#01|初デート、割り勘。脈なし?
初デートで割り勘。
それだけ聞くと、わりと簡単な話に見えるんですが、
四人で話し始めると、なかなかそうもいかないようです。
この作品では、そんな日常のちょっとしたことを、
みんなであれこれ話していきます。
最初のお話は、「初デート、割り勘。脈なし?」です。
この店の店長には、才能がある。
人に話しかける才能ではない。人に話しかけられる才能だ。
カウンターの端で、スーツの男性がさっきから上司の話をしている。月曜の会議で、自分の案が通らなかったこと。その案が、水曜には上司の案として出てきたこと。
店長はグラスを拭きながら、それを聞いている。
「それはキツいっすね」
「でしょ?」
「キツいっす」
それしか言っていない。本当に、それしか言っていない。
なのに男性は三杯目を飲み終えるころ、「まあ、次は資料に自分の名前入れときますわ」と自分で結論を出して、少しだけ背筋を伸ばして帰っていった。
何もしていないように見える。
ただ、二杯目のあと、店長が何も言わずに男性の前へ水を置いていたのを、私は見ている。男性は気づかないまま、それを半分飲んでいた。
坂本満、三十一歳。この小さなバーの店長で、私の雇い主。
元バンドマンらしい。本人の口から聞いたのは「昔ちょっとやっててさ」の一回きりで、その「ちょっと」がどのくらいなのかは知らない。
私は小野寺凛。大学四年で、この店でアルバイトをしている。
ここで働いて分かったことが、いくつかある。
ひとつ。店長は、常連の名前と、その人が前回何を飲んだかを、だいたい覚えている。
ふたつ。店長は、自分が昼ごはんを食べたかどうかを、だいたい覚えていない。
みっつ。週に何度か、このカウンターに店長の幼なじみが座る。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃ――なんだ、お前か」
「なんだとはなんだ」
入ってきた男の人は、店長の顔を見るなりそう言って、カウンターの真ん中からひとつずれた席に座った。いつもの席だ。
「客だぞ、一応」
「一応って自分で言うなよ」
「一応の客には一応の扱いをしろって話だ」
白石悠真さん。店長と同い年の幼なじみで、不動産関係の仕事をしている。
一言で言うと、正しいことを、正しくない言い方で言う人だ。
店長はもう、グラスに氷を落としていた。悠真さんが注文を口にする前に。
「で、この前の新メニュー。原価いくらだ」
「え、知らね」
「知らねで出すな」
「でも美味いって言われたよ」
「美味いと儲かるは別の話だ」
正しい。
正しいが、それを座って三十秒で言う必要があるかは、また別の話だ。
店長は「はいはい」と言いながら、まったく気にしていない顔でグラスを置いた。悠真さんに何を言われても、この人はだいたい嬉しそうにしている。最初は不思議だったけれど、最近はそういう生き物なのだと思うことにしている。
「みっくん、こんばんは」
少し遅れて、ふわっとした声がした。
白石みのりさん。悠真さんの妹で、美容師。三十一歳の男性に対して使っていいのか分からない呼び方で、店長を呼ぶ人だ。
「おう、みのり。おつかれ」
店長の声が、悠真さんに向けるときより半音くらい高い。本人は気づいていないと思う。
みのりさんは兄の隣に座ると、私を見てにこっと笑った。
「凛ちゃん、前髪、自分で切った?」
……。
「なんで分かるんですか」
「右だけ、ちょっと頑張ってる」
頑張ったのは事実だ。右だけ頑張ったのも事実だ。
この人は柔らかい顔のまま、たまにこういうことを言う。美容師だから、で片づけていいのか、私はまだ判断がついていない。
ともかく、この三人が揃うと、話はだいたいどこかへ転がっていく。
「あ、そうだ。ちょっと聞いてよ」
店長が言った。
始まった。
仕事の愚痴のこともあれば、昨日見た動画の話のこともある。誰かの恋愛の話になることも、べつに珍しくない。
いつものことだ。
「昨日来たお客さんがさ――あ、誰かは言わないよ。なんか元気なくて、どうしたのって聞いたら、この前、初デート行ったんだって」
「わあ」とみのりさん。
「で、会計が割り勘だったんだって。これって脈なしですかね、って」
悠真さんが、グラスに伸ばしかけた手を止めた。
「それ、ここで話していいやつか」
「いいやつ。『他の人にも聞いといてくださいよー』って言われたし」
「ならいい。で、お前はなんて答えた」
店長は、胸を張った。
「『そんなの気にすんなって!』」
「最悪の返しですね」と私は言った。
「え、なんで」
「気にしてるから言ってるんですよ、その人」
「……あー」
店長は天井を見た。
「そしたらその子、『ですよねー』って笑って、一杯で帰っちゃってさ。……なんか違ったなって、ずっと引っかかってて」
そう言って、店長は布巾をたたみ直した。もう、たたんであるのに。
「まあ、ネットだと定番の議題ですね」と私は言った。「初デート割り勘は脈なし、って断言してる動画、私のおすすめ欄に定期的に流れてきます」
「そうなの?」とみのりさん。
「逆に、奢られると借りを作ったみたいで嫌だから割り勘のほうが楽、って人も普通にいます。私の周りは、どっちかといえばそっちです。で、コメント欄で毎回戦争してます」
「戦争すんなよ」と店長。
「私がしてるわけじゃないです」
悠真さんがグラスを置いた。
「割り勘だった。情報はそれだけか」
「それだけって?」
「誘ったのはどっちだ。店は誰が選んだ。どのくらいの店だ。会計のとき相手はどういう態度だった。その後、連絡は来てるのか。次の約束はあるのか」
一息だった。
「検索条件、多くないですか」
「条件が少なすぎると、全部が該当するだろ」
「恋愛を物件探しみたいに言わないでください」
「割り勘ひとつで脈なしって判断するほうが雑だって話をしてる」
正しい。
言い方が物件なだけで。
「誘ったのは男のほう」と店長が言った。「店も向こうが選んだって。パスタの店。会計のとき、向こうが『じゃ、半分ずつで』ってスマホ出して、それで終わり。帰ってから『今日はありがとう、楽しかった』ってLINEは来たって」
悠真さんが、わずかに眉を上げた。
「……そこまで覚えてんのか」
「聞いたもん」
店長は「気にすんなって!」と言う前に、ここまで聞いていたらしい。
聞くところまでは完璧なのだ。問題はそのあとの一言だ。
「なら、脈なしと判断する根拠はほぼないな」と悠真さんは言った。「誘ったのも店を決めたのも相手。その日のうちに連絡も来てる。割り勘の一点がマイナスだとしても、全体で見れば――」
「でも、その子、引っかかってるんだよね」
みのりさんが、グラスの縁を指でなぞりながら言った。
「全体で見たら大丈夫って、たぶん、その子も頭では分かってる気がする。分かってるのに、わざわざみっくんに聞いてるんだよね」
「だから何だ」
「割り勘が嫌だったっていうより、割り勘のときの『何か』が嫌だったのかなって。みっくん、その子、会計のときのこと、なんて言ってた?」
店長は少し考えた。
「……『なんか、あっさりしてた』って」
「あっさり」
「うん。『あ、じゃあ半分で』みたいな。すげえ普通に」
「……そっか」
みのりさんは、少しだけ黙った。
「お金のことじゃなくて、その『普通』が、ちょっとさみしかったのかもね。自分にとっては特別な日だったのに、向こうにとっては普通の日だったのかな、みたいな」
カウンターが、少し静かになった。
こういうとき、みのりさんの言葉は妙に刺さる。刺さる場所が、たぶん合っているからだ。
――と思っていたら。
「もしかしたらその子、前にも似たようなことがあって、それで余計に――」
「会ったこともない人間の過去を作るな」
悠真さんが遮った。
「作ってないよ。もしかしたらって言っただけ」
「お前のもしかしたらは、三回目くらいで確定になるんだよ」
「ならないよ」
「なるな」と店長。
「みっくんまで」
みのりさんは唇をとがらせて、それ以上は言わずにグラスに口をつけた。少しは自覚があるらしい。
「でも、正直」と私は言った。「初デートで『なんか違う』って思ったなら、それが答えじゃないですか。合わないなら、次に行けばいいと思いますけど」
「早えな、凛」と店長。
「一回会っただけの人ですよ。そこまで悩むコスパ、あります?」
「コスパで言うなら」と悠真さんが言った。「一回で切るほうが高くつくこともある。判断材料がまだ一回分しかない」
「……それはそうですけど」
この人と話すと、腹が立つ回数と、納得する回数が、だいたい同じになる。
「それに、違和感と嫌いは違うよ」とみのりさん。
「違いますか」
「違うよ。本当に嫌だったら、たぶん、みっくんに聞いたりしない」
……それは、ちょっと分かる。
分かるけど、言わないでおいた。
「LINEは『楽しかった』だけか」と悠真さんが言った。「次の話は出てるのか」
「返信速度も大事ですよ」と私。「既読から何分か。あと絵文字の量」
「スタンプだけか、ちゃんと文章かでも違うよね」とみのりさん。
「文面の長さは」
「語尾に『!』がついてるかどうかも」
「『今日は楽しかった』なのか、『今日も楽しかった』なのか」
「それは誤差だろ」
「誤差じゃないよ。全然違うよ」
気づけば、会ったこともない男性のLINE一通が、カウンターの上で解剖されていた。本人の許可もなく。そもそも、実物を見た人間はここに一人もいないのに。
店長だけが、途中からずっと黙っていた。
グラスを拭いて、棚に戻して、また別のグラスを拭いていた。聞いていないわけではないのは、ときどき小さくうなずいているので分かった。
そして、議論が句読点の有無にまで及んだところで、ぽつりと言った。
「なあ。その子さ、そいつともう一回会いたいのかな」
三人とも、止まった。
「……それは聞いてないのか」と悠真さん。
「聞いてない。俺、『気にすんな』しか言ってないもん」
「胸張って言うことじゃないです」
「いや、だからさ」
店長は布巾を置いた。
「脈あるかないかって、さっきからずっと向こうの話してんじゃん。でも、その子がもう会いたくないなら、割り勘だろうが奢りだろうが、関係なくね?」
誰も、すぐには返さなかった。
「……関係なくはない」
最初に口を開いたのは悠真さんだった。
「会いたいなら、相手の気持ちは判断材料として要る。ただ、順番が逆だな。会いたいかどうかが先で、脈はその後の話だ」
「会いたいなら」とみのりさんが言った。「割り勘のこと、次に会ったとき聞いてもいいのにね。『あれ、ちょっとさみしかった』って」
「それ言えたら、そもそも悩んでないと思います」
「……そうかも」
「あと、会いたくないなら、それで終わりでいいと思います。割り勘とか関係なく」
「それはそう。凛、そこは正しい」
「そこは、って何ですか」
店長は笑って、それからカウンターの向こうの、誰も座っていない端の席を見た。
「……今度来たら、聞いてみるわ。会いたいの? って」
「余計なこと言うなよ」
「言わねえって。聞くだけ」
「お前の『聞くだけ』で済んだ試しが――」
「けっこうあるよ」とみのりさん。
悠真さんは一拍置いて、グラスを持ち上げた。
「……ある、けどな」
店長は、本当に聞くだけのことがある。
聞くだけで、相手が勝手に答えを見つけて、少し軽くなって帰っていく。月曜の会議の人みたいに。私はそれを何度か見ている。
もちろん、「気にすんなって!」で帰らせてしまう夜もある。昨日みたいに。
たぶん、その両方が店長なのだと思う。
その子が次にいつ来るのかは分からない。来ないのかもしれない。
来たとして、会いたいと言うのか、もういいと言うのか。それも分からない。
十一時を過ぎて、悠真さんが財布を出した。
「あ、今日いいよ。俺出す」
「いい。払う」
「なんでだよ。たまには奢らせろよ」
「お前に奢られると、あとで何か頼まれる」
「頼まねえよ」
「この前、棚の組み立て手伝わせてたよね」とみのりさん。
「……あれは別」
結局、悠真さんは自分の分をきっちり払い、みのりさんも自分の分を払った。
割り勘だ。
「店長、これ脈なしですね」
「悠真に脈あっても困るだろ」
「こっちの台詞だ」
みのりさんが声を出して笑った。それから立ち上がりながら、私の前髪を見た。
「凛ちゃん、次切るとき言ってね。左も揃えてあげる」
「……考えときます」
ドアベルが鳴って、二人が出ていく。
店長は二人分のグラスを下げながら、「で、凛だったらどうする?」と聞いてきた。
「何がですか」
「初デートで割り勘だったら」
「LINEのスクショ撮って、友達に送ります」
「……で?」
「で、コメント欄と同じ戦争が始まります」
店長は「なんだそれ」と笑って、グラスを洗い始めた。
こういう夜が、この店にはわりとある。
閉店の札を出すころには、誰が何の話から始めたのかも、たいてい曖昧になっている。
次に来たときも、悠真さんは真ん中からひとつずれた席に座って、店長に何か言うのだろう。
私はグラスを拭きながら、それを聞いている。
いつものことだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
こんな感じで、日常のちょっとしたことを、みんなであれこれ話していくお話です。
それはそれとしまして、
今回は誰の考え方がいちばん近かったでしょうか?
「また読んでみようかな」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえるとうれしいです。




