野営地の夜
「殿下、何か気になることでも?」
野営地につき、乗客たちは各々馬車から降りる。御者は馬が怯えないよう少し離れた木に手綱を結び、位置が決められているのか灰の残る場所で焚き火を起こす。乗客たちはそれを囲むように適当な場所にそれぞれ座ったり寝転んだりし始めた。
私とオズは、馬車と御者、そして乗客全員が見えるように、焚き火を囲む輪から少し外れたところにトランクを置いた。
焚き火のぱちぱちと爆ぜる音と、わずかとはいえ距離をとったことで、潜めた声であれば私たちの会話は彼らには届かないだろう。
だからか、オズが私を呼ぶ呼称も元に戻った。
「何か、とは?」
「先ほどの、あの女性への問いかけです。あなた様のお気遣いはわかりますが、わざわざお尋ねになるほどのことかと。……お手を」
オズが自分のトランクを開け、薬瓶と包帯を取り出しながら私に疑問を投げかけた。
やはり、オズには違和感を抱かせてしまったか。
「ああ、あの話か。……すまない、頼む」
私はオズの指示に従って、まず左手の包帯を解いてオズに差し出す。掌には、王都を出た日に負った火傷の痕がある。あの後すぐにオズが応急処置を施してくれたおかげで、今はもう水ぶくれも引いていた。
「念のため、あと一日は巻いておきましょう。右手もお出しください」
薬が掌に塗られ、再度包帯が巻かれる。右手も同様に。右手には掌の火傷だけでなく、王妃に踏み躙られてできた痣が甲にあったが、そちらもほとんど目立たなくなった。
日が落ちて、周囲は少しずつ暗くなってきた。顔を見られる心配が減り、私はフードを取って外套を脱ぐ。この後外套を布団代わりに体にかけるので、特に畳むことはせず適当に丸めて置いた。
暴走した馬車を止めるときに破れた外套は、オズに取られた。これは王都を出て次に寄った街でオズが新しく調達してきたものだった。
薬を片づけるオズを見ながら、話しかける。
「……オズ。お前は、妃が国王と離縁するにはどうすれば良いか、知っているか?」
黙っていても良かった。しかし、このままオズにベネット家まで同行してもらうなら、母上の日記の内容は知られてしまうだろう。
ならば、先に話しておくほうが良いのかもしれない。
トランクを弄っていたオズが手を止めた。
「それは……非常に難しいですが、国王に余程の非があったと証明するか、もしくは、」
ふと、オズが口を閉ざした。私がこの問いをオズの問いへの返しとして発した意味と、ベネット子爵領に向かっている理由とが結びついたのか。
(本当に、頭の切れる奴だ)
だからこそ、話しておこうと思うのだから。
「三年以上懐妊の兆しがなかった場合。そのことを仰っておいでですか?」
恐る恐るなのか。やけにゆっくりとした口調で、オズは私に確かめた。
私は頷いてそれを肯定する。トランクを開けて、母上の日記を取り出した。
その表紙を開くことはしない。この暗がりではどうせ読みにくい。それにこの日記に何が書かれているか、子供のころ何度も繰り返し読んだ私は覚えている。
ただ何となく、触れていたかった。
「母上の名誉に関わる話だ。私から言い出しておいて卑怯だが、他の者に話すことは禁ずる。……いいな?」
オズが青褪めた顔で頷き、躊躇いがちに言葉を発した。
「リリアナ妃殿下があなた様を身籠られたのは、お輿入れから四、五年ほど経っていたと伺っておりましたが……」
「よく知っているな。私はともかく、お前も産まれる前か、小さかった頃の話だろうに」
私の三つ上なだけのオズが、私が産まれる前の話を知っているのは意外だった。オズが、気まずげに目を逸らす。
「……あなた様にお仕えするにあたり、オリバーから少々」
「そうか。オリバーは他に何と?」
オリバーは知っていたのだろうか。一昨日は結局会えなかった老医師を思い出す。私たちが王都に戻る頃には帰宅しているはずだが、今はまだ採集の真っ最中だろうか。
「もとはリリアナ妃殿下が王妃の座にあり、なかなかお子様ができなかったことから側妃にお降りになった。そしてもともとベルナール陛下の婚約者であらせられたジャネット妃殿下が、新たに王妃として輿入れされたと」
「ああ、間違ってはいない」
父ベルナールが母を娶ったのは、いわゆる“一目惚れ”というものだったらしい。子爵位は貴族の中では低位だ。その令嬢でしかなかった母を王妃の座に据えることには周囲から相当な反発があっただろう。
それもあってか、ジャネットが輿入れする際に母上は側妃に降りた。よく外交問題にならなかったものだと思う。もともと父の婚約者だったジャネットは、隣国ガスタの第三王女だったのだから。
だからジャネットは今でも母上を嫌っている。恨んでいるとも、憎んでいるとも言っていい。あの女には、本来なら簡単に手にできたはずのウィリア国王妃の座を子爵令嬢に奪われ、挙句その後譲られたように見えたはずだ。
「ですからあなた様は正妃の子としてお生まれになっていた可能性もあり、継承争いではそのことを利用しようとする貴族もいるだろうから重々注意せよと、オリバーから言われておりました」
「さすがオリバーだな。貴族のことをよく見ている」
平民とはいえ、王宮専属医として長年王宮内を見て、王族と関わり続けたがゆえに出来る警告だ。
だが、その内容だけではこの話をするには足りない。オリバーが知らなかったのか、知っていてオズに伝えなかったのかは定かではないが。
私は、手に持った母上の日記に視線を落とした。幼い頃、何度も捲った茶色い革表紙。
「では、母上が父によって本来の婚約者と引き裂かれたということも、だからこそ父と離縁するために、母上は輿入れ以降ずっと内密に避妊薬を服用していたということも、お前は聞いていないんだな?」
「……それは、初耳です」
オズの声がかすれた。
母上は父から深く寵愛されていた。世間ではそう言われているし、誰もがそう信じている。
(そんな綺麗なものか)
母上は、ただ囚われ囲い込まれただけだ。国王の権力によって逆らえずに。だから母上は、自分が本当に愛する人のもとへ帰るため、国王すら欺くために子を孕めぬ女を演じ続けた。
貴族女性として、子が産めないということがどれほどの傷になるか。望まぬ地位を与えられ、毎日のように好きでもない男に抱かれ、そのうえで『世継ぎはまだか』と周囲に責められる。そんな生活を何年も。
それがどれほどのつらさを伴うものだったのか、立場も性別も違う私には想像することすら烏滸がましい。
それでも国王に離縁を申し出るほとんど唯一の方法だったから、母上はその道を選んだ。
「っ、殿下」
ぽつぽつと話していると、オズが唐突に私を呼び、話を遮った。私はその懇願するような声に、顔を上げてオズを見る。
(何故、そんな顔をしている?)
やけに心配そうな、怒っているような、傷ついているような。そんな表情を、オズは浮かべている。
「これ以上無理にお話しいただかなくて構いません。先ほどの私の質問はお忘れください」
「無理?」
私は首を傾げた。そんなことをしているつもりはなかった。
私はただ、母上の日記に書かれていた事柄を諳んじているに過ぎない。
母上のことを哀れだとも、強い人だとも、申し訳ないとも思う。父を軽蔑する気持ちもある。だが、それの何が、無理だと言うのか。
オズの真意が読めない。
(何故止める?)
少し考えて、知りたくないのかと思い至った。他者に話すことを禁じられるくらいなら初めから知らないほうがいい、そう考えたのだろう。その判断は妥当だ。
「お前が聞きたくないと言うのなら止めよう。こんな話を知ってもどうしようもないからな」
この話は王家の醜聞に等しい。そのうえ、母上も父ももう亡くなって久しく、知って得をする人間などいない。
それでも、知ってしまえば知らない頃には戻れない。私が、ディアナの想い人がセドリックだと知ってしまったように。
(確かに、オズにこれ以上背負わせることはないな)
離宮にいた頃と違い、オズは職務ではなく何故か自分の意志で私についてきてくれているのだ。それに相応しくあろうと決めたというのに、余計な重荷を課すべきではない。
ベネット子爵領に着いたら休暇代わりに別行動をさせよう。そうすればオズがこの内容を知る必要はない。
「お前こそ、この話は忘れていい。すまなかったな」
「そうではなく……!」
しかし、何故かオズはより一層その表情を険しくさせた。
「では何だ。言いたいことがあればはっきり言え」
普段は辛辣なことだろうと遠慮なく言う癖に、何を口籠っているのか。
「おぉい、お客さん」
しかし、オズが答える前に、近づいてきた御者が私たちの会話を遮った。
「おふたりとも、そんなところで良いのかい? 焚き火使いにくいだろ」
「っ、問題ねえよ、ありがとな」
オズが私を気にしつつも、御者に応じるために口調を切り替える。自然に使いこなしているのに、私にはオズのその話し方は未だに耳慣れない。相変わらず器用だなと素直に思う。
御者は小さな盆に、同じく小さなカップをいくつか乗せていた。
「ホットワインだけど、飲むかい?」
乗客へのサービスの一環らしい。昨晩ももらったが、そのときはただの白湯だった。
持ち手もない簡素なカップだ。盆ごと差し出されたそれを、御者に近い位置に座る私が受け取る。
「ありがとう」
「おうよ。うちの上司に差し入れてもらったやつだから美味いぜ」
今日マイヤー伯爵領の領都で、王都から馬車を操っていた御者は馬と共に交代した。昨日や一昨日は、私が王都で暴走した馬車を止めたことをやたらと称賛されて気まずかったから、御者が交代して助かった。今回の御者は気さくに声をかけては来るが、特に特定の乗客に構うようなことがない。
私は受け取ったカップのひとつをオズに手渡した。御者は他の乗客にもホットワインを配るために去っていく。酒は平民にも手軽な娯楽で嗜好品だ。たった一杯でも、カップを渡された客たちの気分が高揚しているのが見てわかる。
ウィリア王国では十六になれば、食前酒などの軽いものから飲酒が認められる。もうすぐ十八になる私に、受け取ったワインを拒む理由はない。
とはいえ私にこれまで飲酒の機会はそれほどなかった。温められたワインから湯気とともに漂うアルコールの香りは少しきつく、ひとまず一口、口に含む。
ほんのかすかに。ぴり、と舌に刺激を感じた。
「っ!?」
本能に近い反射で、私はそれを吐き出した。
知らない者は、気づいたところで何らかのスパイスだと思うだろう。実際、ホットワインにスパイスを入れることはある。
だが、この刺激はそういった類のものではない。
「オズ、そっちも貸せ」
「殿下?」
オズの反応を待たず、一度渡したカップを奪い取る。そちらにも口をつけて、思わず舌打ちが漏れた。
(こっちもか)
同様に、背後にこっそり吐き出す。
私の視線の先では、ジェイとジェイの母親が、御者のホットワインを断っている。それはそうだ。子供や妊婦が酒を飲まないことなど当然だ。断られて余ったカップを御者が飲み干す。
「殿下、どうなさいました? まさか、」
「ああ。オズ、これは飲むな。――何か入っている」
私の手の中で、ワインの赤紫色をした液面が揺れた。




