ノクターン
今日も色々あって疲れていたはずなのだけれど、何故か寝つきが悪かった。妹あたりから散々揶揄されているように、色々考え過ぎな僕は、時々ベッドに入ってからも考えごとをしていて寝るのが遅くなってしまうことがある。しかし、今夜の場合は何の理由もなくただただ眠れない。部屋でじっとしているのも退屈だ。一階に降りて、ウォーターサーバーで水でも飲もうか。
スマホで時間を見てみると、ちょうど二時になるところだった。言い換えてみれば、二十六時。一応明日も休みではあるけれど、あまり夜ふかしはしたくない。早く眠りたい。
流石にもう寝ているだろう、隣の部屋の優雨に気をつかって、静かに部屋を出て階段を降りた。
階段を降りた先にはダイニングがある。そこにウォーターサーバーが置いてあるので、棚からコップを取り出してから、水を飲む。サーバーの上についているボトルがゴポゴポと意外に大きい音を立てたので、一瞬、両親の部屋の方向を振り返った。両親を起こすほどの音では全然ないけれど、つい、気が張ってしまっているな。さっさと階段を上って自分の部屋に戻ろう。そう思った時、
「ハルくん、こんな時間にどしたの?」
突然声をかけられてギョッとした。恐る恐るリビングの方を振り向くと、窓際のソファに日和おねーさんが座っていた。
電気も点けられていない暗い部屋ながらも、月明かりに薄っすらとその姿が照らし出されている。何も結ばずに伸び伸びと広がる長い黒髪、眼鏡で遮られていない大きな瞳、いつものようなふざけた文言も何も書かれていない真っ白なシャツに、部屋着のショートパンツ。側には一升瓶があり、おねーさんの手には透明な液体と氷の入ったグラスが握られているーー多分中身はそのまま日本酒だろう。
「ちょっと寝つきが悪くて……。水を飲もうと思って、一階に下りてきたんですよ。おねーさんこそ、なんでこんな時間にお酒飲んでるんですか?」
おねーさんはグラスの氷をカランと鳴らしながら答える。
「大人の夜は長いんだよん…………いや、大人というより、大学生の特権か。こんなに秋の月が綺麗なんだよ。お酒も飲みたくなるよ」
「そんなものですか……」
大学生の自由さを感じさせられながらも、僕の視線はやっぱり日本酒の方に行ってしまう。察しの良いおねーさんはそれに気づいたようで、
「もうっ、そんなにジロジロ見ないの! ……洋介おじさんの前では猫被ってたんだけど、実はわたし、強い日本酒が好きなんだよね。あ、あと、勿論これはわたしが持ち込んだお酒だからね。このお家のお酒には手を出してないよ」
「はあ」
言われてみれば、この前父さんと飲んでいた時はチューハイだったな。あの上機嫌ぶりで猫を被っていたと言われても、と思わなくもないが、一高校生として口を挟むことはあるまい。
ところで。おねーさんと話していて、僕は微妙な立ち位置になった。そもそも本当は寝た方が良いのだから、もう会話を切り上げて自分の部屋に戻るべき。そう思う一方で、このまま戻ることに少しばかり後ろめたさを感じる自分を否定できなかった。
おねーさんはそんな僕に構いもせず、グラスをあおって飲み干してしまい、また瓶からおかわりを注いでいる。瓶を置いて、またひと口お酒を口に含んでから、おねーさんは、
「ねえ、ハルくん。せっかくだし、わたしと一杯やらないかい?」
と、言った。
「やめときます。僕は未成年なので」
即答である。こんな変な時間に慣れないものを飲んでたまるか。
「んだよー。ノリ悪いなあ。真面目かよー」
悪態をつきながらも、おねーさんはケケケと笑っている。楽しそうだが、その一方で細まった眼差しは少し寂しげに見えた。……。
僕はもう一度ウォーターサーバーのあるところまで行き、コップに水を注いでから、またリビングに戻った。
「水で良ければ付き合いますよ」
ふにゃっと笑うおねーさん。グラスとコップを突き合わせて、互いに中身を口に含む。僕のものは無味無臭。おねーさんの飲む日本酒の味を僕は知らない。
「うふふふ。付き合いの良いハルくんには特別な話をしてあげよう。って言っても、優雨ちゃんにはもうお話したんだけどね」
「一緒に寝た時にですか?」
「そうそう。まあ、話すつもりの内容は違うけど。優雨ちゃんには甘酸っぱい話を。……ハルくんにはビターな話を」
「ビター……」
「ハルくんはお兄ちゃんだからね。優雨ちゃんよりも少し大人扱いしてあげようと思って」
そういう言い方こそ子供扱いされているような気がするが。ただ、明るさ一辺倒でないおねーさんの思わぬ一面を知ることもできるのかもしれない、とちょっとした好奇心が湧いているのもまた事実。
「どしたの? 黙りこくっちゃって」
「いや、ビターなんておねーさんに似合わないと思って」
「似合わなくてもビターになっちゃうもんなんだよ、大人はね。君たちの青春だって砂糖菓子のように甘いものじゃないでしょう?」
「まあ、確かに」
苦い思いをしたことは一度や二度じゃない。忘れようとしてもふとした瞬間に思い出してしまっては頭を抱えたくなるような、そんな苦い記憶。後悔はいつまで経っても自分の背後の影を付いて回る。
「だからね、人生の先輩としてハルくんたちにわたしと同じ轍を踏んで欲しくないの。同じ失敗をさせないために、わたしの失敗談を話してあげるよ」
グラスの氷をカラカラと鳴らしながら浮かべるおねーさんの笑みは嫌になるほど夜に似合っていた。
「ハルくんって、嫌いな人居る? 口も聞きたくない、同じ空間で呼吸したくない、殺したくなるくらい憎い相手が? ……居ない? ふふっ、それは良いことだよ。
「わたしには居るんだよ。殺したくなるなんて物騒なことを言ったけど、それほどじゃない。でも、口も聞きたくないし、同じ空間で呼吸したくないし、死んでも悲しくならないどころかスッとしてしまうような、そんな奴がね。
「先に言っておくけれど、色恋沙汰じゃないからね? 同性だし。わたしの恋は甘酸っぱいんだから。
「そいつはね、元はわたしの友だちだったんだ。やや小柄で、可愛らしくて、気配りができて、努力家。ついでに言えば、ちょっと胸も大きかったかな。ここまでそいつの特徴を聞いて、ハルくんはどう思った? ……モテそう、か。うん、事実そうだった。男に好かれる要素満載だもんね。冗談も言うし、行動力もある。
「気持ち悪いほど、完璧な奴でしょう。驕りもしないし、頭の回転も速い。……言ってて酔いそうになってきた。お酒にじゃなくて。
「実際に、そいつは完璧なんかじゃなかった。二人っきりでお酒を飲んでいた時に、そいつの本音を聞かされたよ。酒に酔っていたのか、わたしを同じ側の人間だと思っていたからなのかーー同じ側、つまり、わたしも割と器用な人間だから、多分同じ学生グループ内でのカーストでは上位の人間なんだろうから、言い方を変えれば自分の下に人が居るような、人を見下せる側。だからか、恐ろしい発言を聞いたよ。日頃親しくしている友人を酷く見下した本音をね。友人の失敗を慰めていた口と同じ口で酷くこき下ろしていたよ。
「それを聞かされたわたしの心中は如何ばかりかわかる? そうね、ハルくん、今の君と同じ表情をしてたと思う。
「怖い。恐ろしい。憎らしい。そして何より、気持ち悪い。
「そいつはお酒の場での小粋なジョーク、雑談と同じような感覚で言ったんだろうけど、わたしは少しも笑えなかった。その代わりに、素直に言ったよ。アンタ気持ち悪いよって。……ふふっ、どうなったと思う?
「わたしの側から距離を置きたくなったけど、そいつから先に言われてしまったよ。友だちをやめましょう。しばらく会わずにいましょうってね。
「ハルくん、わたしの主観から話しているから、今話したことを客観的に捉えてみるとどうなると思う?
「楽しいお酒の場を盛り上げるために話を提供したのに、気持ち悪いと言われて、心が傷ついてしまった。仲の良い友だちではあったけれど、そんな酷いことを言う友だちとは距離を置くことにした。
「こういう捉え方もできるんだよ。そいつが友人を悪し様に罵っていたのもわたしの前でだけで、本人には全く告げずに良い顔をしてる。録音でもしてたら、証拠が用意できたんだろうけども。だから、そいつは誰も傷つけていない。むしろ、傷つけたのはそいつを気持ち悪いと言ったわたしなんだよ。
「そいつはそれを他の周りの人間にも吹聴した。さも、心に秘めておくにはあまりに辛い、といった具合に。弱々しく、縋るように。
「ただまあ、そいつの言ったことだって証拠がないから、日頃のわたしをよく知ってる人はわたしが何の理由もなしに人を責めることなんてしないって、わかってくれた。それでも、気まずくなったり、顔を合わせづらくなった友だちも居た。今でもそれは続いてる。
「……これで終わりじゃないよ。そいつは言葉通り一旦距離を置いたけど、またわたしに近づいてきたんだよ。あれだけのことをしながらわたしに詫びの一つも入れようとせずに、まるで何もなかったかのように親しげに話しかけてくる。
「気持ち悪いよね。悪意を秘めながら人に良い顔してたことよりも、もっと気持ち悪い。
「拒絶の言葉をぶつける気にすらならない。話し合いも、説き伏せることすらしたくない。
「わたしは無視することにした。もうこの世にないものと思った方が精神衛生上良かったから。そうしてたら、向こうも二人だけの時に話しかけてくることはなくなった。第三者が居る時に話しかけてくるのは腹立たしいけど、空気が悪くなるから、最低限の受け答えはしてる。現状はこんな感じで、大学を卒業したら二度と会わないと思う。
「そういう失敗談。ビターな話。
「ハルくん、キミはこうなっちゃダメだよ。
おねーさんの話は終わった。
咄嗟に返事もできない。思ったことは多くても、なかなか自分の中でまとまらない。
『拒絶の言葉をぶつける気にすらならない。話し合いも、説き伏せることすらしたくない』
特にそれが印象に残っている。
「どうやらハルくんや優雨ちゃんたちは今まで会話を通して色んな問題や困難を乗り越えてきたようだね」
「……まあ、そうとも言えるようなことがありましたが。なんで最近来たばかりのおねーさんが知ってるんですか?」
「ふっふっふ、真面目に教育実習を受けながらも、脚を使って調べ上げたのよん。ある探偵さんに教えてもらった方法でね、ま、それはどうでも良いんだけど、」
スルーするには聞き捨てならないが。
「つまり、わたしが言いたかったのは、話し合いができない相手も居るってこと。会話を武器に艱難辛苦を乗り越えてきたキミたちにも、それが通じないこともあるの。わたしのようにね」
「会話が、通じない」
おねーさんの言葉を受け止めて、自分で繰り返してみて、自分にとても重くのしかかるようだった。
黙ってしまった僕に、おねーさんは左手をこちらに伸ばしてきて、僕の頭の上にそっと置いた。
「ただ、ハルくん、こうなっちゃダメだよ。わたしは無視することを選んだけど、本当は前向きな解決じゃない。わたしはあいつを理解する努力をしなかった。会話を続ければもしかしたらきちんとわかりあえたかもしれない。でも、どうしても嫌悪感が優って、わたしにはできなかった」
「おねーさん、あなたは……」
「この世にはどうあってもわかりあえない人は居る。それでもハルくん、キミにはわたしみたいにすぐに諦めて欲しくない。会話という武器を使って、これからも理解する努力を可能な限り貫き通してね。……わたしのような後悔はして欲しくないから」
大きな瞳で真っ直ぐに見つめられる。頭を撫でられる感触がこそばゆい。
どう答えたら良いか。はいともいいえとも言い切れない。
多くの会話を交わしてきた僕だけれど、今までだってわかりあえたとは言い切れない。双子の姉妹に僕は何もできなかった。香純ちゃんのことだって、彼女が今まで背負ってきたものへの理解は足りないだろう。つい最近まであった優雨の悩みも完全にはわかっていた訳じゃない。咲良の様子が最近少しずつ変わってきている理由もわからない。何より、僕は自分との対話が足りない。自分で自分をわかりきっていない。
「乗り越えた」とおねーさんは言ってくれたけれど、「解決できた」とは限らないかもしれない。
終わったと思っていた物語にはまだ続きがある。
僕はまだ足掻き続けなければならない。前に進む足を止めてはならない。
おねーさん、と。僕は言った。
「僕にどこまでできるかはわかりません。でも、努力はします。時には友だちや妹の力も借りながら、頑張ってみようと思います」
苦しくて悲しい後悔ばかりじゃなくて、今日の昼間のようにみんなで遊んだ楽しいことも、きっとこれから沢山あるだろうから。
おねーさんは目を細めて、
「ありがとう、ハルくん」
何故か申し訳なさそうな顔をして言った。
それからは先ほどまでと打って変わって、互いの学生生活の楽しかったことを話した。僕のまだ知らないキャンパスライフにはとても興味をそそられ、おねーさんも僕の話を聞いて自身の高校生活を懐かしんでいるようだった。
話し込んでいると、段々と眠気が襲ってきた。聞き疲れと話し疲れが重なったからだろう。頻繁にに欠伸をする僕を見かねて、おねーさんに「そろそろ寝なさい、ハルくん」と言われた。話のキリも良かった、お言葉に甘えて寝るとしよう。
「おねーさんはまだ寝ないんですか?」
「んー、わたしはもうちょっとしたら。ちゃんと日が昇ってくる前には寝るよ」
日本酒の瓶をふと覗き込むと、中身はあと少しでなくなりそうだった。全部飲み切ってから寝るつもりらしい。
「それじゃ、おやすみ」
「んー、おやすみー」
僕は眠気で少しふらふらしながらリビングを出る。すると、リビングの中から微かに声が聞こえてきた。
「二人が重ねたそれぞれの時………………全てが収束した………………ただ隣に居て………………もう離れないで、ずっと…………」
メロディーがあるから、切れ切れに聞こえるこれは、おねーさんが何かを口ずさんでいるのだろう。リビングから遠ざかるほど、歌声は小さくなって耳に届かなくなってくる。
おねーさんがどんな思いで何を歌っているのか。
やっぱり僕にはわからなかった。
やっぱり最後には茶目っ気が出ましたね。
次回、ラジオを挟んでから、セカンドシーズン最終回です。お楽しみに〜。




