母は強し、父は時々強し
翌朝、僕はアラームを設定した時間よりも少しだけ早く目を覚ました。
何か寂しい夢を見たような気がする。けれど、起きた瞬間にその内容が記憶から溶けて消えてしまった。
見ていた夢の内容を忘れるなんてのはよくあることだけれど、いつもと違う引っかかりがある。
「修学旅行当日の朝なのに、何だか縁起が悪いな」
そうは言うものの、不吉かと言えば少し違う気がする。でも何だろう、これは。
せっかく自然な早起きができたというのにしばらくの間ベッドの上で悶々としていると、下の階から妹の話し声が聞こえてきた。
朝から騒がしいと思う一方で、少し気が紛れた。
今日から修学旅行という大イベントが始まるのだ。切り替えてテンション上げていこう。
朝食を取って手早く支度を済ませた僕は、両親と妹に見送られてリュックとスーツケースを背負って家を出た。
「お土産と咲良ちゃんの写真よろしくねー!」
連日同じことを言われ続けていて、最早ツッコミを入れる気すら起きない。
僕が今から向かうのはその咲良の家だ。
修学旅行初日の朝は空港で各自集合ということになっていて、その空港が駅からやや遠いため、ほとんどの生徒が家の人に空港まで車で送ってもらうことになる。ウチにも車はあるけれど、父さんが仕事の都合で、僕を空港まで送ることができなかったのだ(僕を見送っていた時も既にスーツ姿だった)。
それならばと手を挙げてくれたのが、咲良のお父さんだ。元々娘を空港まで送る予定だったので、晴輝くんも乗せて行ってあげようとおっしゃってくれたのだ。ありがたい。
咲良の家は近所なのですぐに着く。家の前には車が出してあって、咲良がトランクに荷物を詰め込んでいるところだった。
「おはよう、咲良」
制服姿の背中に声をかける。
「おはよう、晴輝。今ちょうど荷物を入れてるところなの。晴輝の分も一緒に入れちゃおう」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
お言葉に甘えて僕も荷物を入れさせてもらっているところで、玄関のドアが開いた。中から現れたのは、ワイシャツの上にコートを羽織った姿の咲良のお父さんだった。
葉山光一。僕の両親の学生時代からの友人にして、僕の幼馴染の葉山咲良の父親。僕と咲良の関係も両親たちの交流あってのもので、僕と優雨も幼い頃から親しんでいた。
僕の父は良くも悪くも若々しいが、光一おじさんは年相応の渋みとカッコよさがある。葉山家は総じて顔面偏差値が恐ろしく高いけれど、咲良の理知的な美貌は彼から引き継いだものと見て取れる。
「やあ、晴輝くん。よく来たね。荷物は……今入れてるところかな?」
「はい。今日はよろしくお願いします」
「ああ。荷物を入れたら、もう車に乗り込んでくれて構わないよ。そのまま出発しよう」
そのまましまい終えた僕は、車の助手席側の後部座席に乗り込んだ。咲良はその隣に座る。
光一おじさんが運転席に乗り込むと、すぐにエンジンをかけた。
「あれ? そういえば、姫香おばさんは? 見送りに出てきてもおかしくないのに」
僕が思いつきと共にそう問いかけると、葉山親子は揃って苦い顔をした。
「妻は……まあちょっと色々あってね。心配はいらな
いよ」
「大丈夫……うん、大丈夫。大丈夫だから」
あの愉快なおばさんがまた何かやらかしてしまったらしい。まあ心配するほどのことではないのだろうけれど。
光一が俺たちの中でも特に老けこんだのは苦労の量と質が違うからさと、ウチの父さんが笑っていたのを思い出す。
少し微妙な空気になりながらも、車は走り出した。
空港に向かう道すがら、光一おじさんから最早定型文と言っても良い質問をされる。
「晴輝くん。ウチの咲良は学校で上手くやっているかい?」
「いつも通り、人並み以上に上手くやってますよ」
「もう、お父さん。私が側にいるのに、晴輝にそういうこと訊くのやめてよ」
「咲良がそういう心配の要らない子だとはわかっているさ。でも、父親にとっては娘への心配は際限がないものなんだ」
「ははは」
ウチの父親の優雨への接し方から察するものはある。
「どこの馬の骨に娘がちょっかいをかけられているか、把握しておかなければならない。咲良だけじゃなく晴輝くんも心当たりがあれば、いつでも言いなさい。然るべき報いを受けてもらうよ」
「もう! お父さん!」
言えないな。咲良が今でも週に一、二回は告白されてるなんて。
光一おじさんは基本的には常識人なのに時々誰よりも怖い。大人のリアルな怖さだ。
「いずれは親元を離れることはわかっている。私が認められる良い男に貰ってもらえると良いんだがね」
一瞬チラリと僕の方を振り返って、また前を向く。何なんだ。
咲良はさっきから父親にプリプリ怒ってるし。
「まあ、そんな先の話よりも修学旅行だ。行き先は私たちの時と同じで沖縄なんだね?」
「はい、そうです。こっちの空港から那覇空港まで飛行機で向かう予定ですから」
「懐かしいな。私たちの時も行き先が沖縄だったからね」
「らしいですね。父さんから聞きました」
「あの時も色々あった。……晴輝くん、君は両親から何か変わったことを聞かなかったかい?」
「変わったこと……ですか?」
僕たちと行き先が微妙に違っていたことと、根本的な“平和学習”というテーマは変わっていないこと。それに、同級生との楽しかった思い出は聞いたけれど。
「いえ、特には」
「そうか。アイツは子どもたちに“彼女”のことを話していないのか……」
「彼女のこと?」
「いや、何でもない。あまり先に話を聞き過ぎても、実際に行った時の新鮮味が薄れてしまうだろう。大いに楽しんでくると良いよ」
話をしていると、間もなく車の窓から空港が見えようとしていた。
光一おじさんとはよくお礼を言った上で空港の駐車場で別れた。
集合場所に近づくと、見慣れた制服姿の生徒たちが集まっていた。クラス単位で固まっているため、集団の中からクラスメイトを探す。
「おーい、晴輝。こっちこっち」
呼ばれた方を振り返ると、井坂文弥が手を振っていた。
「おはよう、井坂。クラスを探すのに苦労したよ」
「そーだな。整列させてるはずなのに、先生たちも点呼取るのに苦労してんな」
確かに。やんちゃな小学生ではないけれど、広い場所でこの人数をまとめるのは大変なことなのだろう。前方では先生たちが右往左往している。
「そういや、晴輝。お前って飛行機に乗ったことある?」
「だいぶ前に一度だけ。家族旅行でハワイに行ったことがある」
「……実はお前んちも裕福だよな。アイツも稼げるようになっちゃってまあ」
「ん?」
「いやいや、こっちの話でどうでも良い話。しかし、あれだな。お前だったら不慣れなせいで気圧の変化で具合が悪くなることはなさそうだな」
「どうかな。慣れるというほど飛行機に乗ったことはないから。実質初めてみたいなものだよ」
そんな話をしていると、集合時間になったようだ。全員が集まったことを確認した先生たちが諸注意を述べて、いよいよまとまって荷物を預けて搭乗手続きに入る。
受付を済ませた先では大きなガラスの向こうに僕たちが乗る飛行機の機体が見えた。率直に言えば、すごく大きい。こんなに大きくて重そうな機体が、しかも人や荷物を乗せて空を飛ぶなんて、とても不思議に思えた。
その光景を通り過ぎ、搭乗口から機体に乗り込み指定された番号の席に座る。班ごとで固められているため、僕の隣には井坂、そして通路を挟んで咲良が座った。
一帯がガヤガヤしていると、飛行機からCAさんのアナウンスが聞こえてきた。言われるがままにシートベルトを締めて、機体がゆっくり動き始める。一度大きく曲がった後、鋭い音と共に走るスピードが上がり、やがて地面を走る感触からは浮遊感によって解放された。
飛行機は沖縄を目指す。




