第十五話 背徳の夜食、白玉の洗礼
離れの奥底。月光が畳に冷たい銀の帯を引く中、健吾は往診鞄から、幾重にも重なった和紙の包みを恭しく取り出した。
指先が震えているのは、夜気の寒さゆえではない。名家の子息であり、帝国大学の徒である彼が、深夜に女性の寝所に「甘味」を忍ばせるという、その非論理的で背徳的な行為に、彼の神経が警鐘を鳴らし続けているからだ。
「……何だ、それは。妙に艶やかな、それでいて土のような匂いがする」
宵闇は、膝を立てた不作法な格好のまま、健吾の手元を覗き込んできた。捲り上げられたドレスの裾から、白磁のように滑らかな脚が月光に晒されている。健吾はあえて視線を上げず、慎重に和紙を解いた。
現れたのは、竹皮を器にした、色鮮やかな「あんみつ」であった。
艶やかに煮詰められた黒蜜。漆黒の餡子。透き通るような寒天の賽の目。そして、白銀の月の欠片を閉じ込めたような、瑞々しく輝く白玉――。
「……ほう。これが、帝都の愚か者たちが血眼になって求めるという、糖分の結晶か」
「老舗『梅むら』の傑作です。厳選された赤えんどう豆と、小豆の魂を練り上げた餡。医学的に言えば、過剰なブドウ糖は脳を麻痺させ、一時的な多幸感をもたらしますが……君のような『飢えた魂』には、何よりの劇薬でしょう」
「劇薬、か。気に入った」
宵闇は健吾の手からスプーンを奪い取ると、何の躊躇もなく、たっぷりと餡子を絡めた白玉を口へと放り込んだ。
健吾は、その瞬間を見逃すまいと息を呑んだ。
刹那――宵闇の紅蓮の瞳が、限界まで見開かれた。
彼女の全身が、小刻みに震える。ドレスの胸元に飾られた真珠のネックレスが、カチカチと音を立てて波打った。
「……ッ!!」
「宵闇?」
「……何だ、これは。藤木、お前は……お前は、こんな恐ろしいものを隠していたのか!?」
宵闇は、喉元を抑えながら健吾に詰め寄った。その瞳には、先ほどまでの傲慢な魔性は消え失せ、代わりに圧倒的な未知への驚愕が宿っている。
「毒か?いいえ、違う。これは……脳の芯が溶ける。私が今まで喰らってきた、腐りかけた人間の怨念や、どろどろとした嫉妬など、この一粒の白い丸に比べれば塵芥に等しい!この甘美な暴力こそ、私が求めていた『真理』ではないか!」
「……ただの甘味ですよ、大袈裟な」
「黙れ!この、とろけるような弾力……。あの子の喉を通り抜けるたびに、私の魂が、まるで産まれたての獣のように震えているのだ!」
宵闇は、再び一心不乱にスプーンを動かし始めた。しかし、彼女は「食べること」に慣れていない。ドレスの胸元に餡子が飛び散り、不器用な唇の端からは黒蜜が滴り落ちる。
健吾は、そのあまりにも無防備で、食欲という原初的な衝動に身を委ねる怪異の姿に、得も言われぬ愛おしさを覚えた。
「……君は、本当に……」
健吾は苦笑しながら、鞄から清潔なハンカチを取り出した。彼は、膝をついて宵闇の顔に近づく。彼女が夢中で頬張るその合間に、汚れを拭ってやろうとしたのだ。
「じっとしていなさい。ドレスが汚れます。あの子が明日、この汚れを見たら、どんなに悲しむか考えたことがありますか?」
「ふん、あの子のことなど知らん。……っ、藤木、何をする」
健吾の指先が、ハンカチ越しに宵闇の唇に触れた。
熱い。
宵闇の体温は、いつもは死人のように冷たいはずなのに、この甘味を口にした瞬間から、まるで高熱を出した子供のように、生命の熱を帯びている。
「……蜜が、ついています」
健吾は、吸い込まれそうな紅蓮の瞳を見つめたまま、ゆっくりと彼女の唇の端を拭った。
指先に伝わる柔らかな弾力。甘い蜜の匂いと、宵闇特有の冷たい桔梗の香りが、至近距離で混ざり合う。宵闇は、スプーンを握ったまま、健吾の動きを拒むことなくじっと見つめ返していた。
「……藤木。お前は、変な男だな」
彼女の声が、低く、湿り気を帯びて響く。
「私の正体を知り、私の暴虐を見てもなお、こうして私を『世話』しようとする。……お前にとって、私はただの、手のかかる患者に過ぎないのか?」
「……患者であれば、こんな禁制品を運び込んだりはしません」
健吾は、自分の声が微かに掠れるのを感じた。彼はハンカチを引こうとしたが、その手首を、宵闇の細い指が力強く掴んだ。
「ならば、何だ?答えてみろ、ロゴスの徒よ」
宵闇は、食べかけのスプーンを健吾の唇に突きつけた。白玉の上で、蜜が真珠のように輝いている。
「食え。お前も、私と同じ毒に冒されるがいい。……あーん、だ。さっき読んだ雑誌には、こうして睦み合うのが『最先端』だと書いてあったぞ」
「な……!?そ、それは非衛生的で……」
「いいから食えと言っているのだ!私の命令が聞けないのか、主治医!」
宵闇の、あまりにも強引で、それでいてどこか少女のような無邪気な瞳に負け、健吾は観念して口を開けた。
スプーンが、彼の唇を割って入り込む。
――甘い。
暴力的なまでの糖分。だが、それ以上に健吾を痺れさせたのは、彼女の唾液が混じっているであろう、その金属的な温度だった。
健吾の理性が、音を立てて崩落していく。彼は、ゆっくりと咀嚼しながら、目の前の「魔性の少女」を見つめた。
「……どうだ、藤木。甘いか?」
宵闇は、満足げに微笑んだ。その微笑みは、もはや十二階の怪物のものではない。恋を知り、欲望を知り、そして自分を振り回す男を愉しむ、一人の「女」の顔だった。
「……ええ。私の知るいかなる化学反応よりも、劇薬です」
健吾の答えを聞くと、宵闇はふっと力を抜き、健吾の肩に頭を預けた。
真珠色のドレスから立ち上る、甘い蜜の香りと、宵闇の吐息。
深夜の離れは、文明の光も届かない、二人だけの密やかな蜜の檻へと変わっていった。
「……藤木。明日も、明後日も、私を診に来い。……この蜜よりも、もっと甘い『答え』を持ってな」
宵闇の小さな手が、健吾の白衣をぎゅっと握りしめた。その震えを、健吾は静かに受け止めた。
彼らの背徳的な往診は、まだ始まったばかりだった。




