第十四話 深夜の往診、月下のファッション・ショー
大正十年、六月。
梅雨の走りの湿った夜気が、帝都の路地裏に濃密な闇を停滞させていた。
藤木健吾は、一台の人力車を久遠寺邸の黒々とした門前で降りた。手にした往診鞄の重みが、心なしかいつもより増しているように感じられる。その中には、ドイツ製の聴診器や揮発性の薬品に混じって、和紙に包まれた「私的な禁制品」が忍ばせてあるからだ。
久遠寺家は、由緒ある名家だ。広大な敷地に広がる庭園は、夜の帳の中で沈黙し、樹々の葉が擦れる音さえも、死者の囁きのように重苦しい。健吾は、使い古された論理という名の鎧を纏い、砂利を踏みしめて離れへと向かった。
離れは、主屋から長い回廊で隔てられた、文字通りの孤島である。清楚で可憐な久遠寺綾子が、その病弱な身を横たえる、静謐なる檻。
「失礼します、藤木です」
健吾が引き戸に手をかけ、低い声で告げた。
いつもなら、奥から鈴を転がすような綾子の控えめな返事があるはずだった。しかし、今夜の部屋は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
ガス灯は点けられていない。開け放たれた縁側から、青白い月光が畳の上に鋭い寝刃のような光を投げかけている。その光の道標の先に、彼女はいた。
「……遅かったな、藤木。私の忍耐は、最新の精密時計よりも短気だと教えなかったか?」
その声を聞いた瞬間、健吾の背筋にゾクリとした戦慄が走った。
宵闇だ。
しかし、その姿を見た健吾は、思わず手にしていた帽子を落としそうになった。
そこにいたのは、健吾の知る「大正の深窓の令嬢」ではなかった。彼女は、綾子のクローゼットの奥底に眠っていたであろう、二十年以上前の流行のドレス……おそらくは母親の遺品か何かの、レースが何層にも重なった、煤けた真珠色の洋装を纏っていた。
だが、その着こなしは惨憺たるものだった。背中のボタンは掛け違えられ、優雅であるはずの裾は、動きやすさを求めたのか、あられもなく太もものあたりまで捲り上げられ、派手な紫の帯締めによって乱暴に固定されている。
「……宵闇、君。その格好は、一体何の冗談だ?」
健吾は、落ちそうになった眼鏡を指で押し上げ、呆然と呟いた。
「冗談?心外だな。私は、お前の信奉する『文明』というやつを纏ってやったのだぞ。お前が以前、往診の最中に隠れて読んでいたあの雑誌……銀座のモダンガールというやつだろう?あの子の鏡を奪って、三時間もかけて再現してやったのだ」
宵闇は、不器用な足取りで健吾に近づいてきた。
顔を見れば、さらに絶句する。その白い肌には、不自然なほど赤い紅が、頬の高い位置に「お多福」のように丸く入れられていた。眉は炭で太く、鋭く描き直され、唇には毒々しいほどの血色が、本来のラインを無視して厚く塗られている。
それは、怪異が一生懸命に「人間の女の流行」を解釈しようとして、致命的に失敗した姿だった。恐ろしいはずの宵闇が、まるで大人の化粧を真似して失敗した幼子のように、滑稽で、そして残酷なまでに愛らしかった。
「……医学的な見地から言えば、それは『お洒落』ではなく、色彩の暴力による精神攻撃です」
「黙れ、藤木。お前の口を縫い合わせてやろうか?」
宵闇は健吾の胸倉を掴み、力任せに自分の方へと引き寄せた。濃厚な桔梗の香りが、化粧料の粉っぽい匂いと混ざり合い、健吾の肺を侵食する。彼女の紅蓮の瞳は、月の光を反射して、飢えた獣のようにぎらついていた。
「鏡の中の私は、確かにお前の言う通り、奇怪な姿をしていた。だが……これならば、お前はあの子を診る時のように、慈しむような目で私を視るのだろう?」
宵闇の言葉に、健吾の心臓が不規則な鼓動を刻む。いつもは氷のように冷徹な医師の瞳が、彼女の乱れたドレスの合わせ目や、化粧で汚れた白い首筋を、逃れる術なく彷徨う。
「……君は、何を。そんなことのために、わざわざ……」
「そうだ。私はお前が嫌いだ。お前のその理知的な、すべてを見透かしたような顔を、絶望と欲情でグチャグチャに書き換えてやりたい。……そのためなら、人間の女の真似事など、造作もないことだ」
宵闇はそう言い放つと、勝ち誇ったように微笑んだ。
だが、その瞬間。
高飛車な彼女の言葉を裏切るように、慣れないハイヒール……これもおそらく、どこからか引っ張り出してきた年代物だ……の踵が、畳の目に引っかかった。
「あっ……」
「おっと!」
体勢を崩した宵闇を、健吾は咄嗟に腕の中に抱きとめた。柔らかな、しかしどこか人間離れした冷たさを帯びた身体が、健吾の白衣の中にすっぽりと収まる。
宵闇は健吾の胸の中で、大きく目を見開いたまま固まった。
「……離せ、藤木。殺すぞ」
「殺されても構いませんが、主治医として患者の転倒を見過ごすわけにはいきません。……宵闇。君は、お洒落をする前に、まずは物理法則と歩行の解剖学を学ぶべきだ」
健吾は、自分の耳まで赤くなっているのを自覚しながら、彼女の身体をゆっくりと支え直した。
宵闇は、顔を真っ赤にして――それは化粧のせいだけではなかった――、健吾を突き放した。
「……ふん。お前の心音、先ほどより三割ほど速くなっているぞ。……最新の医学とやらは、私に抱きつかれて動悸を起こすのが正解なのか?」
「……それは、急激な重量負荷による生理学的反応に過ぎません!」
二人の間に、不思議な、そして甘美な沈黙が流れた。宵闇は、捲り上げたドレスの裾をいじりながら、少しだけバツが悪そうに視線を逸らした。
「……で。お前、何か持ってきただろう。……鞄の中から、あの子を診るための薬ではない、別の『甘い匂い』がしているぞ」
健吾は、深い溜息をついた。彼女の鋭すぎる鼻からは、何も隠せない。
「……君のような我儘な患者には、医学的な処方箋よりも、糖分の方が効果的だと思いましてね」
健吾は鞄を開け、慎重に和紙の包みを取り出した。その中身が明かされた時、宵闇の瞳には、先ほどの魔性とは打って変わった、無垢な驚きが宿ることになる。




