意思を為すもの
十
マーチの声は、雨雲の下で剣を振るい続けるセトとシイカにも届いた。
「今のは・・・マーチ?」
もう何度目かわからない突撃のさなかに突如浮かんだその姿と声。セトとシイカは、『かみのて』の脇を斬り裂きつつすり抜けると、動きを止め、顔を見合わせた。
「どうしてマーチが?」
「おそらくユーフーリン様の魔法だと思うけど・・・でも、どうやってこっちの状況を知ったのかしら」
マーチの訴えは、神が世界を破壊しようとしている、勇者がそれを止めるために戦っているから、みんなはできるだけ頑丈な建物の中に避難するように、というものだった。
『かみのて』が降らせている魔法の雨は、あくまでも地上の生き物の生命を奪うことを目的としているようで、自然や建造物を破壊する力はなかったから、マーチの言っていることはとても有効なのだ。
もちろん、この声を聞いた人すべてが言うとおりにするということはないだろうが、それでもこの声によって助かる命もでてくるはずだった。
「マーチ・・・ありがとう」
セトは束の間目を伏せて、想い人に心から感謝した。
「それにしても、ずいぶんと着飾っていたわね。まるでお姫様みたいだった」
シイカがすこしくだけた口調でそう言うと、セトは先ほど脳裏に浮かんだ姿を思い返すようにした。
「確かにきれいだったけど・・・。僕は普段のマーチの方が好きかなあ」
セトがそんなことをいったので、シイカは苦笑した。
「それ、マーチには言っちゃ駄目よ」
「?」
セトが本気でどうして?という顔をしたのでシイカはあきれたが、それ以上言うのはやめておいた。まだ戦いの途中なのだ。
だが、今のちょっとしたやりとりで、シイカは強ばっていた身体中の筋肉が少しほぐれたような気分だった。
そしてそれはセトも同様だった。自分の帰りを待ってくれているはずの彼女の顔を見ることができたことで、積もり積もっていた疲労が霧散し、剣を握る手に新たな力がこもった。
とそのとき、破邪の剣がかすかに鳴動した。それとともに刀身を包んでいるほのかな光が、わずかばかり輝きを増したように感じられる。
ひょっとして、破邪の剣もマーチの声を聞いたのだろうか。
両親の声とともに変貌を遂げたこの不思議な剣なら、そんなこともあるかもしれない。セトはすんなりと納得して、剣を握りなおした。
『かみのて』は雨雲を広げることに集中しているのか、先刻からまた、セトたちを無視している。セトが斬りつければ傷が付き、そこから魔力が漏れだすのが確認できるものの、それ以上の変化はない。傷はやがて閉じてしまうし、『かみのて』が疲弊しているようにも見えず、本当にシイカの言うとおりこの攻撃が『かみのて』に有効であるのか、セトは自信がなくなってきていた。
だが、命を持ったかのようにかすかに震える破邪の剣の、その先ほどよりいくらか光を強くした刀身で次に『かみのて』に斬りつけたとき、不思議なことが起こった。
『かみのて』が一瞬その顔を歪ませて、その傷を見やったのである。肉体的な痛みを感じないはずの『かみのて』が、あたかもそれを感じたかのように。
「──なんだ?」
『かみのて』も戸惑ったような声を上げてセトを見た。その手の剣の光が強まっているのを見て取ると、目を細めて忌々しげに言った。
「そうか、それはそういう剣か」
「そういう剣?」セトが聞き返しても『かみのて』は応えず、セトから目線をはずして魔法の雨雲が広がっていく先──北を見やった。
「もう人間の住む都市にも広がっているはずだが、思ったより死人がでないな」
セトには届かない声でそうつぶやくと、先ほど付けられた傷を見た。傷はまだふさがっておらず、青い光の粒がそこから漏れ続けている。
「仕方がない。不十分ではあるが、次だ」
すると、『かみのて』は突然、吊し糸が切れたように制御を失って、落下し始めた。少なくとも、セトにはそう見えた。
「シイカ!」
とにかく、追わなくてはいけない。たてがみを引くまでもなくシイカが降下をはじめる。
『かみのて』は完全に自由落下のまま、赤土と岩の露出した大地に墜落した。もういくらか先にはカカリ川が見える場所だが、まだこのあたりに人家はない。
シイカはそれよりも遅れて、『かみのて』が落ちた場所から少し距離を離した場所に降り立った。
「死んで・・・ないよね」
「物理的なダメージを受けることはないはず──ひょっとして、空に浮いているのに使う魔力を節約したのかも」
「ってことは?」
「残りの魔力を気にする必要がある、つまり、セトの攻撃が効果を発揮しはじめているということだわ」
セトはベルトとゴーグルをはずし、シイカの背中から降りた。地上ではシイカは機動力を活かしきれない。
『かみのて』が身を起こした。やはり、見た目にはダメージを負っているようには見えない。セトが最後に付けた傷も、ほかの傷より緩やかにではあるが、徐々にふさがりつつある。
『かみのて』はセトを見た。
「本来ならばまず地上の生き物を殺し、先にその魔力を回収してから世界を破壊した方がより効率よく多くの魔力を神の元へ送ることができるのだが・・・。おまえのせいでそんな時間の余裕はなくなってしまったようだ」
「・・・」
「これから世界中に地震を起こし、大地を完全に崩壊させる。雨に濡れずに済んだ生き物どもも、崩れる建物につぶされ、あるいは割れる大地にのみこまれて全て息絶えるだろう」
そういうと、『かみのて』は右手を振りあげた。まるでその手を振りおろせば、今言ったことが即座に実現するとでも言うかのように。
セトはそれを見るや駆けだした。そんなこと、絶対にさせるわけにはいかないとその一心で。
両手で握った破邪の剣はかすかな鳴動を続けており、その刀身を包む光は徐々に強くなってきている。今斬りつければ、これまでよりももっと大きなダメージを『かみのて』に与えられるかもしれない。
そんな思いとともに、『かみのて』へと接近したセトは、渾身の一撃を与えるべく破邪の剣を振りあげ、振りおろした。
だが、破邪の剣を手にしてからこれまで何度となく『かみのて』に斬りつけ、そのたびに感じていた肉を斬り裂く感覚はやってこなかった。
『かみのて』がさきほどまで振りあげていた右手で破邪の剣を受け止めていたのだ。
「いつまでも好きにやらせると思うなよ」
『かみのて』の目が細められた。セトは破邪の剣を『かみのて』の右手から引き抜こうとしたが、『かみのて』は強力に破邪の剣の刀身をつかんでおり、剣はびくともしない。
セトは油断していたわけではなかったが、これまで『かみのて』の動作はずっと緩慢だった。一度も機敏な動きを見せなかったため、セトは心のどこかで『かみのて』は素早く動くことはできないのだと決めつけてしまっていたのだ。
しかし、今セトの攻撃にあわせて動いた『かみのて』は驚くほど素早く、セトはその差に対応することができなかったのだった。
「『意志を為す剣』だったとはな。少々やっかいだから、先に壊しておくとしよう」
その言葉に、セトは青ざめた。破邪の剣を折られたら、セトにはもう『かみのて』に抗する手段がない。
「セト!」
セトが捕まったのを見て、シイカが飛びこんできた。
だが、『かみのて』はその動きもしっかりとらえていて、一直線に向かってくるシイカへと魔法を放った。もちろん、破邪の剣は捕まえたままだ。
何の予備動作もなしに放たれた魔法──『かみのて』にそれが可能であることはわかっていたはずだが、セトが捕まったことで動揺していたのか、シイカはそれをまともにくらってしまった。
風の魔法によって周囲の気流を乱されたシイカは、大きくはじきとばされて露出した岩に身体を強打した。
「うう──」すぐ起きあがろうとするが、翼を痛めたらしくふらついている。
「シイカ!──くっ、この!」首を回してその様子を見たセトはなんとかして剣を奪い返そうと柄を握る手に力を込めたが、『かみのて』は破邪の剣を放さなかった。
「勇者よ、無駄な抵抗はするな。ほら、これで終わりだ」
『かみのて』が刀身を握る指先に力を込める。セトは破邪の剣をめいっぱい引っ張ったが、それは『かみのて』の言うとおり、確かに無駄な抵抗だった。
頼みの綱の破邪の剣はボキリと鈍い音を立て、セトの目の前であっけなく折れてしまったのだった。
「──魔法は、うまくいったの?」
意識の集中を解いたマーチがたずねたが、ユーフーリンの返事は聞こえてこなかった。
先ほどまではいすに腰掛けたマーチの正面で、陽炎のように揺れながらその存在を主張していたはずだったが、それも見えなくなっている。
「まさか、魔力を使いきって・・・」
ついに存在を維持できなくなってしまったのだろうか?
ただでさえシイカの封印を解くのに大量の魔力を消費した直後である。そこへ世界中へ思考をとばすなどという魔法を使ったから、さしものユーフーリンも保たなかったのではないだろうか。
マーチはそばに立って魔法が放たれる様子を見ていたガンファを見やったが、彼も首を振った。ガンファもマーチ同様に魔力がないので、ユーフーリンがどんな状態なのか確認する術がないのだ。
沈黙が降りる執務室に、小鬼の老執事が入ってきた。ポットとカップを乗せたトレイを持ち、すました顔で二人の前を通り過ぎると、円卓の上にトレイを置いて、なれた手つきで二人分のカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ」
まずマーチに、それからガンファにカップを手渡す。
「ど、どうも・・・」
カップを受け取ったものの、マーチは気まずい心持ちで老執事を見る。領主が消えてしまったと知ったら、この老執事はなんと言うだろうか。
「あの、ユーフーリン様、は・・・」
「領主は、お休みになられたのでしょう」
重い口を開いたマーチの言葉を遮って、老執事がそう言った。
「大きな魔法を使われた後は、たいていそうです。数日待てば、またやかましく騒ぎだすものと思われます」
老執事の言葉に、根拠があるようには感じられなかった。だが、むりやりそう信じようとしているにしては、老執事の所作はいつも通り落ち着いている。
「さきほど、あなたの姿と声が私にも聞こえました」
老執事はマーチの方へむきなおると、はっきりと目を見てそう言った。このどこか人間を見下すようなところのある小鬼の老執事が、こんな風にマーチに語りかけるのははじめてのことだった。
「たいそう美しく、また立派な物言いでございました。あなたの顔を知らないものには、聖女のお告げのように聞こえたでしょうな」
「聖女って・・・」
マーチは照れたが、老執事はいたってまじめな顔で続けた。
「このプリアンの町でも多くの住民が自主的に避難をはじめているようです。むろん、声に従わないものには役所から派遣した人員が避難させていますので、ご安心を」
「そうなんだ・・・」
マーチは少しだけ安心して、身体の力を抜いた。手にしたカップを口元に近づけ、そっとひとくちすする。温かい紅茶が、マーチの心の不安をいくらか溶かしてくれるようであった。
とはいえ、すべての不安が解消したわけではない。マーチはいすから立ち上がると、窓際へと向かった。
この部屋の窓にはガラスがはめ込まれていて、そこから外の様子をうかがうことができる。ユーフーリンの屋敷は市街地から少し離れた丘の上にあるので、人々の避難の様子まではさすがに見えない。
セトか戦っている場所からだいぶ北西にあるこの地にはまだ魔法の雨は降り始めていないが、東の空には暗雲が立ちこめているのが見て取れた。
人々が避難をはじめているということは、魔法は効果を発揮しているということだ。それがわかっただけでもよかったが、マーチが一番に知りたいことを教えることができるものは、ここには誰もいなかった。
果たして、セトは無事なのだろうか。
東の空を見つめながら、紅茶をまたひとくち含んだそのとき。
突然、足下が揺れだした。
最初は自分が揺れているのかと思ったが、そうではない。
「地震──あっ」
マーチはバランスを崩し、後方へ倒れそうになる。まだ紅茶が残っているカップがその手を滑り抜け、床に落ちてその中身を散らす。
だが、マーチは倒れずに済んだ。
いつの間にか自分の背後に来ていたガンファが、マーチの背中を支えてくれたのだ。
「大丈夫?」
「ありがとう、でも──」
ガンファの声に応えつつも、マーチは不安げに視線を動かした。まだ揺れは続いているのだ。
だが、ガンファの声は落ち着いている。
「この屋敷は頑丈だから、大丈夫だよ」
大きな手でマーチを支えながら、言葉を続ける。
「それに・・・そんなに大きな揺れじゃない」
そう言われれば確かに、壁の棚に納められている本が落ちる様子もなく、揺れは次第に収まりつつあるようだった。小鬼の老執事もとくにあわてた様子もなく立っている。
どうやら、マーチがバランスを崩したのは揺れの激しさというよりも着なれないドレスの影響が大きかったようだった。
やがて揺れが完全に収まると、ガンファはマーチをそっと立たせてやり、にっこりと微笑んだ。
「きっと、セトが何とかしてくれる。・・・信じて、待っていよう」
マーチはその笑顔を見て、セトが何度も口にしていたガンファの優しさをようやく理解していた。
「今のは──」
地震は『かみのて』とセトが対峙する場所でも同様に起こっていた。
セトは『かみのて』が魔法を発動したのかと覚悟したが、「建物が崩れ、大地が裂ける」という『かみのて』の言葉からすると今の地震はだいぶ規模の小さいものだった。事実、セトの立っている大地は裂けてなどいないし、目に見える範囲で岩山が崩れたりした様子もない。
『かみのて』の魔法ではなく、自然発生したただの地震だったのだろうか。
そして戸惑っているのは『かみのて』も同様だった。
「なんだ、それは・・・どういうことだ!」
その声は、セトの右手にむけて発せられていた。
その手には破邪の剣が握られている。ただし、つい先ほど『かみのて』によってその刀身は根本から折られていた。
だが、しかし──刀身がまとっていた光は消えておらず、まるでその光が刃となったかのように、かつての刀身をかたどっていたのだ。
そればかりか、折られるまでは刀身を覆うかすかな光でしかなかったのに、今では直視すればまぶしく感じるほどはっきりとその輝きを増しているのだった。
セトもまた、不思議な思いで光の刃を見つめていた。
剣の柄を通じて、力が伝わってくる。この力は、どこから送られてくるものなのだろうか。
セトは剣を正眼に構えた。光の刃がそれに合わせるようにして輝きを増す。
セトが間合いを詰めると、『かみのて』はあきらかにそれをいやがり、火球の魔法をセトに向けて投げつけてくる。
だが、セトがおそれずに光の刃を振るうと、火球はあっけなくはじきとばされてしまった。
「いやあああっ!」
裂帛の気合いを込めて剣を一閃させる。『かみのて』は右手を突き出したが、光の刃をつかむことはできなかった。光は『かみのて』の右手を斬りとばし、そのままの勢いで左の二の腕をとらえ、左腕も切断した。
「ぐぃやあうぅあああああ!」
『かみのて』が叫び声をあげる。物理的な痛みは感じないはずだが、それはどう聞いても苦痛の叫び声だった。
セトがまた剣を構える。『かみのて』は後ずさって逃げようとしたが、セトがその右足を斬りつけ、斬りとばすとその場にへたりこんでしまった。
「まて、まて・・・」
『かみのて』がセトに訴える。斬りとばされた右手首、左腕、そして右足の傷口からは青い光がとめどなく流れ出していた。
「意志を為す剣──そうか」
『かみのて』が破邪の剣の刀身を折る直前につぶやいた言葉を思い出して、セトは理解した。
「この光は、みんなの意志なんだ。世界を壊されたくなんかない、まだこの世界で生きていたいっていうみんなの想いを、この剣は力にするんだね」
セトの言葉に、『かみのて』があわてた声で付け加えた。
「確かにそうだ。だが、たかが人間がどれほど結束したところで、そんなに強い力になるはずはない。どうして──」
そのとき、また大地が揺れた。先ほどに比べれば揺れは小さく、またすぐに収まってしまう。
そして地震が収まると、破邪の剣の放つ光はよりいっそう強いものになった。
「人間だけじゃない。きっとこの世界そのものが言っているんだよ。壊されたくないって。今のは、言葉の代わりなんだ」
「世界に意思があるというのか?神はそんなことをおっしゃられたことはなかった!」
「神さまがそうしたんでないのなら、自然に生まれたんだね」
セトはそう言うと、剣を構えた。
「まて、わたしとわたしの中の『太陽の宝珠』を消してしまったら、本当にこの世界は神の庇護を得られなくなるのだぞ?そんな状態で、この世界がどれだけ維持できると思っているのだ!」
「何年だって、やってみせるさ。僕たちはみんな生きたがってる。この世界もね。そのことを、こんなにもはっきりと知ることができたんだから」
そんなやりとりの間にも、『かみのて』の身体からは魔力が漏れだし続けていた。やがてその胸の中心に、ぼんやりと光のかたまりがあるのが見えるようになった。
あそこに『太陽の宝珠』が埋まっているのだ。
セトはそのことを意識すると同時に、事切れて眠るフェイ・トスカの胸に『太陽の宝珠』が押し込まれていく光景を思い出して顔をしかめた。
「その身体は、もともと父さんのものだったんだ。──もう返してもらうよ」
柄を肩口に構え、突きの態勢をとる。
「や、やめろ!もう壊さない!世界は壊さないから!」
『かみのて』がわめいた。惨めな命乞いだった。
セトは応えず、光の刃の切っ先を『かみのて』の胸元に突き入れた。
その光景をなにも知らずに見る人がいたならば、美しいと言ったかもしれない。
光の刃は世界の意思でもって『太陽の宝珠』を砕き、それとともに宝珠に残っていた魔力は統制を失ってあふれだした。
青い光の奔流は赤茶けた大地に花が咲くように広がっていく。
世界をも破壊する膨大な力の種であった魔力は、今はただ美しいだけの光の粒になって流れ、大地を埋め尽くしていった。
セトは、『かみのて』を突いた姿勢のまま、放心したように青い光を眺めていた。
『かみのて』の黄色く光っていた目玉は輝きを失い、その身体はやがて、その身から放出されていたはずの魔力の青い光に吸い込まれるようにして消えていった。
これできっと、父さんも安らかに眠れるはずだ──母さんと一緒に。
セトは大きく息を吐いた。
構えを解き、右手に握ったままの剣を見た。まばゆい輝きを放っていた光の刃は消え去り、刀身の折れた柄だけがその手に残されている。
意思を為す剣は、その力を失った。それはつまり、意思は果たされたということだった。
「セト──」
シイカがゆっくりと歩いて、セトのそばにきた。
「終わったよ、シイカ」
セトは振り向き、笑顔でシイカに告げる。
「うん。でも──これで神とこの世界のつながりはなくなったわ」
シイカはすこしばかり不安げな声で応えた。
これから先、この世界は神の導きなしで時を進めていくことになる。人間や魔族より神に近い位置にいた竜であるシイカは、それが簡単なことではないとわかっていた。
人々の間から争いをなくす──それは言葉にするほど簡単なことではないだろう。長い時を経て別種族といえるほどの隔たりができた人間と魔族の融和、果たしてそんなことが可能だろうか?
ひょっとしたら『かみのて』が懸念していたとおりに、近い将来人間と魔族は世界を巻き込む争いを起こし、神の破壊から守ったこの世界を、自分たちの手で壊してしまうかもしれないのだ。
「そんな顔をしないで、シイカ」
セトが言った。
「わかってるよ、これからが大変だってこと。でもきっと大丈夫。時間をかけて、少しずつ変えていくんだ。神さまが作ってくれたこの世界を、美しいままで」
長い戦いを終えたばかりのセトは疲れた表情ではあったが、その目の光は力強かった。
『かみのて』を打ち倒し、世界を救う勇者としてのセトの戦いはこれで終わる。だが、この先は人と魔族の垣根を取り払うという長く苦しい戦いが待っている。グローングのそうした真意を知る数少ない人物であるセトはそこから逃げることなどできないだろう。
そして、セト自身逃げ出す気などないのだ。困難に立ち向かえる強い心、それもまた勇者の資質のひとつ。シイカは当然、そのことをよくわかっていた。
「さあセト、背中に乗って。まずはグローング王にことの顛末を報告して、それからユーフーリン領へ帰ろう」
シイカがそう言ってセトが自分の背中に乗れるようにかがみこむと、セトは笑顔になった。きっと自分たちを待っている人々の顔を思い浮かべたのだろう。だがすぐに心配顔になった。
「でも、シイカ大丈夫?身体の方は・・・」
シイカ自身、『かみのて』の攻撃を受けて負傷している。
「ゆっくり飛ぶぶんには平気よ。もう疾く飛ぶ必要はないのだから」
「──うん、そうだね」
同時に空を見上げる。
『かみのて』の作り出した魔法の効力は失われて、雨は上がり、雲は晴れた。今は大地を覆う青い光に負けない輝きを放つ星空が、ふたりの頭上で瞬いている。
それはふたりの目に映る限り、どこまでも続いているのだった。




