竜の背に乗り
二
「そうだセト、──これ」
マーチが懐から取り出してセトに渡したのは、あの竜の飾りのついた首飾りだった。
もともとシイカの本性を封じ込めた緑色の宝石をはめ込まれていたが、その宝石はユーフーリンが強引に封印を解いた際に砕け、またその際に漏れ出た力の余波を受けて精巧に作られていた竜の飾りもひしゃげてしまっている。
フェイ・トスカの一撃によって断ち切られた鎖はつなぎ直されていたが、元の上品な美しさはもはやみじんも感じられない有様になっていた。
「ありがとう、マーチ」
だがセトは笑顔でマーチに礼を言うと、何のためらいもなく元のように首に下げたのだった。
セトからすれば、意匠のすばらしさなどどうでもいいのだ。
この首飾りはグレンデルから手渡されたものであり──母の魂のかけらが宿っているのだから。
丘の上の陣まで戻った一行は、ガンファの持ってきた薬草茶で人心地ついた。張られた幕よりもよほど大きなシイカは陣の中には入れないので外で待ってはいたが、獣車を引いてきたラグス用の飼い桶を洗ったものにたっぷりと薬草茶を注いでもらったものを、前腕で器用に抱えて飲んでいた。
屋敷のものが用意してくれた簡単な食事もあって、昨日食事がほとんどのどを通らなかったマーチはよく食べたが、セトは試練の世界でよく飲み食いしていたせいか、それほどおなかは空いていなかった。そこで陣の外にいるシイカに何か持ってこようかと聞きにいったが、シイカは断った。
「このサイズだと、人間向けに作られた食べ物は小さすぎて食べごたえがないと思うわ。ガンファのお茶だけで十分」
「竜って、なにを食べるの?」
「何でも食べるけれど・・・肉体的には、私たち竜はほとんどなにも食べる必要がないのよ。それでも生きていけるの」
「へえ、じゃあ、おなかが空いたりしないんだ」セトは感心したが、シイカはその言葉には首を振った。
「ずっとなにも食べないでいると、おなかが空いたような気分になるのよ。それでも我慢していると、だんだん精神がやつれてしまうから、やっぱり時々は何かを食べた方がいいみたい」
「そうなんだ──」セトはうなずきながら、別の疑問を感じて聞いてみた。「シイカって、昨日その姿になったばかりなのに、実際にそうなったことがあるみたいだね」
「なったこと、あるよ」シイカの巨大な瞳が細められた。「私、二年前まではこの姿で生きていたんだから」
「えっ、そうなの?」セトは仰天した。「でも、そんなこともひとことも言わなかったじゃないか」
「言ってしまったら、私が竜としての使命に縛られることなく生きていけるようにって、せっかくおじいちゃんが封印をしてくれた意味がなくなってしまうじゃない。セト・・・ユーフーリン様のお話、ちゃんと聞いていたの?」
「えーっと、聞いてはいたけど・・・」シイカに責めるように言われて、セトは頭を掻いた。
ユーフーリンがシイカの封印を解く顛末を語った話の中には、セトが知らなかった事実がいくつかあった。その中の最たるものが、セトを育ててくれたグレンデルの正体が竜であるということだった。
「じいちゃんがシイカと同じ竜だった、っていうところでびっくりしすぎて、あとはあんまりよくわからなかった」
「もう・・・」シイカはため息をついた。
『竜の加護』を得たセトはすでに勇者と呼ばれるべき存在のはずなのだが、こうして隣で会話をしているとあまりにも今までと変わらない。変に気負ってしまうよりはいいのかもしれないが・・・。
もう少し威厳がでるような装備をこしらえてあげた方がよかったのかしら?と、ほんの少し後悔をするシイカであった。
「さあ、では作戦会議を始めるとしよう」
シイカ、セト、マーチ、ガンファは円を描くようにして草原に座り、ユーフーリンは声の響きからしてその中心にいるようだった。
「会議っていっても・・・フェイ・トスカを追いかけていってやっつければいいんじゃないの?」マーチが口をとがらせて言った。
「ふむ。実にストレートで、しかも全く間違っていない。ではまず、フェイ・トスカは今どこにいて、どこへ向かっているのかな?」
「うっ、それは──」
「さらに、私とガンファ君、ふたりの強力な魔族が同時にかかっていってもいいようにあしらわれてしまったフェイ・トスカをどうやったらやっつけられるのか?」
「わかった、悪かったわよ!」
ユーフーリンに問いつめられて、マーチは両手をあげて降参した。
「ふふふ、人の話はよく聞くものだ。さて、今あげた問題のうち、フェイ・トスカがどこへ向かうのか?──この点についてははっきりさせることができる」
「フェイ・トスカは・・・『太陽の宝珠』の力を発動させようとしているはずです」ガンファが応じた。
「その通りだ。そして、力の発動の方法については、ご丁寧にフェイ・トスカ本人が教えてくれている。セト君、覚えているかな?」
「えっ?えーと・・・」名指しされてセトは考え込んだが、「試練」を経たセトにとってはフェイ・トスカとここで対峙したのは数ヶ月前に体験したような感覚である。そこでなにを喋っていたかなど、細部は思い出しようがない。
「宝珠を祭壇へ掲げ、月の光を浴びせることで天界への道が開かれる──フェイ・トスカはそう言いました」代わりに答えたのはシイカだった。
「その通りだ。──ところでシイカ殿」ユーフーリンはいきなり話題を変えた。「その大きな身体は非常に魅力的だが──魔法でサイズダウンすることはできないのかな?グレンデル殿は、人間の姿に化ける魔法を使っていたのだが。いちいち見上げていると、首が痛くなってね」
「首なんかないじゃない」マーチの突っ込み。
「それは・・・方法がわかれば、使えるとは思うのですが。やり方がわからないのです。おじいちゃんは私を人間として育てるつもりでしたから、魔法は教えてくれませんでしたし」
「なるほど・・・。私が教えてあげられればよいのだが、竜の使う魔法というのは系統が違うらしいからなあ。仕方がない、首が痛いのは我慢するとしよう・・・気持ちの問題だしね」
「それで、シイカ」セトが話題を戻した。「お父さんは、その祭壇ってところにいるの?」
「まだ、いないのではないでしょうか」シイカが答える。「フェイ・トスカは転移の魔法が使えます。そして、月の祭壇はおそらく、グローングの管理地にあるでしょう。どこかに身を潜め、時がきたならば一気に祭壇へと乗り込んで儀式を成してしまう方が確実です。儀式そのものにはさほど時間はかかりませんから」
「時がきたなら、ってことは、その儀式っていうのはいつでもできるってわけじゃないのね。──で、その時っていつなの?」マーチが首を傾げる。
「ふむ。月の光を使う儀式とくれば、月の光がもっとも強い時に行うものと相場が決まっている。となれば、満月の夜と考えるのが妥当だろう」ユーフーリンが言うと、シイカが長い首を振って肯定の意を示した。
「問題は、月の祭壇がどこに作られているのかということなのですが・・・」
「それならば、私にまかせなさい。有力魔族の情報網を甘くみてはいけないよ」ユーフーリンが胸を張った──もちろん実際にそうしたわけではないが、その場にいた一同が皆容易にその様を想像できた。
「月の祭壇は、かつて解放戦争中に魔族の本拠地であった旧魔王城にある。場所は本都グローングから南東へ獣車で大体三日、さらに大河をわたった先だ」
「それって、大問題じゃないの?」マーチが言った。「だって、次の満月っていったら・・・」
「そう、満月は二日後だ。ふつうの手段では、月の祭壇どころか本都にもたどり着かない」認めながらも、ユーフーリンはどこか落ち着いている。「だが、目的地さえはっきりしていれば心配はいらない。そうだろう、シイカ殿?」
ユーフーリンに話を振られたシイカは肯いた。
「私が運びます。休憩を入れながらでも本都まで一日あればつきます」
「シイカの背中に乗るってこと?」セトは驚いた後、笑顔になった。「ちょっと楽しそうかも」
「でも、さすがに全員は無理じゃない?・・・とくに、ガンファなんか」マーチがちょうど正面に座っているガンファを見ながら言った。確かに、シイカより身体は小さいとはいっても、背中に乗せて飛ぶのは大変そうだ。
「そうね、ガンファは──というよりも、私はセトひとりを連れていくつもりだったのだけれど。危険なのよ、マーチ。ここで待っていた方が・・・」
「私はお姫様じゃないのよ、シイカ。事情を知っているのに、なにもせずに祈りながら待っているなんてできないわ。フェイ・トスカと戦うのは無理でも、露払いくらいはやってみせる」
「マーチ・・・」シイカはマーチを見て心配そうな声で名前を呼んだが、マーチはこの件に関しては聞き入れるつもりはない、とばかりに横を向いてしまった。
「解決されていない問題はまだある。そしてこれが最大の問題だろう。果たしてどうやればあのフェイ・トスカを止めることができるのか?」
「あの・・・フェイ・トスカではなくて、『太陽の宝珠』を狙うというのは、どうでしょうか?」そう提案したのは、ガンファだ。「宝珠がなければ、神にあうこともできない。・・・フェイ・トスカは、目的を達成できなくなります」
「ふむ。搦め手か。だが、それはあまり賢明ではないな」ユーフーリンの声が渋くなった。「あの宝珠に収められた魔力は相当なものだ。むやみに解放してしまうと、最悪の場合大陸の何分の一かは吹き飛びかねない。それでフェイ・トスカの野望を阻止できたとしても、安くない犠牲だ。そもそも、あの宝珠は床に叩きつけたくらいでは壊れないだろうな。魔法のアイテムとは、そういうものだ」
「そうですか・・・」ガンファは肩を落とした。
「やはり、セト君に期待するほかないか。だが、セト君もよくわかっているだろうが、あの男の強さはかなりのものだぞ。『竜の加護』を得たとはいえ、勝算はどれほどなのかな?」
「僕は・・・」セトはしばらく下を向いて考えた後、顔を上げていった。「戦って勝てるかどうかは、正直わかりません。僕はむしろ、父さんを説得したいんです」
「説得?己の野望を達するためにすべてを犠牲にしてきた男をか?」ユーフーリンの声のトーンがあがり、茶化すような口調になる。「戦って倒すよりもよほど難しいことのように聞こえるぞ?」
「もちろん、簡単だなんて思っていません。でも、可能性はゼロじゃないと思います。僕は、『試練』の中で、父さんがなにを望んでいるのかを少し知ることができましたから」セトは決意に満ちた目でユーフーリンの声が聞こえてきた先を見つめた。ユーフーリンが目線をあわせてくれるようにと、一点を見据えて動かさないようにする。
「それでもだめなら、戦う覚悟はできています。勝算も・・・ないわけじゃないです」
「試練」の世界で、セトは毎日のようにフェイ・トスカと剣をあわせていた。まぼろしではあったが、シイカが長剣にまつわっている思念から生んだというまぼろしのフェイ・トスカは、本物そっくりのコピー品だ。
そのコピーからも結局一本とることはできなかったわけだが、それでも始めたばかりの頃からすればかなり粘ることができるようになっていたし、「惜しい」と感じる場面もいくつかはあったのだ。
なにより、セトはこの世界での経験を肉体の成長も含めて現実に持ち帰っているのに対し、現実のフェイ・トスカはこのような経験をしていない。フェイ・トスカからすれば、セトと剣をあわせたのはあくまでも昨日、この丘で刹那のうちにセトの胸を貫いた、あの一瞬だけなのだ。
このことが、セトにとってかなり有利な点であることは間違いない。
「セトは、『竜の加護』と『試練』によって、大きく成長しています」シイカも同調した。「一対一での戦いになれば、勝利を保証するところまではいかなくとも、五分の戦いをすることができるでしょう」
「ふむ。世界の命運がかかっているのだから、必ず勝ってくれなければ困るのだが・・・」
「信じましょう、ユーフーリン様」まだ不満げなユーフーリンを、ガンファがなだめた。「セトは、きっと、やってくれます」
「・・・ふむ、そうだな。信じなければなるまい。勇者を勝たせるのは、最後には民衆の信心の力であったと、かつて読んだ書にも記してあった」
ユーフーリンが納得すると、マーチが背伸びをしながら言った。
「結局、相手のところに突っ込んでいって、話をつけるかやっつけるしかないってわけね。作戦会議っていう割には、単純な結論だけど」
マーチは立ち上がって固くなった身体をほぐしながら、シイカに向かって笑顔を向けた。「それで、すぐに出発するの?時間もないんでしょ?」
なしくずしに事を進めてしまおうというのがわかって、シイカは声を暗くした。
「マーチ・・・あなたはやっぱり、ここに残って」
「いや」マーチはまたそっぽを向いてしまう。
「これから向かうのは、魔族たちの本拠地よ。なにがあるのかわからないわ。それに、もしセトとフェイ・トスカが戦うことになれば、あなたを守る余裕はないかもしれない」
「いやったらいやよ。なんと言われようと、ついていくわ」マーチはかたくなに拒むが、その様子は子供がだだをこねているかのようだ。
「マーチ」セトが、背中を向けているマーチの肩にそっと手をおいた。マーチの肩は驚いたように一度びくりと跳ねたが、その後も小さく震え続けていることに、セトは気づいた。
「マーチ、怖いの?」
「怖くなんかないわ。私は戦えるもの。ここに置いていかれる方が、よっぽど──」
「そうか・・・マーチは、独りにされるのが怖いんだね」
その言葉は、マーチの心を無遠慮にえぐった。
かっと血が上ったマーチは、振り向きざまにセトの頬を平手で張った。甲高い音が丘に響く。
左の頬を赤くしながらも、セトは微動だにしなかった。
「ごめん、マーチ。でも、僕もマーチにはここで待っていてほしい。なにが起こるかわからないから──」
「いやよ、あたし──」真っ赤な顔をしたままのマーチは、感情を制御できなくなって大粒の涙をこぼし始めた。
「昨日一晩、独りで待っているだけでも心細かったのに。もしセトが生きて帰ってこなかったらどうしようって、そんなことばかり考えていたのよ。このうえまたシイカもセトもいないところで、なにも出来ずに待っていろっていうの?そんなのあんまりだわ。あのときの光景を、毎日ずっと夢に見て、もしもまたあんなことになっていたらって、一日中考えずにいられなくなるに決まってる!」
マーチはセトにほとんどすがりつくようにしながら、涙を流して訴えた。「お願いよ、セト。連れていって」
「マーチ・・・ううん、困ったな」セトは頭を掻いた。いつも快活な女性であるマーチが、こんな風に涙を流していること自体、セトは初めて目にするのだ。
だが、彼女を大切に思えばこそ、連れていくわけにはいかない。
「そうだな──じゃあ、これを持っていてよ」
セトは両手を首の後ろに回すと、先ほど返してもらったばかりの首飾りをはずした。そのまま腕を回して、マーチの首にかけてやる。
「この首飾りには、母さんの魂が宿っているんだ。話したりは出来ないけど、これで独りじゃないだろ?」
「え、でも・・・」マーチは驚いて、自らの首に下げられた首飾りを手に取った。竜の細工は崩れてしまったが、上質の銀が太陽の光をはじいて優美な輝きを放っている。
「もしかしたら、また父さんと戦わなきゃならないかもしれない。母さんにはあまりそんな場面を見せたくないんだ。だから、これを持ってここで待っていてほしい」
セトは、首飾りを手にしたマーチが泣きやんだので、これはいい説得だとおもったのだが、実はマーチは別の理由で驚きのあまり、涙が引っ込んでしまっていた。
つまり、一般常識として男性から女性に貴金属(特に、家に由来のあるもの)を贈ったり預けたりするというのは、プロポーズの意味合いを持つのである。
「えっと、その」以前ユーフーリンにからかわれたこともあり、そういう意識を持っていないわけではなかったとはいえ、まさかこのタイミングでとは考えておらず、完全に不意をつかれたマーチはうつむいて黙ってしまった。
マーチが急にしおらしくなってしまった理由にユーフーリンはすぐに気づき、ついでシイカが、やがてガンファも気づいた。
当事者であるセトが一番最後まで気づかずにいたが、シイカとガンファにじっと見つめられて、ようやく自分の行動がただマーチをなだめるだけのものでないことに気づいたようだった。
「あ・・・」
置いていくことをマーチに納得してもらうだけのつもりが、予想外の展開になってしまった。だが、ここで取り乱すようではいろいろ失格である。セトはマーチの肩に、そっと手を置いた。
「必ず戻ってくるよ。だから、待っていて」
マーチが顔を上げたので、約束の意味を込めて、しっかりとうなずいてみせる。
マーチは、セトの目線から逃れるように下を見て、それから何か言おうとして口を開き──、セトの目を見るとまたなにも言えなくなった。
「・・・うん」
結局、それだけ答えるのが精一杯で、うなずいたのかうつむいたのか、また下を見てしまうのだった。先ほどまでの涙の筋を残す頬を、紅く染めながら。
「これが、傷口に塗る軟膏。炎症を、抑えてくれるよ。こっちは、飲み薬。身体にたまった毒素を流してくれる。それから・・・これは酔い止めになる。今、ひと包み飲んでおくといいよ」
「うん、ありがとう、ガンファ」
セトたちはユーフーリンの屋敷へ戻ってきていた。
セトは話がまとまると、すぐにでもシイカの背中に乗っていこうとしたが、いくらなんでも少しは旅支度をした方がいいとガンファやユーフーリンが言い、シイカもそれくらいの時間の余裕はあると答えたので、ひとまず獣車で帰ってきたのだ。
ガンファは簡単に服用できる薬を一回分ずつに分けて包み、ひとつひとつ用途をセトに説明したあと、セトが背負うことになる麻袋にしまいこんだ。
長旅になるわけではないので、麻袋の中にはほかに少量の携帯食料と水など、最低限の荷物しかない。
また、獣車で旅をすれば七日から十日はかかる本都までの道のりを一日で飛ぶというシイカの背中の上は、おそらく快適とは言いがたいだろう。シイカにもらった魔法の衣服の上から、寒さを防ぐための長衣を着込む。
「これ、何ですか?」
小鬼の老執事から手渡されたよくわからないもの──頭からかぶるようになっている──を指先でいじりながら、セトがたずねると、ユーフーリンが得意げに教えてくれた。
「それはゴーグルだ。私の知り合いに竜使いは残念ながらいないが、鷲獅子に乗ることが出来る奴を知っていてね。そいつの話では、高速で飛ぶときには目を保護した方がいいとのことだった。で、そのときにそいつが持っていたそれを頼み込んでひとつ譲ってもらったのを思い出したのだよ。目を覆う部分のパーツは稀少品だぞ」
レンズはやや茶色がかっているが、透明で薄く、軽い。透明で固いものといえば一般的にはガラスだが、セトの知っているガラスはここまで薄くも軽くもならない。それに、これは衝撃にも強そうで、落としたくらいでは割れなさそうだ。
「それひとつしかないから、大事に使ってくれたまえ。ま、もらって倉庫の奥に入れたきりもう一〇〇年はほこりをかぶっていたものだから、壊しても別に怒ったりはしないが」
試しに身につけてみると、意外と邪魔にならない。目を覆う部分に色が付いているので視界が悪くなるのではと思ったが、視野も狭まらないし、細部がぼやけて見えることもない。若干重さを感じるが、これも使っているうちに慣れてしまう範囲だろう。
「ありがとうございます、ユーフーリン様」
「なに、このぐらいならおやすいご用だ。ところで──出発前に、マーチ君の部屋に行かなくていいのかね?」
「?」セトは首を傾げた。「どうしてですか?」
「どうしてって、あまり淡泊なのも考え物だと思うがね。これから戦いに向かう前に、愛し君と逢瀬を重ねておきたい、とか思わないものかな?」
「こんな時になにをいっているんですか」
「いやいや、こんな時だからこそ、だよ!」セトは呆れたが、ユーフーリンは力説する。「大体、ここへの帰り道だって、せっかく獣車の中でふたりきりだったのに、なんにもしない!想いが通じあった若い男女が、だ!私は信じられないよ」
「ふたりきりって・・・ユーフーリン様、ずっといたじゃないですか」今度はセトが口をとがらせた。「僕だって、なにもしたくなかったってわけじゃ・・・」
「黙っていたんだから、わからないだろう?今の私には姿がないのだから」
「ユーフーリン様はそうおっしゃいますけど・・・見えてますよ、姿」「え、うそ」
「薄青い霧みたいなのが、集まっているんです。ガンファは見えないの?」セトに聞かれて、ガンファは首を振った。
「マーチも気づいてないみたいだったけど・・・これも『竜の加護』のちからなのかな」
「そういわれれば、確かに・・・。セト君はこっちをまっすぐ見るな、とは思っていたのだが・・・」
試しにユーフーリンは黙ったままで位置を変えてみたが、セトは確実にユーフーリンのいる方へと視線を巡らせるのだった。
「なんということだ」ユーフーリンはうちひしがれた。「これではセト君がいるときはいたずらが出来ないではないか・・・」
セトはため息をついた。
「僕がいなくても、マーチにいたずらしないでくださいね」
準備を終えたセトたちが屋敷の外に出てくると、門の向こう側にちょっとした人だかりが出来ていた。
セトは驚いたが、理由はすぐにわかった。屋敷の庭で待っていたシイカの存在である。
屋敷の正門よりよほど大きなその身体と、白銀に輝く鱗の美しさが魔族たちの歓心を買うのか、屋敷に用のないものまで集まり始めているようだった。シイカの目線からよく見れば、人間の奴隷も少し混じっていることがわかる。
「ああ、セト。早くいきましょう」シイカはセトたちの姿を認めると、安堵のため息をついた。こんな風に見られることは慣れていない。
「うわあ・・・すごいひとだね」セトは驚き、感嘆の声を上げた。
「ふむ。そもそも竜はあまり数がいない上に、人前に出てこない。民衆が珍しがる気持ちも分かるな。──せっかくだから、ちょっと盛り上げて見るのもいいか」ユーフーリンはそう言うと、ガンファに小声で声をかけた。
「・・・え!僕が、ですか?」
「今の私では目立たないだろう。君は身体も大きいし地声もでかい。私の振りをしてしゃべれば、民衆は私がしゃべっていると勝手に思ってくれる。いいか、こう言うんだ・・・」
ユーフーリンが企みごとをしている間に、セトはマーチと向き合っていた。
「じゃあ、行ってきます。マーチ」
「うん。セト、あの──」
「なに?」
マーチが口ごもったので、セトは顔を近づけた。
「いいやもう、見られても・・・」
マーチはつぶやくと、素早い動作でセトの唇に自分の唇を押しつけた。
一瞬だけ触れあう、小鳥のようなキス。
「約束通り、待っててあげるから。約束通り、ちゃんと帰ってくるのよ!」
マーチは顔を真っ赤にしながら、セトの目を見てそう言った。
セトはちらと横を見て、青い霧が少し離れて背中を向けたガンファの辺りで漂っているのを確認すると、マーチにお返しのキスをする。
さっきよりほんのちょっとだけ時間の長いキスだった。
「必ず帰ってくる。待っていて、マーチ」
セトは微笑みを浮かべ、マーチは目に涙をためてうなずいたのだった。
身体の大きいシイカの背中にまたがるのはなかなか骨の折れる作業だった。シイカはセトがのぼりやすいように寝そべってくれたが、それでも背中の高さはほぼセトの頭の位置である。そのうえ、なにしろ鞍も鐙もないのだ。
「たてがみを掴んでしまって大丈夫だから。関節のでっぱりに足を乗せて・・・そう」
「ごめんね、痛くなかった、シイカ?」やっとのことでその背にまたがると、セトは謝罪しながらシイカの土足で踏みつけてしまった部分に手を伸ばして、土を払った。
「平気。私は竜なんだから」シイカは首をひねり、顔を向けながらセトに答えた。
「たてがみが長くなっているところが左右に一房ずつあるでしょう?乗っている間はそれをつかんでいて。もし何か指示したいときは、それを馬の手綱のように使えばわかるから。もっとも、目的地までは私が連れていくから、セトは落ちないように掴まっていればいいだけね──立ち上がるよ、いい?」
セトは言われたとおりに左右に長く伸びたたてがみを掴むと、「うん、いいよ」と返事をした。
シイカがゆっくりと身体を起こす。同時にセトの視点も高くなり、あっと言う間にガンファをも見下ろす位置になった。門の向こう側で遠巻きにこちらをみている人だかりもよく見えるようになり、最初に思ったよりも多くのひと(もちろん大半は魔族)がいることもわかるようになった。
「よし、今だ」人だかりが立ち上がったシイカ・ドラゴンに注目した時を見計らって、ユーフーリンが小声で合図すると、ガンファが叫んだ。
「み、皆のもの、聞きたまえ!」出だしでどもってしまったものの、その体格に似合った大きな声が集まった群衆の注目を集める。もう後戻りは出来ないと、ガンファは覚悟を決めた。
「ここにおわす竜は、世界を混沌へ導かんとする逆臣、フェイ・トスカを討ち果たすべく天より舞い降りられた!そしてその背に乗るのは、竜によって選ばれし勇者、セト!」
ガンファは大げさな身振りで腕を振り、セトを指し示した。群衆は静まり返ってガンファ──おそらく領主ユーフーリンだと思っているのだろう──の言葉を聞いている。
「これより勇者は竜を駆り、逆賊を討つため月の祭壇へと向かう!さあ皆のもの、世界を安寧へと導く勇者セトを、歓声にて送り出してくれたまえ!」
ガンファの言葉が途切れると、屋敷の庭は一瞬静寂につつまれた。──だが、数拍おいた後、群衆が爆発的に歓声を上げ始めた!
「いいぞー、勇者ー!」
「フェイ・トスカなんかぶったおせー!」
「あいつむかしから気に食わなかったんだ!」
「勇者セト万歳!」
つい今し方までまったく事情を知らなかったはずなのに、あっさりとガンファの説明を受け入れて騒ぐ群衆に、マーチは唖然とした。
「そんな簡単に受け入れていいの?それに、セトは人間なのに・・・」
「彼らは私の領地の住民だぞ。マーチ君」歓声に紛れながらもユーフーリンの声が聞こえる。「人間だから格が低いなどという考えはここの領民たちは持っていない。能力があるものは評価する、それが基本だ。といっても、今は決まりがあるから奴隷という立場を変えることは出来ないがな」
「人間が好きな魔族もいるんだよ、マーチ」演説を終えたガンファが下がってきた。「僕らの中にも、人間がすべて奴隷だという考えはおかしいって思っているひともけして少なくないんだ」
「ま、単純におもしろいことや騒ぐのが好きだというのもあるがな」とユーフーリン。「今日はこのまま祭りにしてしまうか」
群衆の歓声はやむどころか、少しずつ大きくなってきている。竜の来訪に気づいていなかったものたちも、この騒ぎに何事かと集まり始めているのだ。
「セト、シイカ。早く行った方がいいよ」ガンファが促した。「このままだと、門の中に入ってきちゃうかもしれない。飛び立てなくなるよ」
「うん」セトはうなずくと、ゴーグルをしっかりとかぶり、たてがみを手に巻き付けるようにしてしっかりと握った。「ガンファ、マーチ、ユーフーリン様!行ってきます!」
その声を合図に、シイカが翼を大きくはばたかせ始める。その様子に、また歓声が大きくなった。
シイカの後ろ肢が大地から離れ、その巨体が浮き上がる。シイカはセトに気を使っているのか、あくまでもゆっくりと上昇していく。
それでもマーチたちの顔はすぐに識別できなくなり、やがては歓声も聞こえなくなった。
「まさかこんなにたくさんのひとに見送られるとは思わなかったな」セトは相変わらず盛り上がっている群衆を振り返りながら言った。「父さんの望み通りにしてしまったら、あのひとたちも居場所を失ってしまうことになるんだ・・・」
フェイ・トスカが創り替えようとしている世界に、魔族たちの安息の場所はない。
自分の肩に掛かる運命の重さを感じて、セトは身震いした。
この重みの大切さをフェイ・トスカに伝えることが出来れば、きっと思いとどまらせることも出来るはずだ。セトは決意を固くするのだった。




