第54話 弁護士と呪いの絵画
土曜日、午後1時。
私は都内の一等地、歴史ある煉瓦造りの美術館に併設された高級フレンチレストランのテラス席で、琥珀色の液体を静かに見つめていた。
「……完璧な透明度だ。雑味一つない」
スプーンですくい、口に運ぶ。
牛スネ肉と香味野菜を三日間かけて煮込み、卵白で濁りを徹底的に吸着させた『至高のコンソメスープ』。喉を通り抜けた後も、暴力的なまでの旨味と香りが鼻腔に残り続ける。これ一杯を作るためにどれほどの時間と技術が費やされているか、想像するだけで料理人への敬意が湧く。
「……味わっているところ悪いが、金子。私の方を全く見ないというのはどういうことだ」
正面の席から、不機嫌そうな声が飛んできた。
警視庁捜査一課の原田深美だ。
今日の彼女はいつもの堅苦しいパンツスーツではなく、体にフィットした黒のハイネックニットに、上質なキャメルのチェスターコートを羽織っていた。プラチナブロンドの髪は緩やかに巻かれ、その彫刻のように整った美貌と相まって、周囲の客たちの視線を完全に釘付けにしている。
「僕の視界には今、このスープとそれに合わせた自家製ブリオッシュしか存在しない。……それにしても、なぜ僕が君と休日の昼間からこんな場所にいるんだ。引きこもりにとって外界の空気は猛毒だぞ」
「か、勘違いするな!」
深美は顔を少し赤くして、テーブルの上の水を一気に飲んだ。
「これは……前回の『幽霊列車』事件での、お前の協力に対する、警察官個人の礼だ! 決して、個人的な付き合いとかそういう類のものではない」
「誰もそんなことは言っていないが」
私が呆れてため息をついた、その時だった。
「あら、ごきげんよう。随分と静かなお食事会ね、お二人さん」
テラスの入り口から、絹糸のようなブロンドを揺らし、セシリア・クロスが優雅に歩み寄ってきた。仕立ての良いネイビーのパンツスーツが、彼女の貴族的なオーラを際立たせている。
「セシリア。君までなぜここにいる。まさか僕を監視しているのか」
「自意識過剰よ、Q。私は仕事で来ているの。……ちょうど良かったわ。私の顧客が、少し『オカルトチックなトラブル』に見舞われていてね」
セシリアは私の隣の空席に腰を下ろし、ギャルソンにダージリンを注文した。そして、自身のスマートタブレットをテーブルの上に置く。
「依頼なら事務所を通せ。僕は今、コンソメと対話中だ」
「調査費用は弾むわよ。……『所有者が必ず死ぬ絵画』、興味ない?」
私のスプーンを持った手が、ピタリと止まった。
深美が怪訝そうに眉をひそめる。
「所有者が死ぬ絵画だと?」
「ええ。私の顧客である資産家の烏丸氏が、数日前にオークションで落札した19世紀の宗教画よ。過去の所有者が三人、いずれも不審な衰弱死を遂げている。そして昨日……絵画をこの美術館の地下保管庫に納めた直後、烏丸氏も急に血を吐いて倒れ、意識不明の重体になったわ」
セシリアは冷たいブルーの瞳で私を見た。
「警察はただの急性疾患だと片付けようとしているけれど、烏丸氏の親族は『絵の呪いだ』と騒いでいる。だから、私が個人的に調査チームを動かしたわ」
タブレットの画面が切り替わり、薄暗い廊下の映像が映し出された。画面の隅には、特定班が待機する裏回線のチャット欄が表示され、すでに猛烈な勢いでコメントが滝のように流れている。
『Qちゃん、聞こえる? 現場の地下保管庫前よ。裏回線もバッチリ繋いであるわ』
画面の向こうから、岡本純のひそひそ声が聞こえた。ジンバルカメラを構えているのは中野月子だろう。その後ろには、なぜか胸元が大きく開いた赤いドレス姿のエレナ・ヴァルゴヴァが立っている。
「セシリア。君は最初から、僕がここにいると知っていて、純たちを地下に向かわせたな」
「時間は有限よ、Q。タイムイズマネー。さあ、あなたたちの専門分野を見せてもらおうかしら」
私は冷めかけたコンソメを名残惜しそうに一瞥し、タブレットの画面に意識を切り替えた。
「純。保管庫の管理人はいるか?」
『ええ、烏丸さんの甥の佐々木さんって人が案内してくれてるわ。今、扉を開けるところ』
重厚な金属音が響き、特別保管庫の扉が開かれた。
月子のカメラが内部を映し出す。厳重なガラスケースに収められているわけでもなく、むき出しでイーゼルに立てかけられた一枚の油絵があった。
『エメラルドの聖女』と名付けられたその絵は、異様なまでに鮮やかで、深く、吸い込まれるような「緑色」のドレスを着た女が描かれていた。
画面越しでも、その異常な色彩が網膜に焼き付くようだ。
「……確かに、気味が悪いほど美しい緑色ね」
隣で画面を覗き込んでいた深美が呟く。
『ちょっとQちゃん、なんなのよこの部屋! 空気もジメジメしてるし、変な匂いがするわ!』
純が画面の向こうで鼻をつまむ。
『本当ですね。加湿器がガンガン動いてますよ。絵の保管庫って、もっと乾燥させておくものじゃないんですか?』
月子がカメラを回し、部屋の隅で稼働している大型の加湿器を映した。
画面の端に立っていた管理人の佐々木が、慌てたように口を挟む。
『あ、いや、これは……絵のひび割れを防ぐために、一時的に湿度を上げているだけでして……』
その時、エレナが絵画に顔を近づけ、目を輝かせた。
『トオル、聞いたわよ! 呪われた絵画ですって!? スロバキアにも似たような伝承があるわ。この異常に鮮やかな緑……『魔女の緑』よ!』
「魔女の緑?」
『ええ。19世紀の初頭、この鮮やかな緑色を出した画家たちや、その絵を飾った貴族たちが、次々と謎の病気で狂気を帯び、血を吐いて死んだっていう伝説があるの。悪魔と契約して色を作ったからだ、って言われてたわ』
特定班のコメント欄が、エレナの言葉に反応して爆発的に加速する。
『19世紀の緑の顔料?』
『オカルトじゃなくて化学の問題じゃね?』
『ちょっと待って、今検索する』
私は、エレナの伝承、純たちの「ジメジメする」「変な匂い(カビ臭さ)」という不快感、そして不自然に稼働する加湿器という三つの情報を、脳内で瞬時に結びつけた。
「……特定班、19世紀の緑の顔料で、湿気とカビに反応するものを探せ」
わずか数秒。コメント欄にひとつの単語が踊った。
『シェーレグリーンだ!』
『湿気で繁殖した特定のカビが、顔料からヒ素を分解して「アルシンガス」を発生させる!』
『猛毒のガスだぞ!』
その文字列を見た瞬間、私はタブレットに向かって鋭く叫んだ。
「純、月子、エレナ! すぐに鼻と口を塞いでその部屋から出ろ! それはただの絵じゃない、毒ガスの発生源だ!」
私のただならぬ声色に、画面の向こうの純と月子が弾かれたように保管庫の外へ飛び出す。エレナもそれに続いた。
その直後、私の隣で椅子が激しく軋む音がした。
深美だ。彼女はコートを翻し、テラス席から美術館の内部へと通じる連絡通路に向かって弾丸のように駆け出していた。
「深美!」
『ああっ、ちょっと佐々木さん! どこ行くのよ!』
タブレットから、純の焦った声が響く。画面が乱れ、甥の佐々木が純たちを突き飛ばし、保管庫から廊下へ逃走する背中が映った。
佐々木は叔父の烏丸氏が倒れた原因を最初から知っていたのだ。いや、彼が意図的に加湿器を動かし、絵画の裏にカビ菌を塗布して、叔父が来るタイミングに合わせて毒ガスを発生させたのだろう。
逃げる佐々木の背中を月子のカメラが追う。
地下回廊の階段付近まで佐々木がたどり着いた、まさにその時。
階段を猛烈なスピードで駆け下りてきた影が、佐々木の行く手を完全に塞いだ。
原田深美だ。
「どけっ!!」
パニックになった佐々木が、深美を力任せに突き飛ばそうとする。
だが、氷の女刑事の体幹は微動だにしない。
深美は佐々木の差し出した腕を冷静に下から払い上げ、その推進力を利用して彼の体を半回転させ、冷たいコンクリートの壁に叩きつけた。
「ぐあっ……!」
「動くな」
深美の低く、一切の感情を排した声が地下回廊に響く。
彼女は壁に押し付けた佐々木の背中に腕を回し、流れるような動作で腰から手錠を取り出して、冷たい金属の輪をカチャリとはめた。
「叔父に対する殺人未遂の容疑だ。詳しい話は、署で聞かせてもらおうか」
無駄のない、完璧な制圧だった。月子のカメラが、その一連の動きを鮮明に捉え、コメント欄には『デカ美の制圧エグい』『仕事早すぎ』と称賛の言葉が溢れ返っている。
「……見事な手際ね」
テラス席で私の隣に座っていたセシリアが、感心したように紅茶のカップを置いた。
「これで烏丸氏の親族間のいざこざも、法的・科学的根拠をもって綺麗に片付くわ。助かったわ、Q」
「礼には及ばない。僕の優秀な助手たちと特定班が働いただけだ」
私はタブレットの通信を切り、テーブルの上のコンソメスープに視線を戻した。
スプーンですくい、口に運ぶ。
……すでに冷めきっており、先ほどの暴力的なまでの香りはすっかり飛んでしまっていた。
「最悪だ。せっかくの至高のコンソメが、冷製スープになってしまった」
私が恨めしそうに呟くと、セシリアは小さく笑った。
「また次の機会に、私がご馳走するわ。……それよりも」
セシリアは、息を切らしてテラス席に戻ってきた深美を一瞥した。
「彼女の『お礼』のお食事会、まだメインディッシュも来ていないんじゃない?」
深美は軽く息を整えながら、私の向かいの席にドカッと腰を下ろした。
「……全く、休日の昼間からとんだ騒動だ」
彼女はそう言いながらも、どこかスッキリとした表情でメニュー表を手に取った。
「金子、食事の邪魔をしたな。今日の支払いは私……いや、経費で落とす。メインの肉料理でも何でも、好きなものを頼め」
私は冷めたコンソメを横に押しやり、ギャルソンを呼んだ。
「言われなくてもそうする。この失われた時間の代償は、最高級のシャトーブリアンで払ってもらうからな」




