第1部 ハルカ 3
あたらしい年、2007年を迎え、会社でもひととおり年始の挨拶が終わり、正月気分もすっかり抜け、家と会社の往復がふたたび身体に馴染みはじめる頃。思いのほか仕事が早く片付いた久世は、上田の酒の誘いも軽くかわして会社を出た。今年こそ仕事も生活もコントロールできる人間になる。誰もが決意する年頭の誓いだった。
まっすぐ帰宅した久世は部屋の明かりをつけ、すぐにエアコンとテレビのリモコンを手にしてスイッチを入れた。コートとジャケットを脱いで椅子の背に掛け、シャツの袖をまくる。そのままキッチンのシンクで手を洗い、うがいもすませる。冷蔵庫から適当に具材を選び出し、大きな中華鍋でチャーハンを炒めた。作り置きのきんぴらと切り干し大根の煮物、缶ビールもテーブルに並べる。
久世は料理が苦にならなかった。時間的に余裕があれば料理本でも見ながらもっと凝ったものを作ってみたいし、キッチンにしてももっと広ければいいのにと思っているくらいだ。恋人がいれば一緒に料理できるし、友人たちを呼んで交代で料理しながら酒を飲むのも好きだった。
掻き込むようにチャーハンを食べてしまった久世は、いつものようにぼんやりテレビを見ていた。どうやら新人らしい少女が主演の連続ドラマようだ。名前まではわからないが、見覚えのあるアイドルだった。たしか歌番組かバラエティ番組に出ていたような気もする。すでに数週間分話が進んでいるのでなかなか物語がつかめなかった。
たまに早く帰宅した夕食時には、そのときにやっている番組を見るのが習慣になっているので気にはならなかった。ほんとうはニュース番組がいちばん都合いいのだが、最近、親が子を、子が親を殺したり、そうかと思えばまったく関わりのない人間を殺したうえ、切断して遺棄してしまうような陰惨で非情な事件が多発していた。しかも、その後の捜査状況を何度も何度も掘り下げて詳細に見せられるので、疲れて帰ってきたときなどとてもニュースを見る気になれないのだ。マンションで切断された遺体、周到に仕組まれた殺人計画、悲痛に泣き喚きながら報道陣の取材に応えていた被害者の家族によるまさかの犯行、逮捕後も後悔はしていないという感情を失った殺人者‥‥‥。
きんぴらと切り干し大根の煮物に加えて、ドラマの中の生き生きとした若い男女の恋やら仕事の悩みもビールのいい肴になった。
やがて久世が食い入るようにテレビを見つめはじめる。いつの間にか主演の少女から目が離せなくなっていた。
「ただの可愛いアイドルじゃないぞ」
水面のように捉えようもなく揺れ動く表情や柔らかで濡れたような声、そして群を抜いた表現力に引き込まれていた。あっという間にドラマは終わり、エンディングの曲が流れはじめた。何度かテレビで見たことがあるアイドルのはずなんだが、どうしても名前が出てこない。小便に行きたいのを我慢して、久世はクレジットタイトルのいちばん最初にスクロールされるだろう少女の名前を見逃すまいと待つ。
「中池遥」
それが少女の名前だった。
翌週も同じ曜日の同じ時刻、根津の部屋、テレビの前には久世がいる。どうしても、あの少女をもう一度見て確かめたかったのだ。
「やっぱり、いい女優になりそうだな。中池遥」
ドラマを見終った久世は、自分が才能ある女優の原石をひとつ発掘したような気になっていた。
就職以来もう何年も連続ドラマなど見る時間もなかった。その久世がそれからというもの毎週同じ曜日の同じ時刻にテレビにむかうことになる。念のために録画予約はしていても、なんとか毎週このドラマの放映日だけは仕事を早めに切り上げるのだった。帰り支度に上田が飲みに行かないかと誘いに来ても、用事があると言って適当にごまかした。
脚本の出来がよく、演出も抑えた感じで物語も楽しめたが、なんといっても中池遥に惹かれていた。ほんの僅かな心の揺らぎをちょっとした眉や目、唇の動きで見事に演じ分けていた。まだ完全に大人になりきっていない顔立ちとは逆に、均整のとれた肢体は肉感的ですらあった。取り分けて美人というのではないが、実に魅力的なのだ。
映画好きの久世はいい俳優を見つけると、出演している作品を探してわざわざ映画館へ出かけるほどである。しかし中池遥に限ってはすこし違っていた。久世にしても最初はいい女優として見ていただけのはずだったが、次第に中池遥という少女に興味を抱くようになっていた。いまだかつてアイドルなどには興味を持ったことさえなかった。ただ画面のむこうでちゃらちゃら動く虚像としてしか見ていなかったのである。それが今では中池遥が気になってしかたなくなっていた。週を追うごとに久世は中池遥に心を奪われていった。
はじめて、心が動いたのかもしれなかった。
久世は、いつの間にか、ごく自然に、自分だけの中池遥を創りはじめていた。ドラマを見終ったあとなど、撮影中の共演者やスタッフとのなごやかな会話やその少女らしい仕種まで想像できた。さらに仕事の出先で銀座や青山を歩いているときなどは、帽子を目深に被った少女が通りのむこうからやってくる姿まで思い浮かべるのだった。
「まったく、なにを馬鹿なこと考えてるんだ。まあ、アイドルオタクって言われてる奴らなんか、こんな妄想してるんだろうな」
久世はひとり苦笑するのだった。




