終章
シーファスの婚約者として、ユリアは今もあの離宮で暮らしていた。
結婚までの日取りを数えたユリアの顔が緩む。
「なにを笑っているの?」
ふっと顔を覗き込まれたユリアは、頬を染めた。
シーファスは暇を見つけてはこうして離宮を訪れてくれた。彼自身、公務などで忙しいはずなのに。
「僕がいるときに上の空なんて……ユリアの心を占めている何かに嫉妬しそうになる」
「シーファス様……」
「まさか、あのしまりのない顔をした男のことじゃないだろうね。まったく、総指揮官という立場を利用して、これ幸いとばかりにユリアに触れて……っ。しかもユリアのことを自分たちの物のように言うからますます憎らしい。ユリアは僕のなのに」
シーファスはユートンのことをお気に召さなかったようだ。もっとも、彼のほうもシーファスのことを見下しているので、お互い様といったところだろう。
ユートンたちは、王への謁見を終えると帰国したのだった。
勇猛な彼らの勇姿にアルトランディアの多くの兵が勇気づけられたことだろう。バーラントも平和な国だったはずなのに、実践に長けていた彼らはまさに戦神が乗り移ったかのようだった。
国王はもちろん感謝の言葉とともに、数え切れないほどの報奨を聖巫女へと贈った。
これをきっかけに、二国間の交流は活発になるかもしれない。
「ねぇ、ユリア。何も知らなかった無知なユリアの心の隙につけ込んだのは僕。きっといつか君は僕を選んだことを後悔するかもしれない。けれど、ごめんね。この手を離してはやれないんだ」
「……それは私の台詞です。力をまだ制御しきれないせいで、いつかシーファス様に迷惑を掛けてしまうでしょう。それでも私を妻としていただけますか?」
「ユリア以外はいらない。こんなに心を乱されるのも、大切にしたいと想うのも生涯でユリアだけだよ」
「シーファス様……」
見つめ合う二人の顔が近づき、そっと唇が重なりそうになったそのとき──扉が開いた。
「ユリア様! また陛下から届きましたわ。陛下は離宮を贈り物の品で埋め尽くしてしまわれるおつもりかしら」
肩を怒らせて入ってきたのは、両手に抱えきれないほどの箱を抱えたエルファであった。
ユリアは驚いて、シーファスから離れた。
チッと舌打ちしたシーファスは、エルファではなく、その後ろで得心がいったような笑みを浮かべるアイゼ王妃に視線を移した。
「あらあら、お邪魔だったかしら」
「供もつけず出歩くなんて感心しませんね」
良い雰囲気を邪魔されたシーファスは刺々しく言った。
「外は騒がしいもの。本当に彼らは、自分の利になるとわかると掌を返すから嫌ね。あれほどユリアを罵った口で、媚びへつらう言葉を紡ぐのだから」
ユリアを招待する手紙も毎日のように届いていた。
離宮の周辺はかつての……いや、かつて以上に賑わいをみせ、貴婦人はユリアのあの服を真似てぴったりとした落ち着いたドレスに、瞳と同じ色の装飾品を身につけるのを流行らせていた。
アイゼ王妃は、向かいの長いすに腰を掛けると、優雅に扇で顔を仰いだ。
「あ、あの、王妃様」
「なあに?」
「贈り物はもう結構ですと、陛下におっしゃってはいただけませんか?」
ユリアはエルファが床に置く箱を一瞥して、困惑したように眉を寄せた。
謝罪の代わりのように毎日のように大量のドレスや装身具が届いていた。毎日袖を通してもまだ余る量に、さすがのユリアも困っていた。シーファスに懇願しても、彼は受け取って当然と言うばかりであてにできなかった。
「慰謝料のようなものよ。遠慮しないで受け取りなさいな。陛下に甘い顔をしたら、つけあがるのだから。ほほ、あの人の情けない顔ったら。ユリアを詰ったことをよほど後悔しているようね」
「父上には反省していただかないと。もちろん、偽りの告白をした者たちも、ね」
シーファスの目に冷たい光が宿る。
すでに首謀者は捕まっていた。侯爵家の令息だという。彼は、ユリアを目の仇にしていたアリッツィ姫に唆され、使用人を誘惑して嘘の証言をするよう言ったのだ。
もちろん、アリッツィ姫は否定しているが、彼女が裏で操っていたのは間違いないだろう。父である宰相はこの一件を受け、職を辞したが、恥を掻いた国王がそれだけですませるわけがなかった。
長年仕えてきた重臣であろうと、国王は容赦なく叱責し、彼の爵位と領地を没収した。アリッツィ姫は、貴族出身ということもあり死刑こそ免れたが、一生を牢の中で過ごすこととなる。
侯爵家の令息は、官吏に推薦するというアリッツィ姫の言葉を真に受け、実行しただけであり、そこに悪意は低いことから三十年の間牢へ入れられることとなった。
ボンワット夫人の助けがなければ、ユリアは無実の罪で拷問を受けようとしていたのだからこれくらいは当然であろう。もし、あのままユリアが裁かれていたら、バーラントは決してアルトランディアを許しはしないだろうし、こうして平穏が訪れることもなかった。
だが、ユリアの胸中は複雑であった。
本当に裁かれるべきはディオルン伯爵なのだ。
実際に寝返ったにも関わらず、シーファスの計らいによってその事実は消されたのだ。シーファスがあえてディオルン伯爵を告発しなかったのは、ユリアを犯罪者の娘にしたくなかったからであった。いくらユリアが次期聖巫女であっても、母国を裏切った男の娘が未来の正妃となるのは国民も納得しないだろう。
だからこそシーファスは言いように話を作り変えたのだった。
ディオルン伯爵の思惑通り。
ディオルン伯爵は、愛する娘ファルファーナを犠牲にしてまでアルトランディアのためにバル・ドゥーラ王の動向を探っていたという情報をシーファスが流したのだ。
敵を騙すにはまず味方から、というように、彼は見事憎まれ役を買って出たのだと。
すっかり信じ込まされたらしい宮廷人たちは、最後までだれも気づくことのなかったその策士ぶりを讃えて、ディオルン伯爵を英雄扱いしている。
自分は信じていた、と嘯く貴族連中まで続出しているというから手に負えない。
国王から名誉ある地位と新たな領地を与えられたディオルン伯爵は、貪欲に次を狙っていることだろう。
息子のヴァンズも、父の疑惑が晴れた今、戦地での働きぶりが認められ昇格したようだ。なによりも、ユリアの異母兄ということもあり、一目置かれているようである。
ヴァンズとユリアの仲はそれほど変わっていないが、前より少し優しく接してくれるようになっただろうか。ときおり離宮に訪れては、ファルファーナの成長を嬉しそうに話していた。
彼は、自分の父が祖国を裏切ったことを目の当たりにしているはずなのに、己の保身のために口をつぐんだようだった。だれしも犯罪者の子供にはなりたくないだろう。
ユリアもまた心に秘めることを選んだのだった。
すべてはシーファスと一緒になるために。
「ユリア、また白薔薇の集いにいらしてね。誘いがひっきりなしに入っているでしょうけれど、時間は取れる?」
「もちろんです。ぜひ行かせていただきます」
「そう。楽しみにしているわ。また四人で楽しくお喋りしましょうね。なんといってもあなたはもうすぐわたくしの娘になるんですから」
「母上、ユリアを連れ回さないでくださいね」
シーファスはしっかりと釘を刺した。
「あら、こんなに美しく、愛らしい子を自慢しなくてどうするの? 舞踏会に、観劇……ああ、行きたいところはたくさんあるわ」
「遠慮というものを知ってください」
「まあ、母になんという口の利き方かしら」
言い合う二人の姿を微笑ましく見つめていたユリアは、また聞こえてきた別の声にハッと顔を向けた。
「ユリアさん。今日こそ検査させてもらうわよ!」
現れたのはボンワット夫人であった。
ユリアの神秘の力の秘密をなんとしてでも解明したいらしいボンワット夫人は、こうして何度も離宮を訪れては迫ったのだった。
ディオルンの聖なる戦いでは、負傷した彼女の夫は、ユリアの治癒のおかげで見事に回復したのだった。その事実を聞かされたボンワット夫人は、バーラントにますます興味を持ったようだ。
「あら、いらしたの?」
「今後の研究のために、ユリアを知っておくほうがいいと思って」
「何度も申し上げましたが、ユリアを実験の道具にしないでください!」
シーファスは、にこやかに会話を交わす二人に何を言っても無駄と悟ったのか、ユリアの方へと戻ってきた。
「まったく……かなわないよ」
疲れたようにユリアの隣へと腰を下ろしたシーファスは、くしゃりと髪をかき上げた。
「せっかくの二人きりの時間を邪魔されるんだから」
でも、と瞳をいたずらっ子のように輝かせたシーファスは、穏やかな笑みを浮かべているユリアの唇を素早く奪った。
「――また出直すよ。今度はだれも来ない時間帯を狙ってね。愛しているよ、ユリア」
「……っ」
かぁと頬を染めたユリアは、君は? と答えを促されて、小さな声で囁いた。
私も愛しています、と。
それに優しく微笑んだシーファスは、ユリアの赤くなった頬を一撫ですると、興味津々といった風にこちらを窺っていたご夫人二人を睨みつけた。
「今後は気を利かせてくださいね」
じゃあ、また、とシーファスが去っていくと、アイゼたちが賑やかに騒ぎ出した。
「あのシーファスが独占欲むき出しよ! なんてことかしら」
「初々しい恋人たちね。わたしも久しぶりに家に戻ろうかしら。あの人のことが恋しくなってきたわ」
「では、わたくしは陛下の元へお説教にでも行こうかしら」
「それは楽しそうね」
くすくすと笑い合うアイゼとボンワット夫人。
「この離宮は今日も賑やかですわね」
お茶の用意をしていたエルファは、目の前の光景を見て笑った。
「そうね」
ユリアは火照る頬を冷ますように掌を当てた。一瞬とはいえ、触れた柔らかな感触がまだ唇に残っているようだった。
「ユリア様の周りにはいつも人がおいでですね」
エルファのその言葉がユリアの心を温かくした。
いつも独りだったユリア。
温かなこの光景を何度想像しただろう。
ユリアは目を瞑り、先ほどのシーファスの姿を思い描いた。
ようやく幸せを手に入れたのだ。
もうユリアは、視線に怯えることも、寒さに震えることもないだろう。
(愛すること……愛される歓びをシーファス様は教えてくれた……)
だれよりも、なによりも大切な人。
これからはずっと側にいることができるのだ。
目を開けたユリアが窓の外を見上げると、彼女の心情を現すように雲一つない青空が広がっていた。
雨が降らないようになったら私のせいかしら、とくすりと笑った。




