ACT22 恐るべき力【麻生 結弦】
眼を疑った。騒然となったホールの上を、彼女は飛んでいたんです。跳ぶでなく、飛ぶ。人間技ではない。まるで白い綿毛のように虚空を舞うドレスの女。嘘だろ? 君が? 本当に!?
ふわりと香るシャネルの5番。生温かい風が頬を抜け、音もなく降りたつ白のイブニングドレス。こんどこそ本物の桜子がピアノの向こう側に立っている。女神のように微笑んだ唇が優しげに言葉を紡ぐ。
「秋子。その手を……お離しなさい」
秋子。確かに彼女は秋子と言った。言われてみれば、この首に巻きつく腕、押し付けられた身体から微かに立ち昇る香水の香り。同じだ。桜子と同じ、誕生日に送ったシャネルだ。
局長! どういうことですか? 何故僕が桜子に送ったはずのS席に秋子が座っているんです? しかも桜子と見紛うような恰好で! まさか桜子を舞台上に誘き出すため!?
ゆっくりと桜子が近づく。一歩、また一歩。
桜子の行動も不可解です。ヴァンパイアに取ってハンターは敵。だから秋子を止める必要なんか無い。黙って見ていればいい。刃が僕の喉を切り裂くのを、笑ってみていればいいんです。それをわざわざ――
桜子の細い指先が黒の響板に触れる。鍵盤を照らしているスポットライト。その光の中に身を投じた白いドレス姿から眼が離せない。Steinwayの刻印や、白と黒の鍵盤をいとおしそうに撫でる白い指に。オクターブを奏でるポジションを取る彼女の左手に。2つの黒鍵に添えられた指先に。
硬く芯の通ったオクターブの和音。
ビクン! と秋子の身体が跳ねる。彼女だけじゃない、いつしか僕の身体の自由も奪われている。どこまでも澄みきったその音はEフラット。ラ・カンパネラの出だしの音。
騒いでいた客達、出口付近にかたまっていた客達も一斉にその動きを止めている。その眼差しには光が無い。やがて床に座り込んでいた者、立っていた者、それぞれがのろのろと顔を上げ、舞台に据えられたピアノを見やり、うっそりと緩慢な動作で移動を始めた。さっきまで座っていた自分の席へとたどり着き、ストンとその腰を落ち着ける。
ぞっとしました。今の術は操舵。ある者は眼を合わせることで。またあるものは手指の動きで人を操る特殊能力。
その操舵に音を使うなんて、こんな恐ろしい事があるでしょうか? 音のレンジは広いんです。
「諦めなさい秋子。奴らの気力はいま殺いだ。もう銃は撃てない。あなたを狙う事も」
凛と響く桜子の声。
ゆっくりと解かれる秋子の腕。
静まり返ったままのホール。足を踏み出した桜子の足がふと止まる。秋子がナイフの刃を自らの喉に当てている。
「よせっ!」「およしなさい!」
桜子の方が速かった。瞬時に秋子の後ろに移動し、ナイフを叩き落とす。見れば瞳が金に輝いている。秋子はふらりと桜子にもたれかかり、ゆっくりと眼を閉じた。役目は終えたとでも言うように。
「……秋子?」
妹の名を呼んだ桜子が、愛おしむようにその肩を抱き、その頬に自分のそれを押し付けた。
「不憫な子。わたくしのせいね?」
「君の……せい?」
「こんな身体になったのは、わたくしのせい。嫌がるこの子を夜の街へと送り出したのはこのわたくしですもの」
「桜子、何故秋子が噛まれた事を知ってるんだ?」
一瞬間だけ戸惑いの色を浮かべ、桜子がこの眼を見返す。
そうです。目撃者など存在しない。あの現場には局長と魁人しか居なかった。あの魁人がそう言うから間違いない。
「結弦さん?」
見下ろせば、秋子がうっすらと眼をあけている。その身体はすでに崩壊を始めている。
「姉さんをお願い。それとこの子も」
「なにを言ってるの!? 秋子? 秋子!?」
秋子の肩をゆする桜子。首元にかかるスカーフがほどけ、その喉元の傷が露わになる。佐伯につけられた醜い傷痕。その横に、より大きく、新しい吸血の噛み痕がひとつ。
な……何ですかこれ!? この歯型、大きさからして佐伯より格上。つまりこの歯形の主が命じたとでも? 僕を襲うこと、事が成れば自ら命を絶つことを!?
秋子の手足がサラリと崩れ、砂になっていく。どちらともなく秋子の名を呼び、しかしその叫びも空しく。中身を失ったドレスだけが、クタリと桜子の腕からすべり落ちる。
ゆっくりとその横たわるドレスを撫で、俯く桜子。その肩が震えている。
「……よくも……よくも秋子を弄んでくれたわね?」
血の凍るような怨嗟の声だった。立ち上がり、振り返った桜子のダークブラウンの瞳がその色を変えていく。眩く輝く黄金から――血よりも赤い真紅へと。