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第3話:絶望の中に咲き誇る紅い花

……



「プシュ――ッ!!」



「……」



何かが蒸気を吹き出しながら開く音が聞こえた。水が抜けていく音と共に。



「ゴホッ! ゲホッ……!!」



起き上がってすぐに感じたのは、強烈な嘔吐感だった。なぜか、ひどく久しぶりに感じる「生きている」という感覚。


その始まりは、吐き気だった。


胃の底がムカムカする。口の中では鉄の味が漂っている。酸素を吸い込むことさえ、ままならなかった。


「はぁ……はぁ…………」


ゆっくりと目を開けてみると、そこには濃密な暗闇が広がっていた。


長い間閉じ込められていたようなその闇に、俺の目はすぐに順응することができた。


暗闇の中で、少しずつ見え始める周囲の景色。

下を見下ろして目に映ったのは、自分自身だった。いつも見ていたのと同じ、五体満足な身体。


「ここは……」


辺りを見渡すと、暗闇の中で唯一オレンジ色に輝く装置があった。装置の下、赤い光で表示されている文字。


『西条 詩音』


西条詩音……聞き覚えのある名前だ。だが、それが正確に誰の名前なのかまでは、すぐには思い出せなかった。


そして俺の隣には、俺が入っていた装置と全く同じものが並んでいた。


「そうだ……俺は……確か……うっ……!」


記憶が戻り始めた。頭が割れるように痛い。


「あああああ……っ!」


俺は本能的に、自分の頭を両手で強く押さえつけた。


「俺」は誰だ?


「西条詩音」とは誰だ?


「ここはどこだ?」


その問いに答えてくれる人間は、どこにも存在しなかった。




……




「だけどこれからは、俺の意思でやる」


過去の自分の声が耳の奥で響いた。記憶の破片が集まっていく。


『私も貴方を……ずっとずっと前から……愛してたみたい』


『ああ。付き合ってやる』


『詩音君だね? 私だ。瑠奈様のお父様の秘書だ』


『瑠奈様が暴漢に襲われ、負傷された』


「あああああああ!!!!」


俺は髪をかき乱した。獣のように咆哮しながら。

破片が繋がり、物語が再構築される。


そうだ、俺は確かに瑠奈と共にコールドスリープに入ったのだ。現代医学では治せないという彼女を、未来に託すために。


「瑠奈……は……?」


長い間液体に浸かっていたせいで服が溶けてしまっていることも忘れ、俺は瑠奈が眠っているはずのカプセルへと駆け寄った。


「瑠奈、瑠奈……!」


二本の足で立つことさえおぼつかず、俺は片手で壁を伝った。


あまりにも久しぶりに使うような、筋肉の感覚。


「はぁ……はぁ……うっ……」


俺はカプセルの向こう側に見えるシルエットを目にし、その場に崩れ落ちた。


「よ……よかった……はぁ……」


瑠奈は無事だった。俺が最後に見た、あの姿のまま……いや、もしかすると足が揺らめく水の中で安定して置かれている分、より生き生きとした姿で。俺は苦しい息を吐きながら安堵した。


ほとんど壊れかけている俺のみすぼらしいカプセルとは違い、瑠奈のカプセルは清潔に、より高度な姿でここに存在していた。


その時、機械音が瑠奈のカプセルから響き渡った。


『Confirmed. Bio-rhythm stabilizing. System wake-up sequence complete.』



俺の機械は、瑠奈が回復する時間に合わせて目覚めるようシステムが組まれていたのか……?


そんなことを考える余裕はなかった。ひとまず後ずさり、彼女を見守った。


「うっ……」


彼女は小さく呻き声を漏らし、眉をひそめた。暗闇の中でも、その一つ一つの仕草が俺の目に焼き付いた。彼女を包んでいた溶液が、排水口へと流れ落ちていった。


「はぁ……うぅ……」


彼女は上半身を起こし、足を折り曲げた。

自然に足を曲げられるということは、下半身の麻痺が改善されたということだ。俺は歓喜し、彼女が起き上がれるように手を伸ばして背中を支えた。


「気をつけろ」


混乱しているであろう彼女を落ち着かせるため、優しく声をかけた。聞き入れる余裕があったかは分からないが。


「ゴホッ! ゲフッ!」


彼女は俺と同じように、舌を出しながら咳混じりの嘔吐をした。


そして……ついに琥珀色の瞳が漆黒の中で閃いた。


「大丈夫か?」


彼女は記憶を失っていた時の俺のように、戸惑いの混じった眼差しで俺と周囲を見渡した。


まるでアダムとイブのように、産まれたままの姿でその場に立っていた。


羞恥心はなかった。

とりあえず彼女が寒くないように、床に転がっていた患者衣を二着持ってきた。


その中でも一番綺麗なものを瑠奈に羽織らせ、俺は適当なものを着た。


「さあ、ゆっくり立ち上がれ。俺が支えてやるから」


カプセルから出やすいように、俺は彼女の腕を自分の肩に回した。


正直、自分の体もまだ完全に動かないので無理をしている感は否めないが。


瞳を揺らしながら俺を見つめる瑠奈。


「貴方は……誰、ですか……?」


「……あ、ああ。予想はしてた。心配するな。すぐに記憶が戻るから。深呼吸を繰り返して」


彼女に認識されなかったことに一瞬動揺したが、想定内のことだった。俺だって目覚めてから記憶を取り戻すまで時間がかかったんだ、彼女もすぐに思い出すはずだ。


「……ふぅ……ふぅ……」


声を震わせながら漏れ出る荒い呼吸。彼女も頭が痛むのか、こめかみを押さえた。


「思い出したか?」


「……きゃああっ!!」


「……えっ?」


瑠奈は、突然猛獣に遭遇した草食動物のように体を丸め、後ずさりした。


「だ、大丈夫だ!! 俺だ、ここにいる! 落ち着け……!」


実際は、俺自身も落ち着くのが精一杯の状況だった。どれほどの時間が経過したのかも分からず、体調も万全ではない。


だが彼女のために、最大限冷静に振る舞った。


「……ん?」


その瞬間、気づいた。瑠奈の恐怖に染まった視線は……俺に向けられたものではない。


「ビィィィン――」


「!!」


「ズガンッ!!」


後ろだった。


俺がその視線の先へと素早く肩を向けた隙に、肩越しに殺伐とした光が降り注いだ。


「ぐっ……!!」


もしあの時、肩を回していなければ、頭を貫かれていただろう。


俺を撃った物体は、人型の「何か」だった。それが何なのかは分からない。


テレビで見たサイボーグか? いや、その表現では足りない。あまりにも醜悪で怪異な、黒い物体だった。


「うああああっ!!」


肩を流れる血の感覚さえ忘れたまま、必死に瑠奈の手を掴んで走った。


足はまともに動かない。それでも感じた。今、最も重要なのは、とにかくあいつから逃げることだと、全身の神経が叫んでいた。


「ズガンッ!! ズガンッ!」


背後で数回、レーザーが放たれた。そのたびに俺は柱に隠れ、階段を駆け上がった。瑠奈の手を強く握りしめたまま。


階段を上りながら彼女を見下ろした時、絶望と恐怖の眼差しが俺を映していた。俺を知っている者の目ではなかった。


まさか……記憶を……失って……。


「ズガンッ!!」


「……っ?」


俺が一瞬立ち止まり、困惑を隠せないでいた時、再びレーザーが俺の足に向かって放たれた。


そのまま石のように固まってしまった。何が起きたのかさえ、理解できなかった。だが、その直後に激痛が襲いかかった。




「あああああああああああっ!!! うあああああっ! ぐあああ……っ!!!!!」




瑠奈の手を離したまま倒れた俺は、喉が裂けんばかりに叫び声を上げた。


「あ……あぁ……え?」


背後から当惑したような声が聞こえた。しかしその声も、俺の悲鳴、そして背後から迫る機械音にかき消された。


左足の膝から下が、全て吹き飛んでいた。いや、正確には「消滅」したのだ。レーザーによって焼かれ、神経は断たれ、筋肉は抉られ、骨は砕け散った。


血が舞い、視界が霞んでいく。心臓が破裂しそうなほど鼓動し、耳が遠くなる。


痛い。

痛い、痛い、痛い、痛い――。


人間が最も極限の苦痛を感じる時、本性が出るというが。俺の本性は、ひどく自己中心的だったようだ。


「ああ……うっ……」


白目を剥き、胃液を床にぶちまけた。


その間、瑠奈のことを案じる余裕さえなかった。その場で階段を転がり、ただ一つの「苦痛」という事実に打ち震えるだけだった。


「ビィィィン……」


レーザーがチャージされる音。それは、俺と瑠奈に忍び寄る死神の囁きだった。


死ぬのか。


この時代がいつなのか、この状況が何なのか、この物体が誰なのか、その一つも分からぬまま。


瑠奈の命まで道連れにして。


「き……きゃあああああっ!!!!!」


瑠奈が悲鳴を上げた。階段にへたり込んだまま、後ろに向かって這いずっていく。







……終わりか。







……






その時だった。


「おい。うるせえぞ」


「え?」


低く、無機質な声だった。耳が耳鳴りの中でその声を把握するよりも先に、凄まじい音が響いた。


「ダンッ!!」


銃声だった。ゲームで聞くような、あるいは戦争映画で見るようなアナログな銃声ではない。


その破裂音は階段の終わり、光が差す上方から聞こえてきた。


「ダンッ! ダンッ! ダンッ!」


俺に向けられた銃声ではない。瑠奈に向けられた銃声でもない。ならば……。


「面倒な真似を。……さあ、終わりだ」


「ダンッ!!」


物体が倒れる。ガシャン! という金属音が床に振動を伝えた。階段で顔を上げ、銃声の主が見えようとする、その刹那だった。








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