第9話
朝になって目が覚める前に、市子は仁に揺り起こされた。
仁は面倒くさそうな顔をしていた。
「朝電話があった。近いうちに、ある組の長が来る」
市子は急に浮かび上がる不安を感じ、仁の顔を見た。
「念のため、最低限の礼儀はするんだ。いいな?」
「うん」
「それと・・・長はおふくろの『遺言』を聞きたがってる。これは俺も義樹も知らない。お前しか知らないはずだ」
「えっ・・・?」
母の遺言なんて、聞いたことなかった。母が亡くなる前も、何も言わなかったはずだ。市子は胸の中に引っかかるものを感じ、ノイズが邪魔して思い出す事ができない昔の記憶を思い出そうとした。
市子の記憶は顔の表情と共に消えた。中学生から前の記憶がほとんどない。思い出そうとしても、ノイズのようなざらついたものが邪魔して思い出せず、必死に探ろうとしても頭痛が起こる。思い出す事を諦め、今まで過ごしてきた。その中に、母が自分の遺言について何か言っていたかもしれない。
「龍ヶ崎の組がこれからどうなるのか、俺達が組を維持するのか解散するのか、それらが書かれた遺言をおふくろは『俺達の妹』に預けると言われてた。それは俺達も、組の人間も、他の組の長も気になっている事だ。おふくろから、何か預かっていないのか?」
市子は首を横に振る。覚えているだけの母の記憶の中に、何か特別なものを貰ったという記憶はなかった。母にとっての大事なものは、家と家族だったと口癖のように言っていたのは覚えている。入院した時も、母は着替えと化粧道具だけを持って病院へ行った。何か隠し場所から何かを持ってくるとか、いつもある場所から持ってくるとか、そんな事は一切しなかった。
ただ、母が病室の窓から見える景色の中から思い出話をしていたのが気になってはいた。死に近づく度に、市子が忘れてしまった思い出も語ってくれた。当時の市子は、その思い出を口にするたびに、母が消えていくような感じがして怖かったのを覚えている。怖いと口にすれば、母は苦笑に似た笑みを浮かべていた。
「何も・・・覚えていないの。預かったとしても、忘れているかもしれないの。昔の記憶が、思い出せないの」
「そっか・・・そういえば、お前は病気だったな。どこかに置いてきたか?それとも、取られたか?」
皮肉に込めた言葉と同時に、仁は市子の頭に手を置いた。その手が忘れかけた父のような感じがして、心細いような寂しいような感じがした。
「思い出せないなら、そう話はしておく。あの人達だってすぐ遺言を聞けるとは思ってないだろうし。お前の言葉を待つのは苦労しない」
仁は手を引っ込めた。
市子は心の中で「ごめんなさい」と言った。それは、兄にも父にも向けられている。
ふと、市子は気になった事を尋ねてみた。
「ねぇ、兄さん。お父さんに会った事ある?」
仁は小さく驚いたような顔をした。
「なんでそんな事聞く」
「なんとなく・・・」
「ある。子供の頃に何度か。成人してからは、一度だけ。最初は自分の父親にしては頼りないと思っていた。おふくろが強かっただけかもしれないがな」
仁は苦笑気味に小さく笑った。
「お父さんと、何かしたことある?」
「・・・うろ覚えだが、一緒にどこかに出かけたりしてた。義樹は出掛ける事を拒んでいたが、その時の親父も頑固で三人で出かけたんだ。親父が好きだった場所へ連れてかれた。あれは確か・・・博物館だったかな」
頭の中で、何かがさわりとゆっくり揺れた気がした。市子は兄達と父がどんな時を過ごしたかのか気になった。彼らの中で、父は鮮明に存在していた。
その時、家のチャイムが鳴り響いた。仁は音のする方へ顔を向けた。
「着替えて手伝いに来い。朝飯は少し後だ」
「うん」
仁は部屋から出て行き、市子はベッドから離れて着替え始めた。
店の方から、足音が聞こえた。
市子は着替えて髪を整えると、階段を下りた。店の方に行こうとした時、和室の方から声をかけられた。
「市子」
驚いて振り向くと、和室にある仏壇の前に包帯の男が正座していた。
焔だった。
線香をあげるために家に入ったらしい。兄達の話し声が店の方から聞こえた。
「市子、ちょっと話をしてもいいか?」
焔の声が、何かを孕んでいるのを感じ取った。けれど、その正体を掴む事はできなかった。
市子は迷ったが、少し離れた場所に座って焔の話を聞くことにした。
焔は市子の目を見て言った。
「市子、遠くへ行かないか?一緒に」
市子は驚き、目を見開いた。
「どうして?」
「やっぱり、こんな所にいてはいけないんだ。こんな、君みたいな子が・・・」
市子は背後から聞こえる兄達の小さな話し声のする方へ振り返った。彼らはまだ気づいていない。
市子は小さく、頼りない言葉を口にする。
「前も言ったけれど・・・家族と離れたくないの」
「家族が全てじゃないだろう?君がこのまま跡を継いだとしても、君自身は幸せか?俺は・・・ずっと君の母親を見てそう疑問に思っていた。それが、受け継がれていくものだとしても、良い女が血の流れる場所にいても嫌なだけさ」
この人は、焔は、幾つもの残酷な場所を歩いてきたのだろう。母が組を受け継いだ時から、ずっと見ていたのだろうか。自分にも残酷な一面を持っているとわかっていながら、彼は母を普通の女にしたかったのかもしれない。それは、恋心とかそんなものを二の次にして、女としての人生を歩ませたかったのだろう。母がいない今、罪を償うように市子に手を差し出している。
けれど、その手は市子を此処に連れてきた男達と同じ手だ。手を取ったとしても、その先にあるのは此処と変わらない。
焔の手が、市子の髪をなぞるように撫でた。何かを怖がっているような、遠慮がちな手だった。
「俺が君を守ってやる。だから、一緒に行こう。俺だってこんな生活は限界だ。足を洗いたいと思っていたんだ」
本気で言っているのは、わかっていた。心の中で迷いが生まれそうな程、優しくも強い言葉だった。
だが、市子は揺らぎはしたが崩れる事はなかった。
「・・・あなたの事は、好きよ。でも、私は此処にいる」