戻れない。戻らない。
アパートに帰宅した一坂は窓から見える夜の空をぼんやりと眺めていた。
「あいつ……どうなんのかな」
ちゃぶ台に頬杖を突きながら、何の気なしに呟く。
あんなことがあったのに意外にも部屋の空気は悪くない。
平穏で平坦。
言うならば、いつも通りだった。
「そうだな。案外すでに故郷の星に帰ってるかもしれないな」
夕飯の支度をしている詩織は野菜を切る手を止めずに答えた。
「故郷の星、か……」
忘れていたがミカンにだって故郷の星があるはずなのだ。
それならそこに帰るに越したことはない。
きっと同じ種族人達が、彼女を温かく迎えてくれることだろう。
NOAHで出会ったあの母親のように、彼女の誕生を心から望んだ―――
本物の両親、が。
(そうだよ、な……)
本当の親ならあいつにあんな顔、させるわけがない。
よかった。
こんな最低な男が父親じゃなくて、本当に、よかった……。
「しかし可能性というならば別も考えられる」
「?」
一坂は台所の方に向き直った。
包丁の音は今も同じリズムを刻み続けている。
「単純に利益だけを追求するのなら、なにかの実験に使われる、とかな」
「! そんなこと………」
一坂は思わず身を乗り出した。
黒髪を後ろでまとめた背中が、そのまま続ける。
「ミカンはあれだけの能力を持っているんだ。少なくとも、今まで不干渉を貫いてきた宇宙連合が、わざわざ人員を派遣するくらいには価値があるということだろう」
詩織の憶測は的を射るとか射ないとか以前の、本当に憶測でしかない。
だが、たかだかエイリアンが惑星に侵入したという理由だけで、宇宙連合がこれまでのスタンスをあっさり崩したのも事実。宇宙規模で考えれば惑星の外部から何かが偶然侵入することなど、珍しいことでもないだろうに。
もし、詩織の予想が本当だったとしたら。
もしそんな連中にミカンが捕まったら。
もし。もし。もし………
「……………………くそっ」
悶々と巡る思考と苛立ち。
昨日のようにこの衝動に従えば、きっとこの足はすぐにでもここを飛び出すのだろう。
(………忘れろよ)
それでいい。
忘れることですべてが元通りになる。
いつも通りの日常が返ってくる。
もうあんなドタバタに振り回されることもない。
夜だってぐっすり寝て、休みの日は昼までグータラできる。
欲しいものだって自由に買えるのだ。
(考えてみりゃ、いいこと尽くめじゃねーか)
一坂はそう頭の中で繰り返す。
繰り返して繰り返して、塗り潰す。
自分にそんな身勝手は許されない。
こんな自分に、もうそんな資格はないのだから。
その資格を自ら手放したのだから。
「すまなかったな」
「え……」
台所から意外な言葉が飛んできた。
「思えば私はお前に我慢を強いてばかりだった。お前の気持ちを余りに蔑ろにしていた。お前は別にミカンを無下に見捨てようとはしていなかったし、私のことも考えてくれていたのにな」
詩織の声はいつも通り感情の起伏を感じさせない。
もしかしたら、とは思うが彼女はこちらに背を向けているので、一坂の位置からその表情を伺うことはできない。
「本当にすまなかった」
「詩織……」
まな板を叩いていた音が止まった。
狭い四畳半に静かな間が生まれ、火にかけた鍋が煮える音だけが時の流れを感じさせた。
そして僅かな息苦しさの中、エプロンを着た背中の向こうでため息が漏れた。
「……私は嫌な女だな。お前は間違っていないのに、今でもこうして不安を煽り、良心につけこもうとしてる……軽蔑してくれ」
「そんな、こと……」
「だから」
途端、詩織は放り出すように包丁をまな板の上に置いた。
後ろに縛っていた髪を解き、一坂の前にずんずんとやってくる。
彼女にしては珍しい強い足取りだった。
そして、一坂の頭に何かをはめた。
うさ耳だった。
「もう少しだけ、つけこませてもらう」
詩織はちゃぶ台の上に勢いよく一枚の写真を叩きつけた。
「お前がどこかへ行くから代わりに受け取りに行ってやったんだ。感謝しろよ」
それはNOAHでのイベントの後に撮影会で撮ったものだった。
写っているのはキャスト陣と自分。
そして、―――ミカン。
一坂はそれに写った彼女の〝笑顔〟に目を奪われた。
写真の中のミカンは自分のすぐ隣で笑っていた。
あの、太陽のような笑顔で。
たった一枚の写真から、あの時の温度がほんのわずかに伝わってくる。
はたしてこの先、彼女は笑ってくれるだろうか。
そして、その笑顔の先にいるのは。
あの温もりを、一番近くで感じているのは―――
気付いて、しまった。
(俺の中、もうあいつでいっぱいじゃねーかよ……)
ミカンの笑顔の眩しさが。
たった二日の思い出が、確かな温度をもって溢れてきた。
溢れてきて、埋め尽くす。
埋め尽くして、満たして………
でも、―――思い出なんかじゃ足りない。全然足りないっ!
たったの二日。正確には34時間ぽっち。
そんなんで満たされるわけがない。
欲しい。もっともっと、ミカンの〝たくさん〟が欲しい。
これから先も、ずっとっ!
「……俺たち……戻れるかな?」
詩織は項垂れたままの一坂に、フッと笑みをこぼした。
その姿に、何か熱いものが蘇ったことを確信したからだ。
「戻る必要などない。少なくとも私はご免だ」
「…………そうだな」
もう今までの日常になんか、戻れっこない。戻らない。
ミカンのいない日常なんて、ありえない。
「俺もだ」
一坂は頭のうさ耳を外し、立ち上がった。
どっしりと地に足を付け、大きく……大きく息を吸った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ―――――――――っっ!!」
叫んだ。
言葉ではなく。ただただ、腹の底から。
体の中の膿を最後の一滴まで吐き出すかのように、大声で。
そのうるせー光景を、詩織が愉快そうに見ていた。
「行ってくらあ!」
一坂は玄関から出て行った。
「まったく……」
残された詩織は、床に落ちたうさ耳を拾上げながら静かに嘆息した。
階段から転げ落ちた音。
そして遠ざかっていく暑苦しい雄叫びがここまで聞こえてくる。
「これだけのものがあるにも関わらず、写真を見てようやくか」
詩織は部屋中にできた惨劇の補修跡。
そして、あの子のために買った衣服の詰まった紙袋へ視線を流す。
「ま、声が届いてくれたようでなによりだ」
詩織は満足げに呟くと、ちゃぶ台の上の写真に並べるようにうさ耳を置くと、台所へ戻った。
冗談みたいにでかい鍋の火を止める。
今夜はおでん。
もちろん三人分用意されていた。
「早く帰って来いよ、一坂パパ」
彼女の鼻歌は誰の耳にも届くことはなかった。
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おきな




