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ランナーズ  作者: 十乃三
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3/7

5月

   1


 週末は県大会の地区予選だった。

 ゴールデンウィークまっただ中。

 真夏のインターハイへと続くスタート地点。西湘地区大会は最初の関門だ。

 インターハイ全国大会―。

 多くの高校生アスリートが目標に掲げる大会。そしてほとんどの高校生には縁のない大会。

 今年、一年で出場するのは男子から北澤、女子からは青井と遠見の三人だった。北澤は千五百。県下の注目を集める青井は百と二百にエントリーしていた。遠見了子も同じ種目。女子は部員が少ない分だけエントリーの枠に余裕があった。

 大会に縁のない一年はいつも通りの土曜日。放課後は個人判断。競技場に行ってもよかったし、居残って練習してもよかった。

 居残り組はおれと井上だけだった。

 居心地が悪い。

 予想はできたはずだ。井上(バクダン)は行くはずがない。残りの一年が競技場に行くのもわかっていた。にもかかわらず、この状況に思い至らなかった。マヌケな話だ。

 トラック脇の石段にぽつんと二人。短距離陣もみんな競技場に向かったようだ。

「どうする」

 仕方なくおれが話しかけた。

「お前が決めろ」

 お―。返事が来た。

 期待していなかった。無視されたら、こっちも勝手にやるつもりでいた。

 トラックは空いている。ただ、ビルドアップ系は無理だ。時計が計れない。周回のカウントも面倒だ。となると、ロードしかない。まさか五領ヶ台公園というわけにはいくまい。和泉先輩のチェックが入るのはわかりきった推測だ。

「新コース」

 選択肢は新コースと旧コースの二択。大磯海岸までサイクリングコースを走るルートもあるらしいが、まだ行ったことがない。旧コースは先輩に嫌みを言われるのが目に見えている。実質一択。

 今度は無視された。無言の同意。たぶん。

 グラウンドの隅で準備運動をして校門を出た。校舎にかかった丸いアナログ時計は午後一時十七分あたりを指していた。いつもより少し早い練習開始。

 黙々と走った。一言も話さず。必然とペースは上がる。おれが前。井上が後ろ。息づかいが徐々に上がってくる。

 バス通りを抜けて、電波塔に向かう坂にさしかかった。フリーにするべきか迷う。多少、井上に寄せている分だけ余力はある。―と、ふいに追い抜かれた。意外と負けん気が強い。予想外だったが、むしろやりやすくなった。遠慮も配慮も取っ払われた。

 簡単には逃がさない。背後についた。奴のスピードが持続すれば厳しくなる。でも、そうはならない。確信していた。実際、坂の分岐手前で早々と勢いは鈍った。分岐に入って抜き返した。普通は突き放すまで緩めない。さもないと展開がもつれる。ただ、必要なかった。抜き返したあとは、勝手に離れていった。

 電波塔の脇を抜けて頂上。待つかどうか迷った。二度目の迷い。普段なら不要の思考だ。かくも人間関係とはやっかいだ。

 二秒迷った。そして待つのはやめた。ペースを落として砂利道を下り始めた。

 井上(バクダン)はすぐに追いついてきた。予想以上。速くなっているのか。あるいは意地が勝っているか。おそらく後者。そんな簡単に速くなるなら、果てはオリンピックだ。

「お前、いつまでその頭続けるつもりだよ」

 横でなびくでかい頭がうっとうしい。本人だって自覚しているはずだ。走りにくいに違いない。

 つい、口をついて出た言葉。その答えは戻ってこなかった。苦しげな息づかいと砂利を踏む靴音のアンサンブル。

 それっきりお互いに言葉はなし。苦しい息と靴音だけ。たまに通り過ぎる車の音。

 学校に戻ったのは二時四十一分。やはり校庭は静かだった。

 ストレッチをして練習を終える。会話なし。帰り際も言葉なし。なんとも奇妙な午後だった。




   2


 翌日は小田原。城山競技場。応援だけの片道一時間。

 いかにも億劫だった。日曜がつぶれるのは仕方がない。しかし、そもそも観戦に関心のない(たち)だ。トップレベルの大会ならまだしも、玉石混淆で玉のほうは権利取りが目的。速い奴ほど本気は出さない。

 あぁ、憂鬱だ―。

 城山競技場は去年の春以来だ。初めてみた陸上競技場。

 小田原駅から長い坂道を上りきり、さらに奥へと続く小さな下り坂の先にその競技場は見えてくる。木々の緑に囲まれた美しいタータントラック。あの時の感動と高揚感は身震いするくらい鮮明に焼き付いている。

 約一年ぶりに訪れた城山の競技場は、あの時と同じように新緑の中にあった。

 競技場に着いたのはおれが一番最後だった。着くなりまず和泉先輩に睨まれた。集合時間には間に合っている。理不尽。

 それなら誘ってくれたらいいのに―、と思ったが、それはそれでこっちの間が持たない。そんなことを考えていたら、もう一度睨まれた。

 あるいは顔に出たか。意識の表層化。そういうのは、直そうと思ってもなかなか直らない。

 天気は初夏を思わせる晴天だった。日陰はまだひんやりするほどだが、陽射しは強い。日なたに出るとじわっと汗がにじむ。

 競技はほどほどに応援しておいた。うちの高校に限っては、番狂わせはなかったと思う。長距離三年生二人は当然のように突破。和泉先輩も五千メートルでなんとか県大会のキップを勝ち取った。鹿沼先輩も通過した。短距離陣は男子二百メートルで三年の浜口先輩、四百メートルハードルで二年の安西先輩。そして、ここがデビュー戦になる青井菜幹は百と二百で二位と三位。上々の内容で通過した。一方、北澤はわずかに及ばなかった。タイム順で四秒足りなかった。他の組なら着順で通過できた。運がなかった。

 まぁ、そんなところだ。

 やはり退屈な一日だった。




   3


 西湘地区予選が終わると、県大会までは中一週。

 高校陸上はインターハイを中心に回っている。それは間違いない。多くの三年生は五月に引退する。高校三年間といいながら、実働時間は二年しかない。

 一方、中学の場合は秋にも三年生が出られる大会がある。三年も秋までびっしり練習でしごかれる。それでも短距離は十月。長距離も十一月の駅伝で引退する。十二月からは公式戦のないオフシーズン。一、二年生はこの時期に練習量を稼ぐ、その結果が春に直結する。必然、受験を経て迎える高校一年生にとっては厳しい春になる。一年の春から結果を残せる選手は、受験勉強の必要がない特待生か付属校の選手と相場が決まっている。

「青井はすごいな」

 平塚駅で解散するまで北澤はほとんど口を開かなかった。

 高校に入学して初めて出場した大会の帰り道を、北澤は中垣と菜幹の三人で歩いていた。

 陽が落ちて、ヘッドライトの列が車道を賑わせている。街路灯の光がぽつりぽつりとまっすぐ三人が住む家の方角へ伸びる。

「練習してたのか?」と北澤は続けた。

「受験終わってからは中学の練習に出てたわよ。時々だけど。他にすることなかったしね」

「ホントかよ。お前、バカじゃねぇの?」

 真ん中を歩く北澤をあいだにして、中垣が口を挟んだ。

「あんたに言われたくないわよ」と菜幹は間髪入れずに応酬した。

「いずれにしても―」

「バカだ、って言いたいわけ?」と菜幹は言いかけた北澤の言葉を遮るように引き継いだ。

「いや。結果がすべてだ。青井は結果を出した。おれは出せなかった」

「おいおい、落ち込むなって」

「落ち込んじゃいない。ただ、まだまだ足りないのがわかった。それだけでも出た甲斐があった。じゃあな」とちょうど別れ道にさしかかったところで、北澤は立ち止まって右手を挙げた。中垣と菜幹が振り返る。

「おう」

「また、明日」

 三人は簡単な言葉を交わして別れた。

「あれは走りに行くな」と中垣はぽつりと言った。

「あんたも一緒に走りなさいよ。今日、練習してないでしょ?」

「ばかいえ。練習はオンとオフのカリメロが大事なんだ。やりゃいいってもんじゃねぇ」

「それは速い人の台詞。都合のいい言い訳にしか聞こえないわ。なによカリメロって。メリハリだし」

「かー! 気に障る奴だな」

「それはお互い様ー」と菜幹は中垣に向かって舌を出した。

 中垣もそれ以上の言葉はなかった。片や楽々と予選通過。片や参加すらできない立場。実力、実績共々、すでに大きな差になっている。

「しかし、お前が県大会とはねぇ」

「あら、珍しい」

 中垣にしては素直な感想に、菜幹は少しうれしそうな表情をした。

「あいつも受験勉強の合間にけっこう走ってたけどな」

「あんたはどうなのよ」

「アホ、つきあわされたに決まってんだろ。進路だってあいつが決めたようなもんだ。ま、おかげでブランクは少なかったけどよ」

「長距離は冬場の走り込みが直接出るもんね」

「けど、お前はなんで領南なんだよ?」

「またそれ?」と菜幹はウンザリした顔をする。

「だって、勧誘話はいくらでもあったろ。強い学校ならリレーでも大きいところ狙えるしよ」

「わたしは坂本先生を信じるだけ」

 菜幹は中学時代に一度だけ坂本清二と話していた。その気さくで陽気な性格と、陸上競技に対する熱い思いにすっかり感化されてしまっていた。

「でもあのおっさん、短距離は専門外だろ?」

「あら、知らないの? 坂本先生、学生時代は短距離よ」

「うっそ……」

 中垣は絶句した。

「がんばれよ、おい!」と菜幹は気合いを込めて中垣の肩を叩いた。

「痛ぇなぁ……」

「じゃあね!」と菜幹は軽いステップを踏んで、次の角を曲がっていった。中垣の家はさらにまっすぐその先にある。

 元気な野郎だ、と中垣は思う。

 応援も楽ではない。とにかく疲れていた。しかし、やる気は俄然増している。

 暗くなって風が少し冷たい。

 家まで残り一キロ。中垣は肩にバックを引っかけたまま、ゆっくり走り始めた。




   4


 世の中はいまだゴールデンウィークだった。

 高速道路や空港の混雑ぶりを報じるテレビのニュース。にぎわう観光地の風景をにこやかに紹介するリポーター。質問に答える家族やカップルの表情にいらつく。

 陸上部にゴールデンウィークはない。日、月、火と続く三連休のうち、土日は地区予選。月曜は朝の九時から練習だった。休みは火曜日一日だけ。普段の日曜日とさして変わらない。

 月曜日のグラウンドも陸上部の独占だった。まるで他の部は存在しないかのようだ。グラウンドは短距離が使い、長距離は新コース。そして今日も坂の途中で置いてきぼりにされた。後ろにいるのは長倉先輩と井上、夜野の三人だけ。そこにはのみ込まれたくないから必死になる。それでも一人になるとペースは上がらない。この休みから全員が新コースになった。おかげで殿にはならなかったが、前からはだいぶ置かれた。

 果たして速くなれるだろうか? 練習の証として筋肉痛はスタンプのように残っている。でも、それだけだ。

 まだ一ヶ月にも満たないのに、頭のなかは弱音の大軍。早くも占領されかかっている。

 今年のゴールデンウィークは晴れ続きだった。とにかく晴れた。凍える季節が終わり、じとっとした暑さがやってくるちょっと手前。なにをするにもいい季節だ。

 火曜日は昼頃に起きた。そして一日中家でごろごろしているうちに終わった。高校生になったからといって、これまでの生活が一変するわけではない。わかっていた。しかし、こうも変わらないとあきれ返るほかない。

 中学を卒業して、当時の友だちとはほぼ縁が切れた。地区が異なるから競技場にも顔見知りはいない。唯一の顔見知りは斉藤ひとり。休み中のことはまったくわからない。

「楽しいか?」

 そう訊かれたのはゴールデンウィーク前だ。

「そう思うか?」とおれは聞き返した。

 わかっているはずだ。むしろ斉藤のほうがより深く理解しているかもしれない。

 あの駅伝以来、斉藤は腑抜けだ。まるであらゆる欲求を時間の向こう側に置いてきたかのようだ。覇気がない。駅伝のメンバーから外されたあの時、斉藤のぱんぱんに膨らんでいたポケットは破けた。そしてこぼれ落ちた―。

 練習なんて楽しいわけがない。ただ、やった分の結果はついてくる。おれも斉藤も練習嫌いだったが、そこは信じていた。でも、斉藤は裏切られたと感じているのもかしれない。もちろん逆恨みだ。後輩が斉藤よりも努力した。あるいは元々のポテンシャルが上だった。それだけのことだ。

 斉藤はゴールデンウィークが明けて四日が経っても高校に来なかった。長いゴールデンウィークだ。うらやましいくらいだ。

 土曜日の練習が終わったあとの夕方、おれは斉藤の家まで行ってみることにした。

 斉藤の家は大きな門構えのお屋敷だ。瓦葺きの切妻屋根がある棟門。その両脇は道に沿って土塀が伸びている。周囲には田んぼや林が広がり、人家は数えられるほど。いずれも古い屋敷ばかりだった。田んぼの先に小田原厚木バイパスが見える。

 門の先には踏み石を敷いた道が伸びている。左右には手入れのされた庭木。その奥に二階建ての母屋が見える。敷地は広い。うちの五倍はありそうだ。母屋の他に離れと蔵がある。長男の斉藤は中学時代から離れで半ば一人暮らしのような生活をしている。家は兼業農家。父親は市役所の職員。年の離れた妹と弟がひとりずついるはずだ。

 斉藤の家に行くのはほぼ半年ぶりだ。斉藤が駅伝メンバーを外されたあとにメンバーみんなで集まったとき以来。あの日のことはビールを飲んだことしか覚えてない。コップ一杯でギブアップした。帰って親をごまかすのに冷や汗をかいた。

 門扉は分厚い木製の観音開き。背丈の倍はある。閉まっているのは見たことがない。今日も開いていた。

 踏み石の途中で脇道に入り、まっすぐ離れに行った。生意気にベル付きの玄関がある。

 リンゴーンと瓦屋根の平屋に似つかわしくない洋館風のベルが鳴る。

 しばらく待ったが反応はない。

 少しイラついてきた。

 もう一度鳴らす。

 そしてもう一度。

 さらにもう一度。

 最後はヤケクソになって連打した。

 前触れもなく突然ドアが開いたのは、おそらく百回以上鳴らしたあとだ。危うくドアに弾き飛ばされるところだった。

「うるせぇぞ!」

 目つきの悪い男が不機嫌そうに怒鳴った。ジャージにTシャツ。髪はボサボサ。見るからに寝起きと言わんばかりだ。

「ゴールデンウィークが終わったのは知ってるか?」

「なんと!」

 殴ってやろうかと思った。

「目を覚まさせてやろうか?」

「大丈夫だ。まだ、少し眠いだけだ」

 やめたいならやめればいい。連休以降、学校に来ていないのは斉藤ひとりじゃない。うちのクラスだけでももうひとり。他のクラスにもいるはずだ。

 おれだって気持ちは近い。学歴がなくても生きていける。ただ、その覚悟が足りないだけだ。

 斉藤のために来たわけではない。頼まれてもいない。学年でたったひとりの顔見知りだ。それをわずか一ヶ月で失いたくなかった。鬼ごっこでひとり取り残される心細さに近いかもしれない。ここへ来た原動力は利己心だけだった。

 斉藤は口元に拳を持ってゆくと、わざとらしくゴホゴホッと咳をしてみせた。

「嘘つけよ……」

 おれはため息をついた。

 髪はボサボサでも血色は悪くない。

「……だよな」

 斉藤はバツが悪そうに返すと、下駄箱を開いた。一度サンダルに手を掛けたが、思い直して隣のシューズを掴んだ。そして叩きつけるように玄関に下ろした。去年の秋に買ったハリマヤ。もはや新品ではないが、きれいなままだった。一緒に買いに行ったからよく覚えている。晴れた日曜日の午後。本厚木の相沢スポーツ。同じシューズを買った。発売したばかりのカナグリノバ。おれが赤で斉藤は青。今日おれが履いてるのもその赤だ。おれも駅伝以降はほとんど履いていなかった。ただ、この数週間で表面は薄汚れた。踵の外側も少しすり減った。

 夕方の駅へ出て、東急ストアの屋上に上がった。

 なにもない屋上。鉄柵に囲まれたさほど広くもない空間。そこにはベンチひとつなく、他には誰もいなかった。

 五階建ての屋上から見下ろす景色は、置き去りにされた街を意識させた。かつて大山街道をたどって関東一円から参詣者が押し寄せた街も、いまやその栄華は歴史の彼方にある。山はなにひとつ変わらずとも、時代は動く。人の流れも変わってゆく。いまは週末に登山者がやってくるだけのつまらない街だ。

「部活はどうだ?」と先に訊いてきたのは斉藤だった。

「きつい」

 他に言葉が見つからない。いまは共有できる部分がひとつもない。

「楽しいか?」

 斉藤はゴールデンウィーク前と同じことを訊いた。

「どうかな」

 自分でもよくわからない。

 楽しくはない。でも、つらいだけならやめている。苦痛と引き替えにしても釣り合う何かはあるのだろう。たぶん。

「北澤と中垣は速いのか?」

「まぁ、北澤は速い」

「京田よりも?」

「たぶん」

「去年の秋は京田が勝ってたけどな」

「半年以上前の話だ」

 京田は学区内の名門大根高校に進学した。

 中三の秋。大根高校の陸上部顧問が突然やってきた。石田巧己。千五百の日本記録保持者。雑誌で見たことのある顔。大根は日本一の記録を持った教師が指導する希有な県立高校だった。目的は京田の勧誘だったはずだ。数週間前の県大会で三千メートル四位。学区内では頭ひとつ抜けていた。同じレースにはおれも出ていたが、後ろの方でぞろぞろゴールした中のひとり。存在すら把握してなかっただろう。

 大根では入学式前から新入生を呼んで走らせる。噂には聞いていたが、実際そうだったようだ。そして京田は入学式の前にはやめていた。理由は知らない。おれは斉藤から聞いただけだ。学校帰りのゲームセンターで。

「あいつはもっと速くなるよ」とおれは続けた。

「へーえ、珍しいな。人を褒めるなんて」

「あいつは練習好きだからな」

 京田にはいつか勝てるかもしれないと思っていた。京田はおれと同じか、それ以上に練習が嫌いだった。

「お前、嫌いだもんな」

 斉藤は笑った。

「お前が言うな」とおれは苦い顔をした。実際のところ、中学時代の陸上部に練習好きの奴なんてひとりもいなかった。

「軽音のほうはどうなった?」とおれは話題を変えた。

「やめた」

「やめた?」

「あぁ。やめてやった」

 妙に見切りが早い。

「飽きたのか?」

「飽きたわけじゃねぇよ」

 斉藤はふうっとため息をついた。

「同じ部にな、すっげーかわいい先輩がいてよ」

「聞いたよ」

「どうせ他人事だろうさ」と斉藤は舌打ちした。

「フラれたか」

「それ以前だ」

 斉藤は思い出すのも忌々しいと言わんばかりの顔つきで、じっと柵の外を見ていた。

「連休中に練習行ったときにな、先輩とヤッてるのを見ちまった」

「ヤッてる?」

 斉藤は舌打ちした。

「わかるだろ! アレだよアレ」

「アレか」

「そうだよ。信じられねぇだろ?」

 斉藤は中指と人差し指の間に親指を突っ込んだ形の握り拳を作った。

「学校で?」

「そうだよ。学校でだよ」

「うらやまし―」

「アホー!!」と斉藤は噴火したように吐き捨てた。眼下で道行く人が幾人か頭上を振り仰いだ。

「その先輩がな、後ろから制服のブラウスに片手突っ込んで舌絡ませてる姿見たときの衝撃ったらよー。わかるか?」と斉藤はその時の様子をまねて見せた。不気味だ。

「その先輩って、そんなにかわいいのか?」

「かわいいってより凛々しいんだな。ま、うちの高校じゃピカイチだ」

 すでに校内の女はすべて見尽くしたといわんばかりだ。

「キーボードの演奏もうまい。それに引き替え、あの先輩ときたら……」

 斉藤は再び深いため息をついた。

「楽器はなにやってんだ?」

「タイコ」

「ヘタなのか?」

「知らね」

「知らないのか?」

「バイクでコケてケガしてんだよ。ま、どうせ学校にドラムセットなんてないからな。ケガが治ったらスタジオで練習することになってたんだけどよ」

「ふうん。その先輩たちは何年なんだ?」

「彼女が二年で、男は三年」

「じゃ、一年待てば?」

「アホ……」

 今度は呆れた口調で一蹴された。

「それまでにあの二人がどんだけセックスすると思ってんだよ」

「知るかよ……」とおれはため息をついた。

「死ぬほどやりまくるに決まってる」

 そんな二人をそばで見るのは我慢ならんと、そういうことか。気持ちはわからんでもない。ただ、動機の不純さからして相手を非難できる道理はない。まぁ、あまりに不憫なので黙っていた。そして言うべきことは別にあった。

「ならお前、戻ってこいよ」

 もちろん、学校にという意味ではない。斉藤もわかっていた。そして自虐的な笑みを浮かべた。

「おれがなんで陸上やめたか、知ってるよな?」

「逃げたんだろ?」

 斉藤は表情を固めて絶句した。

「お前、厳しいな」

 そんなことはない。あの件で斉藤の甘さは弁護できない。

 そもそも領南を選んだ理由はひとつしかなかった。そして希望校を決めたあとに駅伝メンバーから漏れた。たしかにタイミングは悪かった。でも、逃げたという表現はいかにもぴったりはまる。

「陸上はもういいよ。あの時、村上にアンカー取られて限界が見えた。おれの力なんてあんなもんだ。お前とは違う」

 さほど違わない、という反論は飲み込んだ。

 斉藤にとって陸上競技とはなんなのか―。

 なにをするにも動機は必要だ。動機が取り組み方を決める。中学時代におれがそこそこやれたのは、京田がいたからだ。

「あの時、おれは悟ったよ。速くなきゃレースに出られないんだ」

「お前にとって陸上って試合に出ることか?」

「誰だってそうだろ?」

 斉藤は怪訝な顔で言った。

「……そうだな」

 ただ―。

「結果的には」と付け加えた。

 斉藤は自嘲的な笑みをのぞかせた。

「結果的には、か」

 その結果にたどり着けない―。斉藤の顔に反論が張り付いているように見えた。

「そこがおれとお前の違いだろ」

 あきらめは時に絶望と等価だ。斉藤の言葉にはそんな響きがこもっていた。

「いま、長距離の一年は六人だ」

「それがどうした?」

「下級生に負けなければ、二年後には駅伝を走れる」

「アホか……」

 斉藤は力なく答えた。

「それこそ二の舞じゃねぇか」

「お前は長距離向きだと思うぜ。三千より五千のほうが合う」

 中学の最長距離は三千。高校は五千に伸びる。駅伝になればさらに倍。十キロが最長距離だ。

「おだてんなよ」

 斉藤は柵の外に目を向けたまま憮然とした口調を装った。その表情は内心悪い心地でもなさそうだ。

 根拠はある。中学時代の朝練でやったタイヤ引きのリレー。真夏の炎天下を走った持久走。持久系の練習では抜きんでていた。おれや京田も後れを取ったことがある。去年の駅伝だって紙一重だった。気を抜かずにやっていれば、メンバーから落ちたりはしなかったはずだ。最大の障害は斉藤自身にある。和泉先輩はそのあたりが気にくわないのだろう。斉藤に対する態度は中学時代から一貫して厳しかった。

「まぁ、いいさ。やる気があるなら月曜日は準備してこいよ。ハリマヤも泣いてる」とおれは斉藤の履いているカナグリノバを見下ろした。斉藤もそこに目を落とした。まだ本来の性能を発揮したことのない青いシューズ。

「ラーメン食ってくか?」と斉藤が言う。

 東急ストアの五階に安いラーメン屋がある。中学時代には練習や試合の帰りにたびたび寄った行きつけだ。そういえば、もう半年以上食ってない。

「そうだな。久しぶりに食うか」

 斜めに長く伸びた薄っぺらな影を踏みしだいて、おれたちは屋上をあとにした。




   5


 週明け最初の練習は大磯コースだった。

「心配すんな。おれも初めてだ」

 おれは不安げな面持ちで立つ斉藤の肩を叩いた。

「自信がないならやめとけ。足手まといだ」

 いつもながら和泉先輩の口調は刺々しい。とりわけ斉藤への風当たりは強い。

「心配すんな。サイクリングコースを海まで行って帰ってくるだけだ。迷う心配はねぇよ」と横から鹿沼先輩が楽観的に言う。

「距離はどれくらいですか?」と斉藤は不安げな面持ちで訊いた。

「十四、五ってとこだ。きつかったら途中で引き返せ」

「がんばります」といつになく斉藤は謙虚だった。間違いなく初めて走る距離だ。

 トラックでアップに入る短距離陣を背に、長距離グループはTシャツ、ランパンでそろっと校門を出た。しばらくは学校からの下り坂。中学校のグランド脇を抜けて、ほどなく金目川沿いを大磯海岸まで続くサイクリングコースに出た。

「おい、斉藤(あいつ)大丈夫なのか?」

 三十分くらい走ったあたりで、隣で藤井が口を開いた。この一ヶ月ほどで、おれ自身もだいぶ高校の練習に慣れてきていた。川沿いのコース。起伏はほとんどない。それだけで気の持ちようが違う。走りながらでも話す余裕があった。

 おれは後ろを振り返った。二十メートルほど遅れて、斉藤は夜野と井上(バクダン)の三人でつるんでいた。

「まだ余裕はありそうだ」

「だって遅れてるぜ」

「あいつはフォームがきれいだからバテるとわかりやすいんだ。まだ腕の振りもしっかりしてるし、顎も上がってない。大丈夫だろ」

「じゃ、どうして遅れてんだ?」

「放っとけ」

 意識が安易な方向へ流れやすい。斉藤の弱いところだ。余力があっても全力を出し切らない。それ故に最後の最後に爆発的なスパートをかける姿はたびたび見てきた。出し惜しみした貯金を使い切れずにいつも脚を余す。ペース配分を意識できれば、斉藤はもっと速くなるはずだ。

 藤井は腑に落ちない様子だったが、説明はいらない。その弱点はほどなくバレる。

 ずっと右手の奥に見えていた湘南平の山が、もう手の届くくらい間近に迫っていた。こんもりと生い茂った緑の木々の頂上に、小さな鉄塔がその尖端をのぞかせている。一度、遠足でのぼったことがある。小学生の時だ。なんてことのない場所だった。東京タワーに比べたら月と豆電球くらい違う。

 総勢十三人の集団は、山のすぐ脇を走り抜けた。隊列はやや縦長。ペースは速くない。一年が初めて走るコースだからだろう。三年生二人が緩めの流れを作っている。

 やがて国鉄の幅広い鉄橋の下をくぐり抜けた。ふいに潮の香りが漂ってくる。

 斉藤たち三人との距離はさらに広がっていた。それでも斉藤のフォームにバテた様子は伺えない。復路に備えて温存しているのだろう。そういう奴だ。

 国道134号線が通る橋の下をくぐると、コンクリートの急な坂を上がって堤防沿いの遊歩道に出た。長い砂浜の向こうに夕陽を浴びてきらきら光る海が見える。

「よし、十分休憩」と沖先輩の言葉で練習が止まった。斉藤たち三人も一分と遅れずにたどり着いた。

「よく、もったな」

 おれは斉藤に声をかけた。その息の乱れは存外に小さい。井上(バクダン)や夜野とは息の入りが違っている。

「まさかこっそり練習してたってことはないよな」

「ふっふっふ、わかるか?」と斉藤は調子に乗った口調で不敵な笑みを浮かべた。

「わかるわかる」

 おれはげんなりして答えた。嘘に決まっている。長い休み明けで、筋肉がまったく疲れてないからだろう。明日以降に反動が出る。

「冷たいねぇ。おれがどんな思いで入部したと思ってんだよ」

「知るか」

 とはいえ、半年間なにもせずにこれだけ走れれば上等の部類だ。少なくともおれよりまともだ。

 もっとも、復路では早くもその薄いメッキが剥がれ落ちた。蓄えていたはずの余力は古い電池みたいに放電しきっていた。フォームはばらばらになり、へばった姿をさらけ出した。単調なコースに蓄積した疲れがのしかかる。油断するとおれでさえ遅れ気味になる。山とは違う意味でやっかいなコースだ。

 斉藤は井上(バクダン)と夜野共々、どんどん後方へ小さくなっていった。




   6


「また、ろくでもない奴が入ってきたよなー」

 帰りはいつもの四人組だった。北澤、中垣、藤井、夜野。いつものように中垣が切り出した。

「でも、大村はフォームがいいって褒めてたぜ」

 藤井は大村の言葉を思い出した。

「あんな野郎の言うことなんて信用すんなー!」と中垣が吠える。

「いや、走り方はすごくいいよ。瀬戸みたいな走り方するもん」とすぐ横で見ていた夜野は、マラソンの瀬戸雅利に例えた。

「バカ言え。そんな簡単に瀬戸と同じ走り方ができるか!」

「……うん。でも雰囲気はそんな感じだったよ」

「だいたい、瀬戸と同じ走り方で速くなるならおれだって真似る」

「真似できるほど器用じゃないだろ?」と北澤。

「うるせー!」

「とにかく揃ったな。再来年のメンバー」

「また駅伝か?」と藤井が呆れた顔をする。

「そう、うまくいくかよ。井上(バクダン)なんて明日にもやめそうだ。あの新入りだってもう来ないかもしれないぜ」

「絶対にやめさせない」

 北澤はにっこり笑って答えた。その横で藤井は小さなため息をついた。冗談抜きの本気。そして必ず実行すると思った。




   7


 帰りは斉藤に合わせてゆっくりペダルを漕いだ。

 斉藤は疲労困憊の極みだった。ペダルを踏む足に力が入っていない。必然、スピードは上がらない。しかし表情は晴れやかだった。見ているこっちが不愉快になるくらいだ。

「お前さぁ、そんなに走りたかったんなら、最初から寄り道なんかするなよ」

「別に走りたかったわけじゃねぇ」

「じゃ、なんだよ」

「達成感かな。目的は達した。もう明日にもやめていいくらいだ……」

「アホ。じゃ、やめろよ」

「いや、和泉先輩が怖いからもうちょっと我慢する」

 まだ軽口をたたく元気はあるようだ。

「そういえば、あの頭のデカい奴さぁ」

「あぁ、爆弾な」

「爆弾?」

「そう呼ばれてる」

「あの頭はマイケル・ジャクソンだよな」

 おれはオフ・ザ・ウォールのジャケットを頭に描いた。

「あれよデカいだろ」

「そうか? いや、あれはマイケルだぜ」と譲らない。

 まぁ、どうでもいい話だった。

「よし、駅まで競争するか?」

「なに?! なんでそうなる?」

「元気そうだから」

「アホ。殺す気か!」

「負けたほうがラーメンおごりな」

「やんねぇぞ。やんねぇからな。絶対やらねぇ」

「用意」

「スタート!!」と言ったのは斉藤だった。元来、ノリはいい。斉藤はおれより一漕ぎ早くスタートを切っていた。前傾姿勢で思い切りペダルを回している。

 おれは少しずつペダルに力を入れて、斉藤のあとを追い始めた。

「ダメだぁ! やっぱり無理!!」

 五十メートルくらい先で斉藤の叫び声がした。




   8


 地区予選から二週間。県大会は五月半ばだ。舞台は小田原から善行へ移る。

 小田急江ノ島線の善行駅は各駅停車しか停まらない寂しい駅だ。朝夕はもっぱら地元善行高校の生徒専用みたいな駅に違いない。しかし大会がある週末だけは違う。電車が一本到着するたびにドアというドアからジャージ姿のアスリートたちが吐き出される。その誰も彼もが同じ場所に向かって歩いてゆく。

 駅前から高台へ伸びる階段を上がる。上がりきったそこはもう県立体育センターの競技場だった。目の前に土の四百メートルトラックが現れる。サブトラックだ。県内で四百のサブを持つ競技場はたぶんここだけだ。横浜の三ツ沢ですら二百五十しかない。そして道一本隔てた隣にメインのタータントラックがある。

 高揚感はない。まったくない。練習でもしていたほうがまだマシだ。坂本(さかもっ)ちゃんは朝から審判業務。選手以外の練習は各自―、とたいした指示はない。

 県大会に残った先輩たちも応援むなしく敗れ去ってゆく。昼飯は十一時。すでに前日と併せて半数以上の先輩が散っていた。まぁ、こんなとこだろう。関東大会に進めるのは種目ごとにたった六人。神奈川県でベスト6に入るのは並大抵ではない。

 メシを食うと、もうやることがない。

 トラックではつまらない競技が淡々と進んでいる。おれはビニールシートに座り、その様子をぼんやり眺めていた。

「おい、練習終わったか?」

 背中からの声におれは首を上に持ち上げた。北澤の顔が逆さまにおれを見下ろしていた。

 まだだった。

 あとでサブトラックを十周も流しておけば十分だろうと思っていた。斉藤がいれば、昼飯前に片付けていたかもしれない。ただ、あいにくと今日は休み。表向きの理由は法事。実は軽音楽部のほうがまだ片付いてないらしい。

「まだ」

 反射的に答えてしまった。うっかりだ。しまったと思ったが、もう遅い。

「じゃ、行こうぜ」

 おれの返事にすぐさま北澤は答えた。おれは時計を見た。メシを食ってからかれこれ二時間。競技のほうもすでに青井以外は玉砕。断る理由が思いつかない。問題は内容だ。サブトラ十周では済みそうにない。サブトラ五十周とか平気で言いかねない奴だ。城山の小さなサブトラックならまだしも、フルスケールの善行では二万メートルになる。

「お前とか?」

 北澤は黙ってうなずいた。

「なにする気だ?」

「ロードはどうだ?」

 出た―。

 逃げ場なし。走った分だけ戻らなきゃならない。まさか帰りはバスっていう話にはならないだろう。

「他の奴らは?」

「サブトラじゃないか?」

 北澤は他人事のように言った。この時、おれはようやく自分の迂闊に気がついた。夜野や井上はともかく、藤井と中垣は間違いなく北澤を避けた。おれは小さく舌打ちした。貧乏くじを押しつけられた。

「この辺の道知ってんのか?」

「国道から海に出られる」と北澤は言った。

「海? 遠くねぇか?」

「せいぜい片道五、六キロだ」

 往復十キロちょっと。北澤にしては控えめだ。

 この数週間で、距離に対するイメージは変化した。十キロ程度のジョグならそうきつくない。

「よし」とおれは同意した。まさか知らない道を飛ばして走ることもあるまい。

「お前、速いな」

 競技場から走り出すと、北澤は口を開いた。

「嫌みかよ」

「おだててるわけじゃない」

「じゃ、よほどメガネが曇ってんだ」

「目はいい方だ」

「そういう意味じゃねぇよ……」

「こっちもそういう意味じゃない」

 こういう生真面目さがこの男の扱いづらいところだ。

「早くブランクを取り戻せ」

「ブランクねぇ……。もうすっかり戻ってるぜ」

 どれだけ買いかぶってんだ―。ため息が出る。

 北澤はおれの表情を推し量るように見た。

「二年後には一、三、四のどこかを走ってもらわないと困る」

 駅伝を指しているのはすぐわかった。

「もちろん一区はおれが取るつもりだけど、二年後におれより速ければ譲ってもいい」と北澤は続けた。高校駅伝の一区は七区間中の最長距離だ。十キロ。むろん、各校とも一番速い選手を出してくる。それに次ぐのが三区と四区。距離は約八キロ。いずれにしても高校のトラック競技には収まらない距離だ。アップダウンの起伏。左右のコーナー。道幅の増減。いくつもの要素がミックスされる。スピードだけでは押し切れない。

 どうやら北澤の目標は駅伝を軸に動いているらしい。珍しいタイプだ。駅伝は七人の総合力がものを言う。一人がどんなにがんばったところで、勲章は区間賞止まりだ。一方で、必ずしも傑出した選手は必要ない。メンバーのレベルが水準以上であれば、区間賞を並べる必要はない。駅伝で京都に行く能力は、個人がインターハイで活躍する能力とイコールではない。

 海までは一時間とかからなかった。風は緩く、海は穏やか。砂浜では家族連れやカップルがおれたちとは別の世界を作っていた。ジャージでうろうろしているのはおれたちだけだった。

「昼寝でもしていきたい気分だな」

 暑くもなく、寒くもない。五月にしてはさほどきつくない陽射しもそんな気分にさせた。

「帰るぞ」

 北澤にはあしらう気すらないらしい。

 おれたちは浜の砂さえ踏まず、再び走ってきた道を戻り始めた。




   9


 競技場では淡々とプログラムが進行していた。ひとつのレースが終わるたびに、新たな目標に向かう者とその束縛から解放される者が生まれる。とりわけ短・中距離とフィールド競技の三年生にとって、高校総体は部活動の集大成に相当する。

 サブトラックでは青井菜幹が二百メートルの決勝に向けてアップを始めていた。この時点で県内のベスト八。一年は菜幹一人だった。前評判もあって、俄然、注目される存在になっている。

 藤井直人と中垣竜二はサブトラックの外周をゆっくり走っていた。

 藤井はどうにも身が入らなかった。

「悪いな。中垣と約束してんだ」

 断った北澤の誘いに自己嫌悪を感じている。いつもなら「じゃ、おれも一緒に」と乗ってくる北澤が、今日はやけにあっさり引いた。すでに別のターゲットを見つけていたからだ。

 視線の先で大村が億劫そうに立ち上がっている。

「おい」と中垣に呼ばれたのはそのタイミングだ。

「練習まだだろ? あとでうるさいからやっとこうぜ」

 一体誰がうるさいのか―。

「お、ノロマが北澤に捕まってやがる」

 藤井の視線の先に北澤と大村の姿があった。中垣はほっと息をついた。

「あれは外行く気だな。危ねぇ危ねぇ」

 そんないきさつがあってのサブトラック。気が乗らない。負荷の程度は普段のアップよりもさらに軽い。

「あいつはよくがんばるな」

 藤井は黙々とアップをこなす青井の姿を目で追っていた。周りの景色がやけに目につく。

 藤井と菜幹は同じクラスだった。必然、最近はしゃべる機会も多い。

「取り柄はそれだけだぜ」と中垣は毒で返した。

「でも、一年で関東大会だ」

「まだ、決まってねぇよ」

「うまくすると、インターハイだってあるかもしれないぜ」

「そううまくいくかよ」

 百メートルは準決勝止まりだった。

「ねぇ、ちょっと!」と、菜幹が二人を見つけた。

「使われるぞ」

 中垣はぼそっと渋い顔で呟いた。

「なんだってしてやるさ。なんてったって関東大会だ」

「お人好しめ」

「おう!」

 中垣の声をよそに、藤井はそう言って手を挙げた。そしてフィールド内の菜幹に向かってトラックを横切ってゆく。さっきまでのモヤモヤはもう消えていた。中垣は顔をしかめてふて腐れたが、すぐに気が変わった。

 練習を切り上げる口実になる―。

 中垣は手のひら返しにほいほいと軽い足取りで藤井のあとを追った。

「北澤は一緒じゃないの?」

 菜幹は藤井に柔軟体操を手伝ってもらいながら、すぐ横で手持ちぶさたにしている中垣に訊いた。

「あいつなら外行ったよ」

「外? どこ行ったのよ?」

「おれが知るかよ。練習だろ」

「ふうん」

「なんだ、気になるのか?」と中垣はからかうように訊いた。

「なるわよ。北澤には今度のレース、ちゃんと見ておいてほしいからね」

「あの野郎に興味なんてあんのかね」

「さぁ……。でも、きっと悔しがると思うな。私が先に関東行ったら」

「お前も意地が悪いねぇ……。あいつに恨みでもあんの?」

「ばっかじゃないの?!」

 つきあいきれないとばかりに菜幹は小さく首を振った。




   10


 夜野亨はひとり、自分のペースでゆっくり五千メートルを走った。距離もスピードも自分で決めた。また明日からいつもの練習が始まる。ついて行けるかどうか、毎日が不安に揺れている。日曜日は全休で疲れを取りたい。それでもついて行けてないのが現実だ。今日だって義務的にやっているだけだ。なるべく疲れを残さないように、ひっそりこっそり終わらせるつもりだった。能動的な練習にはほど遠い。しょせん、地区予選止まり。県大会は難しい。二年後も変わらないだろうと思った。

 そもそも陸上部に入った理由も曖昧なままだ。

 中学最後の大会が終わったときには、もう競技はやめるつもりでいた。その気持ちが翻ったのは、同じ高校に北澤がいると知ったからだ。その瞬間に気持ちはぐるりと反転した。

 中学最後の秋季大会、夜野は千五百にエントリーしていた。希望は八百だったが、人数の制限で叶わなかった。その予選で夜野は北澤と同じ組にいた。北澤は三千とのダブル・エントリー。市内はおろか県内でも知られた存在だった。実力の違いは比べるまでもない。

 最後の大会。おそらく生涯最後。せめて最初の一周くらいは食らいつきたい―。

 スタート前、なぜか夜野はそんな気持ちになっていた。

 激しいポジション争いのなかで、偶然にも夜野は北澤の真後ろを取っていた。しかし全体の中では北澤を中心にびっしり周りを囲まれる形。この組では北澤の力が抜けていた。それはごく自然な流れだった。夜野は自分がそこに巻き込まれていることを意識した。一周目から全速力に近いペースになっている。とうてい保たない。それでもペースを緩められないポジション。

 そして、あっと思ったときにはもうそれは起きていた。

 がたんと集団の形が歪に崩れる。北澤が前のめりに転び、その背後で夜野も転んでいた。靴音がばたばたと二人を追い越して二人を置き去りにしてゆく。夜野の脇に青いスパイクが片方転がっていた。北澤のアディダス。

「あ……」と言ったまま、夜野は放心した。自分が北澤のスパイクを引っかけたのだと気づいた。夜野の中学最後のレースはそこで終わった。でも、北澤は違った。即座に脱げたスパイクをはき直し、最後方から前を追いかけていった。千五百で転倒。しかもスパイクが脱げた。致命的だった。さすがに追いつけない。北澤は予選落ちした。

 北澤は夜野のことなどまるで覚えていないようだった。それは普段の態度でわかる。もし北澤が同じ高校にいなければ、陸上競技はおろか、部活さえやっていなかったはずだ。

 練習を終えた夜野は、そんなことをぼんやり考えながらテントに向かって歩き出していた。

 その時、ふいに正面から声をかけられた。

「よぉ、久しぶりだな。高校入ったら中学の友だちはシカトか?」

 ふいに目の焦点を現実に引き戻された。三人の男が行く手を阻んでいた。

「や……やぁ。久しぶり……」と言ったきり、夜野は口ごもった。

「お前、まだ陸上続けてたのか?」と真ん中に立っている男が太々しい笑みを浮かべて言った。

「やめると思ってたけどな」

 隣に立つひょろっとした長身の男がいかにも気の毒そうな顔をしている。

 真ん中に平山。三人でいるときはたいていそのポジション。そんな印象がある。専門は長距離。背丈は百六十五にやや足りないぐらい。夜野より一回り小さい。きちんとカットしたさらさらの髪をごく自然にセットしている。その髪が気になるのか、右手で毛先をいじっていることが多い。上にへつらい、弱い相手にはとことん強気。中学時代はモテていた。それが不思議でならなかった。

 右隣は竹岡。名前同様に竹のような痩身で、背丈は百八十を超えている。ごつい感じの顔立ちに似合うスポーツ刈り。竹岡は高跳びが専門だった。中学時代には市内で敵なし。県大会でも決勝に残るくらいの実力だった。そしてもう一人は森口。平山同様、長距離専門だが遅かった。長距離をやるにはやや太り過ぎている。この数ヶ月でさらに肥えたように見える。平山とは小学校時代からの仲間らしい。端からは平山の子分にしか見えない。

 平山はすでに中二の頃から校内で一番速かった。三年の時には部長も務めていた。

 三人とも同じ青のジャージだった。胸に湘学館高校の刺繍がある。藤沢にある私立高校だった。

「お前、今日の帰り暇か?」と平山が訊く。

「いや……」

「どうせ暇だろ。一緒に帰ろうぜ」と森口がかぶせる。有無を言わせぬ威圧感。従順な犬を想起させる。森口が自分の意思で動く姿は見たことがない。そこには平山に逆らえない卑屈の色も含まれているように思えた。

「でも……」と夜野は言いよどんだ。

「いいじゃんか。久しぶりだしよ」

 長身の竹岡が畳みかける。森口のような毒はない。からかうくらいの意識しかないだろう。無意識の悪意。この三人のスタンスは昔からそんな感じだった。

 夜野はなにも言えずに押し黙った。過去の苦い思い出が頭のなかをぐるぐる回り出す。

「おい」と三人の後ろで四人目の声がした。萎縮して狭まっていた視界がぱっと戻る。森口の背後にでかいパーマ頭が見えた。

「自主練、もうやったか?」

 振り返った森口の脇から、井上が低い声で夜野に訊いた。

「い……いや、えっと……」

 言い淀んだ。

「ならつきあえ」

 井上は居並ぶ三人に視線を向けた。その眼差しは切れるように鋭い。三人は圧倒されたように黙り込んだ。上級生と思ったかもしれない。

 井上はすっと視線を外すと大股で歩き出した。慌てて続く夜野の姿を、三人は漠然と見送るしかなかった。

 再びサブトラックに戻ってくると、井上と並ぶようにしてトラックの外周を走り始めた。

 井上は黙ったまま走り続けた。ついて行けないペースではないが、楽ではない。おそらく少し無理をしている。夜野はそう思った。この数週間でお互いの力量はおおむね把握している。トップに北澤がいて、その下に中垣と藤井。大村はその少し下。夜野と井上は力的にはその四人からだいぶ離れている。新しく入ってきた斉藤も似たような同レベルだった。

 井上がどれくらい走るつもりなのか想像がつかない。しかもペースはどんどん速くなっている。息の入りも荒くなっている。

「ちょっと速くない?」と夜野は初めて口を開いた。すでに五千メートルを過ぎている。夜野は予定の倍を走ったことになる。

「奴ら、中学時代の仲間か?」と井上は上がり気味の声で訊いた。ペースはゆるめない。

「うん。そう」

「卑屈だったな」

 見透かされていた。返事ができない。

 そもそも井上から話しかけてくるのも初めて。自分から輪に入ってくる男ではない。練習帰りも常に一人。部内では完全に浮いていた。

「あと四千。絶対遅れんな! もし遅れたらおれが代わりに蹴っ飛ばす!」

 わけがわからなかった。井上は怒っているようだ。夜野はただがむしゃらに食らいつくしかなかった。

 フィールドの真ん中には中垣と藤井がいた。菜幹を送り出して、もう練習は終わった気になっている。走った距離は一万メートルに少し足りない。でも、続きに戻るつもりはさらさらなかった。

「おい、夜野が井上(バクダン)と走ってるぞ」と藤井が気づいた。遠目にもハイペースとわかる。中垣は藤井が向ける視線の先を追った。

「気合い入ってんなぁ」と藤井は続けた。

「あんなのすぐバテるぜ。たばこで真っ黒けの肺がもつわけねぇ」

 中垣の関心は夜野よりも井上に向けられていた。

「ま、坂本(さかもつ)ちゃんもよく許してるよな」

 大きな頭が重苦しく風になびいている。この広いトラックで、そんな頭の選手はひとりきりだった。よく目立つ。

「仏の坂本(さかもつ)ちゃんもじきに雷落とすだろうぜ」と中垣は吐き捨てた。

「どっちかってぇと落とすほうの頭なんだけどな。あれは」

「ドリフだ、ドリフ。高木ブーーーー」

 中垣は投げやりに吐き捨てると、メイントラックに向かって歩き出した。

 その後ろで藤井は小さく息を吐いた。

 なぜにこうも直情的か―。中垣の頭にはまるで碁石のように白か黒の世界しかないように思われた。うらやましいと思う気持ちもある。だが、決してそうなりたいとは思わなかった。

 一方、トラックでは夜野が必至に食らいついていた。

 苦しい―。

 高校に入学して以来もっともきつい練習かもしれない。だが、そのうちに井上のペースが落ちたのか、ペースそのものに慣れたのか、気持ちのなかにわずかなゆとりが生まれてきた。

 降ってわいたような猛練習―。

 こういうのをセイテンノヘキレキっていうのかな―、と夜野はなんとか気を紛らわせながら走り続けた。そして最後の一周までついて行くと、そこからは井上を追い抜かんばかりの底力を発揮した。井上とて意地がある。

 二人は折り重なるように一万メートルを走りきった。

「おい」

 ゴールするなり井上は口を開いた。

 夜野は顔を向けてその声に応えた。

「おれは自分のない奴が大嫌いだ。特にお前みたいに気持ちで負けてる奴は、自分からやられに行ってるようなもんなんだぜ!」

 井上はへとへとになっている夜野を置き去りにして、ゆっくりダウンのジョグへ移っていった。夜野はその後ろ姿をただ呆然とした気持ちで見送った。もう一歩たりとも動きたくなかった。




   11


 夕方、一日の競技がすべて終わる頃になって、領南のサイトでは小さな騒動が勃発していた。

「誰も知らないのか?」

 部長の沖は一年の長距離四人を呼んで、強い口調で問いただした。北澤と大村の姿が見あたらない。

 審判業務で忙しい坂本にはまだ気づかれていなかった。いま現場は短距離グループを指導している三田が仕切っている。彼女もまだ気づいてない。

「探せ! 先生にバレる前に絶対見つけてこい」

 すでに領南の選手が出場する競技はすべて終わっていた。撤収の指示はいつ出てもおかしくない。

「まったくよー」と三コーナー近くに設営した領南のテントを離れるや、まず中垣が不満を漏らした。

「ロードだな」と藤井が冷静な口調で言う。

「近くのゲーセンでさぼってるんじゃねぇか?」

「お前じゃあるまいし……」

 藤井はため息混じりに呟いた。

 井上は無言で舌打ちした。

「まぁ、仕方がねぇ。井上(バクダン)と夜野は駅のほう見てきてくれ。おれたちは国道に出てみる」

 藤井の仕切りで四人は二手に分かれた。井上も渋々従った。バクダンという呼ばれ方にはすっかり慣れた。上級生までが井上をそう呼ぶ。いまや井上という名で呼ぶのは北澤と夜野くらいのものだった。

「まったく、あの野郎はいちいち絡んできやがる」

井上(バクダン)か?」

井上(バクダン)? アホ。大村だよ。おれだって舌打ちしたくなるぜ」と中垣はチェッとやった。

 中垣と藤井はメインスタンドを回り込んで、一コーナー脇のゲートから競技場の外に出た。ちょうど女子のマイルリレーがゴールするところだった。このあとに行われる男子のマイルリレーで競技はすべて終わる。

 国道に通じる並木道を歩いてゆくと、ちょうど二人の男が国道の角を横切ってくるのが見えた。いいペース。ただ、片方はフォームがバラバラで遅れ加減。余力の違いは歴然だった。

 前の男が中垣と藤井に気が付いて片手を挙げた。

「これから練習か?」

 北澤は二人の前までくると、屈託なく足を止めて訊いた。中垣と藤井はどちらともなく顔を見合わせた。

「バカにつける薬見つけたらお前買えよ。絶対」と藤井。

「とうに撤収の時間だ。バカ!」と中垣がきつい口調で怒鳴った。

「お前らどこほっつき歩いてたんだ?」

 藤井は呆れた眼差しを向ける。

「あぁ、ちょっと海まで」

「ちょっとだと?」

「とてもそうは見えないぜ」

 中垣は息絶え絶えになって肩で呼吸を整えている大村を見やった。まるで泥水につけたボロ雑巾のようだった。疲れ切って声を出す気にもなれないらしい。

「ちょっと道に迷って遠回りしたからな」

 おもむろに大村が北澤の頭を(はた)いた。

 藤井と中垣がぎょっとした顔をする。

「てめぇ、謀ったな?!」

「それだけ元気なら大丈夫だな」

 北澤には小さな笑みを浮かべるくらいの余裕があった。

「ほざけ!」

「話が見えないな」

「こいつに騙されたんだよ! 近道だっていうからついていったら、鎌倉回って大船のほうまで引きずり回しやがって……」

 それを訊いて中垣が小さく舌打ちした。

「お前、またやったな?」

「ほんの少し遠回りしただけだ」

「こいつ、こうやって練習の巻き添えにするのが趣味なんだ。おれも中学時代に何度もやられた」

 中垣はあえて藤井に向かって説明した。

「おれはバカじゃねぇからな。二度とひっかからねぇぞ!」

「なんだと?!」

 大村の言葉に中垣が気色ばんだ。

「まぁ、いいじゃないか。それより叱られる前に戻ろうぜ」

「どうせ手遅れだ!」と中垣は誰に言うでもなく吐き捨てた。

「青井はどうなった?」

 競技場に向かってゆっくり走り出しながら、北澤は中垣に訊いた。

「自分で訊け、バカ!」

 北澤は答えを促すように、今度は藤井のほうを見やった。

「あいつ、お前が見てるか気にしてたぜ」と藤井もその答えを教えない。

「そうか」

 北澤は引き下がるしかなかった。

 四人は男子のマイルリレーを横目に眺めつつ、サイトまで戻った。

 すでにテントは解体され、ブルーシートも畳まれていた。

 沖は北澤と大村は呼びつけた。そして三田の注意を引かないように気をつけながら、こっぴどく叱りつけた。

「どれくらい走った?」

 ひとしきり雷を落としたあとで、沖は訊いた。

「三時間くらいです」

 北澤が腕時計を確認しながら答えた。しかも平然と言う。

 沖はその走ったであろう距離を瞬時に計算した。そしてそれ以上はなにも言わなかった。北澤に嘘はない。むしろもっと長いかもしれない。

「次から誰かに言って出ろ」

 そう言って、沖は説教を切り上げた。

 沖自身、二十キロ以上を一度に走りきったのは一年の冬に入ってからだった。中学時代は十キロだって走ってない。

「しょうがねぇなぁ、あいつらは」と鬼山がからからと笑いながら寄ってきた。

「鬼山、今年の駅伝は意外とやれるかもしれないぜ」

「なんだよ。藪から棒によ」

「あいつら、たぶん今日は三十キロ以上走ってる」

「まーさか」と鬼山は冗談にしか受け取らない。

「三時間走り通しだったらしい。あるいはもっと」

「三時間?! あいつらアホだな」

 鬼山はのんきに笑って受けた。

「一キロ五分でも一時間十二キロ。お前できるか?」

「ふうん。ま、できんじゃね?」

 鬼山はまったく意に介していないふうだった。実際、興味もないのだろう。沖はふうっと息をつくと、赤くなりかけている天を仰いだ。




   12


 北澤の帰り道は針のむしろとなった。

「いったい何してたわけ?」

「すまん」

 電車に乗り、菜幹はようやく北澤と話すタイミングを得た。北澤は珍しく神妙な面持ちだった。普段の泰然自若は消し飛んでいる。

 電車内は様々な色のジャージが入り乱れ、かなり混み合っていた。 喧々(けんけん)たる車内の一角で、菜幹は「どう?」とやや自慢げに話しかけた。一瞬、北澤にはその意味が理解できなかった。すぐに気づいたがもう遅い。もし坂本清二が業務を終えて総括していれば、当然菜幹の話は出ただろう。しかし、直接部をまとめていた三田は結果を割愛した。わざわざ全員の前で褒める性格(たち)ではない。しかし北澤はそうとらなかった。一人も次へ進めなかったのだろうと、つい今しがたまで思い込んでいた。

「こいつ、練習しに外行ってたからな」と中垣が茶化した。

「バカじゃないの?!」

「もうちょっと早く帰れると思ったんだけどな」

「足手まといを連れてくからだ」

「いや、思ったより距離があったんだ。起伏のきついところもあった」

「バッカじゃないの?」と菜幹はもう一度言った。

「それで何位だったんだ?」

「もう、いい。もう、いいわ」と菜幹は拗ねた。その横で、藤井が三本指を立てた。

「三位か?!」と北澤は菜幹の顔を見た。

「知らない」と菜幹は平板な口調でそっけなく返した。

「すごいな。そうか、一年で関東大会か。見たかったな」

 北澤にしては珍しく声が大きくなった。

「……まぁ、運がよかったのよ。スタートが決まったし」と菜幹もそう悪い気はしない。

「先を越されたな」

「関東大会には応援に来るんでしょうね?」

「行くよ」と北澤は即座に受け合った。

「だいたい、あんな奴と走りに行くからこんなことになるんだ」

 中垣はちょっとおもしろくない表情で話題を変えた。

「あいつは速いよ。じきにお前と張り合うよ」

「バカ言え。カエル討ちだ」と中垣はやり返した。

「カエル?」と藤井。

「あぁ! ゲコゲコ鳴かせてやる!!」

 聞き違いかと思ったがそうではなかったようだ。そして、あぁ―、返り討ちかと思い至った。

 中垣の心はざわついていた。いまだかつて北澤の認めた相手が買い被りだった試しは一度もない。

「ち!」

 中垣には不愉快だけが募った。




   13


 帰路は三人だった。和泉、鹿沼の先輩二人。どうにも居心地が悪い。話題はおれが見ていない青井の女子二百メートル決勝だった。おれはなるべく聞き手に徹して小さくなっていた。せっかく虎が尻を向けているのに、わざわざ棒で突くバカはいない。実際のところ、くたくたでしゃべるのも億劫だった。

領南(うち)では二人目だな。インターハイまでいけるかな?」と鹿沼先輩は少し興奮気味だった。

「まだ一年だし、関東で十分だろ」

 和泉先輩は変わらず冷静だった。

「そうだなぁ。いいよなぁ、あと二回もチャンスがある。おれたちはあと一回だな」

「わざわざ言うなよ」

「ま、うちの先生はインターハイより駅伝重視だからな。むしろ本番はこれからだ。お前も覚悟しておいた方がいいぞ」

 鹿沼先輩はからかうような口調でおれを見た。

「ええ」とおれは適当に相づちを打った。

「今日、斉藤はどうした?」といきなり和泉先輩が話題を変えた。普段は斉藤のことなど歯牙にもかけないくせに、いないとなれば気になるらしい。

「前にいた軽音楽部のほうがまだ片付いてないみたいです」

 正直にバラした。法事の話は知っているはずだ。嘘と見切っていたのだろう。

「アホが……」と先輩は独り言のように呟いて舌打ちした。

「で、お前はどこ行ってた」と今度は鋭い口調になった。

「え……、ちょっと海まで……」

 まるで遊びに行ってきたような言い方になった。

「海? まさか一足先に泳いできたのか?」

 鹿沼先輩がいつもの口調でからかった。

「泳ぎませんよ」

「海まで五、六キロくらいか。たいした距離じゃないな」

 和泉先輩はあっさり突き放した。厳しい。中学時代からまったく変わらない。むしろ、より強固な意志をまとった感じすらある。

「何時間走った?」

 先輩の追及はさらに続く。

「三時間半くらいですかね」

「十キロで三時間はねぇだろ。歩いたってそんなにかからねぇ。やっぱりどっかで遊んでたろ」

 鹿沼先輩はどこまでもお気楽だ。仮に遊んでいたとしても、そこを攻めるつもりはないらしい。

「鎌倉や大船回ってきたからですよ」

「北澤が一緒だったのか?」

「ええ」

 そうでなければ、誰が好き好んで三時間以上も走るものか。

「そうか」

 北澤が一緒と確かめたあとの先輩は意外なくらいあっさりしていた。北澤のことは相当に買っているようだ。どちらも練習のセミ。生きている限り鳴き続ける。そしてこの先輩が卒業したあとも、北澤は残る。みっちり二年半のつきあい。これは思っていた以上に厳しい高校生活になりそうだ。それを実感する一日になった。




   14


 全員が揃って駅に向かう中、井上裕己(ゆうき)はこっそり集団を抜け出した。デカい頭がいないと藤井あたりが騒いでいるかもしれない。知ったこっちゃない。明日、なにか言われたって無視するだけだ。裕己は駅とは逆の方向に向かった。ホームストレッチ側のスタンドを歩く。懸念材料がひとつ。おそらく顧問は車。ばったり出くわすと面倒なことになる。すれ違う他校の生徒には目もくれず、その姿に細心の注意を払った。

 無事に競技場を出た。駐輪場まではさほど遠くない。たどり着いて、ようやく一息ついた。駐輪場には十数台のバイクが停まっていた。ホンダのホークⅡ。ホークⅢ。ヤマハのXJ。スズキのGSX。カワサキのZ400FX。四百クラスのバイクが目立つ。チョッパーハンドルや背もたれ付きの三段シート。日章旗になったタンク。あからさまに族車っぽいバイクも数台。その中にカバーの掛かったバイクが一台。

 裕己は頑丈に縛り付けたロープをほどき、タイヤに付けた防犯ロックを外した。カバーを剥ぎ取ると、ピカピカのRZ250が姿を見せた。ニューパールホワイトのタンク。右サイドのホルダーにはアライのヘルメット。

 人気のRZは盗難の多い車種だった。なにに使うのかサイドカバーを盗む事件も多発している。

 免許を取ってからまだ一ヶ月と経っていない。入学前の春休み中に学科と適性試験を合格。技能試験は学校を休んで一発で決めた。メーターの数字はすでに千キロ超。試合の日にバイクを動かしたのは初めてだった。

 裕己はスポーツバッグを開いてリーバイスを引っ張り出した。さすがにジャージのままでは目立つ。万が一、転倒したときのリスクもある。上には革ジャンを羽織った。さすがにブーツは持ってきてない。アシックスの左足はガムテープでぐるぐる巻きにした。

 ヘルメットは赤一色のモノトーン。もじゃもじゃの髪が邪魔で少しキツい。バッグからグローブを出す。カバーとバッグはタンデムシートにくくりつけた。

 RZにまたがってサイドスタンドを外す。キックペダルに体重を掛けて踏み込んだ。エンジンは一発で掛かった。パララッと軽めの音とともにチャンバーが白煙を吐く。

 暖機をしているうちにグローブをはめて、ミラーの角度を調整する。いまだに走り出すのにわくわくする。幸い、他のバイクのオーナーは姿を見せなかった。族車も置きっぱなし。目立ってもろくなことはない。

 そろっとスタートさせて、国道への道を進んだ。国道前の歩道で左右の交通が途切れるのを待つ。ふとバックミラーをみてぎょっとした。シルバーボディのワゴン車の運転席に坂本清二の姿があった。

 あぶねぇ―。

 ジャージのままだったらバレていたかもしれない。おそらくバレただろう。数十秒が一分にも二分にも思えた。後ろを白バイにマークされたときより緊張した。

 左右の交通が途切れた。

 裕己はクラッチをつないでエンジンを吹かした。右折。一目散に国道へと逃げ出した。

 渋滞を避けつつ、国道134号線まで出た。潮風が鼻孔をつく。空には星が瞬き、その中に少し欠けた月が浮かんでいた。

 ようやく裕己は短いツーリングを楽しむ気になれた。




   15


 県大会を境にして大きな変化がひとつ。

 独裁的強行。

 これまでなかった朝練が始まった。

 長距離グループだけが朝七時半に集合して、二百五十メートルのトラックを二十四周。駅伝が終わる十一月までの条件付きで、毎朝六千メートルが練習メニューに組み込まれた。月曜の練習が終わったあとに坂本先生(さかもつちやん)から直々のお達し。翌日から即施行。これで一日あたりの走破距離はおおむね二十キロを超える。

 家を出る時間が一時間早まったことで、日常はがらり一変した。とにかく眠い。結果として授業中は睡眠の比率がいっそう高まった。家に帰れば食って寝るだけ。中学時代に思い描いた絵は画餅だった。漫画や小説に出てくる高校生なんて、現実にはあり得ない嘘っぱちだ。

 将来どうするか―?

 そんなことを友達に訊いたところで、まともに取り合う奴はいない。自問してみてもそれほど深い考えは思いつかない。とりあえず大学に進学するつもりでいるのに、そこへ向かう準備はまるでしていない。しようという気にすらならない。

 高校でなにをするか―?

 目標はインターハイだが、目標に見合う努力はまったく足りていない。北澤の努力に比べたら、それは『努』の字さえまともな形をなさない。

 中途半端―。

 自覚している。

 おれの世界観はあまりに貧相で矮小だった。なにしろたった三年先のビジョンすらろくに描けていないのだ。

 自覚があるだけ少しは救いがあるか―。いや、自覚があってなにもしないのだから、いよいよもって救いはないか―。

 斉藤の軽音問題がどうなったのかはよくわからない。斉藤も言わない。部の中にはおもしろく思っていない奴もいる。具体的にいえば中垣だ。藤井もよくは思ってないだろう。おれは斉藤が陸上部にいるだけで奇跡と思っている。一日休んだくらいはなんとも思わない。井上(バクダン)は他人に無関心。夜野は自分の意思をあまり表に出さない。北澤は静観を決め込んでいる。

 こんな七人がひとつにまとまるなんて、万にひとつの可能性もない。二年半後、高校での競技生活にはいやでも終わりがやってくる。その時、いったいおれたちの姿はどうなっているのだろう?

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