月下の蓮花
ふたりの護衛に廊下での不寝番とギルバート捜索の手配をそれぞれ任せて、セドリックは自室に入る。まもなく扉がノックされ、先ほどの侍従の声がした。
「セドリック殿下、お待たせいたしました。仰せの通りブランクを連れて参りました。それと軽食もございます」
「入って」
一言応じると扉が開いて、侍従ともうひとり、中肉中背のこれといった特徴のない男が無言で入ってくる。軽食を乗せたワゴンを押す侍従と対照的に、兵士の服装をしたその男は手ぶらだった。男はセドリックの姿を認めると音もなくすっと動き、手を後ろで組んで影のようにセドリックの傍に控える。
「明かりはどうなさいますか」
「いや、要らないよ。今日は月が明るいから充分見える。必要なことがあればブランクに頼むから、きみはもう下がって良い」
「かしこまりました。おやすみなさいませ」
あの護衛と違って、侍従は余計なことを言わなかった。ワゴンからサンドイッチの乗った皿と果実水の入った瓶、グラスを卓に置くと、セドリックの命令に従って部屋を出て行く。侍従が頭を下げ静かに扉を閉めると、部屋にはセドリックと男だけが残された。
「ブランク」
廊下の護衛たちに聞こえないよう、念のためにセドリックは声を潜めた。
「蜜の採取に行く。持ち物はいつも通りだよ。用意して」
ブランクと呼ばれた男は返事も頷きもせず動き出した。それをセドリックが咎めることはない。ブランクは言葉を発することが出来ないからだ。一度筆談をさせようとしたこともあるが、うまくいかなかった。
この文章を書け、と指示すれば言われた通りのことを書く。しかし、返事や意見など本人の意思が必要になる文言を指示するとペンを持つ手はぴたりと止まり動かない。
そもそもセドリックの命令以外では反応すらしない。
数ヶ月前、視察先でセドリックが拾ってきた男。意思の疎通は難しいがセドリックへの忠誠や命令への実行力に疑いはなく、何より機密漏洩の心配がないことから急速にセドリックの信頼を得て、傍にいることを許されている――他の側近たちを初め、対外的にはそういうことになっている。
ブランクが何なのか知っているのは、セドリックだけだった。側近たちがブランクを不気味がっていることは知っているが、セドリックは機密保持の有用性を説明しただけで特に対処をしていない。
「ああそうか、開けないとね」
ブランクが壁に作りつけの本棚の前でぴたりと立ち止まったことに気づいて、セドリックは隣の本棚に歩み寄る。しゃがんで下から二段目の本をいくつか抜くと、本棚の奥の板に竜が彫られているのが露わになった。
腕を伸ばしてその竜が持つ宝玉、竜の血を読み取る鍵にセドリックが触れると、かちりとささやかな音がした。ブランクの正面の本棚がずずずと滑り、隠し部屋の入り口が現れる。
そのままブランクはセドリックの隠し部屋に足を踏み入れた。その様子を確認したセドリックはソファに腰掛け、侍従が用意したサンドイッチに手を伸ばす。しかし、触れる直前、ち、と小さく舌打ちを漏らして手を止めた。
(毒見させるのを忘れたな)
気が逸って早々に侍従を退出させた。今から呼び戻すわけにもいかないし、ブランクがいる以上廊下の護衛にわざわざ声をかけるのも不自然すぎる。
(こういう場面では不便だな。所詮は失敗作……まあいいか)
深夜だからこそ、このサンドイッチに関わった人物は限られる。それにブランクを呼んだことは側近たちは知っているから、毒見役をブランクに命じると判断するだろう。ならば何か盛られている可能性は低い。
そんな一瞬の逡巡の後、セドリックは改めてサンドイッチを掴んで口に運んだ。柔らかいパンに、しゃきっとした野菜の歯ごたえ。野菜と一緒に挟んである薄切りの肉はほんのり温かい。それでいて野菜はぬるくなく、パンに野菜の水分が染みてもいない。間違いなく出来たてのものだった。
「……厨房の者に臨時で褒賞をやろうかな」
想定外の異母兄の失踪と書類仕事。竜の血のおかげで身体的には疲れていなくても、積み重なる焦燥に精神は疲弊していたらしい。ろくに夕食を摂らなかったこともあってか、サンドイッチの旨さにひと息つく。
食べ終わる頃にはブランクも用意ができたらしく、隠し部屋から鞄とセドリックの着替えを手にして戻ってきた。セドリックはいかにも王子らしいひらひらと装飾の多い衣装を脱ぎ捨て、ブランクが持ってきた地味な装いに着替える。
「行くよ」
隠し部屋を施錠してブランクに声をかける。セドリックはブランクを連れて隣の寝室に移り、次は寝台の置かれた壁に小さく彫られた竜の宝玉に触れた。今度は床の一部が開き、下へ続く階段が現れる。
「ランプを持って先導しろ」
本来は襲撃などの非常時に王族が避難するための隠し通路だ。火を入れたランプを持ち、セドリックの命令を受けたブランクが先に階段を降りていく。
地下まで達しただろう深さまで降りたところで階段が終わり、平坦になる。出口はいくつかあるが、ブランクは迷うことなく暗闇を進んでいく。
(……兄上がここから侵入してくることはあるか?)
出入口の鍵は竜の血を持つ者が触れれば開く。父から教わっていなくても、王族専用書庫には王宮の図面がある。第一王子であるギルバートなら、隠し通路の存在も鍵となる竜の彫り物のそれぞれの位置も知っているはずだ。
しかしこの通路のことをあまり公にするべきではない。セドリックの側近に、そこまで信頼のおける者がいるかと問われれば、答えは否だ。
(何か理由をつけて出口付近を警戒させるしかないな。王宮内の納屋と、王都内の空き家に見せかけた家屋と……)
頭の中で数え上げる。
(それと、王族墓所)
そこは、今夜のセドリックの目的地でもある。
「ブランク。もしこの先に兄上がいたら捕らえて。兄上は黒髪で青い目の男だ。一緒にいるかもしれない焦げ茶の髪で眼鏡をかけた男は殺しても良いけど、兄上は絶対に殺すな。多少傷つけるくらいなら構わない」
本当はギルバートの執務を把握しているだろうオズワルドは手元で利用したいが、贅沢は言えない。ギルバートを確保することが最優先だった。
いくつかの分かれ道を越えながらしばらく進む。セドリックの警戒は空振りに終わり、誰にも出会わないまま出口に着く。
(……いなかったか)
ギルバートがいなかったことに、安堵と失望がないまぜになる。
ギルバートはよく早朝に離宮の裏でオズワルドと剣を振っていた。その鋭く滑らかな動きは一朝一夕に身につくものではない。王国騎士に匹敵するかそれ以上の実力を持つはずだ。不意を突くか数で押すかしないとあの異母兄は捕らえられない。もしここで出会っていれば、捕まえることは難しかっただろう。
(人質は最終手段かな)
ブランクを下がらせてランプを受け取る。ひとり分の幅しかない階段を先に上がりながら、セドリックはギルバートを捕らえるための手段の検討を続ける。
他人に甘いギルバートなら、人質を盾にすればおそらくあっさり投降するだろうが。
(自分が犠牲になることで誰かを守れた――なんて救いを、兄上に与えるつもりはない)
人の絶望具合は目に見えない。だからこそ、失敗する可能性は極力排除したい。
ランプの明かりが天井と、そこに掘られた竜の彫刻を照らし出した。どこか妖しく光を反射する宝玉に触れると天井が開き、階段でそのまま隠し通路から出られるようになる。
そこは、王族墓所の裏口だった。王宮の敷地からは少し離れ、王都の北寄りにある。石造りの建物の中には、歴代の国王や王妃といった王族の亡骸が弔われている。
セドリックはブランクを伴い裏口から外に出る。目的地は墓所そのものではなく、裏庭にある泉だった。
泉は静謐な水を湛え、月明かりを反射してきらめいていた。泉の手前には無数の蓮の花が咲いている。まだ少し距離があるのに、風向きのせいか花の香りがセドリックまで届いた。月光を透かすその淡い桃色の花弁の美しさに、花に興味のないセドリックでさえ思わずほう、と息が漏れる。
セドリックがこの蓮のことを知ったときは、まだ株は少なかった。さりげなく庭師に話を聞き、本を読み漁り、内密に少しずつ育てて増やしてきた。
蓮は本来夏の早朝に花を咲かせる。しかしこの特殊な蓮は、真冬以外であれば満月の日を中心に五日間程の夜中に花を咲かせた。それを知らなかったから、最初の数ヶ月を無駄にしてしまった。
基本的に蓮という植物は蜜が採れないらしいが、この蓮はひとつの花から数滴ずつの蜜が採れる。
(もう充分な量は採れたとは思うけど)
株が増えたおかげで、一度の採取でかなりの量が採れるようになった。しかし、不測の事態に備えて余分に採取しておいて悪いことはない。別の使い道を考えてもいいし、実際、ブランクを迎え入れてからより一層蜜が必要になったのだ。
「瓶と鋏をこちらに渡し、お前も採取しろ。採取が出来たらお前が必要な分は持って行って良いよ」
ブランクが隠し部屋から持ち出してきた鞄に手を入れ、小瓶数本と鋏をセドリックに手渡す。セドリックの手にかすめたその指先は、生きた者とは思えないほど冷たかった。
それを気にせず、セドリックは泉の岸に膝をつき、受け取った鋏で蓮の花軸をぱちんと断ち切った。
数十分かけて、今晩咲いていたすべての花から蜜を採取出来た。ここ数日の採取のおかげでもう蕾はほとんどない。次は来月になるだろう。
やや重たくなった鞄を持たせたブランクを連れ、セドリックは墓所に戻る。
ここの隠し通路の鍵となる竜の彫刻は他の場所とは違い、建国伝説の壁画の一部として彫られている。始祖竜が現れてから英雄に倒されるまでの、一連の絵物語。英雄だけでない他の登場人物や、背景の動植物に至るまで描かれた、巷で語られている物語よりも詳細なものだ。
しかし、壁画であるがゆえに言葉はなく、今となっては見る者の解釈に委ねられている部分も多い。
(ま、今さら建国の経緯になんて興味はないけど)
毎月蜜の採取に通うセドリックには見慣れたただの景色の一部になってしまった。いつものように竜の掴む宝玉に触れて入口を開け、セドリックは来た道を引き返す。
王宮の自室に戻り、道具や採取してきた蜜を隠し部屋に持ち込む。窓のない隠し部屋で、ブランクとともにランプの明かりを頼りにいくつかの作業を続ける。
それらも済ませたセドリックは、採取用の服から普段の衣装に着替え、一冊の冊子を手にして隠し部屋を出た。
ブランクに指示を与え、部屋から下がらせる。礼すらしないその無言の背中を見送り、ひとりになったセドリックはどさりとソファに身を沈めた。
(蓮の香りのせいかな。……やはり煮詰める作業までやると寝つきにくい)
疲れはあるが、妙に目は冴えていた。そういうときはこの冊子を読むに限る。セドリックは隠し部屋から持ってきた冊子を膝に乗せ、表紙を開いた。
厚紙と紐で綴じられた簡易的なノート。父ベルナールの崩御の後、その私室の隠し部屋でセドリックが見つけたものだ。
(母上が嫌がったから、兄上は入っていないんだろうな)
国王としての物すべてをセドリックに引き継がせようとしたジャネットは、ギルバートにベルナールの部屋に入ること、遺品に触れることすべてを禁じた。そのときのギルバートは『構いません』と言葉少なに頷いただけだった。
ただ、そのおかげでセドリックはこの冊子に出会えた。
ベルナールが何年もかけて綴った、この手記に。
『一種類目。スズランモドキの根を煎じたもの。一日目は1ミリリットルを水に混ぜて飲ませる。反応なし。二日目2ミリリットル。発熱するも数時間で解熱。三日目再度2ミリリットル。高熱が一晩続く。一日空けて五日目、2ミリリットル――――』
『五種類目。毒蛾の鱗粉。一日目は一匙。水に混ぜて飲ませる。ひどい眩暈がしたと言ったらしい。二日目も一匙。眩暈は起きない。三日目は私も様子を見に行く。二匙に増やしたものを飲ませる。目の焦点が合わなくなり、突如「ははうえ」と泣き叫びだした。リリアナの姿が見えたのか? 例え幻覚だろうと、ギルバート、お前がリリアナに会うことなど許さぬ。ギルバートはそのまま意味不明なことを叫び暴れ出したので、私の護衛に押さえ込ませ寝台にくくりつけた。一時間程で収まり正気を取り戻す。その間、ギルバートの侍従が勝手に縄を解こうとした。オリバーも口うるさい。あえて目覚めたギルバートの前で罰を与えようとしたらギルバートが割り込み、侍従の代わりに私に殴られる。それで良い。四日目、同量。反応も前日同様、――――』
『オリバーはもう信用ならぬ。ギルバートに与える薬の量を減らしたり別の物に取り替えたりされてはかなわぬ。あやつには調合に必要な計算のみさせ、ギルバートに薬を飲ませるのは私自ら行うこととする。私の勝手な投与を恐れるなら、オリバーも正確な量を伝えざるを得まい』
『七種類目。ユメミリンゴの果汁。一日目、飲んだ直後は反応なし。数十分後に昏倒。エンフィールドの娘の前で倒れたと報告が入る。付き添いたいと申し出るエンフィールドの娘に許可を出す。やはりリリアナに似た名を持つからか優しいようだ。うまくギルバートが娘に依存すればいい。いずれすべてを失えば、ちょうど良いくらいに絶望するだろう――――』
『二年ぶりにグレイリコリスの毒を飲ませてみる。普通なら死ぬはずの量だが、数時間ほど手に痙攣が出たのみで済んだ。耐性は充分機能している。しかし、これで十種類。まだ先は長い』
『十二種類目――――』
いつ、どれくらいの毒をギルバートに飲ませたのか。その症状や反応を含めて、ギルバートが耐性を獲得するまでの記述が各薬物ごとに細かく続く。そのところどころに、ベルナールの感情が滲んだ文が挟まる。
(兄上が離宮に移ってしばらくしてからだから、六歳頃からか)
何年も何年も。ベルナールはギルバートに毒を飲ませていた。幼い子供には過酷すぎる仕打ち。
(病弱なんて噂の真実はこれだもの。兄上だって竜の血を持つ王族。丈夫な体を持つというのに……本当、よく誰も疑問に思わなかったよね)
王宮に関与する人々はそれだけ、リリアナを失ったベルナールの狂気を恐れていたのか。それとも竜の血について無知なのか。
(まあ、それは僕もか)
セドリックも当時は何も思わなかった。ただその理由は大人たちとは違った。頻繁に寝込んでいるとは聞いていたが、それで勉学に充てられる時間はセドリックより圧倒的に少ないはずなのに、ギルバートが王族教育で結果を出し続けていることのほうが重要だった。
セドリックはノートのページをさらにめくる。
病に伏した時期と重なるためか、途中からベルナールの筆致に勢いがなくなり、日付も飛びがちになる。
それでも、記述のある最後のページ。ベルナールが亡くなる一カ月ほど前の日付とともに、見開きを使って荒々しく書き殴られた言葉。
『もうすぐリリアナをこの手に』
セドリックはうっそりと笑って、ノートを閉じた。
ギルバートが毒物や薬物への耐性をつけさせられてきた、その苦しみの記録。同時に父が愛する女性のために足掻き続けた記録でもあるそのノートを、セドリックは宝物のように胸に抱いた。
「ありがとうございます、父上」
志半ばで病没した父に向けて囁く。心からの感謝を込めて。
「あなたが兄上をここまで仕上げていてくださったから――兄上さえ見つかれば、僕は間に合うことができそうです」
もしあの資料を見たのなら、ギルバートは気づいたのだろうか。自分がかつて父親に執拗に毒耐性を身につけさせられた、その本当の理由を。それを利用して、セドリックが現在何をしようとしているのかを。
それでも、それはもうセドリックを立ち止まらせるものにはならない。
今はただ、ギルバートを一刻も早く見つけ出して捕らえなければならない。
「僕は絶対に彼女を取り戻してみせます。父上も、上手くいくよう祈っていてくださいね」
窓から差し込む月光が、ノートを撫でるセドリックの姿を淡く照らし出していた。




