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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第六章 言霊の飴細工と紅い雛

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第三十四話 甘い旋律、二人の夜明け

 焼け焦げた飴細工屋の骸を背に、藤木健吾はふらつく足取りで夜の浅草へと踏み出した。


 左腕に自ら打ち込んだ水銀溶液の熱が、今もなお血管を焼くような痛みを残している。目蓋には乾いた血の跡があり、精神の磨耗は限界に達していた。だが、その肩を支える細い腕の感触が、彼を辛うじてこの現世(うつしよ)に繋ぎ止めていた。


「……ふふ。案外、脆いのだな。私のために命を削ると豪語した割りには」


 耳元で、蜜が滴るような甘い声が響いた。


 健吾は思わず立ち止まり、隣を見る。そこには、漆黒のドレスに身を包み、夜の闇をそのまま纏ったかのような宵闇がいた。若草色の銘仙の面影はもはやなく、剥き出しの肩は月光を弾いて真珠のように白く輝いている。


「……宵、闇……。その声……」


「聞こえるか?お前が命がけで奪い返した、私の音だ。……ああ、心地よい。喉の奥で言葉が跳ねるたびに、お前の執着が私の血肉となっていくのが分かる」


 宵闇は、健吾の頬にそっと指を添えた。


 彼女の紅蓮の瞳は、勝利の悦びに潤み、その美しさは見る者の正気を根こそぎ奪うほどに妖艶だった。しかし、彼女は不意にその表情を崩し、健吾の胸元に顔を埋めるようにして体重を預けてきた。


「……だが、少しばかり、使いすぎた。……藤木、歩けぬ。おぶえ」


「……は?」


 あまりにも唐突な、子供のような我が儘。


 先ほどまで浅草の怪異を蹂躙していた「江戸の王」とは思えぬ甘えた物言いに、健吾は呆気に取られた。


「聞こえなかったのか?私の喉は戻ったが、足が、……お前の血の匂いに酔って、力が入らぬのだ。……主治医だろう? 責任を取れ」


 宵闇は、潤んだ瞳で上目遣いに健吾を見つめた。


 それは明白な「誘惑」であり、同時に、心からの「甘え」でもあった。彼女は、健吾が自分を拒めないことを熟知している。


「…………分かりました。……本当に、君という人は」


 健吾は苦笑を漏らし、その場に屈んだ。


 宵闇は待ってましたと言わんばかりに、健吾の広い背中にしがみつく。


 彼女の細い腕が首に回され、豊かな胸の鼓動が直接背中に伝わってくる。宵闇は健吾の耳たぶを、戻ったばかりの声で小さく、しかし執拗に食むように囁いた。


「……藤木。……お前の背中は、鉄の匂いがするな。……だが、温かい。……パフェの数倍、……落ち着く」


 健吾は、彼女の重みを噛み締めながら、夜の浅草を歩き出した。


 仲見世通りの喧騒は既に引き、月光に照らされた舗道は、二人だけの舞台のように静まり返っている。


「……宵闇。……君は、なぜ鏡介の罠だと分かっていて、あそこまで……」


「決まっているだろう。……お前が、……お前が私の沈黙を愛でるような目をしていたからだ。……あの子は不安がっていたが、私はそれ以上に、お前のあの『独占欲』に満ちた目が、……不快で、……そして、たまらなく愛おしかった」


 宵闇は、健吾の首筋に額を擦り寄せた。


「お前は、私が何も言えぬ人形であればいいと、一瞬でも願っただろう? ……ふふ、隠しても無駄だ。お前の心の澱は、私の大好物なのだからな」


「……否定はしません。……私は、君を誰にも見せたくない。……この闇の中に、永遠に閉じ込めておきたいとさえ思いました」


 健吾の独白に、宵闇は満足げに喉を鳴らした。


「ならば、望み通りにしてやる。……お前の喉を焼き切って、お前も私と同じ、沈黙の住人にしてやろうか? ……それとも、……この声で、死ぬまでお前の名を呪い続けてやろうか」


 宵闇は、健吾の首筋に冷たい唇を押し当てた。


 それは誓いであり、呪いであり、そして彼女なりの「愛の告白」だった。


 やがて、二人は浅草の隅にある、小さな夜店の前に辿り着いた。


 店主もいない、古びた水飴の屋台。


 宵闇は、健吾の背中から降りると、不自由そうに足を引きずりながら屋台の椅子に腰掛けた。


「……藤木。……飴を練れ。……あの、剥製師の作ったような不味いものではなく、……お前の手で練り上げた、真っ白な、甘いものを」


「……処方箋が必要ですね。……安静にしていなさいと言ったはずですが」


 健吾は溜息をつきながらも、屋台に残された水飴の壺を手に取った。彼は箸を使い、宵闇の目の前で、透明な水飴を熱心に練り始める。空気を巻き込み、白く、絹のように輝き始める水飴。


「……ほら、宵闇。……これを食べたら、すぐに帰りますよ」


 健吾が差し出した水飴を、宵闇は自分の手で取ろうとはせず、健吾の手首を掴んで、そのまま彼の指ごと口に含んだ。


「…………っ、……ん、……」


 彼女の紅い唇が、健吾の指先を愛おしそうに吸い上げる。戻ったばかりの声が、喉の奥で微かな感嘆を漏らした。


 宵闇は、健吾の指を離さないまま、じっと彼の目を見つめた。その瞳には、江戸の王としての傲慢さはなく、ただ一人の男に「美味しい」と伝えたい、幼い少女のような無垢な輝きが混じっていた。


「……甘い。……藤木の練った飴は、……少し、苦い。……お前の、嘘の味がする」


「……それは、心外ですね」


「……だが、……嫌いではない。……もっと、練れ。……夜が明けるまで、……私を、甘やかしていろ」


 宵闇は健吾の膝の上に頭を乗せ、丸まって横たわった。漆黒のドレスが、夜露に濡れて怪しく光る。


 健吾は、彼女の黒髪をゆっくりと指で梳きながら、浅草の夜が明けていくのを、ただ静かに見守っていた。


 声を取り戻した宵闇。そして、その声に永遠に縛られることを選んだ主治医。


 二人の運命は、もはや江戸の呪いも、鏡介の術も届かない、より深い「愛執」という名の深淵へと沈んでいった。


 東の空が、白み始める。


 大正の新しい朝が来るが、二人の時間は、まだあの紅い飴細工の夜に、半分だけ取り残されたままだった。


「……藤木。……愛しているぞ。……お前の、……その醜い、理屈をな」


 宵闇の最後の囁きが、風に溶けて消えた。


 彼女は健吾の腕の中で、幸せそうな溜息をつき、静かに眠りについた。

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