第37話 第二ステージ第一試合
第二ステージの第一試合会場は、島の中に建てられている――いや、建てられていた、が正しいのか。かつては鉄筋コンクリートの建物だったのだろうが、床も壁もほとんど崩落しており、骨組みがあちこち剥き出しになっている。
アリスに案内されて、草薙とイブは階段を上っていく。途中、梯子も上った。場所によっては階段までもが崩れ落ちており、上へと行くには、特別に設置された梯子を使うしかなかったのだ。
そうして、七階建ての建物の、最上部。
鉄骨だけが空中に浮かび上がるようになっている、不安定な足場へと、草薙とイブは通された。
夜の海風が吹いている。髪の毛が風に揺れる。試合会場はライトアップされているが、一歩外へと踏み出せば、世界は闇に包まれている。建物は海辺、崖の上に立てられていて、遙か眼下には岩壁に波が打ち寄せているのが見える。遠方へと目をやれば、夜の漁に出ているのだろう、漁船の灯りらしきものがチラチラと見えている。
アリスもまた、同じ高さにある、別の鉄骨の上に立った。ニコニコ顔で礼司達を見守っている。
「第一試合は、ここで戦ってもらいまーす♪」
呑気な物言いに、草薙はチッと舌打ちした。簡単に言ってくれる。歴戦の武道家である草薙でも、こんな危ない場所で戦ったことはない。一歩、鉄骨から踏み外せば、地面に叩きつけられるか、海に落ちるか。海に落ちたとしても、この高さだとまず助からないだろう。
そもそも、戦う場所を自分にとって有利な環境へと誘導していくのもまた、武道家としての戦術のひとつである。今回は、そんなことをさせてもらえなかった。
なお、イブは無邪気に、全裸でクルクルと鉄骨の上で回っている。危なっかしい。だけど、草薙は止めようとはしなかった。彼女の場合、心配するだけ無駄だ。レディ・ジャガーとの一戦を見る限り、身体能力は異常だから、こんなことで落ちはしないだろう。
やれやれ……と諦めの境地で、草薙は鉄骨の上で歩を進めた。圧倒的に、状況は自分のほうが不利だ。それでも、逃げるわけにはいかない。勝つしかないのだ。
「それじゃあ、試合開始っ!」
アリスの宣言とともに、戦いは始まった――はずだった。
ところが、イブは相変わらず、鉄骨の上でクルクル回り続けている。
「やる気あんのか?」
草薙は腰を落として、拳を構える。それでもなお、イブは舞うような動きをやめない。
「おい!」
草薙に怒鳴られたことで、ようやくイブは踊るのを止めて、髪の毛をサラリとかき上げながら、ニッコリとほほ笑みかけてきた。
ドイツ語で何か語り、無造作に両腕を広げると、そのままの体勢で一切防御する心づもりも無い様子で、スタスタと歩み寄ってくる。
コオオ……呼吸を練り、体内に「気」を巡らせる。奥義、練気法だ。この相手には、手加減していられない。見た目に騙されてはいけない。全裸の女子であろうと、容赦なく、本気の一撃を当てる必要がある。
「フッ!」
鋭い呼気とともに、爆ぜるように全身のバネと回転を生かしての、渾身の拳打を放った。力強い踏み込みとともに、鉄骨全体が震動するほどの衝撃が伝わる。練気法で気を込めた一撃、内部へとダメージが浸透したはず。しかし、拳はイブの白い肌へと叩き込まれたが、表面の皮が軽く波打っただけで、芯となる肉体はビクともしない。
「?」
イブはきょとんとした顔で、小首を傾げた。
「っ……!」
草薙は思わず二歩後退した。
臆したからではない。イブの体に叩き込んだ拳は、相手に衝撃を伝えるどころか、逆に自身の腕へと反動が跳ね返ってきた。ジンと痺れたような感覚が、右腕全体に広がってくる。
まるで岩でも叩いたかのような硬さである。
「なんだ、お前……⁉ 本当に人間か……⁉」
その草薙の日本語は、イブには当然伝わらない。だが、草薙が驚いていることは、表情から察したのだろう。クスクスと楽しそうに笑い始めた。
またドイツ語で語りかけてくる。何を言っているのかわからない。だが、その朗らかな感じから、馬鹿にされていることは理解できた。あるいは無邪気に悪意のない言葉を投げかけているのかもしれないが、この戦いの最中に話すような内容ではないことは確かだ。
フウウウ……! 再び呼吸を整え、気を練り始める。どれだけ硬い肉体を持っていようと、所詮は同じ人間。内部破壊をもたらす練気法を喰らって、無事でいられるはずがない。きっと、さっきの一撃だって、本当は通じているはずだ。
とにかく自分を信じて、攻め続けるしかない。
裏拳を、ハイキックを、体当たりを、次々と仕掛けていく。だが、そのどの攻撃も、イブには通用しない。
生まれて初めて、草薙は冷や汗を垂らした。拳法習い立ての白帯だった自分ですら、大人を相手にしても臆することはなかった。生まれつき、戦士としての気構えを持っていた。
その草薙が、焦りを抱いていた。
焦りは、精密な動きが要求される拳技を曇らせてしまう。次第に、放った攻撃が、さっきよりもさらに無効化され、弾き返される率が上がっていった。
クスッ、とイブは笑った。
来る。
その笑みに、攻撃の意思を感じた草薙は、防御の体勢を――取らなかった。
防御は悪手だ。すでにレディ・ジャガーとの一戦で、イブが尋常でない攻撃力を有していることはわかっている。そんな相手に対して、守りに入るのは、特にこの不安定な足場の上では自殺行為でしかない。
幸い、イブの攻撃は素人同然。大振りなパンチを放ってきたので、体をさばいて、軽く回避した。
どうやら連続攻撃の概念もないらしい。一発撃ったところで、イブは動きを止めた。足が鉄骨に居着いている。武道家なら、動きを止めてしまうことは危険な行為だとわかるものだが、そんな知識は無いようで、無頓着に立ち止まっている。
悔しいのは、そんな風に打たれたい放題になっているイブに対して、草薙は攻めかねてしまっている、ということだ。
(打つのは駄目。あの化け物相手だと、極めるのも無理だろう。となると、残るは……)
投げ技だ。
ガリガリと草薙は頭を掻いた。参ったな、と困り果てている。
実は、草薙は投げ技を得意としていない。
もちろん、並の武術家と比べたら、十分すぎるほどの技を放つことはできる。だけど、相手を投げられるということと、投げ技の技術を会得しているということは、イコールではない。草薙が使える投げ技は、持ち前の膂力を生かしての、いわば力任せの技であり、投げ技の基本要素である「崩し」「落とし」「外し」、その内の「崩し」と「外し」に関しては、誇れるほどの技術を持っていない。
必要なかったからだ。拳脚をもって強力な打撃を当てることで、大概の敵は倒せてきた。
アウン戦では、一応投げ技を使った。だが、あれは草薙の基準から言えば、到底投げ技と呼べるようなものではなかった。実戦の中で自己流に編み出してきた、荒削りな投げである。
つまり――剛法も練気法も達人クラス、一方で、柔法に関しては技術の足りなさを経験とフィジカルでカバーしているような状態である。
弱点、というほどの問題点ではなかった。事実、これまで連戦連勝してきた中で、草薙は柔法を極めていないからといって不便に感じたことは一度もなかった。
今回だけは違う。
柔よく剛を制す。化け物退治に必要なのは、この極意である。そして、不運なことに、これまで草薙は化け物と呼べるような敵に当たったことはなかった。自分がフィジカル面で相手を圧倒することがほとんどだったからだ。
(考えていても、しょうがない。やってみるか!)
草薙は構え方を変えた。全身を脱力させる。理論は知っている。柔法を放つ際の第一段階、「崩し」においては、腕力に頼るようなことをしてはいけない。「崩し」は、腕の力で行うのではなく、全身で行う。単純な話、腕力では、腕の重さと筋力分しか相手に伝えられない。
全身の力を抜くことで、体全体を使った動きが可能となる。すなわち、全体重が「掴み手」、接点となるポイントにかけられるようになる。その瞬間、相手の掴んだ部位対、自分の全体重という対決となる。
「シャアッ!」
蛇のような気合いとともに、草薙はイブの手首を掴んだ。ここでも、まだ力は入れない。全身を柔らかく動かしての体さばきを行うことで、相手の手首をひねり上げる「崩し」へと移行する。
「⁉」
イブは目を丸くした。彼女の腕は、草薙の狙い通りにひねり上げられた。この際、腕力は関係ない。イブがもしも「崩し」を防ぐ手段を知っていたとしたら、そうしただろう。しかし、彼女はわけもわからず、腕に力を込めた。
無意味だ。力の方向性は一方向にしか働かない。縦に落とす方向へ力をかけているのであれば、草薙としては、まったく無関係な横軸へと崩すだけである。
ふわり、とイブの体は、鉄骨の上から空中へ向かって、浮かび上がった。
(いけるっ!)
あとは、奈落の底へ向けて「落とし」をかけるだけだ。それだけで、イブを海に向かって叩き落とすことができる。
ここで初めて、脱力していた全身にエネルギーを巡らせて、力をかける。それで投げ技は半分成立し、決着がつく。
が――草薙の手は、止まった。
投げられない。
投げてしまえば、イブを殺してしまうことになる。
できない。自分には。
イブが嬉しそうに笑った。目を爛々と輝かせて、無邪気な感じで。
そして、草薙の腕を逆に掴み返すと――彼の体を、空中へと放り投げた。
「う、お⁉」
あっという間の逆転だった。何もない虚空へと放り出された草薙は、せめて鉄骨を掴もうと手を伸ばしたが、もはや届かない。
そのまま、遙か下の海へ向かって落下していく。
猛烈な風圧に襲われる中、それでも、草薙はこれだけはハッキリと考えていた。
負けた、と。
直後、海面に強く全身を叩きつけられて、草薙は意識を失った。




