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決意するもの

   三


 魔族は領地の名に領主の名をそのまま冠する。「グレンデル領」「ユーフーリン領」というように。また、「シュテン」や「プリアン」といった都市の名前は、基本的に戦争以前の都市名をそのまま使っていることが多い。これは戦争以前に人間が築いた都市の枠組みをほぼそのまま使っているからである。体格差や生活習慣の違いを埋めるための改修はなされているが。

 おそらく拝領した魔族の中にはもっと違う名前を使いたかったものもいたのだろうが、何しろ魔王が直々にそう決めたので、だれも逆らうことはできなかった。

 ただし、そうした名前のルールにも例外はある。今のところ唯一の例外が、まさにその魔王グローングが治める本都グローングであった。

 グローングは領地を持っていない。正確には、配下の魔族に振り分けていない土地はすべて彼の領地なのだが、あちこちに分散しているので「ここがグローング領」ということはできない。そのため、魔王が直接治める都市に彼の名前を冠することになった。

 かつてのサンクリーク王国首都アルメニーこそ、今の本都グローングであった。


 ユーフーリンの情報通り、フェイ・トスカは今この本都グローングにおり、まさに今、魔王グローングとの謁見を終えたところだった。

 用意された控えの間に戻ってきた彼は、被っていた儀礼用の帽子を乱暴に脱ぐと、忌々しげな舌打ちとともに放り投げた。

 かつてサンクリーク王城のあった地に新たに建てられた魔王城は、サンクリーク王城が三千年に及んだ人の世の象徴であったのと同じように、これから続いていくであろう魔族の世を象徴する建物になるはずである。確かに外観は負けず劣らず壮大であったが、内部は比べるべくもない、というのがフェイの評価だった。

 フェイが騎士として務めたサンクリーク王城は、芸術の粋を集めたといわれる華美な城で、柱の一本一本に至るまで繊細な彫刻が施され、フェイのような下級の騎士が詰めている部屋でさえ輝いて見えるほどであった。

 対してこの魔王城は、ひとつひとつの部屋はとんでもなく広い。おまけに天井も高い。人間の何倍も大きい魔族もいるからそうせざるを得ないのだが、城の高さはサンクリーク王城とさして変わらないのに階層の数はふたつかみっつほど少ないようだった。

 そして、装飾らしい装飾はほとんどない。柱に彫刻どころか、調度品を並べて置くことすらしないのだ。カーテンやカーペットは高級品を使っているが、これは実用性を兼ねているのだろう。

 もちろん、これらはこの城の主である魔王グローングの指示によってそうなったのだった。魔王は華美な装飾を嫌っている。そのことはそのフェイが配下になって程なく知ったことだったが、ここまで徹底しているとは思わなかった。

 だが今、フェイが苦虫を噛みつぶしたかのように顔を歪めているのは、この城の無粋さが腹に据えかねているわけでは、もちろんなかった。

(まさか、このタイミングで言われるとは)

 フェイの渋面の原因は、今し方謁見した魔王の言葉にほかならない。

(命令の撤回と『太陽の宝珠』の返還・・・あと少しだというのに!)


「どういうことですか?」

 魔王の口からその言葉を聞くとは全く予想していなかったフェイは、思わず聞き返してしまった。

「どういうこともなにも、そういうことだ。戦争終結から一〇年が経ち、多くの地ではすでに領地経営も安定している。いまさら『太陽の宝珠』の力を借りずとも、我ら魔族の統治は数千年、いや、一万年の時を越えても続くだろうさ」

「しかし・・・『太陽の宝珠』に魔力を満たし、その力でもって神にまみえ、それによってはじめて、千年の時を越える太平が約束される──古文書には確かに、そう記述がありました」

 逆を言えば、宝珠の力を使わなければたとえ戦争に勝ったとしても長くは持たない、と記されていたのである。だが、魔王グローングは一笑に付した。

「古文書はしょせん古い文書、だ。昔に世界を支配した魔王は、どうせ大した努力もせずに、宝珠の力に頼って世界を治めていたんだろう。だから宝珠の魔力が弱まったとたんにまた世が乱れた。わしはそんな愚は犯さん。必要以上には略奪も破壊も許さず、秩序をもって治めることができるものに優先して領地を与えた。流通や貨幣制度をはじめ、人の世のものであっても優れておれば壊さず残し、改良の努力も怠らなかった。今や世界は復興に沸いておる。神の力など借りずとも、治めていくことは可能なのだ!」

 しゃべっているうちに興奮したのか、グローングは玉座から立ち上がり、右手の鉤爪をふりあげた。まるで大勢の臣民に向かって演説をぶつかのようであったが、聞いているのはフェイひとりだ。

「と、いうわけだから」グローングはフェイへ向かってあっさりと言った。「おまえに与えていた命令と権限は撤回する。おまえもわしの配下になってずいぶん時が経ったし、そろそろ領地を与えてもいいだろう」

「しかし・・・最後の王族の所在はすでに判明しているのです」フェイは食い下がった。「もう後少しで──」

「必要ない」魔王は素っ気なかった。「宝珠も返してもらおう。今持っているのか?」

「今は──持っておりません。向こうの配下に預けております」

 フェイはとっさに嘘をついていた。実際には配下に預けていいような代物ではなく、今このときもフェイは宝珠を持っていたのだ。

 だが、魔王は深くは追求してこなかった。

「ならば、戻ってすぐ持ってくるように。命令の撤回は、おまえが戻ってきたときに正式に下すことにしよう」

「──わかりました」

 そう答えるほかはなかった。


(『太陽の宝珠』を取り上げられたら俺の計画はなりたたない)

 乱暴にいすに腰掛けたフェイは、自分に残された道筋を探った。

 フェイがこれまで魔王の配下として忠実に働いていたのは、『太陽の宝珠』に魔力を満たすという目的が合致していたからだ。フェイは魔王の名の下に宝珠に魔力を満たし──最後にはその力を掠め取るつもりだった。

 だが、ここへきて魔王は宝珠の力は不要だと方針を翻してしまった。

 フェイは今、どの魔族の領地へも自由に立ち入り、必要な行動をとることができる。だがこれは宝珠に力を満たすために魔王から与えられた権限である。命令を撤回されて一領主になってしまえば、そんな勝手なことはできなくなる。

(おまけに、あいつらは目標の確保に失敗したという)

 シェンドたち配下がセトの確保に失敗したという知らせは、今朝になってフェイの耳に届いていた。

 そうはいっても逃走先の目処はすでについており、数日のロスが生じるだけで大勢に影響はないはずだった。

 それが、魔王の言葉によってすべて覆されてしまったのだ。

(宝珠を渡さずにすんだおかげでとりあえずの猶予は得たが、そう何日も引き延ばせはしないだろう。それに、報告書には目標の逃走先はユーフーリン領だと書いてあった)シェンドからフェイへの報告は書面にまとめられ、高速で飛行ができる稀少(レア)な魔物によって届けられていた。

(ユーフーリンは魔族たちの中心にいるわけじゃないが、長生きしてるせいか顔も広いし耳が早い。のんびり獣車で戻っていたら、俺が魔王に命令を撤回されるという情報をつかんでしまうかもしれない)

 そうなれば、ユーフーリン本人がセトをかくまっているようなことがあった場合──実際そうなのだが──、たとえフェイが乗り込んでいっても難癖を付けられ、時間を稼がれる可能性がある。

(となれば、のんびりしている暇はない)

 フェイは立ち上がって儀礼用の服を脱ぎ捨てると、いつも身につけている暗闇色の重鎧を身にまとった。そしておもむろに床に座り込むと、あぐらをかいて精神を集中し始めた。

 フェイの体が徐々に白熱し、その身体からあふれる光が室内を覆いつくし──唐突に消えた。

 外で控えていた兵が何事かと中をのぞき込んだが、そのときには光ばかりか、フェイ・トスカの姿もそこから消え失せていたのであった。


「ねえマーチ、どこへ行くつもりなの?」

 ユーフーリンの屋敷を出て大分たったが、マーチが足をゆるめる気配はなかった。シイカは時折振り返りながらその後を追っていたが、ひときわ大きく、遠目からも目立つはずの屋敷は今はもう目に入らなくなっていた。

「別に、決めてないけど」マーチの返答は素っ気ない。

 ずっと隠れ里で暮らしていたマーチだから、目的地があるはずはない。彼女の言うとおりなのだろう。先ほどから路地が目に入れば曲がっている。行き止まりにぶつかって引き返すことも多い。まさに行きあたりばったりである。

 表通りを歩いていたときは、人間のふたり組という珍しい組み合わせを遠巻きに眺める魔族たちの視線をよく感じていたが、いつしか道も細くなり、周囲の人影もまばらになってきている。

「あまりお屋敷から離れない方が・・・」

「シイカはそうかもね。道に迷わないうちに戻ったら?」

 マーチは言い放して角を曲がったが、また行き止まりだった。高い石壁が正面を塞いでおり、両側は二階建ての建物。戻るしかない。

「また!どこへ行ったら外にでられるわけ?」

「マーチ、外へでたいの?」マーチが悪態をついたおかげで、シイカはようやくマーチがどこへ向かおうとしているのかを知った。

「ここは外壁に囲まれてるから、町の外にでるなら正門へ行かなきゃ」

「囲まれてるって、ずっとこの壁があるってこと?」

「うん。・・・あ、そうか。マーチはずっと森にいたから」

 広大な農地をのぞき、町を外壁で囲むのはほとんどの町で行われていることだったが、マーチは幼い頃から森の中にいたのでそういったことは知らないのである。

 シイカの口調にマーチを揶揄するような響きはなかったが、それでもマーチは自分の失態に顔を赤くした。しれずふくれっ面になりながら、シイカを追い抜いて引き返していく。

「もう、マーチ!」

 追いすがってこようとするシイカの声を背中に聞きながら、二つ目の角を曲がった、その刹那。

 後頭部に激しい衝撃を受けて、マーチは倒れ込んだ。

「!?」

 何とか頭をもたげたが、身体はいうことを聞かない。衝撃のせいで耳鳴りがひどく、状況が把握できない。それでも顔を巡らせると、数人の人物がいるらしいことはわかった。頭も上げられないので、足元しか見ることができない。

 耳鳴りに混じっていくつかの声が聞こえてくる。大半は低い声だ。時折聞こえる切羽詰まったような甲高い声は、シイカのものだろうか。

 そのときちょうどマーチの前に、鳥の足を持った人物が立った。魔族だ。マーチは力を振り絞って頭を上げ、そいつの姿を見た。

 その魔族は鳥の足に長いくちばしを持っていたが、翼は片方しか生えていなかった。それをみてマーチは自分が襲われたわけを知った。その鳥の魔族はセトを救出した後に待ち伏せを受けたとき、マーチの前に立ちふさがった魔族だったのだ。

 そのときマーチはそいつの右の翼を斬り落としたのだが、とどめは刺さなかった。もう戦えないだろうと思ったからだ。だがそれは裏目にでた。

「くそっ・・・」マーチはせめて精一杯そいつをにらみつけてやろうとしたが、そこで限界がきた。

 頭の奥がじんとしびれ、視界が何重にも広がって揺れていく。

 そうして、マーチは気を失った。


 次に目をさますと、薄暗い部屋の中だった。ずいぶんと天井が高い、石造りの部屋。

「うぐっ」

 体を起こそうとすると、後頭部に鋭い痛みがはしった。

「マーチ、起きた?大丈夫?」

 自分のすぐとなりから声が聞こえた。マーチが用心深く頭を動かすと、すぐ横にシイカが腰を下ろしていた。

「殴られたところ、痛むの?ちょっと待っていて」

 シイカは立ち上がると、部屋の入り口へと向かった。簾やカーテンではなく、しっかりとした木戸がはめ込まれている。シイカがノックをすると、ゴツゴツと分厚い音がした。

「あの、お水と・・・切れ端でいいので、何か布をもらえませんか?冷やさないといけないので・・・」

 シイカはドア越しに何者かと喋っている。その声を聞くうちに、マーチの意識もはっきりとしてきた。

 どうやらシイカとふたり、セトを追っていた魔族どもに捕まってしまったのだろう。この部屋は監禁用の部屋だろうか、小窓はあるがずいぶん高いところに切られている。明かりはそこからしか入ってこないので室内は薄暗いが、入ってくる明かり自体はまだしっかりとしたものだった。自分が丸一日以上気を失っていたのでなければ、あれからそこまで時間は経っていないようだ。

 シイカはしばらくドア越しにやりとりをしていたが、やがて手桶と麻の手ぬぐいを持って戻ってきた。手桶には水が張られている。

「起きあがれる?ちょっと、後ろ向いて」

 シイカはマーチを座らせると、その背後に膝をついた。手ぬぐいを水につけて固く絞り、マーチの肩口まである髪──マーチは自分で切ってしまうので、少々乱雑に切りそろえられている──を掻きあげると、手ぬぐいをうなじの上のあたりにそっと押し当てた。

「どう、気持ちいい?」

「・・・うん」

 なんとなく流れに身を任せていたが、後頭部の熱が冷やされていくうちになんだか急に気恥ずかしくなってきた。

「も、もういいよ。自分でやれるから」シイカから手ぬぐいを奪い取ると、自分で後頭部に押し当てた。

「ここ、どこなの?」後頭部の痛みは強烈なものではないが、絶えることはなく主張を続けている。マーチは顔をしかめながら、シイカに尋ねた。

「町からはでていないと思うけど・・・私は目隠しをされていたから、よくわからないの」

 シイカの説明では、マーチたちを襲ったのは五名ほどの魔族で、うち何名かはシイカも見覚えがあり、やはり、先日マーチたちがとどめを刺さずに見逃した魔族たちということだった。戦うことができないシイカが降参すると、気を失ったマーチはそのまま、シイカは目隠しをされた上に後ろ手に縛られて、魔族に引っ張られるようにして歩いてここへきたという。

「じゃあ、シイカは乱暴なことはされてないのね?」シイカがうなずくのをみて、マーチは安堵の息を吐いた。確かに、見る限りで彼女に外傷はないようだった。

「よかった」

「心配してくれたの?」

「そりゃあ・・・シイカはあたしについてきて巻き込まれたようなものだし」

 マーチは頭を掻いた。詳しい背景はわからないが、おそらくはセトを捕らえるためのエサとして、不用心に屋敷を出てきた自分と、たまたま一緒にいたシイカがねらわれたのだろう。

「ごめん」屋敷を出たこと自体も不用心だったのだろうが、あのとき、マーチは気が立っていて周囲への警戒を怠っていた。一度は追っ手から逃げきった、という安心感もあったのかもしれない。いずれにしても、普段のマーチならば襲撃される前に角の先の気配に気づいて立ち回ることも可能だったかもしれない。そうできなかったことにふがいなさを感じて、自然と謝罪の言葉が口をついた。

「謝ることはないけど・・・」シイカは気遣うような笑みを浮かべた。「でも、一緒の部屋に入れてくれてよかった。やっとゆっくり話せるもの」

「話すって?」

「セトのそばにいてあげてほしい、っていうこと」

 シイカに言われて、マーチはああ、と膝を打った。そういえばそもそもそんなやりとりをしていたのだ。

 マーチは不思議な思いでシイカをみた。戦いのスキルはないのに、こうして敵対勢力にとらわれていても、妙に落ち着いている。ふつうの女の子なら、こんな事態になったなら部屋のすみっこで膝を抱えてメソメソ泣いているくらいしかできないんじゃないのか。といっても、あたし自身とてもふつうの女の子じゃないから、それは想像でしかないんだけど。

 と、そんなことを考えていると、シイカは真顔になってマーチを説得し始めた。

「ねぇ、マーチ。ユーフーリン様は私たちを奴隷にするっておっしゃっていたけど、それは本当に肩書きだけのことよ。ガンファならとても優しいし、絶対にあなたを奴隷扱いしたりしないわ。マーチがセトとふたりだけで暮らしたいっていうのなら、それだって何とかしてくれると思うし」

「ふ、ふたりでって」マーチは思わず口ごもってしまった。顔が熱くなるのを感じてしまったと思ったが、どうにもできない。「あたしは別に、セトとふたりになりたいから奴隷がいやだなんていってないよ。あたしは魔族の下につくのがいやなの。それがあの、ガンファって奴でも」

 マーチ自身、この数日でガンファという魔族が自分がこれまで想像していた、典型的な「魔族」という存在からは大分かけ離れていることを理解していた。だが、それだけで彼女に長年かけて積み重なった魔族への不信や憎しみが晴れるはずもない。

「マーチが魔族を嫌いなのは知ってる。その原因も」父親を魔族に殺された、という話をマーチがしたのはセトたちが里に着いた翌日の一度きりだったが、そのとき垣間見せた表情は普段の快活な少女のそれとは大きなギャップがあった。

「でも、お父さんを殺した魔族とガンファは、別人よ」

「だから、間違ってるって言いたいの?」マーチの語調が強くなった。だが、シイカはひるまない。

「マーチがお父さんを愛していたことも、そのお父さんを殺した相手を憎む気持ちもわかるわ。でも、中にはガンファみたいに心優しい魔族だっていっぱいいるの」

「関係ない」マーチはきつく言い放った。「あたしにとって、魔族は憎むべき敵。お父さんが殺されたことだけじゃないわ。そもそも魔族が戦争なんか仕掛けなければ、あんな森に押し込められる必要もなかった。お母さんを泣かせる必要だって・・・」マーチの脳裏に、闇の中で泣き崩れる母の姿が浮かんて、マーチは思わず言葉を切った。「とにかく、あたしには魔族はみんな憎しみの対象なの」

「でも、『魔族』っていっても、いろんな生き物がいるのよ。鳥のように空を飛んだり、馬のように早く走ったり・・・。実際には、魔族の中にも、いろんな種類がいるわ」

「でも、魔族は魔族よ。人間じゃないことには変わらないわ」

「そう・・・」シイカは一度だけマーチから目線をはずすと、息をついた。「じゃあ、私のことは嫌い?」

「えっ?」マーチは困惑した。いきなりなにを聞いてくるのか。シイカの言わんとしていることはわからなかったが、その真剣な表情に押されるようにして答えていた。「嫌いなわけないじゃない。なにを言っているの?」

「そう、よかった」シイカは弱々しくほほえんだ。「じゃあ、私が実は人間じゃない、って言ったら?」

「・・・は?」今度こそ、マーチはシイカの言っていることがわからなくなってしまった。「なにを言って・・・どうしちゃったの、シイカ」

「本当よ、マーチ。私は人間じゃないの」シイカの顔から笑みが消えた。

 まっすぐに目をあわせられて、マーチはうろたえた。嘘を言っている様子ではない。

「どうみたって人間じゃないの」そう返すのが精一杯だった。確かにシイカのもつ銀の髪と銀の瞳は珍しいが、それ以外はどこをとっても歳相応の少女としか思えない。「あのユーなんとかって魔族みたいに、魔法で化けてるとでもいうの?」たとえそうだとしても、もうひと月以上一緒にいるのだ。なんの気配も感じさせずに化け続けるなんてできるのだろうか。それに、魔族がわざわざ人間に化けることにメリットがあるとも思えなかった。

「今の私の身体は、人間のものとほとんど変わらないわ。この姿のままでいれば、私は歳とともに成長し、やがては老いて、百年も生きないうちに死ぬでしょう。・・・本当の私の身体と能力は、今は封印されているの」

「封印?」ずいぶん大がかりな話になってきた、とマーチは思った。きっとシイカは、魔族をかたくなに嫌っている自分をなんとか翻意させたくて、こんな話をでっち上げたのだ。マーチはそう思おうとしていたが、一方ではシイカの淡々とした話しぶりに困惑もしていた。

「そう。・・・でも、全く人間と同じというわけでもないのよ。たとえば、セトが連れ去られた夜のこと、覚えてるでしょう?あの日、ソナタさんは私たち三人の食事に睡眠薬を入れたわ。だけど、私はそれほど時間をおかずに目覚めた。私、毒や薬のたぐいは効きづらいのよ」

 確かにあの晩、シイカに起こされなければマーチはずっと眠っていただろう。ソナタが三人の食事に何かを混ぜた、というようなことを呟いていたのも聞いた。

 だが、それだけでシイカを人間ではないなどと思うことはできない。毒に耐性を持つ人間というのも稀には存在するものだ。

「それに、怪我にも強いわ。ちょっとの切り傷くらいならすぐ治ってしまうの。普段はセトやマーチが護ってくれるから、怪我自体ぜんぜんしないけど。実際に見せた方が早いかな」

 そう言うと、シイカは室内を見回し始めた。この部屋の中には傷を付けることができそうな道具はなかったし、マーチの小剣も取り上げられてしまっていたが、放っておいたら壁でも殴りつけかねない。マーチはシイカの腕を取った。

「ばか。やめなさい」その腕は白くほっそりとしていて、か弱い少女の腕そのものだ。

「私、人間じゃないの。本当なのよ」シイカはもう一度、そう言った。「やっぱり、信じてもらえないかな・・・」その瞳が哀しげに沈んだ。

「どうして、そんなことを言うの」シイカがあまりにも消沈した様子なので、マーチははっきり否定できないでいた。「そんなに、私にセトのところへ戻ってほしいの?」

「それもあるけど・・・マーチになら、言ってもいいかなって思ったの」シイカは微笑んだ。少し悲しげに。「私のこと、嫌いじゃないって言ってくれたから」

「そういうことは、セトに言えばいいじゃない」マーチは気恥ずかしくなって、シイカから目をそらした。「あいつなら、信じてくれるんじゃないの?」

 だが、シイカは首を横に振った。「セトには言えないの。私の正体は、セトの運命に関わっているから」

「封印とか、運命とか、ずいぶんと重たいのね」マーチが言うと、シイカはうなずいた。

「そうだね。ひょっとしたら、セトには世界を変える力があるかもしれない」マーチは半分冗談くらいのつもりで言ったのだが、返ってきたのはさらに重たい言葉だった。

「だけど、今のセトはそんな力は望んでいない。ただ平穏に暮らしていきたいだけ。だから言えないの。知ってしまえば、どうしたって巻き込まれてしまうから」

 マーチはそれまでずっと、手ぬぐいを左手で後頭部に押し当てたままだったが、手ぬぐいがすっかりぬるくなっていることに気づいてそこからはずした。まだ少し痛みはあるが、もうそれほど気にならない。

「そこまで真剣に言われると、簡単に嘘とは言い切れないわね」手ぬぐいを桶の水に漬けながらそう言うと、シイカは目を輝かせた。

「信じてくれるの?」はじけるようにそう言って、それからまた声のトーンを落とした。「じゃあ、人間じゃない私のこと、憎くなるかな」

 マーチは改めてシイカをみた。彼女の言葉については、まだ半信半疑という以上の印象は持てない。シイカの言葉を念頭に置いて彼女を見ても、当然のことながらそれでシイカの印象が変わるということはなかった。

「そんなわけないでしょ。シイカはシイカよ」正直にそう答えると、シイカは心配ごとがいっぺんに晴れたような、心底うれしそうな笑顔を浮かべた。

「ね?人間じゃないならすべて憎いなんて、そんなことないのよ」

「それとこれとは──」

 言葉の上では同じことだが、実際にはそんな簡単に割り切れることではないだろう。

 だが、シイカの言葉を信じてあげるためには、自分も少し変わらなければいけないのかもしれない。手ぬぐいを絞りながら、マーチはそう思った。

「・・・それにしても」今はこれ以上言い合っても仕方ないと、マーチはシイカから目線をはずし、高い天井を見上げた。窓からはいる光は細く、部屋の角までは届いていない。その様子を見て、抑え込んでいた不安がにわかに鎌首をもたげてきた。

 おそらく自分たちは人質として使われるのだろう。それならばすぐに殺されるようなことはないだろうが、最終的にどうなるかはわからない。そもそもシイカもマーチもセトも、全員無事に生き延びられなければ、今のやりとりにしても何の意味も持たないのだ。

「どうなっちゃうんだろうね、これから」

 ぽつりと漏れた呟きは、妙に響いて聞こえた。

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