第2話:初恋は寂寞としていた
「瑠奈はどこですか!?」
俺が駆け寄り、声を震わせて尋ねると、看護師は事務的に答えた。
「患者様とのご関係は?」
「と、友達です……」
「申し訳ありませんが、法的保護者の方でなければ立ち入りはできません。」
苛立ちが募った。
いや、そんな言葉では形容できないほどの切迫感、切実さ、そして怒りが全身の神経に宿った。
「入れてくれって言ってるだろ!! 危険だって……! 暴漢に襲われて怪我をしたって聞いたんだ!」
「待機していただくしかありません」
「クソッ……!!!」
俺が拳を握りしめ、カウンターを叩きつけたその時――冷たく低い靴音が廊下に響き渡った。
「その学生を通しなさい」
乱れのないスーツ姿の中年男性は、俺と押し問答をしていた看護師に理路整然と言い放った。
看護師は一瞬戸惑ったように尋ねた。
「患者様の保護者の方でしょうか?」
「私が会長の秘書だ。会長が、この学生を中へ入れるよう同意された。院長との話も済んでいる。身元は私が保証しよう。……行くぞ、詩音君。ついて来い」
「あ……は、はい。承知いたしました。4階へどうぞ」
看護師は急に声色を変え、丁寧な口調になった。そして手招きでエレベーターを指し示し、恭しく俺と秘書を案内した。
「あ、ありがとうございます……」
「……」
秘書は無言だった。徹底して無表情と鋭い足取りを維持する彼だったが、今日ばかりは肩が微かに震えていた。
俺は、彼女の父親が、進展した俺と瑠奈の関係を知っているかさえ分からなかった。
エレベーターで4階に上がると、手術室の付近は修羅場と化していた。
「血が……」
俺はその場で立ちすくんだ。
奔走する医師や医療スタッフ、そして床に飛び散った血を拭き取る清掃員たち。
「来い。詩音君が守れなかった『結果』を見せるよう命じられている」
俺はその言葉に心臓を鷲掴みにされた。これ以上鼓動が速まれば、心臓が破裂してしまいそうなほどの恐怖だった。
俺が手術室の前まで走り、中へ突入しようとした時、スタッフに阻まれた。
「中は入れません」
どんなに切羽詰まった状況でも、俺はその言葉の意味を理解した。いくら秘書と共に来たとはいえ、その中は徹底した無菌状態でなければならない。
俺がそう思いながら爪を噛んでいた時、向こう側からストレッチャーが運ばれてきた。
「失礼します!!」
数人の医療スタッフが、一人の人間……が横たわるベッドを、慎重に、かつ迅速に動かしていた。
俺が見たのは、ほんの一瞬の姿だった。だが、その光景だけで視界が滲むには十分だった。
「……」
秘書は沈黙していた。ただ……深く頭を下げていた。その前では瑠奈の父親、すなわち会長も両手で顔を覆ったまま絶叫していた。
俺の目に映った光景は、こうだ。
瑠奈の艶やかだったプラチナブロンドは無残に乱れ、ミルクのように白く清らかだった肌は真紅の返り血に覆われていた。
彼女の口には透明なプラスチックの呼吸管が深く差し込まれ、機械が「ピッ、ピッ」と音を立てるたびに、彼女の上半身は痙攣する死体のようにビクンと跳ねていた。
そして、最も目に飛び込んできたのは、最も静まり返った場所だった。
下半身だ。今は無残にその全てが血に染まり、あまりにも残酷なほど静止した、その場所。
「る、瑠奈……」
彼女に触れようとした俺の手は、空中で止まってしまった。スタッフは入るなり扉を閉め、手術を開始した。
「……貴様のせいだ」
どこからか、その声が聞こえてきた。俺を恨むような、重苦しい低音の声。
そして声と共に、俺の胸ぐらが掴み上げられた。大柄な体格に、白い髪をなびかせた男性。
「会……長……!!」
「貴様のせいだ!! お前に会いに出かけたから……お前が最後まで守らなかったから……!! お前のせいで!!!」
「え…………?」
秘書の制止を受け、瑠奈の父親はようやく俺の胸ぐらを離した。だが、瑠奈に受け継がれたその琥珀色の眼差しは、俺を無慈悲に殺そうとしていた。
……
数日間、飯も食わずバイトにも行かず、俺はベッドに引きこもって毛布を被っていた。
「貴様のせいだ!!」
頭の中で、あの怒号がこだました。
「お前に会いに出かけたから……お前が最後まで守らなかったから……!!」
頭の中で、あの叱責がこだました。
「お前のせいで!!!」
頭の中で、あの苦痛がこだました。
「うああああああああ……!!!」
俺は狂ったように頭を壁に打ち付けた。壁紙が、俺の頭に合わせて鈍い音を立てて揺れた。
数日間、連絡はなかった。この家もすぐに取り上げられるかもしれないのに……不思議なことに、数日間一言もメッセージは来なかった。
俺が、アルバイトへ行ったからだ。
恋愛よりも優先される、切実な経済的理由。
それが、今の俺を苦しめる原因となった。
「俺が、あの時……行かずに……もう少しだけ抱きしめていれば……」
惨めな独り言が、空気中に霧散した。
俺は廃人のようになったまま、その日の夜まで意味の分からない独り言を吐き散らした。
そして、ようやく俺のスマホが鳴ったのは翌朝のことだった。秘書の連絡先から届いたそのメッセージは、単純なものだった。
ただの住所だった。
一生が生き、そして死んでいく場所が、単純な「住所」という「数字」で表現されることは、今の俺にとってひどく背理的に感じられた。
震える手で、俺はようやくドアを開けた。
髪は洗っていない。
服も、みすぼらしいインナー姿のままだった。
そのホームレスのような格好で、俺は外の世界へと足を踏み出した。
その住所が示す場所は病院だった。メッセージの内容を見せると、あっさりと立ち入りが許可された。
だが、向かう先は病室ではなかった。
もっと……いや、ずっと深い地下だった。
「……これは……」
目の前に広がる光景に、俺はその場に崩れ落ちるしかなかった。
「これが『結果』だ」
右を見上げた先にいたのは、ぞっとするほど無表情な瑠奈の父親だった。
「『結果』……ですって?」
目の前に広がる、橙色の透明なカプセル。その中には、一物も纏わぬまま、遺体のように腕を組んでいる瑠奈が横たわっていた。その周囲を、穏やかに彼女を包み込む液体が満たしていた。
「現代医学では治せない。だから……瑠奈の時間を止めることにした。古くから研究していたこの装置の中で……」
「ま……待って……ください……何……を……?」
聞いてはいけないことを聞いたかのように顔面を歪ませる俺に、彼女の父親は無機質に声を漏らした。
「言葉通りだ。治せない」
「な……な……なんで……? どこが……どこが……あああ……」
俺は獣のように這いつくばり、涙を冷たい床に撒き散らした。
「脊椎を……損傷した。つまり、下半身不随、さらには昏睡状態だ。このままだと……植物人間状態で一生を過ごすことになる」
会長はそう言いながら、カプセルの方へ歩み寄った。俺も続いて顔を上げ、中を覗き込むが……目立った外傷は見当たらなかった。
「脊……椎……」
脊椎だった。前から見えないのは当然だ。彼女の背面がどれほど無残に壊れているか、想像することさえ苦痛だった。
俺は視線を左へ逸らした。そして、左側にある巨大な物体について指差し、尋ねた。
「……あれは……何ですか……?」
それは彼女の隣にある、もう一つの空のカプセルだった。二つだけ存在するカプセル。そのうちの一つは……。
「貴様の分だ」
俺の分……?
「……え……?」
「付き合うことになったそうだな?」
「あ……あ……それは……」
知っていたのだ。
隠し事ができず、お喋りな彼女なら、おそらく俺がバイトへ向かってすぐ、道を歩きながら電話をかけて知らせたのだろう。
もちろん両親は怒鳴っただろうが、彼女は非常識なほどに正直だった。
「私は貴様に家も、生活費も、瑠奈と共に過ごす時間も与えた。だが……貴様は、たかがこの子の安全一つ守れなかった。愛とは、永遠に共にあることだ。貴様の選択には……責任を取れ」
「……えっ??」
俺はその言葉に、思考が停止した。
そしてその停止は、恐怖と共に押し寄せた。
「……連れて行け」
直後、数人の護衛が駆け寄る大きな音が、鉄製の床を伝って響いた。
「ま……待ってください……!」
いくら瑠奈に告白し、付き合うことになったとしても、こんな突然の奇襲は恐ろしかった。
俺は必死に逃げようとしたが、護衛三人の強靭な力には抗えず、そのまま床に組み伏せられてしまった。
「腕を掴め」
「はっ」
意思疎通を図る三人は、犯罪者を連行する警察のように俺を抑え込み、カプセルへと押し込んだ。
「……」
俺は、その瞬間回想した。瑠奈のためなら……何百年だって耐えられると、本気で思っていた自分を。
「……ああ、そうだな」
カプセルが閉じられた。機械的な金属音が悲鳴を上げた。冷たい液体に浸された俺の体は、短く震えた。
くっ……
息がしづらい。このままだと……意識が遠のく。
ただ、一つだけは確かだった。
このカプセルに入ることも強制、俺の意識も、最初は本能だった。
「だけど……これからは、俺の意思でやる」
俺は液体の中で、その小さな独り言を漏らした。
そして……全ては遮断された。
こんばんは。
今回はかなり力を入れて書いたのですが……書いているうちに、少し長くなってしまいました。
正直、ここまではいわゆるビルドアップの段階なので、退屈に感じる方も多く、ここで離れてしまう方もいるかもしれません。
それでも、もし少しでも面白いと思っていただけた方がいらっしゃいましたら、ぜひブックマークやいいねをしていただけると嬉しいです!
それでは、ありがとうございました!




