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それはそれとしまして。【月水金20時更新!】  作者: ゆぴろ ✎*


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26/26

#25|右の前ポケット

「ある?」

「右の前ポケット」


何があるのかも、

借りていいのかも、もう確認しません。


今回は、そんなみのりと凛のお話です。

雨の日の午後五時過ぎ、開店前の店の真ん中に椅子が一脚出ていた。満が座っている。首から下は黒いケープで、足元には新聞紙が敷いてあった。



後ろに立っているのはみのりで、右手に鋏、左手に櫛を持っている。「開店前でいいから切ってくれ」と満に頼まれて、来てみたらこの配置になっていた。



「動かないで」

「動いてない」

「今、うなずいた」

「相槌だろ」

「相槌でも動かないで」



凛はカウンターの内側で、ライムを絞っていた。半分に切って、絞り器に挟んで、体重をかける。開店前の仕込みは、これを延々と繰り返す。



三つ目あたりで、指先のささくれに汁がしみた。凛は短く息を吸って手を洗い、タオルで水気を拭いて、手のひらを上にしてカウンターの外へ差し出した。みのりのほうは見ていない。



「ある?」

「右の前ポケット」



みのりは鋏を止めなかった。凛はカウンターを回り込み、隣のスツールに置かれた鞄のファスナーを開けて、小さなチューブを取り出した。指の付け根まで丁寧にすり込んで、元のポケットに戻し、ファスナーを閉める。それからまたカウンターの中へ帰っていった。



「何の話?」

「ハンドクリームです」

「みのりのだろ」

「はい」



満は首を動かさず、目だけで凛を追っていた。



「前はこういうとき、三回くらい確認してなかったか。『お借りしていいですか』って」

「三回は言ってないです」

「二回は言ってた」

「二回も言ってないです」

「じゃあ一回」

「……一回は、言いました」

「言ってんじゃねえか」



満が笑った拍子に頭が揺れて、櫛で押さえられた。



「動かないで」

「はい」

「前髪、切りすぎないでくれよ」

「みっくんって、自分の顔の面積を気にしすぎ」

「気にするだろ」

「はい、目つぶって」



切られた毛が、ケープの上をさらさらと滑って新聞紙に落ちていく。雨の音が窓の向こうで強くなったり弱くなったりしていた。みのりは鋏を持ち替えながら、さっきから何度か唇を舐めている。



「凛ちゃん、ある?」

「上着、左です」



凛はライムから目を上げなかった。みのりは満のケープの襟に、閉じた鋏をひょいと挟んだ。



「待て。刃物を首の横に置くな」

「閉じてるよ」

「閉じてても首の横だろ」

「すぐ戻すから」



みのりは入口脇のフックまで歩いていって、凛の上着の左ポケットからリップクリームを出した。塗って、戻して、鋏を回収して、仕事に戻る。その間に凛は、ライムをさらに二つ絞り終えていた。



最後に細いブラシで首筋を払って、ケープが外された。満はカウンター奥の鏡の前まで行き、顔を右に向けて、左に向けた。



「……短くない?」

「短くしてって言った」

「ここまでとは言ってない」

「明日には慣れますよ」

「それ、慣れるの俺か?」

「みんなです」



凛は最後のライムを半分に切って、絞り器に挟んだ。



◇



開店まで十五分。満は「首の中が痒い」と言い残して裏へ引っ込んだ。床の新聞紙はみのりが丸めて、取りこぼした毛を凛が箒で集める。



絞り終えた汁の横には、飾り用にくし形に切ったライムが、トレーに並べてあった。ラップをかけようとして、凛はトレーを覗き込んだ。



「あ」

「どうしたの」

「髪です。ライムの上に」



みのりがカウンターの内側に回ってきて、トレーに顔を寄せた。細い黒い線を指でつまみ、蛍光灯にかざす。



「これはみっくん」

「分かるんですか」

「太いし硬いし、跳ねてる。切ったばっかりのは分かりやすい」

「こっちは」

「それは私。茶色いから」

「これは」

「凛ちゃん」

「え」

「細いし、真っすぐ。毛先が乾燥してる」

「なんで分かるんですか」

「職業病」



三本とも、別々のくし形に乗っていた。



「全部やり直しですか」

「洗えば?」

「お客さんに出すものなので」

「ですよね」



みのりは手を洗って、凛の隣に立った。二人でトレーを挟み、一切れずつ光にかざしていく。髪のあったものは右の皿へ、なかったものは左の皿へ。右の皿が、左より先に高くなった。



「これもみっくん」

「これも」

「これは……誰だろ」

「判定、遅くなってますね」

「全員混ざると難しい」

「何してんだ」



首にタオルをかけた満が、裏から戻ってきていた。



「検品です」

「何の」

「髪の」

「誰の」

「ほぼ店長です」

「ほぼ」

「ほぼ」



満は右の皿を見て、自分の頭に手をやった。短くなった髪を前から後ろへ撫でて、手のひらを見る。何も付いてこなかった。



「そんなに飛んだか」

「切ったばっかりだから。まだ浮いてる」

「ライム、何切れ残ってる」

「今のところ、三切れです」

「今日のジントニック、何杯分だ」

「三杯くらいです」

「三杯」



入口のベルが鳴った。悠真が傘をたたみながら入ってきて、満の頭を見て、傘の水を切る前に言った。



「……誰にやられた」

「やられてない」

「みのりか」

「頼まれたの」

「頼むな」

「みっくんが頼んだんだってば」



悠真は何か言い返しかけたが、カウンターの上の二枚の皿に目が行った。



「それは何だ」

「ライムです。髪が入ったので」

「誰の」

「三人分です」

「俺のは」

「入ってません」

「そうか」



悠真は椅子に座って、おしぼりを広げた。



「とりあえずビール」

「ライムは」

「いらない」

「ですよね」

今回、個人的に好きなのは、


「ある?」

「右の前ポケット」


だけで、普通に話が通じているところです。


前ならもう少し確認していたはずなのに、

いつの間にか手順が減っていました。


それはそれとしまして、

皆さんにも「説明しなくても通じるようになった人」っていますか?

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