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第九節 不安の中で

「……ふぅ」


 息を吐く自室。明日からリゲルの家に泊まることになるため、日本から来るときに使ったスーツケースに荷物を詰め込んでいる。私物の大半は衣服なので、そこまで大荷物にはならないが……。


「……」


 手の中の携帯。画面に浮かべたままの番号を見つめる。……本当に、俺たちだけで対処するのか?


 あんな事態に。……伝えるべきだろうか。友人たちと揃って命を狙われたと言ったなら、小父さんなら直ぐ日本から飛んできてくれるかもしれない。しかし……。


「……」


 そもそも今回の一人暮らしは、少しでも小父さんに掛ける面倒を軽くしたいと思ったからということもある。あの日家から連れ出してもらって以来、小父さんは俺の為に自分の時間を費やしてきた。これからはそれを少しでも自分自身のために使ってもらいたいと。


 そう思ったのだ。……リゲルも、ジェインもいる。自分たちでどうにかできるのであれば、それに越したことはないか。


「――あ」


 携帯を仕舞って出た部屋の前で。丁度部屋から出て来たらしいフィアと出くわす。


「どうだ? 荷物は」

「あっ、はい。大体は詰め終わりました」

「そうか」


 フィアも俺と同じで、私物と言っても殆んどが洋服だ。帰りがけに買った小さめのスーツケースといつものバッグで納まるのかは少し心配だったが、大丈夫なようだった。まるで旅行の前日だなと、そんなことを苦々しく心の内に思う。


「……復習だけしとくか。今日の」

「そうですね……」


 夕飯も入浴も既に済ませた。それぞれの鞄からノートなどの勉強道具を引っ張り出し、テーブルに広げる。一番に取り掛かったのは今日の初回の授業で出されたばかりの課題。いつものように、フィアと共に取りかかり。


「……」


 ……進まない。


 お互いに。――集中ができていない。見落とし、聞き落とし、読み間違い。問いも答えもことあるごとに食い違い、いつもならとっくに終わらせられているような問題にも手こずる始末。俺もフィアも、別のことに意識がいっていることは明白だった。


「……」


 そしてそれは、今この瞬間にも俺たちが命を狙われているかもしれないということに違いない。……昨日の戦闘で手傷は負っている。今日の襲撃はないとは思うが、それでも油断や安心はできない。気を休められる時間がない。


 実に皮肉な話だが、こんな状況に置かれて初めて、日頃自分たちがどれだけ暢気で安全な空気に浸されていたのかが分かってくる。……命の危機。それを多少感じさせられただけで、ここまで緊張し疲弊する羽目になるのだから……。


「……はぁ」


 ――こんな状況下で、こんなものをやっていられるわけがない。


 溜め息と共にペンを投げ出す。……昔授業か何かで、目の前の問題に熱中していて殺された学者の話を聞いたような気がする。無論本人を目にしたわけでもないから分からないが、それは恐らく、死に気付かないほどその問題に熱中していたからだろう。


「……」


 俺の所作に応じてか、フィアもシャーペンを置く。もし死の恐怖を自覚したあとでその問題を解けなどと言われれば、その学者も問題など手に付かなかったはずだ……。そんな他愛もない思考が浮かんでは消えていく。


「……今日はもう寝るか」

「……はい」


 互いにノートを閉じ、プリントを片付け始める。その間も、フィアの表情はどこか硬いままだった。自分の分の勉強道具を纏め――。


「……」


 無言のまま部屋の前まで着く。こうなってみると分かるが、今までしていたような日常的な話が、まるで役に立たない。命を狙われているというそれだけで、今まで話せていたはずのものが急に現実味を失ってきてしまうのだ。とはいえ、いつまでもこうしてドアの前に立っていても仕方がない。


「……じゃあ――」


 ――お休み、と。そう言おうとした言葉が、途切れる。……フィアが。


「……」


 俺の手を掴んでいる。いや、掴んでいると言うには、その感触は余りに弱々しく――。


 ――っ。


 その柔らかな掌の心地良さに、思わず心の臓が跳ねる。……落ち着け。


「……どうした?」

「……」


 そのまま少し、無言のままでいたあと。


「……すみません。ご迷惑……でしょうけど……」


 話し出したフィアの声。それがいつになく縮こまっていることに気付かされる。よく感じて見れば、俺の手を掴んだフィアのその手は、何かに怯えるように細かく震えることを繰り返していた。


「できれば、その……」


 言葉に詰まり。詰まらせる何かを飲み込むように、俺の眼を見る。


「今日だけ、一緒の部屋で寝ていただけませんか?」

「――ッ⁉」


 一瞬。驚愕に頭の中が真っ白になったような気さえする。……なにをどう振る舞ったものか、考えが追い付かず――。


「その、怖くて……」


 ――続けられた言葉の内容に、一瞬で冷静さを取り戻した。


「……」


 それ以上は声にならない。見つめてくるフィアに対し、俺の方も言葉には出さないまま、その感情を強く飲み込む。……直ぐさま察せなかった自分を責めるよう、強く噛み締めて。


 ――平気であるはずがなかったのだ。


 平和な生活の中で突然命を狙われ、殺されそうになり。それが去ったと思えば今度はいつ訪れるか分からない殺人者の脅威に晒されている。


 置かれた状況は無論俺も同じだが……自分一人では身を護る術を持たないフィアにとって、そのことは何よりも強く心に圧し掛かっていたに違いない。昨日もこうした不安と恐怖に耐えていたのかもしれないと思うと、そのことに気付けなかった自分が情けなく思え。


「――ああ、分かった」


 理解した時点でなるべく早く頷きを返す。贖罪のような俺の言葉に、フィアは目に溜めていた切実さを緩ませて。


「すみません……ありがとう、ございます」


 少し項垂れ気味にそう口にする。俺の手を掴んでいる指に、少し力が込められたようにも思えた。


「……布団を取って来るから、先にそっちの部屋で待っててくれ」

「はい」


 手が離れる。背後でフィアが自室へ入るのを感じつつ、布団のしまってある物置へ。


 ――フィアには自衛の手段はない。


 再度そのことを反芻する。仮に襲われたとすれば、戦ってフィアを守らなければならないのは俺だ。それは今日このときだけではなく、リゲルとジェインが手を貸してくれるとしても。――俺は、戦わなければならない。


「……」


 布団に掛けた手を離し、自身のそれを見る。……昔あった剣胼胝(けんだこ)などとうに消え、微かに震えるだけの掌。


 ――だが、次にまたあの男に襲われたとき――。


 ……俺はフィアを、守れるのだろうか。














 ……翌日。


「――っと」


 掛かる雲が日差しを遮る空の元を引き摺り。広々とした庭から運び込んだ荷物。俺に続いて、フィアも自分の荷物を中へ入れる。軽く一息を吐いた、目の前に広がるのは――。


「……ガラガラですね」

「ああ。今は親父たちは出払ってるからな。一応、見張りや警備担当の黒服はいるけどよ」


 以前に来たときとはだいぶ雰囲気の違うリゲル邸。出迎えもなく、人の姿や足音もしない。広々としたホールは無人のような静まり返りを以て俺たちを迎えている。……飲み込まれるような錯覚。


「それでも全体で五十人ちょっとはいるはずだぜ。警備システムもあるしな」

「まあ、僕たちができる範囲で最善の策なのは間違いない」


 リゲルの横、俺たちの前いるジェインは、登山用と思しきリュックサック一つに荷物を纏めてきている。曰く元からかさばるような物は持っていないとのことらしいが。


「とりま荷物を置きに行くか。部屋はどうする? 二階と三階、地下にもあんだけどよ」

「なるべく入口から遠い方が良いんじゃないか?」

「あと、窓もない方が……」

「なら地下か」


 襲撃の可能性を考慮して思い思いに口にした台詞から。案内するぜと向かうリゲルのあとに続いた。以前とは別の階段から地下へ下り――。


「――んじゃ、この辺りの好きな部屋を使ってくれ」


 未知の区画に導かれた、俺たちの前に並ぶのは幾つものドア。この廊下だけホテルか何かかと錯覚させるような作りになっている。


「……凄いな」

「これが全部お部屋なんですか……?」

「おうよ。部屋の鍵は中に置いてあっから。軽く確認して、必要な物があったら声掛けてくれよ」

「分かった」

「分かりました」


 適当に場所を選んで中に入る。……ベッドにシャワー、手洗い。見回すが、一通りの物は揃っている様子だ。


「……大丈夫そうだな」


 荷物を置いて戻った廊下。ジェインは先に出てきており、ほどなくしてフィアも中から姿を現す。


「どうよ?」

「あ、はい。大丈夫そうです」

「問題ない。寧ろ充分過ぎるくらいだな」

「皮肉んなよ。んじゃ、家の中を案内しとくぜ」

「家の中?」

「そこそこ広い家だしな。入っちゃいけねえとことかもあるし、何かあったとき用に間取りは把握しといた方が良いだろ。二人は前に来たことあっから、少し被っちまうかもしれないが……」

「お前にしては気が利くな」

「テメエはいっつも一言が余計だがな」


 言いつつ歩いて行く。リゲルの先導を受けて、今いる地下から順番に。俺たちの見たプール、射撃場。新たにトレーニング室を見て、次に案内されたのは――。


「ここが浴場だな」


 廊下の途中に突如として現われた二色ののれん。今は誰も使ってねえから、と、潜って入った先には。


「……!」


 広々とした大浴場が広がっていた。……凄い。化粧石を使っているのか、床面は見事なほどに一面の純白。洗い場を経て鎮座しているのは、恐らくは大理石と思われる品格のある石風呂だ。そして……。


「広いですね……」


 黒く艶のある壁と天井。……御影石だろうか? 単なる無地ではなく、様々な色の石を使った模様で彩られている。奥にはサウナと思しき扉が二つ。趣のある色合いをした木の浴槽が並んでいる様がどこか不思議だ。手前の脱衣所は確かに、棚に幾つもの籠が置かれた日本風のものだったが……。


「親父の趣味でよ。ここだけは特に念入りに作らせたらしいぜ。上には防弾ガラスを使った露天風呂もあるし」

「……構成員もこの風呂を使えるのか?」

「当たりめえだろ。ま、殆んどは自分の家があるから、此処に部屋のある一部の連中と、夜警とかなにやらで担当の連中が使ったりするって感じだけどな」


 でなきゃ大浴場の意味がねえだろなどと言いつつ、外へ出てもう一方の風呂も覗く。こちらは逆に脱衣所が欧風で、風呂場が日本式と言った感じだ。その凝りように感嘆の息を零しながらも、風呂場をあとにし――。


「よし。これで一通りってとこか」


 三十分ほどは歩いただろうか。一階に続き二階、三階を見たところでリゲルが言う。……二度目であってもやはりこの部屋数には驚かされる。入れない部屋も結構な数があったが。


「あとは庭の方に幾つかあんだけど、そっちはあんま行かねえだろうしな。なんか気になったら訊いてくれよ」

「……考えられて造られた家だということは分かった」


 俺とフィアに疑問は特にない。意味ありげに呟いたジェインも、それ以上何かを訊こうとはしなかった。


「んじゃ案内は此処までとして――早速、今日なにすっかだな」


 バシリと拳を打ち合わせるリゲル。そうなのだ。学園を終えてから来たといっても、時刻はまだ夕方前。夜になるにはまだ時間がある。ひとまず決めておかなければならないのは、夕飯までに何をするか――。


「そのことなんだが」


 そのことを考えようとした矢先。ジェインがポケットから取り出して見せたのは、綺麗に重ねられ折り畳まれた数枚の紙。


「昨日皆のルーティーンを聞いて、一応の予定表を作ってみた。僕一人で考えた物だから、あくまでまだ参考にして欲しいといった感じだが」


 手渡されたそれにざっと目を通す。パソコンで作られたと思しき綺麗な直線の時刻表に、昨日話し合った予定の大体が書き込まれている。……学園の時間割を一日の時間にまで拡張したような感じ。


 自分の言った予定を見てみるが、話したものは全て無理なく組み込まれている。一応と言いつつ殆んど訂正の余地がないと思える辺り、ジェインの思慮深さが窺えるスケジュールだ。


 ……だが。


「バイトの具体的な内容についてはこれから詰めようと思っている。なにか希望や、逆にやりたくないことがあれば言って欲しい」

「――」


 ――違う。


 そうではない。確かにそれはこの表に欠けている部分ではあるが。この予定が入れられていることの、問題点は――。


「――俺はできねえからな」


 パサリと。手に持つ用紙に価値を認めないように、無造作に腕を下ろしたリゲル。


「お前にも言ったと思うけどよ。やるってんならその時間、近くのどっかで適当に暇潰してるわ」

「……っ」


 ――そうなのだ。


 昨日リゲルから話された内容。俺たちも以前に聞いたことはあったが、マフィア関係者ということで知れ渡っているリゲルは、この辺りではほぼ一切のバイトができない。


「馬鹿を言え。近くだろうがなんだろうが、外で距離を空けるのは危険だ」


 問答無用で門前払いされるのだ。その威力たるや、知っている人間なら顔を見ただけでドアを閉められ、名前を聞けば平謝りで余所に行ってくれと懇願されるほどだと言う。バイトをすることをジェインが強く希望していたため、昨日の段階ではまた話し合うという段階で止まっていた。しかし、それにしても――。


「ならどうしろってんだよ。ヤモリ見てえに天井に貼り付いてろってのか?」

「お前にも普通に働いてもらう。一人だけ悠々としているのは不公平だからな」

「――えっ?」


 ――っ。


 余りに。余りに簡単に口にされたその台詞に、一瞬場が静まり返る。……なにか。


「……考えがあるのか?」

「ああ。昨日そのことを聞いたときから、既に考えてあった」

「……言ってみろよ」


 ジェインのその発言が信用できないのか、リゲルはやや喧嘩腰だ。


「言っとくが、オールド・パルで雇ってもらおうってんなら無理だぜ。あそこは中立を保つために、その筋の人間は雇えねえからな」

「それくらいは僕でも想像がつく。ここで説明するよりも、実際に体験した方が早い」


 適当な事を言えばただでは済まないとばかりに真剣な――リゲルの目線を切って、飲食店でもいいか? と俺たちに訊いてくるジェイン。頷いた俺たちの目の前で携帯を取り出す。短いコールのあと、出たらしい相手と素早く話を交わし。


「――約束を取り付けた」


 通話を終了させた直後に平然とそんなことを言う。その素早さに理解はできても、実感が追い付かない。


「え……」

「今のでかよ」

「ああ。取り敢えず試しと言うことで、一時間後に来て欲しいそうだ。――用意をしよう」


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