿を三インチほど向こうに押し遣って頬杖を突き、暇潰しに鼻唄を歌い始めたヴィレイアに苦笑したときだった。
「――失礼」
耳に心地よいバリトンの声、ただし有無を言わせぬ断固たる声音が、食堂の入口の向こうで発せられ、にも関わらず食堂の中にまで響いた。
決して大声だったわけではない――よく透る声だったのだ。
言い争っていた声が、しばし止まる。
そしてすぐに、言い争っていたはずの二人が一致協力して、言い争いを続けるために、新たな闖入者に向き直る気配。
「なんだぁ?」と、相当に剣呑な声がする。
「失礼、ここを通りたい」
バリトンの声の主は、むしろ面喰らったようだった。
勇者組合は、身分を証すものである旅券なしに加入できる数少ない組合のうち一つだ。
ゆえに勇者には脛に傷持つ者も多く、気性の荒い者も多いのだが、まるでそれを知らないのだと言わんばかりの、真面目にたじろいだ声だった。
「通りたいだけなのだが――」
続いて、二人の勇者の聞き取りづらい罵声。
もとより気が立っていたこともあり、バリトンの声の主のたじろぎは、火に油を注ぐ結果となったようだ。
怒鳴り声――騒音――床が揺れる。
どたんっ! と、人体が床に叩きつけられる音が二度に亘って響き、「おお」と感心したような声が、食堂の入口付近から上がる。
リベルが伸び上がって窺ったところ、言い争っていた二人の勇者が、ものの見事に伸されて目を回し、床に転がったようだ。
バリトンの声の主だろう男性が、ぱんぱん、と掌と衣服を叩き、冷めた目でそれを見下ろしている。
「彼我の実力差は初見で弁えなさい」
厳めしくそう言う、彼の衣服――
「――軍人だ」
リベルは思わず、左隣のヴィレイアに囁いた。
ヴィレイアが鼻唄をぴたりと止めて、眉間に皺を寄せる。
彼女も顔を上げた。
とはいえ、よく見えなかったらしい。
「衛卒?」
「いや、軍人」
町中で暴力を振るうのが仕事である衛卒も、広義にいえば軍人だが、大抵の場合が「軍人」といえば、共和国軍に属し活動する者を指す。
衛卒の指揮権限は少し異なっている。
泰然と立つバリトンの声の主が纏っているのは、間違いなく軍服だった。
山鳩色の軍服の胸に、勲章や徽章が光っている。
暑さも盛りを過ぎたが、しかしあの格好ではなお暑いだろうと、リベルは他人事として思った。
足許は半長靴、軍服と同色の軍帽を被り、腰の帯には短銃と片手剣。
「私、軍人って嫌いなの」
ヴィレイアが呟いた。
リベルはそっと、左肘で彼女を押す。
――共和国とはいえ、政治を握っているのは軍部と各組合だ。
軍部に喧嘩を売るような言動は控えて然るべき。
軍人は、ゆっくりと食堂の中を見渡した。
無法者揃いの勇者たちとはいえ、本職の軍人を前にして、思わず雑談も途絶える。
静まり返った食堂を、特に異様とも思わないのか、軍人はひとつ頷くと、かつかつと靴音を立てて歩みを始めた。
食堂内の殆ど全ての瞳がその動きを追う。
リベルも覚えず軍人を目で追ったが、ヴィレイアは「嫌い」と言い放った言動に違わず、退屈そうに鼻唄を歌っている。
が、こともあろうに軍人は、迷いなくテーブルの端に座るヴィレイアのそばに立った。
リベルは内心で蒼くなる。
ここで軍人が己のそばに立っていたならば、ヴィレイアを一顧だにせずに逃げ出していた自信が彼にはあった。
とはいえ相棒のそばに軍人が立っている状況も遺憾なものだ。
おまえは何かしたのか、と、ヴィレイアの肩を掴んで揺さぶりたくなるほどだ。
先般の〈鉱路洪水〉については、もう罰はないはずだよな――と、頭の中をひっくり返し始めるリベルを他所に、当のヴィレイアは胡乱げに顔を上げている。
「――はい?」
軍人は首を傾げた。
帽子から覗く髪は金色、瞳は金褐色。
鷹を思わせる風貌に、目許に残る古傷の痕。
そして、彼は尋ねた。
「――ヴィレイア・ラテンザ?」
ヴィレイアの顔が、さっと強張った。
一方リベルは、ヴィレイアの姓さえ初耳だ。
二百年前、人が死ななくなったとき、欠落税を徴し漏れることのないよう、成立したばかりだった共和国は戸籍を設け、全国民に姓を名乗らせた。
とはいえリベルに姓はない――正確には、知らない。
それなりに仲良くやっているつもりだし、いつもうるさいくらいに話し掛けてくるので、ヴィレイアからも懐かれていると思っていたのだが、本名を名乗ってもくれないほどだったとは、と、若干寂しくなるリベル。
ところが、ヴィレイアは予期せぬ返答を投げた。
「知らない名前ですね。ラテンザって誰ですか」
軍人は金褐色の瞳を瞬かせ、少し考えた。
そして、慎重に尋ねた。
「――法術の天才のヴィレイアとは、きみのことか?」
「ああ、それなら私のことですね」
臆面もなく胸を張るヴィレイア。
確かに彼女は天才だ――リベルとは真逆。
リベルが努力の末に特等勇者に相応しい実力を手に入れたのに比して、ヴィレイアの実力は天賦のもの以外の何ものでもない。
軍人は、ほっとしたように頬を緩めた。
そして、ごく自然な仕草でヴィレイアの目の前、テーブルに掌を突いた。
「良かった。――私の主人がきみに会いたがっている。一緒に来てもらいたい」
「嫌です」
きっぱり答えるヴィレイアに、リベルは思わず顔を覆う。
軍人は眉を寄せ、反射のように右手を短銃の銃把に掛け――途端に気色ばんだリベルの顔を見て、はっとしたようにその手を肩の高さに挙げた。
そして、困ったようにヴィレイアを見下ろす。
「お連れするよう言われているのだ」
ヴィレイアはつんとして答えた。
「知ったことじゃありませんね」
「なぜ嫌がる」
「私の自由です」
軍人は少し黙った。
そして、おずおずと――どうせ駄目だろうが、といった様子で、自信もなさそうに申し出た。
「主人は、来ていただければ謝礼も出すと」
「あ、行きます」
ヴィレイアが即答し、リベルは「だと思ったよ」とぼやいた。




