夢の果て
——それから数カ月後。
私たちは、東京の港から船に乗りこんでいた。
海風が心地よく、駆け抜けていく。夏なのに涼しさを感じながら、私はみつえに向かって力説していた。
「期待していてください。本当に、東京とは思えないくらい綺麗な場所なんですから」
はしゃぐ私の横でみつえは、にこにこと笑って頷いている。船の先頭の方に、矢沢と楓、翔と純がいる。みつえの視線が時折、純へ向かっているのに気づいた。
「みつえさん。強引に誘っちゃって……純さん、大丈夫でしたか?」
純には店があるからと、最初は断られていた。しかし、みつえが純を取りなしてくれた形で今回の旅行につながっている。
「全然、大丈夫。むしろ、ちょっと楽しみにしていたみたいよ?」
「え……あれで?」
と言ってしまった後に、ごめんなさいと謝る。みつえは、くすくす笑っていた。
「私も、そう思う」
そう言うみつえも、少し嬉しそうにしていたから、ほっと胸を撫でおろす。
海の方へ視線を伸ばす。
船に羽が生えたような、白波が立っていた。そこから、ぴょんと魚が飛び跳ねていた。
「ねぇ、彩音さん」
みつえの少し迷ったような声が届く。私は、浮かせようとしていた腰を下ろして、みつえをみやる。
風で揺れる長い髪を払いながら、遠慮がちな目を向けてきた。
「夢の部屋で何を願ったの? 翔君がね、彩音さんが教えてくれなかったって言っていたから、ずっと気になっていたの」
そういえば、今も翔は私の願いの内容を知らない。私は、みつえに身体を向け、座りなおす。
「何だと、思いますか?」
みつえは目をぱちぱちと瞬かせて、迷いながら口にした。
「自分が元の体に戻るとか、彼と幸せになるとか……かしら」
「それ、翔が言っていたんでしょ?」
「よくわかったわね」
みつえは、目を丸くする。
「翔は、本当にまだまだだなぁ」
私は翔のことを全部わかっているとまでは、さすがに言えないけれど、翔の私への理解度よりも、高いという自信はある。だって、翔みたいな真っすぐで清い人間ではなく、私はちょっとずるい人間だから。
私は、こほんと咳払いをする。
「翔が幸せになること」
船首の方で、ワイワイやっている四人の後姿を見やる。
「私は、ただそれだけを願ったんです」
何に盛り上がっているのかはわかないけれど、とても楽しそうだ。
「だって、翔が本当に私と幸せになりたいって思っていてくれていたら、必然的に私が消えることはない。そう考えたんです」
自信満々に言ってみせるが、すぐに苦笑いに変わってしまう。
「正直に言うと、すごく不安でした。本当に翔は、そこまで私のことを思ってくれているのかなとか、私で彼を幸せにできるのかとか……色々。でも、賭けてみようって思った」
首から下げたネックレスは、風の流れる方向へ靡いている。
「でも、それを言って、本当に私が消えちゃったら、翔は絶対に苦しむ。私が消えたのは、自分のせいだとか、思いが足りなかったとか……後悔なんかしてほしくなかったから、もし打ち明けるのなら、全部終わってからって決めていたんです」
たとえうまくいかなかったとしても、別の誰かが彼を幸せにしてくれればそれでいい。そうも思ったけれど、本音はやっぱり、それが私でありたかった。
言い換えれば、私は翔を試したのだ。
その自覚は、うっすらとはあった。
胸のネックレスに手をやる。風に晒されて、冷たくなっていて、指先が少しひんやりした。
「今更、それを翔に打ち明けたら『俺のこと信じてなかったのか』とか、面倒になりそうでしょ? だから、改めて聞かれるまでは内緒にしておこうと思ってます」
信じていなかったわけでも、本当に試したかったわけでもない。ただ不安だったのだと、聞かれれば正直に言うつもりだ。でも、言い訳すればするほど、私はどんどん自分自身を軽蔑していく。自業自得ではあるし、いつかは知られることなのかもしれないけれど、今はほんの少しだけ蓋をしておきたかった。
「そっか」
みつえは、前へ視線を伸ばして目を細めていく。その先では、純の羽織った白いワイシャツが、爽やかに翻っている。近づいて手を伸ばせば、掴めそうなのに距離を感じる。私でもそんな感覚になるのだから、みつえはもっと遠くに感じているのかもしれない。
「二人して、内緒話? 私も入れてよ」
いつの間にいたのか。楓が目の前にいて口を尖らせていた。みつえは急いで純から、視線を逸らしていく。
私は膝に肘をついて、頬杖をつく。そして、楓を軽く睨んでやった。
「楓がずっと矢沢君にべったりだったから、気を使ってあげただけでしょ?」
にやにやしていると、楓の顔が真っ赤になった。
純粋で少し羨ましいなんて思ってしまう。
「楓、今度コンクール出るんでしょ? どうして、私を誘ってくれないのよ」
観客を入れた大きなコンクールだ。矢沢を呼んでいるという話は、ちゃんと耳に入っている。
「もうピアノ弾けない人に悪いとか、そういうのやめてよね」
ぷいっと横を向いてやる。
私はピアノの前になると手が動かない。病院に行っていても、原因はわからない。精神的なものだろうという、やんわりとした都合のいい言葉で片付けられてしまった。
代償は、必ずある。
つまり、そういうことなのだろう。
軽い冗談を言ったつもりだった。しかし、楓は真面目に受け取ったのか、みるみるうちに下を向いてしまっていた。
「ごめん! 楓が、そんな深刻に受け止めると思ってなかったから」
楓の背中を叩く。俯いた楓から、恨めしい顔が除いた。
「彩音は、私のことそんなに図太い神経の持ち主だって、思ってたんだ。ひどい」
ぐさりと、胸に突き刺さってしまう。
言葉が出ない。そんな私と楓の間に、みつえは立ち上がって間に立った。
「まぁ、まぁ。彩音さんも悪気があってそういったわけじゃないんだし」
みつえは困り顔で、間を取りなしてくれる。
「どうしたんだ?」
矢沢の声が飛んでくる。ぞろぞろと翔と純もやってきていた。
勢ぞろいする面々。ちょっとだけ微妙な空気。
これは、いい機会だと思った。私は、右手を挙げて立ち上がる。
「なんだか、みなさんには私のことで色々気を遣わせちゃっているみたいなので、ここに宣言させていただきます」
私は、潮風を思い切り吸い込んだ。
「私、影浦彩音は、ピアニストの道は諦めましたが、指導者として頑張ることに決めました!」
みんなに向かって、宣誓する。
「到着したら発表するって、言ってなかったっけ?」
せっかく、声高らかに決心を述べたのに、翔の突っ込みが入る。
「だって、そういう流れだったでしょ? それに、これから島に行くんだよ? もやもやを抱えたままは、嫌だったの」
翔は、頷く。
「でも、ご両親は、大丈夫なの?」
楓は、眉を寄せた。
「まぁ、なるようになるでしょ」
私からも、それくらいしか言えない。
翔が迎えに来てくれた時、両親とはさんざんやり合った。
「ピアノが弾けないのならば、育てた意味が無い」
私の存在そのものを否定するような言い方までされた。でも、私は翔がくれた言葉は、私を助けてくれた。
「そう思うのならば、そう思っていてくれて構いません。私は、私の道を行きます」
私の反抗的な態度が、気に入らなかったのだろう。滾々と説教され、罵られ、家を出るころには、終電時刻になっていた。
あの時、駅で翔が待っていてくれなかったら、私は本当に折れてしまっていたかもしれない。
「時間が経てば、色々見えてくるものもあるだろう。今は、それでいいんじゃないか?」
翔らしい言葉に、私は頷く。
そして、到着のアナウンスが、流れた。
島がすぐそこに、見えてきた。
————
エメラルドグリーンの海。白い砂浜。
まさに絶好の海日和だった。
島に到着して早々、彩音と楓は二人ではしゃぎ回っていた。そこに矢沢が混じり、僕も無理やり引きずり込まれていた。
仰向けになって身体を浮かばせる。
強い日差しに海の冷たさがちょうど良い。青空が一面に広がっている。
その下で、矢沢と楓が二人で、騒いでいた。水しぶきが飛ぶと日差しが、反射して輝く。
腰が浸かるくらいの深さの場所で、そんな二人を眺めていると、横に彩音が並んだ。彩音の瞳と合い、その手を取る。少し冷たい海の中なのに、とても温かい。
「ねぇ、見て。みつえさんと純さん」
彩音は、そっと後ろへ視線だけ砂浜の方へやる。その先は、ビーチパラソル。その下には、純とみつえがいる。
ずっと交わることのなかった二人の視線が、まっすぐお互いを見ている。
「きっと、大丈夫だよね」
「あぁ」
二人の手はしっかりと、繋がれていた。
少しずつ日が落ちていく。 純とみつえは、一足先に宿泊先へ戻っていた。
楓と矢沢も、心地よかった海の水は冷たくなったのか震えながら海から上がってくる。
矢沢と楓は、寒いから先に戻っていると言って、ホテルへと歩き出していた。
残された彩音と僕は、みんな自由人だなと、クスリと笑って、その場に腰を下ろした。
青かった空と海も、幻想的な色に染め上げられていた。白い砂浜が、少しずつピンク色に変化していく。
長いトンネルを抜けた後の景色は、驚くほど美しかった。
「楽しかったね」
この景色を目に焼き付ける彩音の胸元のネックレスが、太陽の最後の輝きを全部かき集めたように、光った。
そして、彩音が「ねぇ、翔」と、僕の名前を呼んだ。その横顔は、ずっと穏やかだったのに、不安気に瞳が揺れていた。
「これは、夢」
途端、彩音を願うために入った夢の部屋と同じ景色が重なっていきそうになった。オレンジの夕日が、一瞬揺らぐ。彩音は、それを打ち消すように言った。
「じゃないよね?」
彩音が僕の手を強く握ってくる。真剣な眼差しが僕に向けられ、彩音の手を強く握り返した。
「当たり前だ」
彩音の胸元には、しっかりとネックレスが光っている。
あの時と、同じにしてたまるか。
僕は、ずっと隠し持っていたポケットへ手をやる。手のひらサイズの小箱。しっかりとした重みを感じる。
「受け取ってほしい」
彩音へ、手渡す。彩音は、少し手を震わせて蓋を開ける。
キラリと光った中身。それを目にした彩音は、戸惑っているのが分かった。
そんなこと関係なく彩音の細い指に、指輪をはめる。一粒の石が、強い輝きを放った。
それが合図だった。
帰ったはずの四人が、突然現れた。
パン! パン! と、クラッカーが鳴った。
「彩音、婚約おめでとう!」
「二人とも、めでたい!」
楓と矢沢の賑やかしを皮切りに、みつえが花束を彩音へ渡す。
「お幸せにね」
微笑むみつえの隣で、純は黙ってそれを見ているだけだったが、その眼に覚悟が見えた。
「今日は、お祝いだからね」
楓は、そう言って矢沢とみつえたちを巻き込みながら、先に行く。
彩音は、ただただ目を丸くして、はめられた指輪を見つめている。
「プロポーズは、外堀を埋めて断れないようにしてからが鉄則」
彩音は、はっと顔を上げる。
「俺も、なかなかずるい人間なんだ」
彩音は、ますます目を大きくさせていく。
その瞳から一筋の涙が零れ、彩音は僕に飛びついてくる。
僕は、それを全身で彩音を受け止め、閉じ込めた。




