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兄妹シリーズ  作者: モンブラン
2ndシーズン〜優雨とおねーさん編〜
39/250

おねーさんの文学講義(3)

この小説は実際の教育課程等々とは一切関係ありません。全て、作者による思いつきです。

 教室の生徒たちのざわつきがチャイムの音で静まっていく。

 これから国語の授業が始まるにも関わらず、普段彼らに国語を教える中野先生は教室の一番後ろで立っていた。手元には紙とペンがあり、教室後ろのロッカーの上に教科書やその他の書類が置かれている。

 普段と異なる状況のため、教室後方の生徒たちの一部は横目で中野先生を見ていたが、ほとんどの生徒たちの視線は教卓に立つパンツスーツの若い女性に集まっていた。

 教育実習生・風早日和の模擬授業が、始業のチャイムと挨拶と共に始まる。

 日和は黒板の右端に「蜘蛛の糸」と書きながら、淀みなく生徒たちに作品の説明をし始めるーー念入りな準備のためだけでなく、塾講師のバイトをしているため、生徒たちの前で話すことにあまり緊張してはいなかった。

「蜘蛛の糸」は芥川龍之介が書いた短編小説。地獄に落ちた男が、御釈迦様が垂らした一本の蜘蛛の糸をつかんで地獄から這い上がろうとするのだが、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ」と喚いたために、糸が切れてしまう、という話だ。有名な小説であるため読んだことのある生徒も多いかもしれないが、全体の授業であるので短時間ではあるが内容の確認はしておく。適当な生徒を指名して音読をさせてから、授業の本筋に入る。


「はい、ありがとう。音読はね、文字を読み取るインプットと声に出すアウトプットを同時にやるから、脳への良い刺激になるの。上手に読むことに頭が掛りきりにならないようにね。内容をイメージすることが一番大事だから」


 日和はそう言いながら、黒板にチョークで文章を書き込む。少々ジョークめいた口調や話題で沈黙の時間を作らずに、日和は淀みなく話し続ける。


「……芥川ってよく見る写真だと割と二枚目に見えるんだけど、実際は結構な面長だったらしいんだよね。ただ、女性にはモテたらしいよ。さて、今回の授業でわたしがみんなに考えて欲しいのは、これです」


 黒板に書いた文章を指差した。少し角張った読みやすい字で、『お釈迦様は善人なのか? 悪人なのか?』と書かれている。それを見た生徒たちがざわついたが、日和が口を開くと潮が引くように静かになっていく。


「あ、先に言っておくと、お釈迦様は人じゃない、っていうツッコミはなしね」抑えた笑い声がする。「そもそも、事の発端はお釈迦様が垂らした蜘蛛の糸だよね。お釈迦様は一匹の蜘蛛を助けたからと言って、地獄に落ちてしまうような悪党のカンダタを助けようとした。けれども、カンダタは結局蜘蛛の糸が切れて極楽に救い出されることはなかった。あくまで例えばなんだけど、カンダタを助けようとしたお釈迦様は善人だと考えることができるし、いや、カンダタに希望を見せておきながらももう一度地獄に落ちる苦しみを味わわせたお釈迦様は悪人だ、とも考えられるよね。みんなはお釈迦様のことをどう思うかな? 善人かな? 悪人かな? 五分あげるので、ちょっと考えてみてください。周りの人と話しても良いよ」


 日和がそう言い放った途端に、再び教室の中がざわつき始めた。みんな、やはり一人で考え続けるよりも、他人と意見を突き合わせたいのだろう。参考にする意味もあるかもしれないが、それ以上に自分が異端でないかどうか、自分の考えが周囲と左程かけ離れていないものであるかどうかを確かめるために、意識的でないにしろ周りの顔色を伺いたくなる。

 ーーそんなところで間抜けな大人ぶらなくても良いのにねぇ。

 日和が誰にも気づかれない程度に怜悧な視線をクラス中に向けていると、ふと教室の窓際の後ろから二番目の席が目に入った。開いた教科書を眺めながら、目の焦点をなくしてじっくりと考え込んでいる様子の従兄弟を見つけて、日和は口元を緩ませるーーあんまり一人で考えてばかりいるのも、それはそれで良くないんだよん、ハルくん。

 ハルくんーー晴輝を微笑ましげに眺めていた日和は、さらに晴輝に親しげに話しかける男子の姿を認めた。今の晴輝には友だちが居ないと聞いて驚いたものだが、なんだ、そんなことはないじゃないかと安心した。……適当なタイミングで当ててやろう。

 先ほど告げた五分が経ち、日和はパンパンと手を叩く。


「ハァイ、じゃあ、そろそろ訊いてみよっか。鈴木さん、お願いできる?」


 そうして、四人の生徒に意見を訊いていったが、四人ともが「お釈迦様は悪人」という立場だった。

 理由は概ね同じものであった。

 本来助からないものにまやかしの希望を与えたから。お釈迦様本人が直接助けに行こうとしなかったから。「ぶらぶら」と歩き回っているのも印象が悪い。

 筋道立てて、きちんと理由も添えつつ、お釈迦様がボロクソに言われていた。

 高校生は捻くれたものだと思っていたが、これほどまでとは……。普段はマイペースな日和も、つい苦笑を浮かべてしまう。

 彼ら彼女らの意見も間違っている訳ではないが、偏ってしまっている。できれば、善人側の意見も聞きたいなー、でないと、二重の意味で救いがないなー。日和は期待の眼差しを従兄弟に向ける。あからさまに嫌な顔をされたが、日和の笑みは深みを増すばかりだ。


「それじゃあ、もう一人訊いてみましょうか。寺井くん、どーぞ」


 日和から指されて、寺井晴輝はより嫌そうな顔をした。が、日和の方も表情で訴えてくる。良いから言え早く言え言わないと後で怖いぞ、と。教師としてどうなんだ……いや、教育実習生としても。

 晴輝はふらふらと立ち上がり、発言する。


「僕は善人だと思います。確かに、結果としてはカンダタは落ちてしまったけれど、お釈迦様が助けようとしたことには変わりません。それに、お釈迦様がぶらぶらと歩き回っているのは、一人でも多く地獄から救い出そうとしていたんじゃないでしょうか。殺人を犯したようなカンダタでも、蜘蛛を助けたことがあるという些細な善行を見出して、地獄から救い出し更生させようとした。自分一人だけ助かろうとしたカンダタの傲慢さが悪いのであって、機会を与えようとしたお釈迦様を悪人だとは思えません」


 息を吐いて、晴輝は座る。一応思うままに言ってみたつもりだが、合っているかどうかはわからない。というか、噛んでなかったか? 大丈夫だったか?

 しかし、晴輝の心配をよそに、クラスからは拍手を受けてしまった。困惑してしまう。拍手を受けるほどのことは言っていないと思ったからだ。

 日和はそんな晴輝の様子を見て、満足げに頷いた。日和自身が賛成している意見を聞けたからではない。晴輝が出した意見が、よく考えて出された対極の意見だったからである。


「なるほど。寺井くんは善人側ですね。なんとなくお釈迦様は悪者じゃないと言うよりも、とても素晴らしいと思います」


 いよいよ、まとめに入るところだ。

 日和は黒板の前で改めて生徒たちに向き直った。


「さて、色んな意見が出ましたね。ほとんどがお釈迦様は悪人だという意見だったけれど、多かったからといって、それが正解という訳でもない。でも、善人が正解であるかもわかりません。実は、この問題には正解も不正解もないんです。芥川龍之介本人に訊かなければ、何が正しいのかはわかりません。ただ、だからこそ、いくらでも考える余地があるんです」

 

 日和はそう言って、また黒板に何かを書き始めた。

 鉤括弧に囲われた、次のような文章が書かれている。


「こら、罪人ども。この糸は己のものだぞ。……」


 後ろの方は省略するけど、これはカンダタのセリフだね、と日和は言う。


「カンダタが落ちた理由についても、色々考えられます。この部分はさっき寺井くんも言っていたね。『この糸は己のものだぞ。』は、確かに糸を独り占めにしようとするカンダタの傲慢さが表れているととらえることができる。でも、その前のセリフにも注目すべきポイントがあると思いませんか? 『こら、罪人ども。』と、カンダタは呼びかけていますよね。カンダタはそんなことを言ってしまっているんですよーー自分も地獄へ落ちてしまうほどの罪人であるというのに」


 周囲から、ああ、と気づいたような、感心したようなリアクションが聞こえる。


「お釈迦様に機会を与えてもらったとはいえ、カンダタの罪が消えた訳ではありません。それなのに、カンダタはまるで自分が罪人でなくなったかのように『こら、罪人ども。』なんて言ったんです。罪を償ってもないのに、己が罪人であるのを忘れてしまっている。これもまた、糸が切れてしまった理由であるのかもしれません」


 クラス中の視線が日和に注がれていた。全員が日和の次の言葉を待っている。


「もう一度言いますけど、わたしが今回みんなに考えてもらった問題は答えがありません。普段みんなは答えがある問題を解くことが多いと思います。どうしても点数をつけなければならないから、それは仕方のないこと。でも、これからは答えのない問題に立ち向かわなくてはならない状況がたくさんあります。だから、今回は特別にみんなに答えのない問題を考える訓練をしてもらいました。わたしの授業はあくまで通過点。たった一時間ではありましたが、皆さんの糧になってくれれば幸いです」


 時計を見ると、針は終業一分前を指していた。


「ちょうど良い時間になったね。ではこれで、国語の授業を終わりたいと思います。わたしも初めての授業だったから拙いところもあったと思うけど、一時間お付き合いいただきありがとうございました」

終始親しみやすい調子で教壇に立っていた日和は綺麗に一礼する。生徒たちも、日和に向けて「ありがとうございました」と続けた。


 こうして、兄妹たちの自称おねーさんにして、教師のタマゴの風早日和の模擬授業は無事に終わった。

 しかし、当の本人は模擬授業とは全く別のことに思いを馳せているのだった。


「早く、あの子と仲直りしないとなぁ……」

ちなみに、「おねーさんの文学講義」というサブタイトルは、ジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』の中のフェル博士の密室講義を語呂だけパロディさせていただきました。内容は一切関係ありません。

さて、本編なのですが、出番を今か今かと待っている彼女をいい加減登場させるとしましょう(笑)

次回、「わたしがわたしであるために」です。

お楽しみに〜。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても趣深い授業でした。 私自身も色々と考えさせられました。 私も晴輝くんとほぼ同じ理由で、お釈迦様は善人だと思っていましたが、そこから更に一歩踏み込んだ日和先生の解釈がとても素晴らしか…
2020/06/16 18:43 退会済み
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