世界にひびく声
九
悠然と浮かび続ける『かみのて』の周りを、グローングが今はひとりで飛びまわっていた。
「いい加減に離れろ、先代の勇者。大きい魔法を使うから、少し集中したいんだ」
「そう言われて従うはずがなかろうが、ばかものめ!」
シイカ・ドラゴンが気を失って下に落ちていくのはグローングも確認していたが、救出に動くことはしなかった。カカリ川の氾濫を宣言した『かみのて』を妨害することをやめるわけにはいかない。
幸いにも、自然に直接干渉するような大きな魔法にはまだ集中する時間が必要なようで、有効な攻撃手段はなくとも、グローングが周囲を飛び回っているだけで効果はあるようだった。
「仕方がないな」
『かみのて』は至極面倒くさそうにそう言うと、瞬く間に四つの火球を生み出した。ひとつひとつの大きさはグローングと同等だ。
「おまえも竜と同じように落ちてしまえ」
火球がグローングに向かって放たれる。シイカを襲ったものと同じ、回避しても追尾してくる魔法だ。
グローングは『かみのて』から距離を離しすぎないように注意しながらも、繰り返しおそってくる火球を回避した。うまく軌道をあわせて火球同士を衝突させることでまずふたつ破壊し、その間に練り上げた魔力で生み出した自分の顔ほどの火球を操り、襲いくる火球の中心に当てて相殺させる。これでみっつ。だが最後の火球がすぐ目前に迫ってきて、もうよけることも無力化することもできない。
「かああっ!」
なんとグローングは気合いを込めて左手で火球をたたき飛ばした。強引に進路を変更させられた火球はそれ以上グローングを追尾することはなく、下方の大地へと落ちていった。
グローングの左手はぶすぶすと黒煙を上げている。軽微とはいえない損傷だが、直撃をくらうよりはましというものだ。
その様子を見た『かみのて』は、つまらなさそうに目を細めた。
「なんだ、落ちなかったのか──ん?」
ふいにその頭上に影が差して、『かみのて』は緩慢な動作で目線をあげる。
上空から猛スピードで接近してくる物体──シイカとセトであった。
シイカは、いったん『かみのて』のいる位置よりもさらに高高度まで浮上し、そこから急降下して『かみのて』に接近した。
セトはたてがみから手を離し、両手で破邪の剣を構えている。できるだけ強力な一撃を与えられるようにと考えた上での行動であった。
「セト、『かみのて』の背後をすり抜けます!」
「うん!」
シイカはいっさい減速せずに、『かみのて』と背中合わせにすれ違う。
セトは剣を振るうことはせず、面を打つ位置で固定したまま、剣を飛ばされないようにめいっぱい踏んばった。
かくして、破邪の剣はねらい通りに『かみのて』の苔むしたかのような緑色の背中を縦に長く切り裂くことに成功する。
「どうだ──?」
シイカが体勢を立て直す間もセトはその斬り口を注視していた。
斬ってすぐは、グローングが鉤爪で斬り裂いたときと同様、ただ黒い傷口が開いただけのように見えた。
だが、やがてその傷口から青い光の粒子が放出され始めた。
「なにかでてきたよ、シイカ!」
セトが叫ぶと、それを確認したシイカの声も少しはしゃいだ。
「あれが魔力です!この攻撃は有効よ、セト!」
「・・・?貴様、なにをした?」
グローングに傷つけられても何の反応も示さなかった『かみのて』が動きを止めた。シイカとセトに向き直ると、これまでにない強い言葉を口にする。
セトは答えず、再び破邪の剣を両手で構え直す。その動きを合図に、シイカがまた『かみのて』に向かった。
先ほどまでとは違って今度は『かみのて』もその動きを黙認せず、雷の魔法でシイカをねらう。追尾はしないが、一直線に速度のはやい攻撃だ。だがシイカもそれは折り込み済みで、左右へ動きながら雷をかわした。
今度の攻撃は、『かみのて』の左足首のあたりをとらえた。
その黄色の目玉で傷口を見、そこから魔力が青い光となって漏れでていることを確認した『かみのて』は、絶叫した。
「うぉぉぉおおおおお!なんってことを!」
目玉をめいっぱい見開き、身体をばたばたと揺らしながらわめき散らす。
「神の力を行使するための尊い魔力がぁ・・・。なんということだ・・・なんということだ・・・」
わめき声は徐々に小さくなっていく。やがて『かみのて』は身体を丸めたような姿勢で動かなくなってしまった。
「無事だったのか。今の攻撃は何だ?」
その隙に、グローングが近くへ寄ってきて声をかけた。
「この剣が、『かみのて』に有効みたいなんです」
グローングはセトが示したほのかに光を放つ剣を見ると、むう、と難しい顔になった。
「なんだか見覚えがあるぞ」
「破邪の剣です。父さんが使っていました」
「そうだ、そうだ。たしかわしと戦ったときもその剣を使っていた。・・・だが、あのときわしが握りつぶしたはずだが」
「もともとセトが使っていたただの長剣が、何かの力を受けて変貌したのです」
シイカが説明する。といっても、シイカ自身よくわかってはいないので、それ以上詳しいことはわからないのだが。
「父さんと母さんが、僕に力をくれたんです」セトはそう言って胸を張った。
「ふむ・・・人間は何かにつけ、こういう不可思議なことは全部神の奇跡だと言う輩がいるが・・・。少なくともこれは違うだろうな」
グローングはそう言うとにやりと笑った。世界を破壊しようとしている神が、それを止めようとするセトに力を与えるはずもない。
「とにかく、そいつで斬りつければあの怪物にもダメージを与えられるというわけか」
「そのようです」
「なるほどわかった。ならばここからはわしが援護に回るから、おまえはあいつが消滅するまで攻撃し続けろ」
「はい!」
セトは威勢良くうなずくと、左手でシイカのたてがみを引いて合図した。
セトとシイカが『かみのて』への攻撃を再開する。グローングは少し離れた位置でその動きを見守り、『かみのて』がそちらを狙うようであれば援護ができるように油断なく身構えている。
シイカは『かみのて』の正面から背面へと抜けると、翻って今度は頭上から足下へと抜けた。セトがその動きにあわせて剣を振るうと、『かみのて』の背中からわき腹にかけて十字の傷が生まれ、そこからまた青い光がこぼれ出す。
『かみのて』は、さきほどから身体を丸めたままの姿で動かなくなってしまった。セトに斬りつけられるまま、まるで無抵抗のように感じられる。
だが、傷口から魔力の青い光を流し続けているとはいえ、『かみのて』が弱りきっているようには見えない。どうして完全に動きを止めてしまったのか、言いしれない不安がその場の三名によぎった。
「シイカ、これってどのくらいのダメージなの?」
また背面を傷つけ、そこから魔力が漏れでるのを確認しながら、セトがたずねた。
「一撃で削れる魔力はそこまで多くはないみたい。この調子だと、かなりの間攻撃を続けなければならないけれど・・・。セト、身体は大丈夫?」
シイカが首を曲げてセトを見やった。セトはつい先ほどフェイ・トスカとの死闘を戦い抜いたばかりなのだ。疲労ばかりでなく、左肩には浅くない負傷も負っている。
セトは肩で息をしながらも、気丈に笑って見せた。
「大丈夫。やるしかないんだから」
「そうね・・・」
シイカが首を戻しても、『かみのて』は同じ姿勢のままだ。
観念しているとは思えない。だが、まるで抵抗を見せないのは──。
その理由に最初に気がついたのは、グローングだった。
「気をつけろ!魔力を集中しているぞ!」
声を上げてセトとシイカに警告する。
本来、強い魔力を持つシイカとグローングは魔力の流れと呼ばれるものを見ることができる。だが、セトが無作為に『かみのて』を傷つけ、魔力を流出させたためにその流れが見えにくくなっていたのだ。
有効な攻撃手段を見つけたセトたちを無視してまで魔力を集中しているのは、セトたちを攻撃するためではないだろう。なにしろ今の『かみのて』は、セトたちを丸ごと飲み込むような火球でさえも、ひと呼吸のうちに作り出せるのだ。
標的はもちろん、眼下の大地である。
「セト!できるだけ集中を乱せるように攻撃して!」
シイカが怒鳴り、セトの返事を待たずに『かみのて』へと突撃する。
セトもまた何も言わずに剣を構えなおし、シイカの動きにあわせた。
シイカは『かみのて』の脇をすり抜けるのではなく、身体を『かみのて』にぶつけていったのだ。もちろん、剣を構えたセトごとである。
斬り裂くのではなく、突く形になった。『かみのて』の腰とおぼしき場所をとらえた切っ先は、見た目通りに柔らかい『かみのて』の肉に深々と突き刺さり、そこから青い光があふれだす。
だが、『かみのて』は全く動じなかった。
セトが見上げると、先ほどから閉じられていた『かみのて』の黄色の目玉がゆっくりと開き、こちらを見るとぐにゃりとゆがんだ。
「ひどいことをする」どこか余裕のある口調だった。「神に捧げられた魔力をこのように浪費させるとは、この罰当たりめ。まあそれでも『太陽の宝珠』に蓄えられた量からすれば微々たるものだがな」
「・・・」セトは『かみのて』をにらみつけた。
「だが、おかげで計画を変更することになってしまった。本当ならいろんなところに火の玉や雷を落として楽しむつもりだったのに、おまえたちが騒がしいからさっさと終わらせろとのお達しだ」
『かみのて』は丸めていた背中をぴんと伸ばした。セトの破邪の剣はまだ腰に刺さったままで、『かみのて』の動きにあわせて傷口をさらにえぐったが、お構いなしだ。
「さあ、まずはこの力で地上の生き物を一気に減らすぞ!」
『かみのて』は高らかに吠え、両手を天にむけた。
セトは『かみのて』を注視していたが、それきりまた動かなくなってしまった。
だが突然、左肩に焼けるような痛みを覚えてのけぞってしまう。「うわっ!」セトは叫び、思わず破邪の剣から手を離しそうになってしまったが、何とか取り落とさずにすんだ。
「これは──雨?」頭上から雨粒が落ちはじめている。勢いはさほどでもないが、大粒で、当たったところがぴりぴり。先ほどはこれが傷口に当たったのでひどく染みたのだ。
「いけない──これは、魔法の雨だわ!」
シイカが気づいて叫ぶと、『かみのて』から距離をとって雨雲から離れた。『かみのて』の頭上に生まれた雲は今はまだ小さいが、確実に広く大きくなっていく。
「これはやっかいだぞ」
グローングが近づいてきて、シイカとセトに何か魔法をかけた。
「雨をはじく魔法だ。雨があの勢いなら、わしらは大丈夫だが・・・」
「あれは私たちというより、人々を攻撃する魔法でしょう。あの雨に当たったら、魔法に耐性を持たないものはひとたまりもありません」
「おまえが痛がるだけですんだのは、その服のおかげだぞ。あのままあたり続けていたらどうなったかわからんがな」
そんな会話を交わしているうちにも雨雲は広がり、再びセトたちの頭上からも雨粒が落ちてくるようになった。だが、グローングの魔法のせいで身体に当たる前にはじかれていくので、今のところダメージはない。
もちろん、雨雲の中心部にいる『かみのて』は自らの降らす雨にさらされているが、本人はまるで気にする様子がない。たるんだ腕をいっぱいに広げ、むしろ雨に当たるのを楽しんでいるかのようだ。
「生命を溶かす特別な雨だぞ!神の慈悲に打たれて死ぬがいい!」
誰にともなくそんなことをわめいている。
「雲が広がるのを止める方法は?」セトがグローングにたずねた。
「魔法というものは基本的に、術者が止めるか、術者を止めるしかない。おまえたちは『かみのて』を攻撃し続けろ。わしは何とかあの雲よりも早く飛んで、民草に建物の中にはいるよう警告する」
「間に合うの?」
「せんよりましだ。とにかくわしはいく。おまえたちはなんとしてでもあの化け物をとめてみせろ!」
グローングはそう言い放つとシイカたちに背を向けて飛び去っていった。
「シイカ──」
「ほかに有効な手段がない以上、やるしかないわ。幸い、グローングがかけていった防御魔法は有効みたいだし、あなたが着ている服もこの雨が魔法である以上は身を守ってくれるはず。私たちはこの雨に打たれていても大丈夫。セトは破邪の剣を落とさないようにだけ注意していて」
シイカの声にも焦りが感じられる。破邪の剣による攻撃で削り取れる魔力は多くなく、雨雲が人里まで広がるまでに『かみのて』を止めることは不可能とすら言えた。
だが、口に出したとおり、やるしかないのだ。ほかに『かみのて』の魔力を削る手段はなく、自分たちのほかに『かみのて』を止めうる人物はいないのだから。
シイカはセトが破邪の剣を両手でしっかりと構えたのを確認すると、雨雲の中心、『かみのて』へと再び向かっていった。
その少し前。
セトの両親と邂逅したマーチは、その夢から醒めるやいなや自室を飛び出し、ユーフーリンがいるはずの執務室へ飛び込んでいた。
本来のユーフーリンの席である中央の大きな机のところには誰もいない。はじめてマーチたちがこの部屋を訪れたときに案内された奥の円卓に、一つ目巨人のガンファが座っていた。どういうわけか、書類仕事をしているようだった。
ガンファはマーチに気がつくと、ゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「やあ・・・マーチ。どうしたんだい?」
「あ、えーっと、ユーフーリン・・・さま、は?」
「わたしはここだよ」
ガンファのゆったりとした声にすこし勢いをそがれながらもマーチが聞くと、その答えは背後から返ってきた。
マーチは反射的に振り返ったが、そこに何者の姿もないことはわかっていた。魔力を大量に消費したユーフーリンは、当分の間何者の姿もとることができなくなっているからだ。
だが予想外だったのは、なにもない空間にすこし陽炎がたったような揺らぎがあることだった。
「どうしたのかな、息を切らせて」
どうもその揺らいでいるあたりにユーフーリンがいるようであった。
ユーフーリンもマーチが自分を目で追っていることに気がついたようで、「魔力がだいぶ集まってきているから、魔力がないマーチ君にも見えるようになってきたかな?これでますますいたずらしにくくなったなあ」と言った。
「それで、何事だい?君がわざわざ私をさがすからには、よほどのことだろう?」
マーチは息を整えると、先ほど夢の中でみた出来事をユーフーリンとガンファに語って聞かせた。
「信じられないかもしれないけど・・・」
マーチ自身、どこか信じきれないという思いがある。だが、フェイ・トスカから直接渡された記憶は夢から醒めた今でもはっきりと思い出せるのだ。
「いや、おそらくマーチ君が会ったのは本当のフェイ・トスカの魂なのだろうね」
そう言ったのはユーフーリンだった。
「作り話をする意味はないし、ただの夢だというのなら君が知らない情報が入っているということはないだろう」
「あたしが知らない情報・・・?」
「人間で時差のことを知っているのは、転移や遠見の魔法を研究しているような高位の魔法使いだけだ。それこそ、フェイ・トスカのような。魔族にしたって、わたしのような魔法使いのほかでは、高速で且つ長距離を移動できるような一部の特殊な魔族しか知らないような知識だよ。魔法に縁のない君が知っていたとは思えないね」
「──なるほど」ちょっとおもしろくなかったが、マーチは納得した。
「町に、高札を立てますか?」
ユーフーリンにガンファが進言した。彼はセトを見送った後、身体をなくしたユーフーリンに指示を受けて雑務をこなしていたらしい。働いていた方が気が紛れると考えたのだろう。
「そうだな──」
ユーフーリンは言葉を切り、考えているようだった。
「いや、それでは効果は限定的だ。このプリアンの、しかも都市部にいて高札を見るものにしか効果がない」
「でも、それだってやらないよりはいいじゃない!」
マーチからすれば、それこそユーフーリンに頼もうと思っていたことだった。多くの人に世界の危機を伝え、少しでも頑丈な建物に避難してもらおうと思っても、自分が町中を叫んで歩くのでは誰も従ってなどくれないだろう。領主の名前で指示を出してくれた方が少しでも効果があるように思えたのだ。
「もっと有効な方法があるということだよ、マーチ君」
「有効な方法?」
「魔法とは万能の力ではないが、目的が確かであるなら往々にして有効な手段足りうる。もちろん、私のような有能な魔法使いがいてこそのことではあるがね」
「まさか、みんなに意志を伝える魔法があるの?」マーチは目を丸くした。「魔法ってそんなこともできるのね」
「みんなかどうかはわからない。だが、私が思いつく限りではもっとも多くの人に思いを伝える手段だ」
ユーフーリンがそう言うと、マーチは陽炎のように揺れるユーフーリンに向かって「じゃあ、早く!お願い!」と懇願した。
「ふむ。では君には衣装部屋へいってもらおう。ガンファ君、案内してやってくれ」
「へっ?」予想外のことを言われて、マーチの目は点になった。
「それなりのことをするにはそれなりの準備が必要なのだ。追って着付けのできるメイドを行かせるから、先に行って服を選んでいたまえ。できるだけ清楚で且つ女性らしさがでるように・・・まあどうせ貴族の服などわからんだろうから、メイドに任せてしまってもかまわんが」
「えーっと・・・どういうこと?」
「物わかりが悪いな。いいから衣装部屋へ行って、メイドの言うとおりに服を着替えろ。私はその間に魔力を練っておくから」
ユーフーリンはそれきり黙ってしまい、仕方なくマーチはガンファに案内されて衣装部屋とやらにむかったのだった。
それから半アルン(約一時間)ほど経って、マーチは執務室へと戻ってきた。
その際ガンファの腕に手を預けていたのは、そうしたかったからではなく、そうしないとどこでバランスを崩して転ぶかわからなかったからだ。
「ほう、悪くないではないか」ユーフーリンがマーチに声をかけた。魔力を練り上げていたせいか、心なしか陽炎のような揺らぎが強くなっていたが、マーチはそんなことに気づく余裕もないようであった。
マーチは、ドレスに身を包んでいた。
薄桃色を基調とした豪奢なデザインのドレスである。上半身は下品にならない程度に身体のラインを見せつつ、肩と胸元が露出している。スカートの部分はゆったりとしていて丈が長く、裾は床を引きずっている。
気を抜くとこの裾を踏んでしまいそうなのだった。さらに胴にはコルセットをきつく締められており、呼吸をするのも一苦労だ。もちろん、マーチはこんな格好をするのは初めてだった。
服だけではない。動き安さ重視で短く切りそろえていた髪には付け髪を足され、それを結い上げられている。なんだかやたらと光を反射するティアラもつけられているせいで頭がひどく重い。ちょっと頭を傾けたらそのまま倒れていきそうに感じてしまう。おかげで首も動かせず、衣装部屋からここまで歩いてくるだけでマーチはすでに疲労困憊だった。
「なんで・・・こんな格好・・・?」こめかみをひくつかせながらユーフーリンにたずねる。
「世界が破壊されるなんて話を、いきなり聞いて信じる人は多くないだろうということくらいは君にもわかるだろう。しかも私がこれから使う魔法は、相手が納得するまで説得できるというたぐいのものではない。一方的に思考をとばすだけだ。少しでも信憑性を持たせるために、君には高貴な女性を演じてもらう必要があるのだよ」
「あたしが・・・だって、魔法を使うのはあなたでしょう?」
「魔法を使うのは私だが、メッセージを伝えるのは君の仕事だ」
「わたしが?どうして?」
マーチは本気で驚いていた。ただの人間である自分よりも、有力な魔族であるユーフーリンが伝えた方がよっぽどよく伝わるはずだ。
「これは簡単な魔法ではないんだ。私は魔法を完成させることに集中しなければならない。メッセージを伝える人物は別に必要だ。ガンファ君は口べただし、君の方がまだ見目がいい。覚悟を決めて、そこのいすに座りたまえ」
マーチにはまだすこししりごみする気持ちがあったが、これ以上議論の余地はなかった。この場にはユーフーリンとガンファ、そしてマーチしかいないのだ。それに、時間も惜しい。
観念して、一つ大きく息をつく。それからもう一度深呼吸して(そうしないとドレスのせいで歩けないのだ)、部屋の中央にセットされたいすへと向かった。ユーフーリンが執務中に使う、一番質のよいいすが机から引っ張り出されて置かれている。マーチはサイズがぎりぎりのドレスを破かないように細心の注意を払って腰かけた。
「よし。でははじめようか。通常、遠く離れた場所へ思考を届けるには、思考を発信するだけでなく、受信する存在がいなければならない。だがこの魔法はそれを必要としないところが特別だ。その代わり、対象を選ぶことはできないがな。魔法が届く範囲のものであればすべてのものが君の声を聞くことになる。まさにこんな時にうってつけの魔法というわけだ。もちろん、大陸を覆うほど広範囲に魔法を届かせることができるのは、私の魔力があってこそのことで──」
「いいから、早くはじめて」マーチはうんざりとして言った。ユーフーリンの物言いにというよりは、座っていると腹を締め付けるコルセットが余計に食い込んでくるようであることにうんざりしていたのだが。
「ふむ。時間に余裕があるわけでもないしな。ではマーチ君、目を閉じてイメージしたまえ。声に出す必要はない。ただしごく簡潔に。長いメッセージはそれだけ遠くへ届きにくくなる」
マーチは言われたとおりに目を閉じた。切迫した状況ができるだけ伝わるように、フェイ・トスカから渡された記憶を思い浮かべ、そこにシフォニアの言葉を乗せるイメージを作った。
目を閉じ、想いを集中していると、祈りを捧げているような気がしてくる。自然と、マーチの両手が胸の前で組み合わされた。
「では、行くぞ!」
気合いのこもったユーフーリンの声が聞こえ、マーチの身体の中を何かが走り抜けていった。
ユーフーリンの魔法は、マーチの想いを乗せて波のように伝播していった。マーチのいるプリアンの町から始まってユーフーリン領全体へと広がり、さらに近隣の領へと速やかに広がっていく。
人々は、突然脳裏に入り込んできたドレス姿の女性の訴えに多くは当惑した。空耳だと片づけてしまうものも当然少なくなかった。
だが、人間よりも魔力に身近な魔族が支配している今では、どの都市にもたいてい何名かは魔力の流れが見えるものがいる。彼らはマーチの声を聞くと同時に、東南の空から異常な規模の魔力が広がり始めていることに気づいた。
これはただ事ではない。そう感じた彼らは、ドレスの少女の声に従い、頑丈な建物へと避難するように周囲に訴えはじめる。彼らが権力者であったり、あるいは権力に近いものであれば──魔力の強いものはそうした地位にいることが多い──、その訴えは強制力を持ち、マーチの声に半信半疑なものもとりあえずは指示に従った。
やがて、東南から広がった雨雲に都市が覆われたとき──建物の中に入っていたものたちは魔法の雨によって命を奪われることはなかったが、声に従わなかった何人かのもの、あるいは家畜を小屋に入れようとして間に合わなかったものなどは瞬く間に命を落とした。
人々はその様を見て、少女の言葉が真実であることを知った。そして神が世界を破壊しようとしている事実にあらためて震えた。
人間ならばこんなときは神に祈る。だが今はその神こそがこの命を奪う雨を降らせているのだ。絶望する人間たちに向かって、ある魔族が言った。
「ならば、俺たちの命を救ってくれたあの少女に祈ればよい」
そうだ。そうしよう。皆が口々にそう言い始め、あの薄桃色のドレスに身を包んだ少女と同じように、両手を胸の前に組み合わせて目を閉じた。
神が世界の破壊などという行為を思いとどまるよう、どうか少女よ、伝えてください。どうか、我らの命をお救いください──。
その声には、人間も魔族もなく、雨雲の拡大にともなって、世界を包む声になっていく。