時は流れゆく
新暦三〇一三年 五ノ月
南大陸の新フェネリカ公領は、およそ六〇〇年ほど前に成立した学問の地である。世界情勢が安定し、人民の生活が落ち着いたことを期に時の王グローング三世が識字率の向上や過去の歴史の編纂などを目的に作らせた。
なかでも新フェネリカ公立大学は、学問を極めんとする若者ならば誰もが目標とする最高学府である。過去を識り、新たな未来を創造するために、毎年世界中から人々が集ってくるのだった。
「はあぁ・・・。参ったなぁ」
青年はそびえ立つ六階建ての建物から出てくるなり、深いため息をついた。
「新フェネリカの公立図書館なら古い文献もたくさんあるっていうから期待してたのに、あれっぽっちか」
青年は建物をかえりみると、南大陸最大の図書館に向かってそう悪態をついた。短く刈そろえられた黒髪に手をやって、ぼりぼりと掻いた。
そこへ、建物の外から近づく影があった。大柄なシルエットが青年の身体を覆い隠す。
「よう、アルセン。課題のすすみ具合はどうだ?」
「ギーエか」
アルセンと呼ばれた青年は、声をかけられて巡らせていた首を戻した。声だけで誰かはわかったが、目を合わせてから相手の名前を呼ぶ。
目の前に立っていた大男ギーエは、目をばちばちとしばたたかせながらアルセンに近づきその肩を抱いた。今日は暖かな陽気だが、ギーエの肌はひんやりと冷たい。
「その様子だと、あまり芳しくはなさそうだな」
「ああ・・・ひどいもんさ」
ギーエが遠慮なしに体重をかけてくるので、アルセンは右足でしっかりと体重をかけていないとそのまま押し倒されそうになる。
アルセン自身、人間の中ではそこそこがたいの大きいほうだが、ギーエにはかなわない。そもそもギーエは人間ではない。
彼は四肢の発達した鰐が二足歩行を覚えて服を着たような姿をしていた。肌の大部分はうろこに覆われ、体表は緑色である。
ただし、彼の姿形はここ新フェネリカ公立大学の中にあってそれほど特別と言うことはない。ただ、彼が同族の中で初めて公立大学に進んだ若者であるという点では特別ではあったが。
そして、そのことはアルセンについても言えた。彼もまた大学の中で特別目立つ存在ではない。ただ、彼の先祖について少し他人とは違う点があるのだ。
ギーエが言うには、こうやって身体をくっつけ合うのは彼の種族においては友情の証なのだという。それはそれでいいのだが、ギーエはいつも体格差というものを考慮に入れてくれない。
「せっかく教授に頼み込んで古文書の閲覧許可をもらったのに・・・って、ちょっとギーエ、重い、離れて!」
「おっ、悪い悪い」
口ではそう言いながら、身体を離したギーエはさして悪びれる様子もなかった。
「俺は同族ばかりの集落にすんでいたから、どうも人間相手は力加減がわからなくってな」
そう言ってげはげはと笑うのだった。
「気をつけなよ。誰かの首の骨を折ってからそんなこと言っても遅いんだから」
「そうするよ」
「あっ、アルセンにギーエじゃない!」
今度は甲高い声が聞こえて、女性がふたりの元に駆け寄ってきた。
「やあ、ファナ」
アルセンは片手をあげて挨拶したが、ギーエがそれに割り込むようにして大きな身体を広げた。
「ファナじゃないか!今日も美しいね。耳のうろこが輝いて見えるよ」
「ありがとう、ギーエ」
アルセン、ギーエと同級生のファナは、遠目には人間と変わらないシルエットをしている。美しく伸ばした金髪と整った顔立ちで、男子生徒の人気も高い。ただし、つんとつり上がった眼は彼女の性格を反映しており、軽い気持ちで彼女に声をかけたものはみな手ひどくあしらわれるのだが。
そして、少し近づいてみればわかることだが、ファナの耳は人間のそれとは違っていた。
彼女の両耳は魚のひれのような膜状のものになっており、その根本にはうろこもあるのだ。
ファナの両親は人間である。だが何世代か前に魚類系の他種族の血が混じっており、それが隔世遺伝として彼女にあらわれたのだった。
彼女のようなケースはそれほど多くないが、人間と他種族の混血も進みつつある今では、彼女の外見そのものは珍しいものでもない。
ファナは屈託のない笑顔でギーエに礼を言うと、アルセンにはじと目を向けた。
「アルセンは、なんかないの?」
「挨拶しただろ、ちゃんと」
「たまにはギーエみたいにしてみたら?女の子にもてないわよ」
アルセンが素っ気なく答えると、ファナは頬を膨らませてそう言った。三人が集まると、最初はいつもこんなやりとりになる。
フェミニストのギーエは女性にはいつも優しいが、ファナは特にお気に入りらしく会うたびに外見やら声やら、どこかしら褒めたたえている。
対してアルセンは女性を誉めたりするのは気恥ずかしいのだが、ファナはそれが気に入らないらしい。
一度ギーエに「ファナは本当はアルセンにこそ褒めてもらいたいんだ」と言われたことがあるが、はいそうですか、と急に褒めそやすのにも抵抗があり、結局はこうなるのだった。
「ふたりとも、課題をしにきたの?」
ファナはお決まりのやりとりを終えるとけろりとしてそう言った。
「ああ・・・」
「ま、俺はもうほとんど終わってるけどな」
「え、うそ?いいなー」
三人は先月から同じ教室になった。長いつきあいではないが、どうやら馬が合うらしく一緒にいる時間が多い。
ファナの言う課題とは、歴史学の教授に出されたものだった。それは、「自分の祖先について調べ、ルーツを明らかにすること」というものである。
「この課題ってさぁ、やっぱりアルセンがいるからなのかな」
「そうかもな」
ファナが思案顔をして言うと、ギーエが同意した。
「なんと言っても、伝説の勇者の子孫だからな、アルセンは」
「もう三〇〇〇年も前の話だよ。いくらなんでも伝説すぎる」アルセンは首を振った。
アルセン・トスカの祖先は、公式文書に記されている最後の勇者、セト・トスカであった。
三〇〇〇年の時を経ても彼の名前は有名である。それは、彼の冒険と戦いが数え切れないほど多くの歌や物語として世界中で語り継がれているからであった。
「みんな期待してるぜ。おまえが発表の時にどんな『伝説』を語ってくれるのかって」
ギーエはそう言うと少し意地悪そうにげふげふと笑った。
課題自体は「祖先について」としか言われていないのでセト・トスカについてでなくてもいいのだが、それでは周りが納得してくれないだろう。
また、アルセン自身もセト・トスカが実際にはなにを為した人物なのか知りたいという思いがあった。民間に広まっているものは荒唐無稽なものが多く、なにが真実なのかさっぱりわからないのだ。
それで、教授に頼んで図書館に所蔵されている古い文書を調べさせてもらったのだった。
「それで、なにかおもしろいことはわかったのか?」
「うーん・・・この南の大陸は勇者セトが最後の戦いを終えた後に、家族で移住して開拓して住めるようにした、っていうのは本当らしいよ」
「あ、それ聞いたことある!元々この辺は砂漠だったけど、勇者が魔法で土に活力を与えて作物が育つようにしたんだって」
「残念だけど、それは嘘だろうな。セト・トスカは魔法が使えなかったんだ」
「えー、そうなの?」ファナはそう言うと、残念そうに肩を落とした。
「うん。だから勇者が魔法でどうこうした、っていう物語はどれも後世の創作っていうことになるね」
「それなら、どうやって砂漠を開拓したんだ?」ギーエが口を挟んだ。
「さあ・・・そこまでは載っていなかったよ。誰か別の魔法使いを連れていったとかじゃないかな?」
「ほかには?」ファナが促してくる。
「そうだな・・・最後の戦いのとき竜に乗っていたのはどうやら本当らしい」
アルセンがそう言うと、ギーエとファナは一様に驚いて顔を見合わせた。
「え!そうなの?」
「それこそ誰かが適当につくった話だと思ってたぜ」
「僕もそう思ってたけどね。でも、古文書にもちゃんと書かれてたよ。『勇者は竜を駆りて空を舞い、大地を破壊せんとする悪を砕いた』ってね」
アルセンの言葉に、ファナが感心したような声を出した。
「竜って、昔は本当にいたんだねえ」
「今だっていないわけじゃないぞ。高い山の頂上まで登れば、空を飛んでるのを見られることもあるっていうぜ」
ギーエがそう言ったが、ファナは信じられないようだった。
「それこそ、作り話じゃないの?」
「俺の集落の長老の話だぜ!──まあ、長老も自分で見た訳じゃないらしいが」
「やっぱり」
「やっぱりとはなんだ!」
言い争いを始めたふたりを後目に、アルセンは空を見上げた。
当然、空を舞う竜の姿などは目に入らない。ただ晴れ上がった空が広がっているだけだ。
セト・トスカについて、公式の文書の記録は端的なものだった。ふたりに話した以外にわかったことは、南の大陸の開拓をすすめながら同時に奴隷制度の撤廃に尽力していたこと、妻との間に三男二女をもうけたことくらいだ。
そして、新暦五二年に五六歳で死去している。
ちなみに、実際に奴隷解放宣言を出したのは彼の孫であった。
一度だけ見せてもらった家系図にいちばん大きな文字でかかれているご先祖様についてわかったのは、その程度のことだった。
しばらく空を見上げていると、やがて言い争いをやめたふたりもそれにならった。
「──いい天気だねぇ」ファナがぽつりとつぶやく。
誰も答えず、三人でしばらく雲が流れていくのを眺めていた。
やがて同じ姿勢に疲れたアルセンが伸びをして、その時間は終わった。
「なんかいいよね、こういうの。平和で」ファナがふたりに笑顔を向けた。
「平和って──」いいかけて、アルセンは口をつぐむ。
ファナの出身地方では先年大きな内乱が起こった。今は下火になったが完全に収まったとは言えない。
ファナはその地に、両親とふたりの弟を残してきているのだと言っていた。
彼女がそのことを気にしていないはずはない。だが、彼女は笑顔を絶やさないのだ。
「やっぱり平和がいいよなぁ」ギーエが言い、アルセンの背中をたたいた。
「・・・そうだね」アルセンも笑顔でそう答えるのだった。
「そうだ、明日もいい天気になりますように、ってマーチさまにお願いしとこ」
ファナがそんなことを言ったので、アルセンは思わず吹き出した。。
「マーチさまって・・・子供じゃあるまいし」
「なによ、別に子供しかお願いしちゃいけないなんてことないでしょ?」
「マーチさま」はほぼ南北大陸全土に広がっている信仰の一種で、神さまではあるがおまじないに近いものだった。御利益は地方によって多少異なるが、転んですりむいた傷が早く治るようにであるとか、そういう「ちょっとしたお願い」を聞いてくれる神さまだと言われている。
「そういえばさ」ファナがふと思い出したようにアルセンに向かっていった。
「マーチさまって、勇者のお嫁さんなんだって聞いたことあるよ」
「そうなのか?」ギーエは初めて聞いたらしく、驚いてアルセンのほうに聞きなおした。
「勇者が最後の戦いに挑んだとき、一般民が巻き添えにならないようにお告げを下した女神さまが元になっているから、時代はあってるけど・・・さすがに出来すぎな話だよね」
アルセンはそう答えたが、家系図のセト・トスカの隣の名前は何だったか、と思い出そうとしてもはっきりとは思い出せなかった。
「まあいいから、みんなでお願いしようよ」
「俺たちもかよ?」
「みんなで同じお願いをしたほうが、叶えてもらえるんだって!ほら、せーの!明日も晴れますように!」
ファナが号令したが、結局のところ口に出したのは彼女だけだった。
「もう!何で言わないの?」
「お祈りってのは心の中でやるもんだろ」
「やるなんて言ってないしね」
ギーエとアルセンの答えにファナが憤慨する。それさえも日常の光景である。
三人のそばを、からりと心地の良い風が吹き抜けていった。
上空を、一頭の竜が飛んでいた。
地上から見上げたくらいではわからないほど高い場所である。
白銀の身体を持つ竜は、耳を澄ませて彼らの会話を聞いていた。老練な竜のわざであった。
やがて竜はその場を離れ、自分のねぐらへと帰っていく。
北の大陸の天険に、彼女の住処がある。そこは魔法の結界が敷かれていて、他者は簡単に入ってこれないようになっているのだ。
岩場の影に丸くなると、眠る準備をする。太陽の位置はまだ高いが、齢をとるごとに眠っている時間は長くなっていた。
勇者セトが『かみのて』の暴挙から世界を救い出し、三〇〇〇年の時が経とうとしていた。
その間に、人間は奴隷の立場から解放され、魔族という言葉も失われた。見た目の大きく違う彼らの隔たりは全く失われたとは言えないものの、年が経つごとに溝は小さく、狭くなっている。
だが、この長いときがすべて平穏であったはずはなかった。
人はやはり、争いを捨て去ることは出来ない。その点では『かみのて』は正しかった。ある地域では平和であっても、別の地域では争っている。大小さまざまな戦争はほぼ時をおかずに発生し、世界全体規模での戦争が起きかかったこともあった。その火種は完全に消えたわけではなく、為政者たちが舵取りを誤ればすぐまた燃え上がるだろう。
しかし、神の支配から抜け出して三〇〇〇年の時が経っても、こうして世界は存続している。それは間違いのないことだった。
人間でも魔族でもない竜は、神の遣いであった自分がこれ以上歴史に関わるべきではないという思いから、こうして人里から離れた場所に隠遁した。つまりこの三〇〇〇年は、間違いなく人間たちだけで紡いできた歴史なのだ。
そしてその歴史は、『かみのて』が断言したように世界を滅ぼすことにはなっていないのだった。
老竜は、先ほど聞いた三人の会話を思い出した。彼女にとって、懐かしい言葉を含んだ会話だった。
胸が暖かくなる。竜には食物を口にするという意味での食事の必要はないが、ときおりこうして地上の声を聞くことが、彼女にとっての食事だった。
勇者セトの名前はまだ世界中で語り継がれている。だが、彼が実際にどんな人物であったのか、そして具体的になにを為したのか、正しく知っている人はもういない。彼についての多くの伝承は、もはや空想の物語と大差なくなっている。
そして竜の存在についても、実在を信じている人は少なくなっている。大昔の人々の想像から生まれた伝説の生き物だと考えているものが多くなった。そしてそれが自然なのだ。竜とは本来、地上とは関わりを持たないで生きる生物である。今では彼女もそうしているが、それでも定期的に地上の人々の声を聞きにいく、それさえもほかの竜はしない特別な行動だった。
だがそれも、もうあと何度あるかわからない。竜の寿命といわれる三〇〇〇年はもう過ぎ、彼女は自分の身体が日に日に衰えるのを感じていた。
彼女はあれ以来、ただひとりの勇者を選ぶこともなく、また自分の使命を受け継ぐ竜を探し出すこともしなかった。自分の命がついえたとき、神の定めたルールはまさしく消滅する。
それでも、きっと世界は続いていくだろう。
勇者が地を駆け、竜が空を舞う時代は終わっても、彼らはこれからも歴史を紡いでいくはずだ。
そういえば。老竜は心の中で苦笑した。
──マーチさまにお願いって、ほんとうに世界中の人が言うのね。
勇者の戦いを実際に目にしたものは限られているが、あの戦いのとき脳裏に映った彼女の姿は、あのとき生きていたすべての生物が目撃した。
その結果、マーチはあのあとある意味では勇者以上に有名な存在になったのだ。
そして語り継がれるうちに、いつしか彼女の存在は神格化されることになった。それが「マーチさま」である。
神を失った人々は、それでも神に祈ることをやめなかった。それどころか、自分たちで新たな神をつくりだしたのだった。
人間とは本当にたくましい生き物だ。
新たな神々のなかには、立派な聖堂にまつられている高尚な神もいれば、人々の記憶の中だけでありがたがられているものもいる。
「マーチさま」は後者だった。なんだか彼女らしい、と老竜は思っている。
岩場の陰から首を伸ばすと、太陽はまだ空にあって、彼女の顔を照らした。だが、北の方には黒い雲が集まっているのが見える。あの下は雨が降っているのだろうか。
あの雲が南へ流れていくなら、明日南大陸では雨が降るかもしれない。
天気はめぐるものだ。地方によって頻度に差はあっても、時には晴れ、ときには曇る。世界は広い。どこかで太陽が顔を出していても、どこかでは冷たい雨が大地を濡らしている。
それでも、明日も晴れますように、と願うものはいる。逆に大地が渇けば、明日こそ雨が降りますように、と願うものもいる。
たとえ神が差配していたとしても、すべての願いを叶えることなど出来ないだろう。
人々はいつでも自分たちにとってよりよい明日を願い、それ故にときには争う。それはきっと永劫、変わらないものだ。
だが、そうだ。彼らの願いは自分だけのためのものではない。自分と、自分の周りにいる、彼らの愛すべき人たちのための願いだ。
彼らはそのことを知ることができる。自分とは別の願いをもち争うものも、また自分だけのためではなく、多くの人のために願っていることを。
互いに知ることで、食い違う願いの到達点を知り、妥協しあるいは融通することで争いを収めることも出来るのだ。
そして人はまた願う。明日も晴れますように、と。
だがそれは以前とまったく同じ願いではない。新たに知り得た人々のいる空も、同じように暖かく晴れますようにと願うのだ。
彼女は思う。それはいつか、世界をひとつに覆う意思になるのではないかと。
あの日、勇者の剣に世界中の意思が集まったように。
それもまた、ひとときのことかも知れない。だが、それもいいだろう。
世界がひとつになるのは一瞬のことでも、その出来事は三〇〇〇年の時を経てなお、人々の記憶に残るのだから。
だから、彼女も願うのだ。
──明日も晴れますように。
と。
そして老竜は目を閉じ、眠りに就いた。
了
お読みいただき、ありがとうございました。
これほどの長編を書いたのははじめてのことなので、読みにくい部分も多々あったとは思いますが・・・。
少しでも楽しんでいただければと思って書きましたが、いかがでしたでしょうか。
よろしければ、ぜひご感想をお聞かせください。