長い一日は過ぎて
一
シイカ・ドラゴンが、生気を失ったままのセトの身体を光に包み、ともに去ってから一夜。
マーチは、ユーフーリンの屋敷の一室で目を覚ました。
最初にここへたどり着いた日、まだ少女の姿をしていたシイカとともに泊まった部屋だ。
マーチは昨夜この部屋へ案内されて独りになってからも、セトのことを思えば不安ばかりが先に立ち、今夜は一睡も出来ないのではと思っていた。だが、実際には寝台に入って目を閉じればそれほど時もかからずに眠りに落ちてしまっていたようだ。
フェイ・トスカの手勢に捕まってからはずっと緊張し続けていたのだから、それも無理のないことである。
昨晩は久方ぶりに湯を使い、隠れ里を出て以来、ずっと着たきりだった服も替えた。といっても、これは湯を使っている間に屋敷のメイドたちに強引に洗濯場へもっていかれてしまったためで、マーチとしては不本意ではあるのだが・・・。
寝台脇にはマーチのための新しい服も用意されているが、これも自前のものではなかった。まだ洗濯場から戻ってきていないらしい。ただ、女性用の裾の長いローブを着たがらないマーチの要望を考慮に入れ、男性用の衣服がおかれていた。
ズボンはぴっちりと肌に張り付くもので、最初マーチはサイズが小さいのではないかと思ったが、そういえばあの丘でセトが身につけていたのもこんなズボンだったことを思い出した。この地方ではこういうものが一般的なのかもしれない。
このズボンとチュニックの上から腰まで丈のある上衣を羽織り、腰帯を締める。帯には長年愛用している二本の小剣を差した。
と、そこへ唐突に声がかかった。
「ふむ、もうすっかり準備ができているようだね」
「わあっ!」
まったく気配を感じていなかったマーチは盛大に驚き、寝台の上まで飛び上がって壁を背にすると、右手で小剣の片方を抜いた。左手はもう一本の小剣の柄の上だ。
「いつ入ってきたのよ、このスケベ魔族!」
声の調子で誰なのかはすぐにわかったが、剣を突きつけてやろうといくら目線を動かしても相手の姿は見えない。
「ひどい言われようだな。君の着替えが終わっていることくらい気配で確認した上で入ってきたんだが。──といっても、この姿では信じてもらえないかもしれないね」
スケベ魔族──とマーチに呼ばれてしまった──ユーフーリンはそう答えたが、相変わらずその姿は目に見えないままだった。
昨日、シイカの能力にかけられた封印を解くために魔力を使った結果、どんな姿にもなることができるユーフーリンはその力を失い、何者の姿もとることが出来なくなってしまったのだった。今は精神だけが漂っているような状態とのことだが、その姿は見ることも触れることも出来ない。
「それ、時間が経てば治るっていってなかった?」
「その通りだ。だが、一日や二日で治ったりはしないよ。他人の目に見える姿をとることが出来るようになるまでだいたい一〇年、完全に元に戻るまでには五〇年くらいかかるんじゃないか?」
ユーフーリンの声はいとも簡単にそう言ってのけたが、マーチは驚いた。これまでの口振りからもそんな大事であるとは思っていなかったからだ。
だが、ユーフーリンの声はまったく気にしていない声色で続けるのだった。
「私の寿命は長いから、これくらいは何ともないさ。ああ、人間の寿命は平均すると五〇年くらいと聞いているから、ひょっとするともう君に再び私の姿を見せることは出来ないかもしれないがね」
しばらくすると小鬼の老執事が現れ(彼はきちんと入り口の外から声をかけた)、マーチは案内されて屋敷の外に出た。ユーフーリンも途中までは話し声でついてきているのがわかったが、マーチがあまり受け答えをしてくれないので、やがて声は止んでしまった。
屋敷の正門近くには豪華な客車がついた獣車が停められており、一つ目巨人のガンファがマーチを待っていた。
ガンファはマーチが近くまでくると、その大きな瞳で軽くマーチの顔をのぞき込み、「よく眠れたみたいだね」と言った。マーチは「まあね」とだけ答えると、自分で扉を開けて客車に乗り込んだ。
あの巨人の心が優しいのは、セトやシイカに聞いていたことでもあるし、数日一緒にいただけでも十分に伝わってくるものではあった。それでもあの巨体には無条件で身体が強ばってしまうものがある。そう簡単に慣れることは出来なかった。
シイカが言っていたように、魔族にもいろんなものがいる。そのことはマーチも否定しない。だが、実際に自分とは異質の生き物とともに暮らすというのは、そんな理屈だけで簡単に収めてしまえるほど簡単なこととは思えなかった。
だが、この先もセトたちと一緒にいたいと考えるならば、なんとかしてその理屈を受け入れなければならない。
とはいえ、それはセトが無事に生還した後のことだ。
ガンファは客車には入らず、御者台に座った。客車は十分に頑丈だったが、ガンファのような巨大なサイズをもつものが乗ることは考慮されていない。要するに、扉をくぐることができないのである。マーチは正直に言って、あの巨人と向かい合わせに座ることにならずにすんでほっとした。ユーフーリンは声が聞こえないのでどこにいるのかわからないが、まあどこかにはいるのだろう。
「それじゃ・・・出発します。揺れに気をつけて」
ガンファが御者台からそう告げて、獣車が緩やかに走り出した。
これからあの丘に向かい、昼頃に戻ると告げたシイカの帰還を待つ。
果たして、セトは一緒だろうか。
アニスの丘に着いたのは、太陽が頂点に達するよりも幾分早い頃合いだった。
丘には昨日ユーフーリンの配下が張った陣がそのまま残されていて、竜が現れるまではそこで待とう、とユーフーリンは言ったが、マーチはじっとしていることが出来ずに、すぐに陣を出ていってしまった。
とはいえ、陣の外に出ても出来ることは草原を歩き回ることくらいで、しかも歩き回ったからといって別段時の経つのが早くなるわけでもない。やがては草原に腰を下ろして待つことになった。
マーチが腰を下ろしたのは、昨日、セトがフェイ・トスカに胸を突かれて倒れたその場所のほど近くだった。
そこには昨日、血溜まりが出来ていた。今はその血は土に吸われてしまったのか、それともシイカがセトの肉体を持ち去るときに一緒に血液まで拾っていってしまったのか、目立つほどではなくなっている。ただ、倒された草にはところどころ血が付着したままになっており、その場所を見つけだすのは簡単だった。
その場にただ座っていると、そこが本当に、つい昨日忌まわしい戦場であったのかと疑いたくなるほどのどかで穏やかだ。昼近いので陽射しを少々感じるが、空気が乾いているのでそれほど暑くはない。また、風が丘の上から吹き下ろしてくるので、血のにおいも風に紛れていってしまう。
マーチは膝を抱えた姿勢のまま、草原の一点を見つめ続けていた。
目を閉じることが出来ないでいる。目を閉じると、考えたくもないはずの最悪の結果ばかりが勝手に頭に浮かんでくるのだ。
ふと、背後に気配を感じて、マーチは振り返った。
少し離れた位置で、ガンファがこちらを見ていた。手に何か持っている。
ガンファは、マーチがこちらに気がついたのを確認してからゆっくりと近づいてきた。警戒させないように気を使っているのだ。
その身体の大きさにあった長い腕がマーチにやっと届くというところまで来たところで立ち止まり、手に持っていたものをマーチに手渡す。
それは素焼きのカップだった。中には飲み物が注がれている。
「リラックスできるお茶・・・どうぞ。薬草を昨日から水出しにしていたんだ。ちょうどいい味になっているから」
カップの中の液体はうすい黄緑色をしているようだ。ガンファからお茶を振る舞われるのが初めてのマーチは少し戸惑ったが、ちょうどのどが渇いていたこともあって口を付けることにした。
薬草茶というと、隠れ里で体調を崩したときにアンプに飲まされた苦い薬湯のイメージが強かったが、このお茶は飲みやすかった。ほんの少しだけ渋みがあるが、何口かに分けて飲むごとにすぐ気にならなくなった。
マーチはあっという間にお茶を飲み干すと、礼を言ってカップをガンファに返した。
「屋敷から持ってきたの?」
「うん。セトはきっと、のどが渇いていると思ったから」
「そうか・・・」マーチは、ガンファに向けていた目線を一瞬そらした。「あなたはいいわね。セトのために出来ることがあって」
「そんな──」ガンファは何かをいわなければと思ったものの、うまく言葉にすることが出来なかった。
「あたしは、ただ待っていることしかできないし、セトが無事に戻ってきたとしても、せいぜい声をかけることくらいしかできないわ」
「そんなことはないぞ!」
マーチが自嘲気味にそう言うのを、背後から別の声が力強く否定した。
「君にしかできないことだってもちろんある。安心したまえ」
相変わらず声はすれども姿は見えないユーフーリンであった。
「どうしてわざわざ後ろから声をかけるのよ」
「それはまあ、他人を驚かせるのは私の生き甲斐でもあるから仕方がない。だがもう慣れられてしまったようだな。何か手を考えなくては」
マーチはそれを聞いてうんざりしたが、この性悪の魔族が出てくるときに気になることをいっていたのを思い出した。
「──それで、あたしに出来ることって?」
「ふむ。興味があるかね?」
「それは、まあ」
「ならば言うが・・・なに、別に難しいことでも、準備が必要なわけでもない。セト君が無事に戻ってきたならば、その身をきつく抱きしめてやればいいだけだ」
「抱き・・・」マーチの顔が分かりやすく真っ赤になった。
「やはり抱擁はするにもされるにも異性が良い。彼のように年頃の男子ならなおさらそう思うことだろう。我々の中で女性は君しかいないのだから、これは間違いなく君にしかできないことだろう?何ならそのままキスをしてやれば彼はきっと喜ぶ」
「キ・・・そんなこと出来ないわよ!」
「なんだ、君は案外貞操観念が強いんだな。だが君たちは互いに憎からず想い合っている仲じゃないか。正式な約束はまだなのかもしれんが、順序がいくらか入れ替わることはよくあることで──」
「ああもう、聞かなきゃよかった──なんとかしてこいつを黙らせる手段はないのかしら!」
マーチは頭を抱えている。実体のないユーフーリンがどんな様子かは口調からしか分からないが、赤面するマーチの周りを大喜びで飛び跳ねている様が容易に想像できた。
結局、遠巻きにその様子を眺めているだけだったガンファが、上空で太陽の光を反射する何かに最初に気づいた。
「ユーフーリン様、マーチ!・・・時間のようです」
マーチはその言葉に顔を上げてガンファの目線を追い、ユーフーリンは「そうか」と短い返事を残して押し黙った。
太陽の光を反射しているのが、上空を飛行する竜の白銀の鱗であることはすぐにはっきりとした。
白銀の竜・シイカは、上空で幾度か旋回した後、巨大な翼をはためかせながらゆっくりと高度を下げ、草原の上に降り立った。マーチたちからは少し離れたところだったが、それでも翼の打ち起こす風が舞い上がって彼女らの髪や服をはためかせた。
マーチはほとんど駆け足でシイカの元へと向かい、ガンファも続いた。やがて、彼女の巨体からすれば小さい──それでも人間からすればよほど太い──二本の前腕が、何かを抱えているのが見えた。
シイカ・ドラゴンが身をゆっくりと屈め、その腕に抱えているものを草原に横たえた頃、マーチとガンファは彼女の元にたどり着いた。
「シイカ!セトは・・・」
マーチの言葉は先を続ける必要性を失って途切れた。
草原に横たえられていたものこそセトだったからだ。
身につけていた衣服は血にまみれた上衣はもちろん、ズボンや靴も新しいものに取り替えられていた。胸元はきっちり閉じられており、外見からは傷が残っているのかわからない。
だが、セトは目を閉じていた。シイカによって仰向けに横たえられた姿勢のまま微動だにしない。
「セ──っ」
考えずにいられなかった最悪の想像が現実になったのかと思ったマーチは息をのみ、吊し糸が切れたかのようにひざが崩れた。
だが、そのひざが地面につく前に、ガンファがそっとその肩を支えてやる。
「大丈夫・・・よく見て」
そう言われ、改めてセトを見る。やはり目を閉じたままで、緩く握られたままの拳も動かない。
だが、その胸はかすかに──注意してみれば確かに──上下していた。
「安心してください」独特の響き方をするシイカの声が上から聞こえてきた。「今は眠っているだけです。じきに目覚めます」
「ってことは──」
「はい。セトは試練を乗り越え、見事『竜の加護』を得ることに成功しました」
シイカのはっきりとした肯定の声を聞いて、今度こそマーチは力が抜け、眠るセトの傍らにそのひざをついた。
「セト・・・よかったあ・・・」
表情なく眠るセトの顔をのぞき込んでいると、自然と涙があふれてきて、止めるまもなくセトの頬の上に落ちた。
こぼれた涙はセトの頬を伝って唇に達した。すると、その感触で目が覚めたのか、セトは顔を幾度かしかめ、自身の唇を濡らす何かを──おそらくは無意識に──舌でぺろりと舐めとった。
「あっ!」マーチは驚いて、セトの顔の上から飛び退いた。
セトはまだしばらく顔をむずがゆそうにむにむにと動かしていたが、やがてゆっくりと、目を開いた。
「しょっぱい・・・」
寝ぼけたようにそんなことを言ったので、マーチはまた顔を赤くしたのだった。
『竜の加護』の力によって死の闇から帰還したセトは、草の上に横たわったままで目だけを動かし、なぜかこちらを見ずにうつむいているマーチの姿を最初に認めた。
「久しぶり、マーチ」
「なに言ってるのよ、ばか」
笑いかけても、マーチはそう答えるだけで、こちらを向いてくれなかった。
「久しぶりじゃないよ、セト」シイカの声が聞こえた。
「セトは試練の中で数ヶ月の時を過ごしたけれど、現実にはセトが倒れてからまだ一日しか経っていないんだから」
「ああ、そうか」セトは納得し、それから別の疑問を頭に浮かべた。「シイカはどこにいるの?」
そう言いながら身体を起きあがらせる。セトの身体は過不足なく自分の頭脳から出される指示を受け入れた。
上半身を起こした姿勢で改めて周囲を見回すと、すぐ傍らにマーチがひざ立ちの姿勢でおり、少し離れたところにはガンファがいつも通りの優しい視線を投げかけてくれている。だが、シイカと思しき人物の姿は見あたらなかった。
「セト、上を見て」
「上?」
言われたとおり素直に顎をあげると、数ログ離れたところにあってもはっきりと巨大な竜の瞳と視線があった。
それではじめて、セトは自分のそばにいたガンファよりも巨大な竜の存在に気がついたのだった。
「私がシイカです、セト」ぽかんと口を開けているセトを見下ろして、シイカ・ドラゴンが言った。「・・・驚きましたか?」
セトは二、三度まばたきをすると、開けっ放しの口を閉じた。それから改めて口を開き、「うん、ちょっとだけ──びっくりした」と答えた。
「あ、でも、悪い意味じゃないよ」シイカの本当の姿を見ても驚かない自信がある──自分でそう言ったことを思い出して、セトはあわてて立ち上がった。少しでも顔の位置を近くしようと思ったのだが、そうすると顎はさらに上げなければならず、ずいぶん窮屈な姿勢になった。「まさか、ガンファより大きいとは思ってなかったから」
「無理しなくてもいいのに」シイカはそう言うと身体を少し前に倒し、首をひねって顔の高さをセトに近くした。セトは首に負担をかけなくてもよくなったが、今度は竜となったシイカの顔を間近で見ることになった。
シイカ・ドラゴンの顔には、人の姿をしていた頃の面影を感じさせるものはない。既存の生き物で言えば鰐がもっとも近い顔をしている──ただし、セトは鰐を見たことはないが。大きな口からは鋭く並んだ歯と牙が露出し、その奥にはやはり大きくて長い舌がのぞいている。銀色の皮膚は遠目では透きとおるように美しいが、近くで見ると鱗によって覆われていることがわかる。大きな鼻孔も、頭から生えた触角のような長い二本の角も、人間に恐怖を与えるには十分な迫力を持っていた。
だが、子供の頃から魔族に囲まれて育ったせいか、セトには気にならなかったようだ。
「確かにずいぶん変わったけど──でも髪の色はまえと一緒だね」
シイカの顔を間近で眺めた感想がそれだった。
確かに、シイカ・ドラゴンの髪──生えかたからいえばたてがみというべきだろうが──は、彼女が人の姿をしていた頃と同じ、美しい銀色をしていた。
セトはシイカに近づき、頭を撫でてやろうとしたが届かなかったので、首筋を撫でてやることでそのかわりとした。鱗のせいでつるつるとした感触だった。
「私のこと、怖くないの?」
「どうして?」
シイカのか細い問いに、セトは疑問を返した。
「だって──私はその気になれば、木の枝を折るくらいの力加減で人を殺すことも出来てしまうわ」
「それは、ガンファだってそうだし・・・僕もそうだよ」セトがそんなことを言ったので、シイカは大きな双眸をめいっぱい見開いた。「どういうこと?」
「斧があれば、薪を割るのと同じ力で人を殺せる」セトが答えると、シイカはちょっと怒ったように語気を強めた。
「そういうことじゃなくて──」
「同じだよ」セトはシイカの言葉を遮っていった。「大事なのは、その力があるかじゃなくて、その気があるかどうかだ。シイカは簡単に人を殺そうなんて考えていないだろう?ガンファだって、僕だって同じだ。そのことをわかっていれば、相手が強力な魔族だからっていう理由だけでおびえたりする必要はないんだ」そこまで言うと、表情を引き締める。「みんなが正しく理解していれば、種族が違うっていうだけで争ったり、虐げたり・・・。なにもしていないのに殺してしまうなんてことは、きっとなくなるはずなんだ」
「セト、なんだか雰囲気変わったね」マーチが言った。「大人っぽくなったっていうか──って、あれ?」
マーチは急にセトのそばに駆け寄ってくると、水平にした手を自分とセトの頭の上で行き来させ、驚きの声を上げた。「なんだかセト、大きくなってない?」
「え、そう?」
「そうよ。だって──この間までは確かに、あたしの方が背が高かったもの!」
マーチはよほど悔しいのか、セトに身体をくっつけんばかりにしてふたりの身長差を繰り返しはかっている。セトはあまり気にしていなかったのだが、そういわれれば確かに、マーチの目線の高さが以前より低い位置にあるような気がしてきた。
「マーチが小さくなったんじゃ・・・」
「何ですって?」
マーチは自分の身長について何か思うところでもあるのか、セトをにらみつけた。
「セトの身体は確かに大きくなっています」シイカがふたりの疑問を解決してやるために間に入った。
「セトは、竜の試練を精神の世界で受けましたが、そこでは数ヶ月の時間が経過していたのです。ですが、この世界ではたったの一日。肉体はこの世界にあり、しかも生命活動を停止していましたから、全く変化していません。この精神と肉体の齟齬をそのままにしておくと、思うように体を動かせなくなり、最悪の場合、精神と肉体が分離してしまいます。それを防ぐために、竜の加護の力で肉体を精神にあわせて成長させたのです」
「へえー・・・。じゃあ、あの世界でご飯をいっぱい食べたり、身体を鍛えたりしたことも無駄になってないんだ」
「そういうことです」
シイカの言葉に、セトは満足そうにうなずいたが、試練のことをよく知らないマーチはいまいち理解しきれなかったようで、セトの頭のあたりを不満そうに見つめていた。
「そういえば、この服・・・」
セトは改めて自分の服装を見た。それはまぼろしの世界で最後に着ていたのとまったく同じものであった。違いは、腰帯に長剣が差してあること。あの世界ではあくまでもフェイ・トスカの所持品であったセトの長剣である。
と、その長剣に重なるようにして、さらに短剣が腰帯に差してあることに気がついた。
短剣を鞘ごと取り上げてみると、シンプルな革の鞘に収まったその短剣は、やはりあの世界でフェイ・トスカから渡されたものと同じであった。
「服は、竜の加護の一部です」シイカの声が響いた。「もともと、竜の加護を与えたものには、魔法の装備を一式手渡すことになっているのですが・・・。セトの戦いかたからいって、重装備をさせても動きを鈍くするだけだと判断したので、魔法の力を込めた服にしました。見た目はただの服ですが、炎や雷など、魔法の攻撃には強い耐性があります。ただし、直接攻撃に対してはほぼ見た目通りなので注意してください。武器に関しては、使い慣れたものを替える必要はないと思ったので、長剣に魔法のコーティングをして、強度を増してあります。使い勝手は変わりませんが、威力が増していますよ。短剣は、おまけというか──お守りのようなものだと思ってください」
「へえ・・・」セトは服の裾を引っ張ったりしてみたが、見た目どころか手触りもただの服と変わらない。魔法の品だといわれても本当かどうかもわからなかった。
だが、シイカがうそをつく理由はないし、あの世界を──両親との暖かい生活を──思い出すことのできる意匠にしてくれたことは素直にうれしかった。
「ありがとう、シイカ」セトが礼を言うと、シイカは数回瞬きをしてそれに答えた。
「さて、君たち」その場にいる誰のものでもない声が聞こえてきて、セトは首を左右に巡らせた。
マーチはもう慣れたようで、唐突なタイミングでも全く驚かなくなっている。
「今の・・・そういえば、ユーフーリン様は?」
「気にしてくれてありがとう」思い出したようにその名を口にしたセトに、ユーフーリンの声が答えた。「いないことにされるのではないかと、少し心配したよ」
ユーフーリンは、自分の今の状態と、どうしてそうなるに至ったかを物語形式で語って聞かせた。所々にはいる嘘や誇張は、マーチが的確につっこみを入れるというスタイルで。
「すみません、ご面倒をおかけして」
「まあ、君を救わなければフェイ・トスカの所行は止められないというのだから、ほかにやりようもなかった。それに、あの戦いで君は敗れはしたが、その戦いぶりは冷静かつ勇敢で、十分に称賛に値するものであった。私はそれに報いたいと思ったに過ぎんよ」ユーフーリンは高らかに笑いながらそう言った後、声の調子を変えた。
「で、だ。再会を喜ぶのはいいが、物語はこれでハッピーエンドというわけじゃない。そろそろ今後の対策を練るべきではないかと思うのだが、どうかね?」
「それなら・・・陣に行きましょう」ガンファが遠慮がちに言った。「お茶を用意してありますから」
「ガンファのお茶、ずっと飲めなかったからうれしいな!」セトが目を輝かせた。「あ、精神的には・・・だけど」
「安心したから、なんだかおなかも空いたわ」とマーチ。「食べ物もあるのかしら?」
「私は陣には入れませんね。お茶も飲めないし」シイカがそんなことを言うと、ガンファが笑いかける。「お茶はたくさんあるよ。カップじゃ小さいだろうから・・・桶にでも入れれば、シイカも飲めるかな」「わあ・・・ありがとう、ガンファ」
とにかくセトが無事に戻った安堵感からか、楽しげに陣へと向かう四名の背中を見ながらユーフーリンはつぶやく。
「まあ、今くらいは良しとするか。──しかし、わたしがお茶を飲めないことは気遣ってもらえないのだなあ」
日頃の行いのせいか、疎外感に背中が煤ける思いを味わいながら(背中もないのだが)、ユーフーリンは少し離れて後に続くのだった。