09 遅きに失し
フロレアの町は惨憺たる有様だった。
リベルたちが乗った陸艇が、その大きな町の上空に達したのは、出発した翌日の朝方。
今しも山脈から曙光が漏れ、白い光の筋を、その町に投げかけたときだった。
湖を抱き込んで広大に広がる町は、常であれば豊かさを余すところなく示していたのだろうが、今となってはもう違った。
上空から見れば一目瞭然――町の中心部から東側が、巨大な擂り粉木で擂り潰されたかの如く、粉々になった建物の残骸で埋まっている。
〈鉱路洪水〉がどこで発生したのかが一目で分かる光景だ。
その中心点から、趣味の悪い階調をつけるようにして、徐々に形を保つ建物が見付かる光景へと転じていく。
リベルが丸窓から息を呑んでそれを見ていると、隣のヴィレイアが身を寄せてきた。
頬が強張り、薄らと眉間に皺が寄っている。
陸艇ではとても眠れなかったのか、目の下には薄らと隈が浮かび、疲れた顔をしている。
「――真ん中が、勇者組合のあったところ」
息がかかるほどの間近で、ヴィレイアがリベルに囁いた。
「ちょうど組合を出たところで発症したんです――私たちのうちの誰かが」
ヴィレイアの声が苦しそうにかすれた。
「お昼にダミドリのソテーを食べる話をしていたところだったんですが」
そのときふと、リベルは初めて思い至った――この子は、恐らくは才覚のみで特等勇者にまで昇り詰めたのだ。
この性格からして、複数の勇者隊が共同して鉱路生物と戦う大規模探索の指揮も執ったことがあるまい。
つまり、特等勇者の自覚も薄く――努力せずとも手が届く範囲にある成果を捥いでいたところに、唐突に〈鉱路洪水〉が発生したのだ。
そして、周囲の人々から一斉に助けを求められた。
そのとき、恐らくは生まれて初めてだったのかも知れない、事態が手に余るという経験をしたのだ。
――天真爛漫に遊ぶだけで周囲の大人から褒め称えられていた少女が、だったらこれも持てるでしょう、と言われて、突然重い荷物を両手と頭の上に載せられる様を連想する。
持ち切れずに地面に散らばった荷物を見て途方に暮れる少女を、その荷物を取り落としたことを責める周囲の大人を。
これまでは完全に他人の領分だった――守ってやる必要すらなかった周囲一帯の人々の命を唐突に預けられ、そのときのヴィレイアがどれだけ竦んだか、それはリベルの想像の埒外だった。
その挫折、その恐慌から、立ち直っているように見えて立ち直ってはいない。
昨日のリベルは彼女の人格を疑ったが、衝撃と恐慌が大きかっただろうことを思えば。
そして、極論を言えば彼女は、自分が感染していた場合にのみ、転移してくるだろう〈鉱路洪水〉の残滓の亜竜に対処することを心に決め、仲間の誰かが感染者だったのであれば、それを自業自得と切り捨てて、知らぬ顔をすることも出来たはずだ。
――だがそれでも、耳を塞いで全てを忘れ切ることは出来ずに、仲間へ警告に動こうとしているのは、彼女に少なくとも良心が根差していることの証左だ。
不意に憐れを催して、リベルは呟いた。
「――おまえじゃなかったんなら、いいな」
とはいえ、感情表現が不器用なところもある彼のことだから、その言葉は誤解とともに伝わったらしい。
ヴィレイアはちょっと身を引いた。
「――そりゃ、ここにいきなり亜竜が現れたら困りますもんね」
あ、いや、とリベルは言葉を継ごうとしたが、そのときにはもう、ヴィレイアは座席の上で小さくなって、俯いてしまっていた。
――陸艇が恙なく着陸のために帆を動かし、軋むような音とともに、ゆっくりと高度が下がっていった。
町の惨状を見れば、陸艇が当初の予定どおりにフロレアに降りるのが奇跡に思えるが、どうやら陸艇にはフロレア宛ての物資も積み込まれていたようだ。
それらを淡々と下ろしていく欠け人たちが、着陸した陸艇の後方に群がっている。
駅でもない、ただの広場で陸艇から下りた人々は、思い思いに身体を伸ばしている(言うまでもないが、駅は粉々になっているのだ)。
リベルもその例に漏れず、思い切り伸びをして背筋と腕を伸ばしてから、伸びをするどころではない様子のヴィレイアをちらりと見た。
「――で、心当たりはある?」
ヴィレイアは鳩尾に垂れる時精時計を、両手で不安そうに弄っている。
時精時計に浮かぶ数字は、また変わっていた。「一一七〇」。
しばらくそうしていたが、やがて腰から下げた〈焔王牙〉に右手を置いて深呼吸してから、彼女は答えた。
「分かりませんが、まだ救いようがある建物の修繕を手伝っているかも。メメットは――仲間の一人は、腕のいい魔法使いです」
「心当たりを捜してくれ。ついて行くよ」
「ここまでつれて来てもらえたのは本当にありがたいんですけど、仲間に会えるかは本当に分かりません。
――私には運がないので」
皮肉っぽく最後の言葉をつけ加えてから、ヴィレイアは外套のフードを下ろし、慎重に歩き出した。
*◇*◇*
東の空は澄み切って晴れ渡っていたが、天頂から西にかけては雲に覆われていた。
曙光が雲の底面を白く輝かせて、まるで巨大な柔らかい真珠が頭上高くに粒を揃えて浮かんでいるかのよう。
曙光が射してから、辺りの気温は夏らしく上昇の一途を辿っていた。
歩き回るリベルの首筋には汗が伝う。
更にいえば空腹でもあり、そのうち彼は空腹に負けて、そばの露店へ駆け寄り、軽食と果実水を買い込んだ。
いちおう二人分を買い込み、一人分を「いる?」とヴィレイアに向けたものの、ヴィレイアは元気のない様子で果実水だけをありがたそうに受け取り、ちびちびと飲んだのみだった。
辺りには、全壊を免れてはいるものの、巨大な何かが激突したかのような大穴が開いていたり、半壊した建物が立ち並んでいる。
足許には瓦礫が散乱し、砕けた建物の砂礫が散らばって、靴の下でじゃりじゃりと嫌な音を立てていた。
健気に露店を開く人々がいて、瓦礫を撤去しようとしている有志の人々がいて、ここぞとばかりに火事場泥棒に入った者がいて、その者を現場から引きずりだし、殴る蹴るの暴行を加えている衛卒がいる。
盗人の悲鳴と衛卒の怒鳴り声、衛卒を止めるに止められずに遠巻きにする人々の囁き声と、瓦礫を撤去する順番で揉める声――
ヴィレイアは白い外套のフードを、リベルと初めて会った日のように下ろしていた。
そのために熱が籠もるのか、顔が赤くなり汗が浮いているが、顔を隠したい気持ちは分かる――彼女を覚えている人間に見つかれば、それなりの騒ぎになることが予想されるのだ。
二時間ほど成果もなく靴底を擦り減らし、汗を掻き、リベルが「ここは外れなんじゃないか、他の町に向かった方がいいんじゃないか」と懐疑的に考え始めたときだった。
ぴた、と、ヴィレイアの足が止まる。
二歩ほど先に進んでしまってからリベルは振り返り、ヴィレイアの、フードの下の顔貌いっぱいに、何とも言えぬ――安堵と、ばつの悪さと、罪悪感と、隠しきれない喜びと、懐かしさ――そういった感情全てが綯交ぜになった表情が浮かぶのを見た。
リベルはほっとした。
――尋ねるまでもなく、彼女の仲間たちが見えたのだと分かったのだ。
(先天の加護持ち――)
よくぞ広い世界で当たりの都市を言い当て、その広い都市で捜し人に巡り会えたものだ。
(――やっぱり運はいいんじゃないか)
あとは、事情を説明し、仮に亜竜が出現したとしても被害を抑えられる場所(出来れば無人の荒野など)にヴィレイアの勇者隊を移動させ、亜竜の出現に備えれば、一件落着だ。
いつ爆発するか分からない爆弾を抱えているような危機感からは逃れられる。
行ってこい、と、顎でヴィレイアに合図する。
ヴィレイアはリベルを見て、濃緑の瞳を零れそうに見開いてから、息を吸い込んだ。
そして歩き出したが、右手と右脚が同時に前に出ていた。
リベルはその後ろ姿から目を逸らした。
この後、ヴィレイアと仲間たちは感動の再会を果たし、ヴィレイアからの警告を仲間たちは真剣に聞くだろう。
人気のない場所への移動が必要なことも、勇者ならば分かるはずだ。
リベルとしては、勇者隊が移動するタイミングでここから去るつもりだった。
亜竜一頭ならばヴィレイアを含む勇者隊での対応が可能だろうし、そろそろ彼の人見知りが顔を出しそうになっているということもある。
そう思い、為す術もなく亜竜の出現を見守る、最悪の展開だけは免れた――と、額の汗を拭った、そのとき。
「――ヴィリー、どの面下げてここにいる?」
剣呑な――リベルが想定していなかった声音の、抑えた怒声が辛うじて耳に届き、リベルは慌ててヴィレイアの方を振り返った。
復興作業に勤しむ人々、それらを監視する衛卒、その人波とざわめきを通して、ヴィレイアが四人の勇者の前に立っているのが見える。
リベルはぎょっとして、思い返した。
――ヴィレイアの仲間たちからすれば、ヴィレイアは〈鉱路洪水〉で、活躍すべきときに活躍できなかった筆頭勇者だ。
悪感情があっても不思議はない。
それをうっかり失念していた。
こういうところがリベルの、人付き合いが苦手な所以だ。
ヴィレイアはヴィレイアで、土壇場の挫折から立ち直っていないことが如実に出ている。
言いたいことは決まっているのに言葉が出ない――といった様子で、ただ唇をぱくぱくさせているだけだ。
ヴィレイアたちの遣り取りは――というより、彼女の仲間からの糾弾は――続いている様子だが、周囲のざわめきもあって聞き取れない。
そしてのんびり仲直りを待っている場合でもなく、リベルは口の中で呻いたあと、決心を籠めて拳をぎゅっと握り、ヴィレイアを追う格好になって、彼女の仲間の前に進み出た。
――ヴィレイアの勇者隊は、彼女を含めて五人で形成されているようだ。
目の前にいるのは四人。
四十代前半とみえる女性と、四十半ばとみえる男性、二十代とみえる男性が二人。
攻撃的に口を開いているのは、主に二十代の男性のうち一人と、女性だった。
全員が、薄紫色の亜竜の鱗を加工した指輪を親指に着けている。
女性がちらりとリベルを見て、目許を険しくする。
彼女は鮮やかな群青色の瞳をしていた。
「――あたしたちを見捨てておいて、それで新しいお仲間とご挨拶っていうこと?」
リベルは口を開いたが、緊張するので視線は女性の顎の辺りに向けた。
「違います。ヴィレイアは余りに金がなかったんで、俺が金を貸してここまで連れて来ただけです」
「えっ、あのお金、くれたんじゃなくて私の借りなの?」
ヴィレイアがショックを受けた様子で口走ったが、拘泥している場合ではない。
リベルは思わず彼女の足を踏み、続けた。
「ヴィレイアがあなた方を捜していたのは――伝えたいことがあったからで――そうだな?」
話を振ると、ようやくこくこくと頷くヴィレイア。
彼女が哀願の瞳で仲間たちを見渡した。
「そう――そうなの。メメット、お願い、聞いて」
メメット、と呼ばれたのは、件の青い目の女性だった。
「実は――」
そのとき、空中にちかッと稲光が走った。
そうとしか表現のしようのない、不可解な光。
ヴィレイアが息を呑む。
彼女だけではない、その仲間たちもまた、信じられないといった様子で大きく息を呑み――
現象を見て、というよりもその様子から、リベルは何が起きようとしているのかを察した。
実際に目の当たりにするのは初めてである――〈鉱路洪水〉の転移の前兆。
そして間抜け極まりないことに、このとき彼は確かに、「結局誰が感染者なのか分からなくて良かった」と考えていた。
主にヴィレイアのために。
空気が軋む。
空気が熱を帯びる。
帯電した空気に触れたときのように、ぴりぴりと肌が痛む――
リベルとヴィレイアから見て右、ヴィレイアの勇者隊の面々から見て左。
その空気が、陽炎が立ったように捩れ、捻れて、歪む。
周囲の人々のうち幾人かが、事態に気づいた。
十余日前の悪夢の再現となるその現象に、声も出せずに凍りつく人々――
――そして。
耳を聾する咆哮。眼前を埋め尽くす夜闇の漆黒。
亜竜の鱗に独特の煌めきが満ちる夜空の色、それが視界を埋めたと思った次の瞬間には、リベルは凄まじい衝撃を受けて左方向に吹き飛んでいた。
地面に落ち、その際に瓦礫に背中がぶつかり、翼骨の辺りに痛みが走る。
目がちかちかしたが、そのときようやく、出現した亜竜に弾き飛ばされたのだと分かった。
「いてぇ……」
呟き、立ち上がる。
眼前には、露店を踏み拉き半壊していた建物を容易く全壊させ、彼自身も予期せぬ転移だったのだろう――困惑と不快感に咆哮とともに炎を吹き上げる、漆黒の亜竜。
小さな三対の角を耳孔の前に持ち、細い花の蕾を思わせる大きな頭、優美な長い首、棘の並んだ背中から、長い尾の先に至るまでを漆黒の鱗に覆われた威容。
鉱路生物の中でも頂点に近い位置に立つ、竜の眷属の筆頭。
頭から尾までを見れば体長は百フィート近く、体高は二十フィート程度。骨格と皮膜から成る翼を広げれば、巨大さはそれ以上。
その紅い瞳が周囲を睥睨し、彼の自由を侵害した、竜の眷属としては下等生物に当たる人間たちを、敵意を以て睨めつけている。
――言葉は竜に特有のもの。
亜竜は下位に属する人の言葉を聞き取ることが出来るが、人は亜竜の言葉を聞き取ることが出来ない。
だがそれでも明々白々と伝わる、彼の怒気。
「……どうして……」
誰かが呟く。
「〈鉱路洪水〉は終わったはずじゃ……」
メメットと呼ばれた女性が、喉に絡んだ声で囁いた。
「――亜竜がいたのね。どこかに離れてたのね」
リベルは痛みに顔を顰めながら立ち上がり、巻き上がる粉塵に息を止め、数歩をそろそろと下がった。
――亜竜が気まぐれに前肢を出せば、再び蹴り飛ばされる位置に彼はいる。
そうしながらも、彼は言っていた。
「このことをお伝えするために、ヴィレイアはここに来たんですけど――」
――悲鳴が上がる。
廃墟と化しつつある都市を揺らす悲鳴。
衛卒が茫然と亜竜の頭を仰ぎ、露店から人々が我先にと逃げ出していく。
一瞬のうちに蔓延する恐慌と絶望。
リベルは周囲を見渡し、小さく肩を竦めた。
「――遅かったみたいですね」




