初恋は、クラーケン
「っと、いうわけなのだけど。何時なら良いかな?」
《致し方あるまい》
青紫の触腕に招かれてたどり着いた海底都市で、アーシェが早速お城からの伝言を知らせれば、クラーケンは面倒そうに続けた。
《次の満月がいいだろう。人数は前回の上限と同じで。陸にはそのように伝えなさい》
「了解」
返事をしたアーシェは、塔の欄干に手を着いて都市を見渡した。
「また、ここもにぎやかになるわね。不思議な気分だわ。私の声しか響かなかったのに、他の人の声がするだなんて。クラーケンはどう?」
《そうのような感傷とは無縁だ。陸の者がむやみなことをしないか監視するのに忙しかったのでね》
「学者の人、めちゃくちゃ目を輝かせてたもんねえ」
アーシェはそのときのことを思い出して苦笑した。
王子によって城に報告されたことで、海底都市の存在が街の外に知れ渡った。
すると、調査したいという学者や探検家が街に押し寄せ、海底都市まで送ってくれと船主や潜り手に頼む人間が現れたのだ。
中には海生石さえ持っていれば海に潜れると勘違いした者が、海底都市に行こうと勝手に船をだし、力が足りずに海でおぼれかけるということが起きたりした。
勝手におぼれるのはかまわないが、そんな余所者のせいで漁や潜り手の仕事が邪魔されることが増えて、かなり困ったことになっていたのだ。
折しも王子からも調査をさせて欲しいという願いがあったから、アーシェがクラーケンに相談すると、二三ヶ月に一度、海底都市を訪問できる日を作ってくれたのだ。
潮目の穏やかな日を狙い、海生石の魔法を最大限に使った特製の船に乗せて、アーシェをはじめとした腕利きの潜り手たちと協力して送るのだ。
ただし、途中でクラーケンの触腕に運ばれる、という最難関がある。
それに耐えられず気絶した者は、付き添いの潜り手によって海上の船に送り返された。
さらに素行がよろしくなかったりして、クラーケンが気に入らなかった人物に関しても、触腕によって強制送還されるため、今のところ無事海底都市に降り立てるのは多い時で4、5人というところだった。
アーシェはクラーケンが何百年もなかったはずのことを、たとえ数ヶ月に一度とはいえ、あっさり許して協力までしてくれたことを、意外に思うと同時に少々不安になっていた。
送り届けたり、監視したりするクラーケンは、あまりうれしそうでも楽しそうでもなかったからなおさらだ。
かなり責任を感じているアーシェは、触腕をなでつつ銀の瞳を見上げた。
「クラーケン、負担になっているのだったら、いつでもやめていいのよ? 本当なら、必要ないことですもの」
《かまわん。一通り見たら学者も興味をなくすだろう。それまでの辛抱だ》
「でも」
アーシェが言いよどめば、クラーケンは不機嫌そうに青紫の体色を揺らめかせつつも続けた。
《君たちの生活に支障をきたしているのだろう。ここを解放することによって、多少なりとも解消されるのなら、それは我の使命の範囲内だ》
「クラーケン……」
アーシェはなんだか胸がいっぱいになった気がして、少し息を詰めた。
クラーケンは今でも、海底都市と、その住人だった街の人をずっと守護してくれている、こんなにも気にかけてくれている。
都市の住民がいなくなっても。街の人が忘れかけていても。
「ねえ、どうして、この都市の人はいなくなってしまったの?」
気がつけば、アーシェは、今まで避けていた問いを、口にしていた。
もう、王子はクラーケンを討伐する意志はない。
でも、アーシェが知りたい気分になったのだ。
クラーケンは銀の瞳を二三度瞬かせた後、どこか遠くを、過去の記憶を思い出すように細めた。
《我も、よく知らないのだよ》
「知らないの?」
《我が与えられたのは、海域に生息する生物や、悪天候から都市とその内に住む民を守ることだった。そのころはこの都市にも多くの民がいた。外の都市とも交流があった》
クラーケンは不意に、触腕の一本である方向を指さした。
《あちらに屋根付きの船着き場のような施設があるのは知っているね。昔はあそこに魔法仕掛けの船がやってくるのだ》
「海からくるの?」
《いいや、空間を飛び越えてやってくるのだ。遠い地でこの都市と同じような場所が複数あり、足りない物を融通していたらしい》
アーシェは、その光景を想像してみようとした。
空間を飛び越える、というのはやっぱりよくわからなかったが、貿易の船が着くというのはよく知っていた。
船が着けば、荷を降ろすために人夫が行き交い、荷の主である商人達が忙しく品物を見定めるために見て回る。
騒がしい光景は、さぞや活気があっただろう。
《物や文化の交流も盛んであったよ。だが、ある日を境に消えてしまった》
「なんで?」
《よくわからぬ。我はそのとき待機状態にあり意識はなかった。目覚めたときには、都市の民は九割いなくなっていたのだ》
クラーケンの語りは淡々としていたけれど、アーシェはなんだか苦しくなって、そっと触腕をなでた。
《我を目覚めさせたのは、船の動力である海生石の回収を任せられていた者たちだった。彼らの話では、上層の人々は船に乗ってどこかに旅立っていったのだそうだ。自分たちは船に乗ることができず、取り残されたのだと。出航した船は、我が目覚めて以降一隻も帰って来ていない》
どうしてだったのだろう。
船に乗った人々は、おいていった人たちをどう思っていたのだろう。
アーシェにはいくら考えてもわからないことだった。
「クラーケンは、どうしたの?」
《都市はあり、民は残っているならば、依然と変わらず使命は果たすべきだと判断した。だがこの都市は、ほとんどの食料を船からの輸入でまかなっていた。永続的な居住は不可能と判断した我は、熟考の末、民に陸への居住を提案した》
「どうなった?」
《民の間で意見が割れた。海底しか知らぬ自分たちに、陸で暮らせるのかと。だが、とある娘に、陸へ行かせてくれと願われた。陸で暮らせるか、試してみたいと。そのような者たちを、我は見つけた陸へ送り届けた》
「それが、私のご先祖様?」
《肯定だ。失敗続きであったが、陸へいった者はその地へ根付いていった。この都市に残っていた者も陸から呼び寄せられ、徐々に移っていき、海底都市は無人となった》
「……クラーケンは寂しくなかったの」
アーシェが訊ねれば、触腕の先が、優しくアーシェの頭を滑った。
《この都市に居なくとも、我の守るべき民は陸で豊かに暮らしている。それで十分だったよ。我を忘れるということは、それだけ陸の暮らしになじめたという証でもある。今でも、石を取りにくる娘達の海生石を呼ぶ声を聞くたびに、我の判断は正しかったと思っている》
心底そう思っている風のクラーケンに、アーシェはたまらなくなってうつむいた。
ひっそりと見守っていてくれたクラーケンを忘れて、あまつさえ忌避するようになってしまった街の人がなんだか悔しくて申し訳なかったのだ。
だけどここで涙を流すのも違うと思ったから、唇をかみしめて我慢していると。
《……シエラも、そのような反応だったが。我と君たちでは時の流れが違うのだ。君が気に病むことではないのだよ》
困ったように思念が伝わってきたが、アーシェはそれよりもその名前に驚いた。
「それ、おばあさまの名前! おばあさまもクラーケンに会いに来ていたの?」
《ああ、君ほど頻繁ではなかったがね。彼女も、より大きな海生石を採るために流されかけていたところを拾ったのだ。それ以来、何度か会いに来ていたよ》
「おばあさまは、クラーケンの話を聞いたあとってどうだったの?」
《シエラも今の君のように落ち込みはしたが、そのあとは……そう、燃えていたな》
「も、燃え?」
戸惑うアーシェにクラーケンは悩むように触腕同士を絡めていたけど、それはどこか愉快気だった。
《そうとしか言いようがない。
なんとしても、この身に流れる聖女の血を絶えさせるわけにはいかないから、必ず婿を捕まえる、と息巻いていた。我は血が絶えようとも、会いに来る者が居らずとも何の支障も感じないといったのだが、シエラは引き下がらなかった》
「それで捕まえたのが、おじいさまだったのかしら」
《おそらくは。数年後、シエラは結婚をすると報告に来た後は、この都市に近づいてくることはなかったよ》
シエラ、と親しみと寂しさを込めて紡がれる名前に、アーシェはクラーケンと祖母の関係の深さを見た気がして、すこしもやっとした気分になる。
でも、祖母がクラーケンのことを想っていてくれたのは、アーシェにとって、とても嬉しいことだった。
それに、納得もしていた。
祖母が何度となく聞かせてくれた海の神様のお話は、今でもはっきり覚えている。
どんなときでも寂しいということに鈍感な、優しい神様だった。
クラーケンのことだったのならば、どうしておばあさまが子孫を残すことにこだわったのか、何となくわかる。
「クラーケン、きっとおばあさまはあなたを寂しくさせたくなかったのよ。子供を残していくことで、またクラーケンに会いに行ける人が現れるようにって。おばあさまはおばあさまなりに、あなたを大事に思っていたのだわ」
《そう、か》
クラーケンのどことなくほっとしたような、納得したような思念のあと、続けた。
《シエラが口癖のように言っていたのだよ。いつか、これはと言う娘に自分の守り石を受け継がせるから、海に現れたら見に来いと》
アーシェは息を呑んでクラーケンを見上げた。
あのクラーケンの出現は、後でも語りぐさになっていた。
なぜならあの海域は海底都市からは少し外れていたからだ。
「まさか、あのときあの海にいたのは、私に会いに来てくれてたからなの?」
勢い込んで身を乗り出しても、クラーケンの触腕からは何も返ってこなかった。
だけど、青紫の体色が不規則に揺らめくのを見れば答えは明白で、アーシェは思わず笑み崩れた。
「おばあさまがこの海生石の守り石をくれたとき、海の神様が守ってくれるからずっと身につけていなさいって言われたわ。街では守り神といえば聖女様のことだったから、不思議だったけど。私とクラーケンを会わせるためだったのね」
現金なものだとアーシェは自分でも思ったが、祖母がクラーケンに会っていたから、自分があのときクラーケンに会えたのだと思うと、めいっぱい感謝したい気分になった。
そんな風ににまにましながら、そろそろ時間だとアーシェは立ち上がる。
たまには船長の約束を守って一刻で帰った方がいいだろう。
湿った服を身につけ終えたとたん、さしのべられた触腕につかまると、物憂げな思念が伝わってきた。
《アーシェ。君はこの先どうするつもりかね》
「どうって?」
《君は陸の子だ。”海の巫女”などという役職も、長くは続くまい。シエラのようにいずれ海を離れ、陸の者と結ばれよう。あの陸の王子は、君を未だに望んでいるはずだ》
「あら、なぜそれを知っているの? もしかしてどこかで聞いてたの?」
《我の聴覚は鋭いからな。アーシェ、役職がじゃまになる時があれば、我が手を貸そう。相談しなさい》
なんだか深刻そうな感じのそれに、アーシェはからからと笑った。
「何言ってるのクラーケン。私は王子とも誰とも結婚しないわ」
《アーシェ……》
「クラーケン聞いて。あれから父様と話して許しをもらったわ。商会は弟のトーイが継ぐの。聖女の血もあの子を通して残っていくわ。だから私は自由にできるの。私はずっと海の巫女を続けていく。それこそ、死ぬまで」
密やかな決意とともに頭上を見上げれば、銀の瞳が揺らめいている。
「私は、ずっと一緒にはいられないかも知れないけど、会いに来ることはできるの。たとえ陸に帰ったとしても、あなたのことを忘れたりしない。この体が利かなくなったら、この都市に住むのも良いわ。ちょっと大変かも知れないけれど、それまでに、ここにこれる潜り手をたくさん育てればいいわけだし。だからね、クラーケン。信じてくれないかしら」
《なにを、だね》
「私の心を。あなたの特別でいたいという気持ちを」
アーシェは、頭上に広がる青紫の大きな体と、たくさんの触腕、そして銀の瞳を見上げて、微笑した。
「愛しているわ。クラーケン」
そして腰掛けた触腕の吸盤の一つに、そっと唇を寄せた。
とたん、青紫の体色の揺らめきが、さざめきのように全体に広がっていった。
赤みがかった紫になったクラーケンに、アーシェはちょっぴりびっくりした。
ころり、と空中から落ちてきた物があった。
《まったく。君という奴は……》
ぱらりぱらりと落ちてくる物の一つが、アーシェの頭に当たって手のひらに落ち、それの正体が知れた。
「これって、海生石? え、なんで?」
《……海生石は海の気が凝ることによってできることは知っているだろう》
「うん、まあ」
《我の身体構造は、海の営みを再現している。故に我の余剰エネルギーが何らかのきっかけで急激に発散されると、同じような物ができるのだ》
「ええとうんと、つまり……っ!」
いつもよりいっそう難しいクラーケンの説明を頭の中でこねくり回していたアーシェは、不意に理解して思いっきり触腕に抱きついた。
「ね、つまり動揺してくれたってこと!? クラーケン、私のこと意識してくれるの!?」
《アーシェ、暴れるな。落としたらどうする》
「落とさないって信じてるわ! それよりもねえ、期待していいのねっ」
結局、クラーケンは海生石を取り終わるまでまともな口を聞いてくれなかった。ちょっぴりしょげるアーシェだったが、それでもふと気付いて問いかけた。
「そういえば、数年前から質のいい海生石が増えたって皆が言うけど、それってクラーケンが作ったのが混じっていたからかしら」
《……君が会いに来るときは、一時も気が休まらなかったからね》
「まあっストレスだっていいたいの?」
アーシェは憤慨して見せたが、クラーケンはすでに平常で、アーシェを乗せた触腕をするすると海上へさしのべていく。
ああ、今日もこれでお別れか、と半ばまで来たところで触腕から手を離そうとしたのだが、あたりの海が紺青から青へ、青から水色へ変わっても腰を支える触腕はゆるまない。
そのまま、本体まで海上に顔を出したクラーケンは驚いて硬直するアーシェを、あんぐりと口を開けてこちらを見ている船員たちのいる船におろした。
「クラーケン? どうしたの」
《たまには、船まで送るのも悪くないか、と思ってね。いつも君に来させるばかりでは不公平だろう》
「それって……」
思念で告げたクラーケンは、別の触腕でアーシェの頬をなでた。
《またな》
「……っ!!」
アーシェが息を詰めている間に、するりと青紫の触腕は離れ、驚くほど静かに海中へ消えていった。
「いやあ、やっぱり大ダコの旦那はでか……アーシェ、ど、どうした!!」
珍しく慌てた様子の船長に尋ねられたアーシェは、そこで初めて自分が泣いていることに気付いて、そうしたら止まらなくなった。
「ま、またねって。いって、くれたぁ……ッ!」
「は?」
途方にくれる船長たちには悪いが、アーシェも説明する余裕はない。
ずっと、クラーケンは別れの言葉しか言わなかった。
アーシェがいくらまたくると言っても、クラーケンが再会を望んでくれることはなかったのだ。
なのに、今日は「また」と言ってくれた。
アーシェとの再会を、初めて望んでくれた。
アーシェの気持ちを受け入れてくれたとか、そういうことではないとわかっている。
それでも、それでも。
クラーケンの変化が、今までのアーシェの気持ちが、初めて報われたようでたまらなく嬉しかったのだ。
「ふええええんっ!!!」
「っちょいと、船長! アーシェが泣いてるじゃないかい!いったい何したんだい!?」
「いやいや、何もしてねえぞ。旦那に送られて帰ってきたとたんこれなんだ!」
途中で帰ってきたトキたちが船長に濡れ衣をかけている間も涙は止まらず、船は出向を始める。
トキに肩を抱かれてなだめられ、ようやく収まると、今度は急激に眠気がおそってきた。
「眠っちまいな。嫌なことは全部夢にしちまってさ」
未だに勘違いしているトキに、アーシェはそれだけは首を横に振った。
「夢じゃ、ないと良い……」
今が、一番幸せだから。
朝日にきらめく海面を眺めていたアーシェは、うっとりと微笑んでまぶたを閉じたのだった。
了