第1章 始まり
広大な草原を、一人の少年が風を切るように駆け抜けていた。
頬を撫でる風も、足元を揺らす草も、今のサイには心地いい。
楽しそうに走る彼の背中を追いかける四人の友達は、すっかり置いていかれていた。
「もう少しだ!」
前方に見えてきた中くらいの建物を見つけると、サイはさらに速度を上げる。
「おーーい! サイ! 待ってくれー!」
ジャッキーの叫び声が草原に響く。
しかし、サイは振り返りもしない。
ただ一直線に建物へ向かって駆け続けた。
バァン!!
勢いよく扉を開け放ち、サイは大きく叫ぶ。
「到着ーっ!」
少し遅れて四人も店へ飛び込んできた。
全員、肩で息をしながら床に手をつく。
「はぁ……はぁ……サイ、お前ずるいぞ……」
息を切らしながらレイが文句を言う。
「え? 何が?」
「数え終わった瞬間に走り出したじゃないか!」
「それがルールだろ? 何か問題でも?」
「だって、みんなまだ準備できてなかったじゃないか!」
「負けたのはレイが遅いからだよ。」
「違う! サイが速すぎるんだ! ここまで一分しかかかってないじゃないか! その足、一体どうなってるんだよ!?」
レイが本気で抗議すると、サイは胸を張って笑った。
「なんで怒るんだよ。こんなすごい友達がいるんだから、むしろ誇りに思うべきだろ?」
「調子に乗るな!」
レイはすぐさま言い返した。
そんな二人のやり取りを見て、店のおばさんが優しく微笑む。
「いらっしゃい、みんな。今日もいつもの注文でいい?」
五人は顔を見合わせると、元気いっぱいに声を揃えた。
「もちろん、いつもの!」
しばらくして、店のおばさんが湯気の立つ料理を運んできた。
「はい、お待たせ。どうぞ召し上がれ。」
「いただきます!」
五人は元気よく声を揃えると、それぞれスプーンを手に取る。
「いっぱい食べないとな!」
ジャッキーが勢いよく言った。
「うん! 今日はたくさん遊ぶんだから!」
メラティも嬉しそうに笑う。
「よーし、それじゃあ食べよう!」
サイの合図と同時に、五人は一つの皿へ一斉にスプーンを伸ばした。
同じ皿を囲みながら食べる食事。
決して豪華ではない。
それでも、仲間と笑い合いながら食べるその時間は、何よりも楽しかった。
「で、このあとどこへ行くんだ?」
カリンが尋ねる。
するとレイが得意げに笑った。
「実は、新しい遊び場を見つけたんだ。」
「しかも、そこで何をするかまでちゃんと考えてある。」
「へぇ? どこなんだ?」
ジャッキーが身を乗り出す。
レイはわざと少し間を置いてから――
「それは……」
***
「駅だ!」
レイが勢いよく叫んだ。
その駅は町でも大きな駅だったが、人影はまばらで、利用客も数えるほどしかいない。
「ここで何して遊ぶんだ?」
サイが首をかしげる。
「昨日から準備しておいた物を見せてやるよ。」
レイはそう言うと、一つの箱を持ち上げて皆の前へ置いた。
箱の中には、色とりどりのスプレー缶が並んでいる。
「スプレーだ!」
レイが得意げに笑う。
「おぉ! なるほど!」
ジャッキーの目が一気に輝いた。
「よし、それじゃ始めよう!」
レイの掛け声と同時に、五人は一斉にスプレー缶へ手を伸ばした。
「俺はあっちの壁に描く!」
ジャッキーは壁へ向かって駆け出す。
「私たちは列車のほう!」
カリンとメラティは停車中の車両へ走っていった。
「じゃあ俺たちは好きなところ!」
サイとレイは笑いながら、近くにある壁や柱へ次々と落書きを始める。
赤、青、黄色。
色鮮やかなスプレーが駅のあちこちを埋め尽くしていく。
飛行機。
変な顔。
意味の分からない模様。
子どもらしい自由な絵は、あっという間に駅の景色を塗り替えてしまった。
「よし! これが最高傑作だ!」
サイは自分が描いた飛行機の絵の下へ、大きく名前を書き込む。
「完成!」
満足そうに腕を組み、仲間たちと一緒に自分たちの作品を眺めた。
その瞬間――
「おいっ!! お前たち、何をしている!!」
怒鳴り声が駅中に響き渡る。
五人が一斉に振り向くと、一人の駅員が鬼のような形相でこちらを睨んでいた。
「やばっ! 駅員さんだ!」
メラティが青ざめる。
レイは一歩後ろへ下がると、仲間たちを見回した。
「よし……こうなったら……」
五人は顔を見合わせ、
息を大きく吸い込み――
「逃げろーーーーっ!!」
***
「いてててっ! 痛い、痛いってば!」
サイは耳を引っ張られながら情けない声を上げた。
結局、逃げ切ることはできなかった。
五人は駅員に捕まり、それぞれの家まで連れて行かれることになったのだ。
「自分たちのやったことがおかしいとでも思ってるのか?」
駅員はまだ怒りが収まらない様子で、サイの耳をぐいっと引っ張る。
「いたっ! おじさん、離してよ! 母さんに言いつけたら、きっと喜ばないよ!」
「構うもんか! マワールさんにしっかり叱ってもらえ!」
そう言って、さらに力を込める。
「でも、サイのお母さんって、あんまり怒らないんじゃなかった?」
レイが不思議そうに尋ねた。
「それでも嫌なんだよ! 母さんをがっかりさせたくないんだから!」
サイは慌てて答える。
「はぁ……俺なんて帰ったら父さんにこっぴどく怒られるぞ……。」
ジャッキーが肩を落とした。
「私はお母さんに家のお手伝いをいっぱい増やされそう。」
メラティは泣き真似をしながら言う。
「私は怒られないもーん。」
カリンはどこか嬉しそうだった。
やがて、一軒の家の前で駅員が立ち止まる。
コンコン。
「マワールさん、いらっしゃいますか? 駅員です。少しお話があります。」
しばらくして、玄関の扉が開いた。
「はい。どうされましたか?」
笑顔で出迎えた女性は、サイの姿を見るなり目を丸くした。
「えっ……サイ?」
自分の息子が耳を引っ張られている姿に、思わず驚きの声を漏らす。
「えへへ……ただいま、母さん……」
「痛っ!」
駅員の手に力が入り、サイは再び悲鳴を上げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。実はこの子たち、駅でスプレーによる落書きをしていまして。」
「えっ……?」
マワールは困惑した表情を浮かべる。
「駅中が落書きだらけです。景観も台無しになってしまいました。」
その説明を聞くと、マワールは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。本当にご迷惑をおかけしました。私の監督不足です。」
その様子を見た駅員は少し驚いたように眉をひそめる。
「どうしてお母さんが謝るんです? 悪いのはこの子でしょう。」
そう言いながらも、サイの耳を軽く引っ張る。
サイは両手を合わせ、小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい。」
駅員はようやく手を離した。
「それでは私は失礼します。」
「本当にありがとうございました。」
マワールはもう一度丁寧に頭を下げる。
「では、次はお前の家だ。」
駅員は今度はレイの耳をつまむ。
「いたたたっ! 引っ張らないでよ!」
レイの悲鳴が響く中、マワールは静かにため息をついた。
そして玄関の扉を閉める。
「またやんちゃをしたのね、サイ。」
そう言い残し、彼女はそのまま台所へ向かって歩き出した。
「次からは、もうこんなことしちゃだめよ。」
マワールはそう言いながら台所へ向かう。
「……ごめん、母さん。」
サイはしょんぼりとうつむいた。
マワールはしゃがみ込み、サイと目線を合わせる。
「お友達と遊ぶことは悪いことじゃないの。でもね、遊ぶなら人に迷惑をかけないようにしなきゃ。」
サイは首をかしげる。
「でも、迷惑だったの? 僕たち、ただ絵を描いてただけなのに。」
その無邪気な言葉に、マワールは優しく微笑んだ。
「絵を描くことは悪くないわ。でも、描く場所が良くなかったの。」
「サイももう十歳なんだから、少しずつ何が良くて、何がいけないことなのか覚えていかないとね。」
するとサイは、不思議そうな顔で言った。
「でも母さん、一度も教えてくれたことないよ。何をしていいのか、何をしちゃだめなのか。」
その一言に、マワールの表情が曇る。
寂しそうに目を伏せ、小さくつぶやいた。
「もし……学校を辞めずにいられたなら……。」
「母さん?」
サイは心配そうに顔をのぞき込む。
「どうしたの? なんで悲しそうなの?」
マワールは慌てて首を横に振り、笑顔を作った。
「ううん、何でもないわ。」
「母さんはね、サイみたいな子が息子で、本当に誇りに思ってるの。」
「誇り?」
サイは少し困ったように笑う。
「僕、まだ母さんを喜ばせたことなんてないよ。」
「今はね。」
マワールはゆっくり立ち上がった。
「でも、いつかきっと。」
そう言って再び台所へ向かう。
サイは勢いよく顔を上げた。
「大丈夫! 僕、大人になったら父さんみたいに頭が良くて、どんな問題でも解決できる人になる!」
その言葉にマワールはくすっと笑う。
「いつもそう言うけど、一度も証明してくれたことがないじゃない。」
「じゃあ、今見せてあげる!」
サイはそう言うと、歩いていく母の後ろ姿をじっと見つめ始めた。
視線は台所の隅々まで動いていく。
机の上には焼きたてのパン。
流し台。
濡れた皿。
そして――。
「あれ?」
サイが首をかしげる。
「母さん、いつもつけてる指輪は?」
「えっ?」
マワールは自分の右手を見つめた。
「あら……本当だわ。どこへ行ったのかしら。」
急に落ち着かない様子になる。
「僕が探す!」
サイは元気よく台所へ飛び込んだ。
部屋の隅々まで注意深く見回す。
そして、あることに気づく。
「母さん、さっきお皿洗いしたよね?」
「え? どうして分かったの?」
マワールは驚いた顔を見せる。
「パンを焼いたあとに洗い物をしたばかりだけど……。」
サイは流し台へ歩み寄る。
「お皿がまだ濡れてるから。」
そう答えながら、洗い物用のゴム手袋を手に取った。
「それに、指輪は手袋を外したとき、一緒に抜けたんじゃないかな。」
手袋の中へ手を入れる。
すると――。
「ほら、あった!」
サイは嬉しそうに指輪を掲げた。
「見つけてくれたのね。ありがとう、サイ。」
マワールは嬉しそうに指輪を受け取り、そっと左手の薬指にはめ直す。
「どう? 僕、すごいでしょ?」
胸を張るサイに、マワールは優しく頷いた。
「ええ。サイはこれからもっともっとすごい子になっていくわ。」
その言葉に、サイは少し照れくさそうに笑う。
「ねえ、母さん。」
「なあに?」
「どうして、その指輪をいつもつけてるの?」
サイの問いかけに、マワールは自分の指輪へ静かに視線を落とした。
「これはね、お父さんと母さんの結婚指輪なの。」
懐かしそうに指輪を撫でながら、穏やかな声で続ける。
「これを身につけていると、お父さんがいつも母さんのそばにいてくれるような気がするのよ。」
その横顔はどこか寂しげだった。
サイもまた、その指輪をじっと見つめる。
「どうして父さんは……」
小さく呟く。
「どうして、いつも他の人を助けてばかりだったの?」
「だから父さんは帰ってこられなかったんでしょ……?」
部屋の空気が静かに変わる。
マワールは悲しそうに微笑みながら首を横へ振った。
「お父さんは、自分で選んだ道を歩いただけよ。」
静かな声だった。
けれど、その言葉には強い誇りが込められていた。
マワールはゆっくりとリビングへ向かい、ソファへ腰を下ろす。
「この国がどんな国か、サイも知っているでしょう?」
「不公平な政治のせいで、苦しんでいる人がたくさんいる。」
「私たちも、その一人。」
サイは黙って話を聞いていた。
「だから、お父さんはそんな人たちを助けるために働いていたの。」
サイは少し考え込む。
そして、不思議そうに首をかしげた。
「どうして僕たちが苦しまなきゃいけないの?」
「政府は、何をしたの?」
マワールは優しく微笑んだ。
「今はまだ知らなくていいわ。」
「その代わり、たくさん勉強して。」
「そして、この国を平和にする方法を見つけられる人になって。」
サイはしばらく黙り込んだあと、何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ。」
「母さん、ひとつ聞いてもいい?」
「ええ、もちろん。」
マワールは優しく微笑む。
「どうして今の政府の人は、国を治めることになったの?」
「悪い人なんでしょ?」
その無邪気な問いに、マワールは少し困ったように笑った。
「悪い人……そう言い切ることはできないわ。」
「昔は、この国のためにたくさん尽くした人だったの。」
「え?」
サイは驚いて目を丸くする。
「本当? 何をしたの?」
マワールは壁に飾られた一枚の写真へ目を向けた。
そこには、幼いサイを抱く父親と、自分の姿が写っている。
懐かしそうに微笑みながら話を続けた。
「お父さんと同じように、その人もボランティアだったの。」
「多くの人を助け続けて、その働きが認められた。」
「だから最後には、この国を任されることになったのよ。」
「へぇ……。」
サイは感心したように小さく声を漏らす。
「じゃあ、その人はどうやってボランティアになったの?」
「サイは『ゴールド・オーガニゼーション』を知ってるでしょう?」
その名前を聞いた瞬間、サイの表情がぱっと明るくなった。
「うん!」
「父さんがいた組織だよね!」
「みんなを助けてくれる、すごく優しい人たち!」
マワールは静かに頷く。
「ええ。」
「今の政府の人も、その組織の一員だったの。」
「とても優秀だったから、多くの人に信頼されて、国を任されるようになったのよ。」
「わあ……!」
サイの瞳がきらきらと輝く。
そして次の瞬間、勢いよく立ち上がった。
「だったら僕も!」
「ゴールド・オーガニゼーションに入りたい!」
その一言に、マワールの表情が一変した。
「えっ……?」
「な、何を言ってるの、サイ?」
「だって、ぼくも政府の人になって、お父さんみたいに立派な人になりたいんだ! みんなを幸せにしたい!」
サイは目を輝かせながら力強く言った。
その言葉を聞いたマワルは、思わず声を荒らげる。
「サイ! 政府の人になるために、あの人たちと同じ道を歩む必要なんてないの!」
「でも、お母さんが言ったじゃないか! あの人もゴールド・オーガニゼーションのボランティアだったから政府の人になれたって! だから、ぼくも同じように頑張りたいんだ!」
「だめ!」
マワルは強く言い放った。
「あなたも、お父さんみたいにお母さんを置いて行ってしまうつもりなの!?」
その一言に、サイは言葉を失う。
「ち、違うよ……。そういう意味じゃない……」
「もうこの話は終わり!」
マワルは立ち上がると、気持ちを落ち着かせるように台所へ向かった。
「それに、あの組織の試験がどれだけ難しいか知ってる? お父さんだって、合格するまで本当に苦労したって言っていたのよ。」
サイは黙ったままうつむく。
納得できない気持ちと悔しさで胸がいっぱいだった。
「それに、募集できるのは十二歳以上よ。あなたはまだ十歳でしょう?」
「でも……」
サイは何も言い返せなかった。
「もう反論しないで。さあ、外へ行ってきなさい。」
「え? どうして?」
「忘れたの? 今日はゴールド・オーガニゼーションがこの町へ来ているのよ。新しい仲間を募集するために、各地を回っているの。」
「見学して、組織について話を聞くくらいならいいわ。」
「本当に!?」
さっきまで落ち込んでいたサイの表情が、一気に明るくなる。
マワルは優しく微笑んだ。
「もちろん。あなた、あの人たちに興味があるんでしょう?」
「ありがとう、お母さん!」
サイは嬉しそうに駆け寄る。
マワルはしゃがみ込み、サイの目をまっすぐ見つめた。
「サイ、お母さんから一つだけ伝えたいことがあるの。」
「これから先、どんな困難に出会っても、不安にならなくていい。」
「お母さんはいつでもあなたのそばにいる。そして、お父さんも遠くからずっとあなたを見守っているわ。」
サイはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「ぼくは、二人をずっと信じてる。」
そう言うと、サイは母親の頬に軽くキスをし、そのまま家の外へ駆け出していった。
マワルは嬉しそうに手を振りながら、その背中を見送った。
***
「ボランティア、ボランティア……。どこにいるんだろう?」
サイは町のあちこちを歩き回りながら探し続ける。
「お母さんはこの辺にいるって言ってたのに……。」
ふと、サイは首をかしげた。
「……そもそも、ボランティアって何だろう?」
その時だった。
「さあ、私たちの仲間になりませんかー!」
遠くから元気な呼び込みの声が聞こえてきた。
サイはその声のする方へ勢いよく走り出す。
広い公園へたどり着くと、制服姿の警察官や白衣姿の医師たちが、道行く人々へチラシを配っていた。
「今年の募集が始まりました! ぜひご応募くださーい!」
サイは家の陰からそっと顔をのぞかせる。
その瞳は期待でキラキラと輝いていた。
「わあ……あの人たちだ!」
作者より
私はインドネシア出身の高校一年生です。
日本語はまだ勉強中で、基本的なことしか分かりません。それでも勇気を出して、このサイトで小説を書いてみようと思いました。
もし日本語の間違いや不自然な表現などがありましたら、温かく見守っていただけると嬉しいです。お気づきの点があれば、ぜひ教えてください。
読みにくい部分がありましたら申し訳ありません。
更新は決まった曜日ではなく、義務のように続けるスタイルでもありませんが、できるだけ週に2~3回更新できるよう頑張ります。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。




