誰が為に
三
セトたちを送り出してから半クラム(約一五分)ほど経った頃、表口の方であわただしい足音が響いた。グレンデルが様子を見に出向くと、息を切らせて立っていたのはリタルドだった。
「・・・セトたちは?」挨拶もせず、リタルドがたずねた。焦っているようだった。
「少し前に出ていった」グレンデルは淡々と答えた。「おまえも行くなら急ぎなさい。馬か何かを使えば、追いつくだろう」
リタルドはグレンデルの元で育った子供たちの中で、一番最後にグレンデルの元を離れた子供だった。セトのことを実の弟同然にかわいがり、セトもやはり実の兄同然に慕っていたから、リタルドがセトについていきたいと考えても不思議はなかった。
だが、グレンデルの言葉にリタルドは首を振った。
「俺はもう、この町の住民です。セトも心配だけど・・・この町の中で生きていくって、決めましたから。・・・それより」
リタルドは一度息をつき、呼吸を落ち着かせた。それでも険しい表情は変わらない。
「臨検が、きました。今、街門でリーヤーさんが時間を稼いでくれてますけど・・・」
「そうか・・・やはり、早いな」グレンデルの表情は変わらなかった。「フェイ・トスカが来ているのか?」
その問いに、リタルドは無言でうなずいた。
「ならば、わしが行かねば抑えられまい」そう言うと、しっかりとした足取りで歩き始めた。リタルドがあわててついていく。
「あの・・・お身体は?」病人とは思えぬ歩調に思わずそう訪ねると、グレンデルはこともなげに言った。
「最後の仕事だ。少しばかりは無理もするさ」
屋敷を出ると、外はすでに薄暗かった。雲はなく、月が皓々と輝いている。グレンデルは灯りも持たずに進み、リタルドがたいまつを持って続いた。
グレンデルの歩調は早かった。リタルドはこの老人についていくために、時折早足にならなければならなかった。ついこの間まで支えられなければ歩けなかったはずなのに、ガンファの薬がよほど効いたのだろうか?
やがて街壁か見えてきたが、そこへたどり着く前に、いくつかの灯りがグレンデルたちの方へ向かって進んでくるのが見えた。グレンデルは立ち止まり、リタルドも従った。
「・・・来たか」
灯りがこちらに近づくにつれ、その姿も確認できるようになってきた。人数はそれほど大勢ではないが、みな武装しているようだった。一番前を半魚人のリーヤーが、魔法の灯りを持って先導している。そのすぐ後ろに、グレンデルには見覚えのある人間の姿があった。
フェイ・トスカは、鎧の上下をしっかりと着込み、剣も背中に担いでいるようだった。かぶとはつけておらず、顔は露出しているが、戦闘態勢といっていい。
フェイのほか十数人の魔族の兵士や、小間使いとして使っているのであろう小鬼姿の魔物がつき従っている。
フェイは、グレンデルから七ログ(約四・九メートル)程度離れた位置で立ち止まった。「こちらが──」リーヤーがフェイの脇に立って互いを紹介しようとしたが、フェイが強烈な目つきで睨みつけると、ヒッと息をのんで黙ってしまった。
「ずいぶん貧相になったな、じいさん」
フェイは何事もなかったかのように視線を戻し、老人の姿で自分の前に立つグレンデルを睨めつけるようにすると、小馬鹿にしたような薄い笑いを浮かべてそう言った。
「おまえはずいぶん物騒になったじゃないか」
グレンデルも言い返す。フェイが身につけているのはかつて姫を救いに現れたときの白を基調とした騎士鎧ではなく、暗い紫と黒をベースにした重鎧である。
「立場にふさわしい格好というのがあるのさ。人の身で魔族の将軍などやってるものでね。下にみられないためには外見も重要なのさ・・・あまり趣味じゃないんだがね」
フェイは冗談めかすように両肩をあげ、首を振った。
「さてと、旧交を温めるのはこれくらいで、本題に入ろう」口元の笑みは消えなかったが、目つきの鋭さが増す。「返してもらいにきたんだ・・・俺の息子をね」
「・・・」グレンデルは答えなかった。
「どこかにはいるんだろうと思って探してたんだが、まさかあんたが面倒をみているとはね・・・。人間が育てていると思ってそちらから洗っていたから、見つかるまでずいぶん時間がかかってしまった。まったく、魔族に自分の子供を託すなんて、姫の度胸には敬服するよ」
「おまえは」グレンデルは声を絞り出した。「自分の息子を・・・殺しにきたのか?」
フェイの顔から笑みが消えた。一瞬たりとも視線をグレンデルから逸らさずに、言った。「そうだ」
「なぜ、そんなことをする!」グレンデルが吼えた。「おまえとシフォニアの、わずかしかない逢瀬の中で産まれた子供だぞ!」
「それが必要なことだからさ」フェイの表情は変わらない。
「自分が生きるために、か?」グレンデルは今にも飛びかからんばかりだ。この質問の答え次第で、本当にそうするつもりだった。
「自分が望むことを為すために、だ」それは肯定ととれなくもないが、グレンデルの想定していた回答とは少しずれているものだった。
「望むこととは、なんだ」
「『太陽の宝珠』に力を満たすこと。それ以上は、あんたに言うつもりはない」
「『太陽の宝珠』だと!?」
長命種であるグレンデルは、その宝珠の名前を知っていた。世界を創り替えるほどの力を持つが、多大な代償を必要とする伝説の宝珠。強大な力を持つ宝珠はほかにも数あるが、『太陽の宝珠』はその中でもひときわ強力で、かつ凶悪なアイテムであった。
「そんなもののために・・・愛した女の命を奪い、今また血を分けた息子の命を奪おうというのか!」
「そんなもの、ね」フェイの顔にまた軽蔑したような薄い笑みが浮かんだ。「力を持っているものには、持っていないものの気持ちはわからんだろうさ」
「なんだと・・・」
「老人の格好をして貧しいものを食べ、それで虐げられるものの気持ちが分かったつもりか?そんなのは所詮おままごとだ。気まぐれに子供を助けて、良君とあがめられていい気分かもしれんが、奴隷として生きていくしかない人間からすれば、あんただってほかの魔族とたいして変わらん。恨みや妬み、憎しみの対象さ」
「なにを言うんだ!」声を上げたのは、それまで一歩下がったところにいたリタルドだった。「長老や、長老を慕っているここの魔族たちは、ほかの領地の魔族とは違う!奴隷たちだって・・・」
「黙ってろ、ガキ」フェイは取り合わなかった。「狭い世界しか知らない子供と話しても意味がない」
リタルドはさらに言い募ろうとしたが、グレンデルが腕を広げて抑えた。
「確かにほとんどの人間からすれば、魔族は傲慢な存在にしか見えんだろう。だが、そんなわしらでも、血を分けたものを愛する心は持っている。長くともにいれば情がわく。それはおまえたち人間と、なにも変わらん。おまえのしたこと、やろうとしていることは、すべての世界で生きているものにとっての共通のタブーを破るということだ」
「そりゃ、あんたの理屈だろ」
グレンデルは努めて冷静に説得を試みたが、フェイの心は少しも動く様子がなかったようだった。「俺にとっての最大のタブーは・・・」
フェイは言いながら下を向いた。声も小さかったので、グレンデルには最後の言葉が聞き取れなかった。
「問答はいい。俺の息子の居場所を言え。これは魔王グローングから正式に下された命令だ。拒否すれば反逆の罪であんたの首が飛ぶ。あんたがいかに重鎮だろうと、おめこぼしはなしだ」
グレンデルはしばらく黙った。しかしその目線はそらされることなくフェイを捉えており、むしろフェイがどこまで本気でそう言っているのかをはかっているようにも見えた。
「・・・拒否する」
グレンデルの返答に、思わず息をのんだのはリタルドだった。フェイは動じた様子はなく、グレンデルを睨みつけた。
「死ぬ気か。魔族が人間にそこまで肩入れするとはな。残り少ない余生、ただおとなしくしていればよかったものを──」
「だまれ、こわっぱ!」グレンデルは、フェイの言葉をさえぎって叫んだ。「同じ魔王の幕下といえど、おまえのような犬と一緒にするな!わしは誇り高き竜の一族、おのれの信じることを為し、おのれの愛するもののため生きる!」
叫びながら、その姿は徐々に変容を始めていた。か細い老人の姿に黒いオーラが集まり、そこから稲光のように鋭い閃光が幾筋も走った。
身体が膨れるようにして大きくなり、身につけていたローブが伸びきって破ける頃には人のそれとは明らかに異質の、黒い鱗を帯びた肌が露出した。腹は白く蛇腹になっており、背中にはとさかが生え、長いしっぽが大地を揺らした。
フェイをその数倍の高さから牙をむき出しにして睨みつけるそれは、人よりはるかに強い力を持つ魔族たちの中でも最上位とされる、ブラック・ドラゴンであった。
「ちょ、長老──」かすれた声を上げたのはリタルドだった。彼は自分を育ててくれた老人が魔族であることは知っていたが、その姿を目の当たりにするのはこれが初めてだったのだ。
グレンデルが首を少し曲げてリタルドの方をみた。リタルドはそこからこれまでグレンデルに対して抱いていた柔和な老人のイメージを全く感じることができず、それどころか牙の間からは虫類同様の長い舌がのぞいているのを見て、思わず数歩、後ずさってしまった。グレンデルはなにも言わず、視線を戻した。
「健気だな」フェイには全く動揺した様子はない。「人であれば無条件で恐怖するその姿で、人を守るために戦うというのか」
「姿形なぞどうでもよい」その声はすこしだけ人の格好をしているときのグレンデルを感じさせたが、そのときの声よりもずっと低く、重く響いた。「おまえを息子に会わせるわけにはいかん。おとなしく逃げ帰って魔王に伝えろ。『太陽の宝珠』はあきらめろ、とな」
「俺を倒せる気でいるのか。・・・一度負けているくせに?」
「あのときのわしには迷いがあった。だが今は、人の・・・生きるものの道を踏み外してしまったおまえを殺すことに、ためらいはない!」
グレンデルが咆哮をあげ、フェイはそれに合わせるようにして背中の剣を抜きはなった。
フェイは大きく反り返った蛮刀を、騎士の剣を使っていた頃と同様に正眼に構えたが、そうして睨み合ったのはわずかな時間でしかなかった。グレンデルがリーヤーやリタルドが影響のない範囲まで退避したのを確認すると、いきなりその口から炎を吐き出したからである。
フェイは右へ飛び、転がって炎から逃れたが、彼が連れてきた手下の魔族のうち、突然の大技に反応の鈍かった何体かは巻き込まれ、身体を高熱に焼かれてあえなく息絶えた。
グレンデルは火炎の放出をやめず、逃げるフェイを追って首を巡らした。フェイはかつて魔王と戦ったときに持っていたような炎を防ぐ強力な防具を持っておらず、ただひたすらに距離をとって火炎の効果範囲外に逃れるしかすべはなかった。
十ログあまりの距離が開いたところで、グレンデルは火炎の放出を止めた。フェイ・トスカは遠距離を攻撃する魔法も使えるが、それだけで竜と渡り合えるほどの能力があるわけではない。接近戦こそが彼のスタイルで、体が大きい相手と戦うときほど積極的に懐へもぐり込もうとするのだ。それさえ封じてしまえば倒せない相手ではない。
「なるほど、年寄りらしく考えてるんだな」フェイは顔についた煤を払うと、再び構えた。グレンデルはフェイの踏み込みにあわせて炎を吐くつもりでフェイを見据えた。
「だが、ちょっと勘違いしているんじゃないか」
「何?」
フェイの言葉に疑問を感じたその瞬間、風を切る音とともに唐突にグレンデルの顔面に激痛が走った。
「があああっ!」
右目が開かない。何かを打ち込まれたのだ。痛みにのけぞりながらも左目で確認すると、フェイの手勢のうちの一人が弓を構えているのが見えた。
「一対一だなんて、誰も言ってないぜ?」
フェイの声は近くから聞こえた。隙をつかれ、接近されたのだ。
距離を詰められたら、炎での牽制は意味を為さない。グレンデルはとにかく闇雲に手を振り回し、しっぽをたたきつけた。まぐれでも当たれば威力は十分だ。
だが、かつてあまたの魔族を討ち倒し、自分より大きい相手とは戦いなれているフェイである。当てずっぽうの攻撃に当たるようなへまは犯さなかった。ねらい通りグレンデルの懐へと飛び込むと、白い腹に向けてためらわずに剣を斬りつけた。
そこは鱗に覆われていないとはいえ、並の剣では傷を付けることなどできない。だがフェイの振るう蛮刀はいともたやすく斬り裂いた。鮮血が飛び散り、フェイの身体も汚す。
「ぐ・・・ぅ・・・」
満身創痍となったグレンデルは動きを止めたが、それは抵抗をあきらめたわけではない。グレンデルの意識が集中されるにつれ、にわかに雷雲がその頭上に立ちこめた。竜にもいろいろ種類はいるが、炎と雷はすべての竜が共通で使いこなす攻撃手段である。
グレンデルは自分自身を目標に雷を落とした。足下にいるフェイを巻き添えにする算段である。腹部を突き刺す痛みが、まだフェイがそこにいることを教えていた。
いっさいの手加減なしで落とした雷は、グレンデル自身にもダメージを与えた。万全の状態なら自らの技で痛みを感じることなどないが、体中の傷がひきつり、グレンデルは痛みに声を上げた。
雷が収まると、グレンデルは左目でフェイの姿を探した。右目はおそらく矢がつきたっているのだろう、全く見ることができなかった。
足元を見ても、フェイの姿はなかった。焦りを感じたその瞬間、首筋に冷たい剣先が押し当てられた。
「はしゃぐのはそこまでだよ、じいさん」
フェイがいつの間にか背中を駆け上り、馬乗りになって蛮刀を突きつけていた。
「ばかな・・・」雷は確かにフェイを捉えたはずだった。だがフェイは平然としている。
「残念だったが、この鎧は雷に関しては絶対防御を誇る。あんたの攻撃手段の中では一番やっかいだからな。なんの対策もなしに接近戦など仕掛けるものか」闇に溶けんばかりの暗い鎧は、いくらか帯電して紫の光が肩口から爆ぜていた。
「・・・ここまでだな」フェイの剣先が捉えている喉元は、強靱な生命力を持つ竜の唯一と言っていい弱点である。一カ所だけ逆向きに鱗が生えている箇所があり、その周辺だけはいくら成長しても柔らかいままで、簡単に刃を通すことが可能なのだ。
「おまえは、変わってしまったように見える」グレンデルは戸惑っているようだった。「だが、そうでないようにも見える。言葉遣いは変わったが、戦い方は変わっていない。冷静に相手を観察し、利用できるものは利用し、的確に弱点を突く。少なくとも、狂気に囚われたものの戦い方ではない」
「俺は変わっていない。変わったのは世界だ。俺は勇者として、世界の変化をただす。そのために、必要なものは手に入れる。それだけだ」
「・・・ならばゆけ。わしの役目は終わった。あとはこの世に残るものたちで、いかようにでもするがいい。壊すも、創るも、そなたら次第だ」
グレンデルの声からは先ほどまでの怒りは感じられなかった。そのグレンデルの背中にまたがるようにしているフェイの表情は見えない。
「じゃあな、じいさん。せいぜいぐっすり休みな」
みじかい別れの言葉のあと、剣を押しあてたままの持ち手が引かれた。