#25|右の前ポケット
「ある?」
「右の前ポケット」
何があるのかも、
借りていいのかも、もう確認しません。
今回は、そんなみのりと凛のお話です。
雨の日の午後五時過ぎ、開店前の店の真ん中に椅子が一脚出ていた。満が座っている。首から下は黒いケープで、足元には新聞紙が敷いてあった。
後ろに立っているのはみのりで、右手に鋏、左手に櫛を持っている。「開店前でいいから切ってくれ」と満に頼まれて、来てみたらこの配置になっていた。
「動かないで」
「動いてない」
「今、うなずいた」
「相槌だろ」
「相槌でも動かないで」
凛はカウンターの内側で、ライムを絞っていた。半分に切って、絞り器に挟んで、体重をかける。開店前の仕込みは、これを延々と繰り返す。
三つ目あたりで、指先のささくれに汁がしみた。凛は短く息を吸って手を洗い、タオルで水気を拭いて、手のひらを上にしてカウンターの外へ差し出した。みのりのほうは見ていない。
「ある?」
「右の前ポケット」
みのりは鋏を止めなかった。凛はカウンターを回り込み、隣のスツールに置かれた鞄のファスナーを開けて、小さなチューブを取り出した。指の付け根まで丁寧にすり込んで、元のポケットに戻し、ファスナーを閉める。それからまたカウンターの中へ帰っていった。
「何の話?」
「ハンドクリームです」
「みのりのだろ」
「はい」
満は首を動かさず、目だけで凛を追っていた。
「前はこういうとき、三回くらい確認してなかったか。『お借りしていいですか』って」
「三回は言ってないです」
「二回は言ってた」
「二回も言ってないです」
「じゃあ一回」
「……一回は、言いました」
「言ってんじゃねえか」
満が笑った拍子に頭が揺れて、櫛で押さえられた。
「動かないで」
「はい」
「前髪、切りすぎないでくれよ」
「みっくんって、自分の顔の面積を気にしすぎ」
「気にするだろ」
「はい、目つぶって」
切られた毛が、ケープの上をさらさらと滑って新聞紙に落ちていく。雨の音が窓の向こうで強くなったり弱くなったりしていた。みのりは鋏を持ち替えながら、さっきから何度か唇を舐めている。
「凛ちゃん、ある?」
「上着、左です」
凛はライムから目を上げなかった。みのりは満のケープの襟に、閉じた鋏をひょいと挟んだ。
「待て。刃物を首の横に置くな」
「閉じてるよ」
「閉じてても首の横だろ」
「すぐ戻すから」
みのりは入口脇のフックまで歩いていって、凛の上着の左ポケットからリップクリームを出した。塗って、戻して、鋏を回収して、仕事に戻る。その間に凛は、ライムをさらに二つ絞り終えていた。
最後に細いブラシで首筋を払って、ケープが外された。満はカウンター奥の鏡の前まで行き、顔を右に向けて、左に向けた。
「……短くない?」
「短くしてって言った」
「ここまでとは言ってない」
「明日には慣れますよ」
「それ、慣れるの俺か?」
「みんなです」
凛は最後のライムを半分に切って、絞り器に挟んだ。
◇
開店まで十五分。満は「首の中が痒い」と言い残して裏へ引っ込んだ。床の新聞紙はみのりが丸めて、取りこぼした毛を凛が箒で集める。
絞り終えた汁の横には、飾り用にくし形に切ったライムが、トレーに並べてあった。ラップをかけようとして、凛はトレーを覗き込んだ。
「あ」
「どうしたの」
「髪です。ライムの上に」
みのりがカウンターの内側に回ってきて、トレーに顔を寄せた。細い黒い線を指でつまみ、蛍光灯にかざす。
「これはみっくん」
「分かるんですか」
「太いし硬いし、跳ねてる。切ったばっかりのは分かりやすい」
「こっちは」
「それは私。茶色いから」
「これは」
「凛ちゃん」
「え」
「細いし、真っすぐ。毛先が乾燥してる」
「なんで分かるんですか」
「職業病」
三本とも、別々のくし形に乗っていた。
「全部やり直しですか」
「洗えば?」
「お客さんに出すものなので」
「ですよね」
みのりは手を洗って、凛の隣に立った。二人でトレーを挟み、一切れずつ光にかざしていく。髪のあったものは右の皿へ、なかったものは左の皿へ。右の皿が、左より先に高くなった。
「これもみっくん」
「これも」
「これは……誰だろ」
「判定、遅くなってますね」
「全員混ざると難しい」
「何してんだ」
首にタオルをかけた満が、裏から戻ってきていた。
「検品です」
「何の」
「髪の」
「誰の」
「ほぼ店長です」
「ほぼ」
「ほぼ」
満は右の皿を見て、自分の頭に手をやった。短くなった髪を前から後ろへ撫でて、手のひらを見る。何も付いてこなかった。
「そんなに飛んだか」
「切ったばっかりだから。まだ浮いてる」
「ライム、何切れ残ってる」
「今のところ、三切れです」
「今日のジントニック、何杯分だ」
「三杯くらいです」
「三杯」
入口のベルが鳴った。悠真が傘をたたみながら入ってきて、満の頭を見て、傘の水を切る前に言った。
「……誰にやられた」
「やられてない」
「みのりか」
「頼まれたの」
「頼むな」
「みっくんが頼んだんだってば」
悠真は何か言い返しかけたが、カウンターの上の二枚の皿に目が行った。
「それは何だ」
「ライムです。髪が入ったので」
「誰の」
「三人分です」
「俺のは」
「入ってません」
「そうか」
悠真は椅子に座って、おしぼりを広げた。
「とりあえずビール」
「ライムは」
「いらない」
「ですよね」
今回、個人的に好きなのは、
「ある?」
「右の前ポケット」
だけで、普通に話が通じているところです。
前ならもう少し確認していたはずなのに、
いつの間にか手順が減っていました。
それはそれとしまして、
皆さんにも「説明しなくても通じるようになった人」っていますか?




