再会と別れ
四
フェイ・トスカたちにセトの情報を渡した男──リタルドは、万が一セトの確保に失敗した状況に備えて配置された別動隊の中の一隊にいた。
リタルドは、シュテンではセトを護ろうとする立場にあったから、彼らがシュテンを出た後に向かう先がユーフーリン領であることも知っていた。この周辺地域に、そこ以外にセトを保護しようとする勢力はないことも。リタルドによってもたらされたこの情報により、セトが逃走に成功した場合、通るであろうルートをいくつか予想して別動隊が配置されたのだった。
しかしリタルドは、セトの名前や外観、そして逃走先などの情報をフェイ・トスカに提供した一方で、いくつかの情報を隠した。その最たるものが、セトに同行するものがいるという情報だった。
彼は迷っていたのだ。
フェイ・トスカの語った『計画』は、リタルドにとって確かに魅力的なものだった。いや、それを知ればリタルドのみならず、戦争で失ったもののある多くの人間が魅力を感じるだろう。ただ、セトやシイカのような戦争を知らないものたちにはそうではないかもしれない。
なにより、計画を達成するためにはセトの生命が不可欠なのだ。
リタルドはセトを弟のように愛していたし、セトもまたリタルドを慕っている。その関係に偽りはない。そのセトを犠牲にしなければ達成されない『計画』──そんなものは認めるわけにいかないという思いはあった。
しかし一方で、戦争で両親を失った自分を育ててくれ、もう一人の父親のように尊敬していたはずのグレンデルが真の姿を見せたあの晩以来、消えていたはずの魔族へのわだかまりが抑えられなくなってしまった。あのままシュテンの町に残り、セトの無事を願いながら、魔族の親方の元で肉屋の奉公を続けることももう出来なくなっていたのだ。
「時間は過ぎたが、完了の合図がこない。各自警戒しろ」別動隊の指揮を執っている魔族が、その場にいる全員に聞こえるようにそう言った。
それを聞いたものたちが、各々の持ち場へと散っていく。新参ものに過ぎないリタルドは、何の役割も与えられていない。リタルドは思考の間閉じていた目を開き、正面を見据えた。一面背の低い草原が広がるそこは、月に照らされてほんのわずか日中の青さを思い出させる。
セトが逃走に成功し、リタルドのいるこのルートを通るなら、一アンログ(=一〇〇〇ログ、約七〇〇メートル)ほど先に広がる森から出てくる公算が大きいだろう。
ここで再びセトに見えることになるかもしれない。あのあどけない少年の顔を見たら、揺れ続ける自分の心を定めることが出来るだろうか。
心地の良い風が、草原を揺らしている。逃走者の姿はまだ見えない。
「それで、ガンファはどうしてあの場所が分かったの?」
ラグスにまたがったセトが隣を行く巨人に尋ねた。
あの後、魔族の追撃は執拗に続き、ガンファたちはなかなか振り切ることが出来なかったが、マーチの先導で森に入り、里を護るためにかけられている目くらましを上手く使うことで追っ手を撒くことに成功した。
落ち着いたところでガンファが気付けの薬草を嗅がせてセトを起こすと、セトはまるで穏やかな朝日に頬を撫でられたかのように健やかに目を覚ました。さすがに状況を理解させるのに少々手間がかかったが、なんとか事態を理解したセトはシイカから剣を受け取り、ラグスの操縦を替わった。
ラグスが馬より劣る点は身体が小さすぎて二人乗りが出来ないところにある。そのためシイカはガンファに背負われていくことになった。
「ユーフーリン様が・・・教えてくださったんだ。フェイ・トスカが部隊を動かしているって」ガンファが答える。ラグスに乗っているセトの身体は普段より高い位置にあるが、それでもガンファからすれば見下ろす位置だ。
今は追っ手の姿もないため、早足は使わず静かに森の中を進んでいる。森から出るまではこの調子で進んで問題ないだろう。
マーチは夜明けまで森の中に身を隠すことを提案したが、ガンファがそれを却下した。今回身柄の引き渡しが夜中になったのは里側の事情であり、魔族側には関係がない。日が昇ればむしろ捜索がしやすくなるはずで、ガンファとすればそうなるまえに出来るだけ森から離れておきたかった。
マーチはセトたちの少し後ろを、明らかに不機嫌そうな表情でついてきている。斜め前を行く巨人の魔族が、セトたちがずっと安否を案じ、探しに行きたがっていたガンファであるということは、つい先ほど説明を受けたばかりだった。
里で暮らす間、セトもシイカも、ガンファが薬草師で、身体は大きいけどとても心穏やかな存在であるということは教えてくれたが、その正体が魔族であるなんてことは一言もいってくれなかった。もちろん、マーチが魔族にたいして強い嫌悪を持っているということを理解していたからこそ黙ってたのであろうと、マーチ自身も心の奥底で、まぁなんとなく、理解出来ないこともなかったが、里と母親を棄ててまで助けに来たというのに、いきなり裏切られたような気分にどうしてもなってしまうのであった。
それに、ガンファの先ほどの戦いぶりは、セトたちから聞いていた優しげなガンファのイメージからはかけ離れていた。そのことを言うと、それはシイカも意外だったと応じた。眠らされていてそのシーンをみていないセトは、「へぇ、ガンファって強いんだ」と実感のこもらない感想を述べていたが。
「そろそろ森から出そうだ。そうしたらまた、一気に走るよ。セト、気分は?」上を見て、木々の重なり合いが薄くなってきたのを見たガンファがそう言った。
「僕はもう、大丈夫」セトは笑顔で応じると、背中に担いだ剣に手をふれた。寝ているところを連れ出されたセトは当然ながら寝間着姿で、腰帯に剣を差せないためシイカがそうしていたのをそのまま流用して背中に剣を装備している。「マーチは?」
「平気」セトに振り返られたマーチはぶっきらぼうにそう答えたが、邪険に扱われたと感じたセトが肩をすぼめて正面に向き直るのを見て、自分の胸も痛くなった。
一行はガンファの言葉通り、森から出ると同時に速度を上げたが、数十ログと進まないうちに前方に待ち受ける影を見つけた。もちろん、フェイ・トスカが差し向けた魔族の一隊である。
だが、その数はおよそ一〇体ほどで、周囲の地形からもこれ以上の伏兵は無いように見える。逆を言えば森から出てしまった一行もこれ以上隠れる場所がない。
ガンファは強行突破することを決め、背中にいるシイカにしっかり掴まっているようにと一声かけると、身を沈めて突進した。一番近くにいた相手を肩ではじきとばすと、空を飛ぶ魔族が上昇を始める前に、その首根っこをつかんで振り回し、容赦なく地面にたたきつけた。
予想外に強力な敵の出現に色めきたった魔族たちだったが、リーダーらしきものの「集団で囲め!」というかけ声とともにたちまち五体ほどの魔族がガンファを取り囲んだ。先ほどとは違い背中にシイカをかばっているガンファは、強引に突破することが出来ない。
「先に!」ガンファがセトに向かって号令をする。セトはうなずくと、ガンファを取り囲む集団を避けて先に進んだ。だが、先ほどほかの魔族に号令したリーダーと、もう一体全身を甲冑に包んだ魔族がセトの前に立ちはだかった。
漫然とふたりの後方についていたマーチは出遅れてしまった。あわててセトに追いつこうとしたものの、マーチと同等の大きさの鳥の魔族がセトとの間に入り込んでしまった。
「くっ!」かわしていこうとしたが、相手はマーチの周りをうるさく飛び回ってそれを許さない。マーチは矢筒に残った最後の矢を弓につがえると、セトを待ちかまえている魔族たちに向かって放った。そして弓を放り投げると、腰の二本の小剣を抜き、鳥の魔族に対峙した。
セトは止まることなくラグスを走らせながら、正面をふさぐ二体をどうかわそうかと思案した。縦長の巨大な顔を持つリーダーの魔族はがたいがいいが、鎧などは身につけていない。もう一体は体格は大人の人間ほどだが頭からつま先まで全身を鎧甲で覆っている。
体当たりをかますにはどちらも難儀な相手だ、と思ったが、そこへマーチの最後の矢が飛んできた。明確にねらいがつけられたものではなかったが、眼前に迫っていたセトに気を取られたのだろう、リーダーの魔族の左肩に矢が突き刺さった。
リーダーの魔族がひるんだのを見てセトは覚悟を決めた。ラグスに号令して精一杯の速度を出すと、自身も身を屈めてリーダーの魔族に向かって突進する。そのまま右肩をつきだして、相手の身体──をねらったのだが胴体と同じくらいに顔が大きかったので結果的にその顔に向かって全身でタックルをかけた。
タックルは見事に決まったが、魔族の質量はセトの想像以上で、セトとラグスの勢いもまた止められてしまった。顔面にタックルを喰らった魔族はひっくり返ったまま動かない。セトは再びラグスを走らせようとしたが、そこへ全身鎧のほうが迫ってきて、鞘から抜いた長剣をセトに向かって振りおろした。
セトは身をひねって回避したが、続けざまに放たれた左手のパンチをかわしきれずに左肩に受け、ラグスから落ちてしまった。
たかがパンチとはいえ相手は手甲を身につけているのだからまともに喰らえばただではすまないが、幸いにしてそこまで力はのっていなかったようで、身体へのダメージはほとんどない。セトは跳ね起きると全身鎧と距離をとった。
ガンファもマーチも、自分と対峙しているものの相手で精一杯のようだ。一瞬だけ背後を確認した視線を戻すと、全身鎧は先ほどは片手で振るった長剣を今は両手で持ち、型どおりの構えでこちらを待ちかまえていた。先ほどタックルではじきとばしたもう一体は完全に気絶したようで、ひっくり返った姿勢のままだ。
相手が実質一体であることと、やや不意打ち気味だった直前の長剣による一撃を回避できていたことがセトに自信を持たせた。里でのひと月の間、実践的な稽古を重ねてきたことも手伝って、セトは背中の剣の柄を握ると、引き抜いて正眼に構えた。
(自分の命くらい、自分で護らなきゃ)
セトは覚悟を決めると、気合いの声を一声あげて、相手に向かっていった。
ガンファは遠くからセトが剣を抜いたのを見て歯噛みした。
五体いた自分を囲む魔族は三体に減っていたが、背中にシイカをかばっている以上、強引な突破は出来ない。実質片腕で戦っているような状況の中、上手く隙をついて一体ずつ片づけていくほかはない。歯がゆさのあまり、うなるような声がガンファの口から漏れた。
本来戦闘に特化した種族でありながら、戦いを敬遠し、草花を育てることに傾倒したガンファは同族の中でも屈指の変わり者である。争いごとを嫌う自身の心を変えたいと思ったことは今に至るまで一度もないが、そのせいで本来備わっているはずの戦いの力を十分に発揮できないことを後悔せずにはいられなかった。
セトが気合いとともにはなった一撃は、全身鎧の操る長剣によって簡単にいなされてしまった。
セトは再び間合いを取ると、一度深呼吸をした。
来年で一五歳となり、そうなれば一般に成人として扱われるセトではあるが、その体躯は同年代の男性と比較してもやや小さい。対して相手は、飛び抜けて大きいわけではないが、それでも人間の男性と比べれば大きい方である。上背でいえばユーフォと同等だ。
セトは里の中でユーフォと打ち合ったときのことを思い出した。自分より身体が大きい相手と戦うことになったときは、正面からまともにやりあっても不利になるばかり。思い切って相手の懐に飛び込まなければならない──。
さらに、相手が全身を鎧甲で覆っていることも問題だ。セトの使う剣はかつてはフェイ・トスカが王女を救出するまで使用していたものを鋳なおしたもので、上質の鉄が使われており、魔法の力があるわけではないがなかなかの業物だ。鎖帷子くらいなら上手く力を乗せれば断ち切れそうだが、板金に覆われた部分はそうはいかないだろう。顔面も面頬をおろしてしっかりガードしており、帷子部分が露出しているのは脇の下くらいしか見あたらない。
おまけにセトは剣以外は丸腰といっていい。ベッドにはいるときそのままのゆったりとしたローブ姿で、サンダルも履いていないのだ。
あのように鎧を着込んでいる相手に対しては剣での斬撃よりも、かなづちのようなもので叩くかもっと薄くしなる剣で鎧の継ぎ目をねらう方が効果的だが──セトは何か利用できる物はないかと辺りを見回した。辺りは一面の草原だが、ところどころに大きめの岩が転がっているのが見えた。
全身鎧がセトに迫り、長剣を振りおろしてくる。セトは転がって横によけた。振りおろされた長剣がそのまま横に薙ぎ払われるが、セトは冷静にその動きを読んで剣で防御した。
そのまま懐にもぐり込んで板金ではなく帷子で覆われている脇の辺りをねらおうとしたが、相手もさすがにそこが自分の弱点であることは把握しており、しっかりと防御する。
全身鎧は長剣だけではなく、ときおり拳や蹴りでの攻撃も混ぜ込んできたが、セトはいずれも確実に対処することが出来た。相手の技量もそれほど高くはない上、セトはどうもこの相手とは手が合うというか、クセが読めるような気がしてきていたのだ。セトはその感覚を、里での稽古の成果だと感じていた。
だが、相手の攻撃を防ぐことは出来ても、やはり剣だけではダメージを与えることが出来ない。セトは一計を案じ、全身鎧と距離をとって待ち受ける作戦にでた。
全身鎧は動きを止めたセトをいくらか警戒したようではあったが、やがてセトに向かってきた。そしてセトの予想通り、上段から剣を振りおろした。
セトが身をかわすと、その背後には大きな岩が鎮座していた。草原の草とセトによって隠されていた岩の存在に気づかなかった全身鎧は、セトが身をかわしたことで盛大にその岩を長剣で叩いてしまった。セトはその隙をついて全身鎧の背後に回り込むと思い切りジャンプし、その無防備な背中を両足で蹴りとばした。全身鎧は体勢を崩し、いましがた自分で叩いた岩めがけて突っ込んだ。胸から落ちた上、勢いがついて顔面も岩に打ちつけたようだった。
めまいがするのか、頭を振りながら起きあがった全身鎧がこちらを向くと、まさにセトの想定通りだった。強烈に打ちつけた鎧の胸がへこんで歪み、腹部との継ぎ目部分に隙間が出来ていたのだ。あそこならセトの剣でも刃を入れることが出来る。
さらに顔面を覆っている面頬のつがい部分が壊れたらしく、面頬がぐらついていた。そのせいで視界が悪くなったのか、全身鎧はかぶとを脱ぎ捨てた。
そこで初めて露わになったその顔を見たとき、セトは動きを止めてしまった。
現れたのは人間の顔だった。全身鎧は魔族ではなく、単に甲冑に身を包んだ人間だったのだ。
だが、セトが驚愕したのは、その人間が自分の見知っている人物だったからだ。
「リタルド兄ちゃん・・・?」その名はこのひと月あまりの間口にすることがなかった。だがセトは意識せずに自然とその名を口にした。
セトと同じ黒髪と、セトとは違う浅黒い肌を持つリタルドが、甲冑に身を包んでそこにいた。
しかし、セトからすればリタルドがこの場にいることも、彼が自分に向けて剣を振るってきたことも理解しがたいことだ。
本当に本人か?よく似た他人ではないか?あるいは何らかの魔法の力で化けているのではないか?
困惑するセトを、リタルドは無表情で見据えていた。そして長剣を水平に構えると、無言のままセトに突進した。セトの左肩をねらって鋭い突きを繰り出す。
セトは思考が追いつかず、突きが繰り出されるのを見ても自分の身体に何の命令も出せなかった。だが、未だに顔も知らぬ父から受け継いだ戦士としての血がそうさせたのだろうか。危機を回避すべく、身体が勝手に動いた。
セトの身体は膝を屈めて突きをかわすと、柄を腰の位置にして剣を構えた。すかさず屈めた膝をバネのように伸ばし、相手の懐へ飛び込み──鎧の継ぎ目にできた隙間へ、剣先をねじ込んだ。
肉を断つ感触が、セトにも伝わった。
剣は柔らかな肉と骨を容易に突き破り、背中から付き出て鎧の背に当たって止まった。
「そうか・・・そうだよな・・・」
耳になじんだ声を頭上から聞いて、セトはようやく我に返った。
仰ぎ見ると、昔何度も見た、慈しむような笑みを浮かべて見下ろすリタルドの顔があった。
「リタルド兄ちゃん・・・」セトはその表情を見て、その男がリタルド本人であると確信した。
リタルドの口の端から、一筋の血が流れでる。その身体から力が抜け、膝が折れた。剣をその身に突き立てたまま、仰向けに倒れた。
セトはその手から剣が離れても身動きできず、そのままの姿勢で立ち尽くしていた。
そのころ、ガンファとマーチはようやくそれぞれが対峙していた魔族を退けることに成功していた。
ガンファは遠目にセトが全身鎧を撃退したのを確認して安堵のため息をついたが、セトが力無く立ち尽くしているのを見え不審に思い、急いでセトの元に駆けつけた。ずっと背負っていたシイカを下ろすと、セトに声をかける。
「セト、大丈夫?けがは?」
「ガンファ・・・」こちらを振り返ったセトは特に外傷などは負っていないように見えたが、顔色は青ざめ、身体が震えているのがわかった。「兄ちゃんが・・・」
ガンファもシイカも、やはりその場にリタルドがいるなどということは考えもしないことだったから、セトの様子ばかりを気にして、倒れている鎧に身を包んだ男のことなど見向きもしなかったが、セトがその傍らに膝をついて涙を流し始めたことで初めてその顔を見て息をのんだ。
「まさか・・・なんてことだ」
仰向けに横たわったリタルドの顔からは血の気が引き、腹部に突きたった剣を伝うようにして血が流れ出している。まだ息はしているが、その呼吸は弱々しいものだった。
シイカが気丈にも近づいて剣を引き抜こうとしたが、ガンファが制止した。剣を抜けば逆に出血が増し、あっという間に死んでしまうだろう。
「鎧を脱がさないと・・・」
このままでは治療のしようがない。だが、金属鎧はただでさえ着脱が大変な上、剣は継ぎ目の部分から刺さっているので脱がすには障害になるのだ。
ガンファは継ぎ目の隙間に指をかけて、無理矢理隙間を広げて傷口を露出させようとしたが、それが傷口に響いてしまったのか、リタルドが苦しげなうめき声を上げた。
「もういいよ、ガンファ・・・どうせもう・・・」その痛みで少し意識が覚醒したのか、リタルドは少しだけ首を動かしてガンファを見ると、そういった。
「リタルド兄ちゃん!しっかりして!」セトが涙混じりの声をあげた。
「セト・・・ごめんな・・・」リタルドはセトの方へとまた少し首を動かすと、口元を弱々しくゆがめた。笑おうとしたのかもしれない。
「俺が・・・おまえのことを、教えたんだ。名前や、顔・・・そのせいで、また・・・」
「いいから、しゃべらないで」セトはリタルドの手を握った。その手は温かい。だが、リタルドの目は徐々に焦点を失い、その言葉はうわごとに近くなっていった。
「フェイ・トスカは・・・世界を救おうとしている。俺はその考えを、魅力的だと思ったんだ。だけど、そのためには・・・セトの生命が必要だっていうんだ。俺は、分からなくなってしまった」
リタルドを覆っていた影が一つ離れた。ガンファがリタルドから離れたのだ。セトがガンファをみると、ガンファは力なく首を振った。
「だけど、分かったんだ・・・。おまえは生きていくべきだって。そんなの、当たり前のことなのにな・・・。俺は、間違ってしまったんだ・・・」
ガンファはリタルドの傍らに座り込み、目を伏せ、唇を噛みしめている。シイカはガンファの隣に立ち、沈痛な面もちでセトとリタルドを見つめていた。リタルドのことを知らないマーチは、少し離れたところでことの顛末を眺めている。
セトが包み込むようにして握っているその手が動いて、セトの頬に、そこを流れる涙にふれた。
「強くなったな、セト・・・。あのころは、俺に一度も勝てなかったのに・・・」
「兄ちゃん・・・」
「父さん、母さん・・・これで、会い、に」
言葉が途切れ、セトの握る手から力が抜けた。その手はまだ温かかったが、もはやその熱は生命の残滓に過ぎなかった。
「兄ちゃん、リタルド兄ちゃん!」
セトは手を離し、リタルドの肩を揺すった。それが無駄だということは分かっていたはずだが、そうしないで済ますことは出来なかった。
「兄ちゃぁあああん!」
魂を失った肉体は、何に応えることもなく、絶叫は虚空へと吸い込まれていった。