「……私の家族はもうどこにも居ない」
ユカリちゃんとのデートはとても楽しかった。
でも、ぼくはこれからとても楽しくないことを考えなければならない。
晴輝さんが言っていた。
『どうしても知りたければ、君のご両親に話を聞いてみると良い。君のお姉さんを想う気持ちが本物ならば、覚悟できると思うよ』
そう、ぼくは姉さんについて周りで一番よく知っている人たちに話を聞いていなかった。
本当はこんなに回り道をしなくても良かったというのに。
ぼくは無意識のうちに両親に話を聞くのを避けていたのかもしれない。
ぼくの両親と姉さんの間にある溝。毎日繰り返し見ていたから違和感はなかったけれど、そもそも違和感がないことがおかしい。
本当は知っていたのだ。
両親が姉さんに対して何か罪悪感を抱いていて、姉さんがぼくの両親に徹底して関心を向けていないことを。
言葉には出さずとも、肌で感じ取っていた。
実の親子ではないこと以上に、彼らの間には埋まらない何かがある。
ぼくの両親がそれについてどう思っているかはわからない。
姉さんも同じ。ただ、姉さんの寂しそうな表情が頭から離れない。姉さんは教えてくれない、でも、ぼくの両親はまだ何か知っている。
ぼくの両親と姉さんの間に何があったんだ。
ぼくが触れてはいけないような予感がするけれど、やっぱり訊かずにはいられない。
両親も姉さんも、ぼくにとって大切な人たちなのだから。
放課後になって、ぼくは家に帰ってきた。
夕方。黄昏時とも言うのだろうか。部屋の明かりを点けるか点けないか、薄暗くなりつつもキッチンの窓から差す橙色の光がぼくと母さんにスポットライトを当てているかのようだった。
ぼくがキッチンに姿を現すと、母さんはエプロンを着けて夕飯の支度をしているところだった。
「夕霧くん。どうしたの? 夕飯にはまだ早いでしょう」
いつものような優しい笑みをぼくに向ける母さん。ぼくがこれから訊ねることを聞いたら、その笑顔はどうなるのだろう。
「母さん、大事な話がある。訊きたいことがあるんだ」
「どうしたの、そんなに改まって」
「姉さんのことだ」
「……」
「母さんたちと姉さんの間に、何があったの?」
母さんの笑顔が引き攣ったように固まった。それでいて、ぼくのことをじっと見つめている。
ぼくがどんな表情をしているかは鏡もないのでわからないけれど、ぼくはただじっと見つめ返した。
継ぐ言葉もなく、ぼくの真剣さを訴える。
受け取った母さんはコンロの火を止めて、エプロンを脱いで畳んだ。
「……わかったわ。まだ早いと思っていたけれど、ちゃんと全てを話してあげる」
✳︎
雲居雁夜と葵。二人の若い夫婦の間にはなかなか子どもができなかった。不妊治療を進めながらも、成果は出ない。
ほぼ同時期に結婚した葵の姉夫婦の間には香純という女の子が生まれ、もう五歳になっていた。
香純の高過ぎる知能のことを姉から聞きながらも、嫉妬はせずとも子宝を羨ましく思っていた、そんな折。
姉夫婦が交通事故で亡くなった。あまりに突然のことで、悲しむこともできなかった。実感がないながらも通夜と葬儀を執り行い、葵は徐々に姉の死を受け入れていった。
姉夫婦を送り、姉の面影を残した一人娘の香純が遺された。香純はおよそ子どもが浮かべるようなものではない虚ろな瞳をしていた。人並み以上に賢い彼女には、両親の死の実感と将来への不安が大きくのしかかっていたのだろう。
加えて、香純の引き取り手が居なかった。葵たちの両親も既に他界していた。亡くなった義兄もまた同様である。他に経済的な余裕のある近い親戚が居らず、香純は施設に預けるしかない。
葵は香純を引き取りたいと思った。悲しみに暮れる姉の忘れ形見に笑顔を取り戻したい。このまま、小さな姪を手の届かないところへ追いやってしまうのは亡くなった姉に申し訳ない。そして、機会に恵まれず葵が注ぐことのできなかった子どもへの愛情を、姉の代わりに香純に与えたい。
思いを同じくしていた夫の雁夜の同意を得て、夫婦は香純を養子にした。
春野香純は雲居香純になった。
幸か不幸か、香純が養子になった直後に、葵は妊娠した。
夫婦待望の我が子を義理の娘を引き取った直後に授かったのである。
これは誰にとっても予想外のことであったが、夫婦は香純と実子の両方を愛情を持って育てようと決意した。
そして、葵は無事に出産し、生まれてきた子どもは夕霧と名付けられた。
夫婦は決意の通りに、香純と夕霧の二人に平等な愛情を注ぎ育てようとした。赤ん坊の夕霧には手がかかり、幼くして要領の良い香純よりも優先されることは仕方ないにしても、きちんと香純を小学校にも通わせ、よく世話をした。
香純も苦心する叔母夫婦もとい義理の両親を見て、癒えない悲しみを背負いながらも誠意を感じ、家事をよく手伝った。香純と彼らの間に次第に絆が結ばれようとしていた。
ただ、理屈ではどうしようもない感情の問題があった。苦労して成長していく我が子への愛情は日々増してきて、香純に向けるべき情を上塗りするようになってきたのである。
それでも、彼らは香純と夕霧の間で差別がないようにした。かける言葉も態度も、夕霧に対して香純が劣らぬように心がけた。
しかし、取り繕った気遣いは些細なきっかけで香純によって看破されてしまった。香純を一番に愛してくれる人たちがもうこの世に居ないことを、改めて香純は悟ってしまった。
幼い身で深い絶望を味わった彼女は、しかし、雁夜と葵の二人を一言も責めることはなかった。
今、自分がこうして普通の生活をできているのは、自分を引き取ってくれた叔母夫婦のおかげだと理解している。感謝もしている。
だから、それ以上はもう望まない。
親としての愛情は夕霧にのみ向ければ良い。
受けた恩は大人になったら全て返す。
それで、終わり。
夫婦は自分たちの過ちを責めて欲しかったが、総てを諦めた香純からはもう何の感情も向けられることはなかった。
✳︎
母さんから全てを聞かせてもらったけれど、ぼくは何も言葉を発することができなかった。
感情は溢れ出しそうなのに、何も言えない。
姉さんの寂しさの正体がはっきりとわかった。けれど、だからといって、ぼくに何ができるんだ。
ーーぼくが生まれなければ、姉さんは寂しい思いをすることはなかったのか。
「夕霧、あなたは何も悪くない。私たちが悪いの。私たちがあの子に……」
椅子に座っていなければそのままくずおれてしまうのではないかというくらいに、頭を抱えながらテーブルに伏せる母さん。
ーー姉さんに見切りをつけさせてしまった両親が悪いのか。
いや、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。
誰かのせいにすれば解決することじゃない。
誰も悪くない。誰もが足りなかっただけなんだ。
求めても求めても、どうやっても足りなくて。
だから、こんなにも悲しいんだ。
母さんに何も言えない。僕も何も言えない。
「誰が悪いかという話をしたら、私が悪いんだよ。私の心次第なんだから」
突然後ろから、温度の低い声が聞こえてきた。振り返ると、いつのまにか一階に降りてきていた姉さんが居た。
姉さんは制服姿だーーたまに見かける部屋着よりも姉さんを遠く感じる格好だ。
「夕霧くんに話したんですね。いらぬ心労をかける必要はありませんから、彼には話さなくても良かったと思うんですが」
姉さんの視線は母さんに向けられている。
その視線と口調はまるで赤の他人のように固くて冷たい。
「香純ちゃん、私たちは……」
「もうとっくに終わった話でしょう。私の“親”はもう居ません」
姉さんはピシャリと母さんの言葉を制し、長い睫毛に縁取られた目を伏せる。
「……私の家族はもうどこにも居ない」




