安息は遠く
一
セトは夢を見ていた。
悪夢だ。まだ夢の途中なのに、これが悪夢だということだけは分かる。
これを夢だと自覚したときから、ずっと逃げ続けている。表情の見えない強い悪意が、セトを飲み込もうと追ってくる。
前方に、大きな影が見える。あれはきっとガンファだ。自分を包み、守ってくれる影。セトは残った力を振り絞って走り、大きな影の後ろに逃げ込んだ。
ようやくひと息ついて見上げると、リタルドが優しく笑いかけていた。ほんのついこの間まで、何度となく見てきた微笑み。「よう、セト。そんなに急いでどこへ行くんだ?」そんな風に、今にも聞きなれた明るい声が聞こえてくるような気がした。
だが、リタルドは何も言わない。「リタルド兄ちゃん?」セトが声をかけても、微笑みを浮かべたまま口を閉じている。
やがて、その口の端から血が一筋流れ出た。その途端、両手にずっしりと重みを感じてセトが目をやると、いつの間にかその手には剣が握られている。そしてその剣先は──。
次の瞬間、セトの脳裏に蘇るのは、初めて人の肉を自らの剣で斬り裂いた生々しい感触。握った手の先から生命の灯火が失われていく実感。そして、肉親を知らないセトにそれに等しい愛を注いでくれた男の死という現実だった。
セトを包み込む影は今や泥のような重さをもってセトにのしかかり、セトの身体から自由を奪っていた。
セトは叫んだ。声を限りに叫んだ。自らを縛る泥の中から抜け出そうと、この悪夢から一刻も早く覚めるようにと。
だが、泥のような悪夢から覚めた先には石のように冷たい現実が待っている。
「・・・ぁぁあああっ!」
叫び声が現実の空気を揺らし、セトは悪夢から解放された。
身体中に寝汗をかいている。不快感を感じながら、寝台から身を起こした。
そこはずっと木造の家屋で過ごしてきたセトにはなじみの薄い、石造りの部屋だった。長方形に切り取られた窓から日光が差し込んでいた。
寝台の脇にはセトの着替えとして服がひと揃いたたまれて置いてあった。室内にはセトが寝ていたのとは別にもう一つ大きな寝台があるが、そちらは今は空いており、室内にセト以外の人影はない。
セトは寝台を降り、汗を吸った寝間着を脱いだ。用意されていた服に着替え、腰帯をしめ終える頃、部屋の外から足音が聞こえてきた。
「セト・・・起きた?」
ガンファが窮屈そうに入り口をくぐってきた。飲み物の入ったポットとカップをふたつ持っている。
セトはガンファを見て薄く微笑んだが、言葉は発しなかった。ガンファもそれ以上何もいわず、ポットの中身をカップに注ぐとセトに手渡した。
ポットの中身は冷えた薬草茶だった。セトは椅子に腰掛けてゆっくりと薬草茶を飲んだ。ガンファはもうひとつのカップに自分用の茶を注ぎ、ポットを備え付けのテーブルの上に置くと、自分は寝台の上にゆっくりと腰をかけた。
ふたりとも何も話さず、茶をすする音だけが静かに響いた。
ガンファはもともと積極的に会話をするタイプではないので、ふたりになったときは大概セトが一方的にしゃべって、ガンファは時折相づちを入れながらひたすら聞き手に回っていることが多いのだが、今、セトは下を向いたままで、口を開こうとする気配もなかった。
あれから三日が経ち、セトたちは無事当初の目的地であったユーフーリン領へとたどり着いていた。昨夜遅くに領主の住むプリアンの町へ到着した一行は、彼らを待っていた領主の使いに案内され、屋敷へと通された。とはいえすでに領主ユーフーリンは休んでいるとのことだったので、男女それぞれに用意された客間で一晩を過ごしたのだった。
一行の中でリタルドの死にもっともショックを受けていたのは言うまでもなくセトであったが、何も出来なくなってしまうということはなく、ここまでくる間も自分でラグスに乗ってきた。だが、ほとんど口をきかず、先導するガンファは幾度となく振り返って彼がきちんとついてきているか確認しなければいけなかった。
とりあえず目的地に到達し、久しぶりに周りを警戒することなく暖かなベッドで眠れたことで少しは気持ちも晴れるのでは、とガンファは期待したのだが、そう簡単にはいかなかったようだ。額には汗の名残が見て取れ、心地よい目覚めにはならなかったことをガンファに教えていた。
「セト・・・」
励ましてやりたくて口を開いたが、後の言葉を続けられなかった。こんなとき、自分に出来ることがあまりにも少ないことに気づいてガンファはショックだった。
リタルドならなんと声をかけただろう。彼は自分と違って気さくで社交的で、セトは彼を兄貴分として心から慕っていた。きっと彼なら、こんな風に落ち込んでしまったセトを元気づけることが出来るだろう──。
いくら考えても詮無いことではあったが、ガンファはそう考えずにはいられず、そしてそんなリタルドをよりにもよってセト自身がその手で殺してしまう形になってしまったことを思い、そのことによってセトが受けた衝撃はガンファがこれまでの人生で受けたどんな衝撃よりも深く重いものであったであろうことを想像し──そして結局、そんなセトに対してかける言葉を見つけることが出来ず、口をつぐんでしまうのだ。
今だけでなく、ここへたどり着くまでの間もずっと、ガンファの中ではそんな思考が渦を巻いていたのだった。
「ガンファ・・・ありがとう」
下を向いてしまったガンファに、セトが微笑みながら礼を言った。その笑みは普段のそれに比べればまだまだ弱々しいものだったが、逃走中はほとんど機械のように硬い表情を崩していなかったから、それでも少しは気持ちに活力が戻ってきたのだろうか。寝ている間に汗をかいたせいか、蒼白だった顔色もいくらか赤みが戻っているように見える。
「僕は何もしてない・・・何も出来ないんだ」
「そんなことないよ」
セトの笑い皺が深くなった。「ガンファがそばにいてくれると、時間がゆっくりになったように感じられるんだ。おかげで、少しだけ心が落ち着いたような気がする。このお茶のおかげもあるのかな?」
カップ半分ほどに減ったお茶は、セトがあまり嗅いだことのない、独特の芳香を放っていた。
「ああ・・・鎮静作用のある草を、煎じたからね」
「ほら。ガンファは何も出来ないなんてことはない。こうしてそばにいてくれるし、僕のために薬草茶をいれてくれる。たくさんのことを僕はしてもらっているんだ」
励ますつもりがいつの間にか、ガンファの方が励まされている。結局いつもの通り、しゃべるのはもっぱらセトの方で、ガンファは聞き役だ。だけれどセトはそうやって無理にでも言葉を紡ぐことで、固まってしまった心を少しでもほぐそうとしているのかもしれない。
いくつかの言葉のやりとりの後、小さな沈黙があった。先ほどまでの気まずい沈黙ではない。セトの顔から笑みは消えたが、無表情に戻ったわけではなく、ガンファの目をしっかりと見据えていた。
「僕・・・リタルド兄ちゃんを殺してしまった」はっきりとそう言った。
「彼は、ギリギリまで、顔を隠していたんだろう?仕方のないことだよ」ガンファはそう言ったが、セトは首を振った。
「でも僕、殺すつもりだったんだ。兄ちゃんの顔が見えるまでは。相手を岩に向けて蹴りとばして、鎧に隙間をつくって・・・出来た隙間はお腹のところだった。そこに剣を差し込めばどうなるかなんて、誰にだって分かるよね」セトは淡々と話している。ガンファは何も言えなかった。
「相手がかぶとを脱いで、それがリタルド兄ちゃんで・・・そこからはあんまりよく覚えていないけど、気がついたら僕は相手の懐に入っていて、両手で剣を持って、その隙間にねじ込んでいた。直前までシミュレートしていたとおりに」セトは言いながら手を動かし、その瞬間の動きをなぞって見せた。
「あのときは夢中で、そこまで考えてなんかいなかったけれど・・・。僕はあのとき、相手の命を奪うつもりだったんだ。殺してしまったのがリタルド兄ちゃんじゃなかったら、こんな風に思わなかったのかもしれないけど、僕は・・・」
そこまで一気にしゃべって、セトはまた口をつぐんでしまった。ガンファは言葉を探したが、やはりこの場面で言うべき言葉は見つからなかった。
再び気まずい沈黙が流れたが、それを壊したのは外から響く鐘の音だった。
「『朝の終わりの鐘』だ・・・」ガンファは顔を上げた。
町中に時を知らせる鐘は、一般に教会の鐘が使われる。魔族は神を信仰しないので、戦争終結とともにほとんどの教会はその本来の役目を失ったが、時を告げる役割はそのまま担っているところが多い。
このプリアンでは領主の屋敷に教会が併設されている。そのため、鐘の音はガンファたちの部屋によく響いた。
その鐘の音に混じって足音が聞こえた。石床を一定間隔で打つその音に振り返ると、上等の絹のシャツに黒のズボン、そして堅い木の靴底をつけたブーツを履いた小鬼の老執事が立っていた。
「ガンファ様。ユーフーリン様がお会いになります。みなさまを連れて執務室までおいでください」鼻の大きな老執事はぴんと背筋を伸ばして──それでもその背丈はセトよりも低く、ガンファの腰ほどもない──、慇懃な態度でそう告げた。
「ありがとうございます、すぐに伺います」ガンファがそう応えると、しわくちゃの老執事は鼻でひとつ息をつき、「主はご多忙でいらっしゃいます。お急ぎくださいますように」とやはり慇懃に告げたあと、くるりと回れ右をして立ち去った。木底のブーツがこつこつ立てる足音が、等しいリズムを刻みながらだんだん小さくなっていく。
「さあ、ご挨拶にいかなくちゃ。ユーフーリン様は気さくな方だから、かしこまる必要はないけど・・・セト、気分は大丈夫?」
「うん、大丈夫」
セトは立ち上がってそう答えたが、その表情にはまだ少し影が差しているように見えて、ガンファの心配は晴れなかった。
セトとガンファは部屋を出ると、別の客間にいたシイカ、マーチと合流し、ガンファの案内でユーフーリンがいるという執務室へ向かっていた。
シイカもセト同様、用意された服に着替えていたが、マーチは里をでるときに着ていた服をそのまま身につけていた。
「あたしは戦士よ。シイカと同じ格好なんか出来ないわ」
と、用意されていたのがシイカが今身につけているのと同じ女性用のローブとベストだったことが不満であるように言っていたが、その硬い表情は、理由がそればかりではないことを示していた。
人間ばかりの隠れ里で育ったマーチが、ほとんど成り行きで魔族の支配する土地へやってきたことに抵抗を感じているのは、知り合ったばかりのガンファでも容易に想像できることだった。
とはいえガンファにとって今一番の心配ごとはやはりセトについてのことであったから、彼女について深い詮索をする余裕はなかった。
「こちらにいらっしゃるみたいだ」
屋敷は三階建てで、執務室はその最上階にあった。入り口の脇に衛兵が一人立っている。猿に似た魔族の衛兵は、昨夜一行を客間へと案内した衛兵だった。ガンファが呼ばれてきたことを告げると、中へはいるように促された。
ガンファ、セト、シイカ、そして一歩遅れてマーチの順で中へはいる。執務室は広く、大きく切られた採光窓から日光がふんだんに入ってきて明るさも申し分なく、快適に仕事が出来そうだったが、中央に置かれた仕事用と思われる立派なテーブルの周辺に人影はなかった。その奥には大人数が席に着ける円卓も置かれていたが、そこにも人の気配はない。
「いないじゃない」無遠慮にマーチがそう言ったが、マーチの方を見たセトが気づいた。「マーチ、後ろ」
マーチが振り返ると、入り口脇にいた衛兵がマーチにくっつくようにして室内に入ってきていた。気配に気づかなかったマーチが飛び退くと、衛兵は無言のまま進み出て一行の前に立つと、優雅に、そして少々大仰にお辞儀をして見せた。
「ようこそみなさま。私はユーフーリン。このプリアンをはじめ、一帯を任されているものです」
「昨日会ったわよね、この衛兵」セトとシイカが思わず顔を見合わせる中、マーチがまたしても無遠慮に指摘した。普段からはっきりものを言う方ではあるが、やはり魔族への嫌悪感からか、どことなく喧嘩腰にも感じられる。「領主は寝てるからまた明日、って、あなたが言ったんじゃなかった?それとも魔族って、みんな同じ顔をしているの?」
「おっと、これは失礼」ユーフーリンを名乗った魔族はマーチの突っ込みに悪びれた様子もない。「では、これならいかがかな?」
その途端、ユーフーリン(?)の姿が歪んだ。マーチは一瞬、自分の目がおかしくなったのではと思い、両目を強くつむり、手で押さえた後ゆっくりと開いた。すると、正面にいたはずの猿の魔族はそこから姿を消し、代わりに大きな鼻をもつしわくちゃの老小鬼がそこに立っていた。
「これなら領主に見えるかね、お嬢さん?」老小鬼は片眉をつり上げてそう言った。
「このひと、さっき来た執事さん?」ガンファの方を向いて、セトがそう言った。「でも、ちょっと雰囲気が違うけど・・・」先ほど客間に現れたときにかもし出していた慇懃な空気がないので、セトは少し首を傾げた。
「ほう、君はよくみているね。あれは有能なんだが、感情を制御しきれないところがある。私に命じられて丁寧に接してはいるが、人間を下に見ている本心が態度に出てしまっているんだろうな」老小鬼が含み声でと笑うと、またその姿が歪んだ。
今度はマーチも目を閉じずに、むしろ瞬きをしないように目を見開いてその様子を見ていたが、歪んで戻ったと思ったらすでにそこには別人が立っていた。
新たに現れたのは、赤と黒のスーツに身を包んだ初老の男性だった。目を丸くしているセトやマーチの姿を見て、スーツの男は襟元に指をかけ、満足げに胸を張ると、ガンファの方を見た。
「これならどう?」
「・・・充分です」すでにユーフーリンと面識があるガンファは、すこしうんざりした面もちでそう答えた。
「じゃあ、しばらくこれでいくとしよう。改めて、初めまして。私はユーフーリン。この地域一帯を魔王様から預かっているもので、今見てもらったとおり、変身能力を持った魔族だ。驚いた?」
領主ユーフーリンは、深みのあるバリトンでそう挨拶した後、茶目っ気たっぷりにウインクした。
挨拶がすむと、一行は円卓へと案内され、紅茶が振る舞われた。運んできたのは先ほど領主が化けて見せた老小鬼で、初めてその姿をみたマーチとシイカは思わず領主と執事を何回も見直してしまった。
「そのお姿が、領主さまの本来のものなんですか?」シイカが尋ねると、ユーフーリンは肩をあげ、首を振った。いちいちリアクションが大きい。
「残念ながら違う。私は頭に思い浮かべることができるものになら何でも姿を変えることができるが・・・」
「何でも?」おもわずマーチがそう口に出したのを聞き逃さず、ユーフーリンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「何でもだ。たとえば、こんなふうに」また姿が歪んだ。じっと見ていると気分が悪くなりそうだったので、マーチは少しの間視線を逸らしたが、視線を戻した途端叫んでしまった。
「ちょっと、なによその格好!」
「ちょっと、なによその格好!・・・どうだ、そっくりだろう?」なんとユーフーリンはマーチそっくりの姿になってみせたのだった。声もしっかり女性の、というよりマーチの声そのものになっている。
「部屋に入るとき、彼女の後ろについていたから、後ろ姿もばっちりだ。どうだい?」ユーフーリンは席を立つと、その場の全員によく見えるようにくるりと一回転した。
「わあ、本当だ」素直に感嘆の声をあげたセトを一瞬睨みつけると、マーチは声をあらげた。「いいから、早く戻って!」
「おお、こわ」肩をすくめたユーフーリンの姿がまた歪んだ。歪みが戻るとマーチの姿ではなくなったが、その前の初老の男性に戻るのではなく、今度はセトやシイカよりも幼く見える少年の姿になった。
「あんまり怒ると老けるよ、おねえちゃん?」可愛らしく言われたことがよけいにマーチの癇に障ったらしい。いすを蹴りあげてつかみかからんばかりの空気を感じて、セトが慌ててなだめた。
「何の話をしていたかな。そうそう、私はこのようにどんな姿もとることができるが・・・」言いながらユーフーリンはまた姿を変えた。少年姿から一転して禿頭白髭の老人姿になり、声も少年らしい甲高いものからあっというまに老人特有のしわがれたものになった。
「その能力を得るとともに、いくつかの制約も得ることになってしまったのさ。制約のひとつは、同じ姿で長時間居続けることができないということ。ばらつきがあるんだが、だいたいやかんに満たした水を火にかけて沸騰するくらいの時間かな。もうひとつ、一度とった姿にはしばらく戻れないということ。これもあんまり戻ろうとしたことがないから曖昧だが、だいたい一日くらいはもどれない。そして、最後の制約が・・・本来の自分の姿にはどうやっても戻れないということさ」
「そうなんですか・・・」シイカは悪いことを聞いてしまった、とうなだれたが、ユーフーリンは顎の長い白髭を撫でつつほほえみ──また姿を変えた。今度は筋骨隆々の大男だったが、髭はそのまま残っている。ただし、白髭ではなく黒髭になっていた。
「気にすることはない。別に戻りたいと思ったこともないしね。そもそも、この能力を得てからもう一〇〇〇年以上経っているから、本当の自分がどんなだったかなんて、もうすっかり忘れてしまったよ」黒髭をいじりながら、体格にあわせて豪快に笑い声をあげた。
「さて、自己紹介はこれで充分かな。本題にはいるとしようか」ユーフーリンは両肘をついて、組んだ両手を顔の前に置いた。そしてその両手越しにセトを見やった。
「セト君。セト・トスカ君と呼んだ方がいいかな?」
「セト・トスカ?」セトはその呼ばれ方に全く思い当たることがないという顔をした。
「私の旧友であり君の育ての親でもある、グレンデル殿から君については聞いていたのだが。君はフェイ・トスカの息子なんだろう?」
「あ・・・はい、そうです」そう言われてようやく、セトは納得がいった。フェイ・トスカの息子だから、セト・トスカ。たしかにそう言う理屈になる。だが、それでもやはりセトにはピンとこないようだった。
「僕は、セトとしか呼ばれたことがないので、そう呼んでください」しばらく考えた後、セトはそう答えた。
「なるほど。ではそうしよう」ユーフーリンはうなずいた。同時に大柄な男性の姿から、今度は長いくちばしを持った鳥頭の魔族の姿になる。マーチが顔をしかめた。
「ではセト君。先ほども言ったように、君のことはグレンデル殿から聞かされている。彼は以前から君が命をねらわれる事態を考慮し、もしもの時は頼むとも言われていた。だから君がこの領地へ来ることになったとき、受け入れることができるように準備はしていた。私はこう見えて義理堅い性格なんだ。旧友との約束に従って、君が安全に人生を全うできるように最大限の配慮をしよう」
「この屋敷に、セトを住まわせるの?」マーチが聞いてきた。
「それは出来ない。フェイ・トスカがこの領を訪れたとき、ここに立ち入らせない、ということはさすがに出来ないし、そうでなくとも様々なものが出入りをする場所だ。どこからかボロが出ないとも限らない」ユーフーリンはまた姿を変えた。今度は頭だけではなく、全身が完全に鳥になってしまった。くちばしをときおりカチカチ鳴らしながら、それでも流ちょうな口を利いた。
「簡単なのは、私以外の魔族の奴隷にしてしまうことだね。戦争で減ったとはいえ、人間の数は多い。奴隷の数を子細に把握している領地なんてないから、見つかることもないだろう。・・・そうだな、ガンファ。君に領地を少し与えるから、君の奴隷だということにしたらどうだい?」
「ぼく、ですか?」ガンファは驚いて、ひとつしかない目を見開いた。
「君は強力な戦闘種族の末裔なんだから、領地を持っていたって不思議はないだろう。そこのふたりもまとめて奴隷にしてしまえば、離ればなれになることも・・・」
「冗談じゃないわ!」
ユーフーリンにくちばしを向けられたマーチが、我慢も限界とばかりに立ち上がった。
「魔族の奴隷になるなんて、あたしは御免よ!」
「マーチ」セトが見上げている。その表情を見て、マーチは悲しくなってきた。セトはたとえそれが隠れ蓑のようなものだったとしても、自分が奴隷扱いされることを何とも思わないのだろうか。隠れ里で長年を過ごしたマーチにとって、初めて出会ったといっていい同年代の近しい男性。だが、ふたりの過ごしてきた世界はあの里でのひと月ををのぞけば、全く違うものであったのだということを、セトの瞳の色を見て、マーチは思い知ったのだった。
どうしてあたしはこんなところにいるんだろう。偽りに満ちた里に居続けることは苦痛だと思ったし、理不尽に連れ去られるセトを放っておくのも耐えがたかった。だが、それは里をでる理由にはなっても、今ここに居続ける理由にはならない。
マーチは、今は巨大な鳥そのものであるユーフーリンを正面から見据えると、一度だけ深く頭を下げた。追っ手から救われ、一夜の宿を借りたことに対する礼を失しないことで、自らの矜恃を守るために。
「ふむ?」ユーフーリンは鳥らしく首を傾げた。
マーチは何も言わず、円卓から離れると背を向けて歩きだした。そのまま部屋を出ていってしまう。
「マーチ!」彼女を呼ぶ声はいくつか飛んだが、彼女を追おうと席を立ったのはシイカだった。セトが続こうとするが、シイカは抑えた。
「大丈夫。セトはここにいて。ガンファ、セトをお願い」
ガンファがうなずくのを確認すると、シイカもまたユーフーリンに一礼し、部屋を出ていった。




