第九節 友人面
――翌日。
「……」
俺はクラスの席に腰掛けている。三週間も経てばすっかり定位置となった席。隣にいるのは言わずもがな、フィアだ。
騒動があった昨日。家に帰ったあとも互いにどこかぎこちないまま、俺たちは言葉少なにルーティーンをこなしてそれぞれ自分の部屋に戻った。一晩寝て起きれば元通り……などということは案の定なく、俺たちの間には今もぎこちなさが置かれている。それでも時間は経っていくし、学園は始まってしまう。登校するのに今朝ほど憂鬱になった日も久しくなかった。
――あいつはいつも通り遅刻か。
変わらず隣にいるはずなのに。いつもより少しだけ遠く映るような背中を視野に収めながら、最早当然の如く前後両列を空けられた席を見遣る。傍目には元気ぶっていたが、もしかすると昨日の乱闘で結構な怪我でもしたのかもしれない。そうだとしても、知ったことではなかったが――。
「……っ⁉」
そう思っていたときに、教室の扉が勢いよく開けられた。
「――」
空気に響く音のボリュームが一段下がる。堂々とした素振りで入って来たのは間違いない。リゲルだ。剥き出しの額には絆創膏を貼り付けてはいるが、その他はいつもと変わらぬスーツにサングラスと皮手袋。
「……」
そのままの位置で少し立ち止まって中を見回した。――サングラスが、俺たちの方を向いたまま止まる。走った嫌な予感の通りに口角を上げて、そのままズンズンとこっちへ歩いてきた――!
「――よう! 黄泉示、カタスト!」
既に時遅し。最早寝ている振りをしても意味はない。迂闊に目を合わせてしまった、数瞬前の俺の浅はかさを呪うばかり。
「あ……おはようございます。リゲルさん」
次に頭に浮かんだ無視という手段は、フィアが返事をしてしまったことで早々に無意味になる。……至極普通の挨拶。たったこれだけの会話に教室中の注意が集まっている状況を、どう受け止めればいいのだろうか。
「……おはよう」
「おう。なんだ、覇気がねえな黄泉示。朝飯はちゃんと食ってんのかよ?」
針の筵というこちらの心境をまるで理解していない応対で、どっかとそのまま前の席に腰を下ろすリゲル。教壇の方を向かず、俺たちに視線を合わせているのだから堪らない。
「……早いんだな。今日は、珍しく」
毒食わば皿までだ。黙り込むわけにもいかず、半分皮肉のつもりで言ってやるが。
「ま、いつも遅刻ばっかじゃあれだしな。偶には俺も、早く来ようと思ったのさ」
「そ、そうですか。いいことですよね」
通じていない。見当違いのやけに爽やかな手振りで返される。律儀にそれに反応するフィアに止めてくれと言いたくなったところで。
「――お、そろそろか」
開始時刻丁度に今回の講師が入ってくる。所々で雑談が止み、筆記具を構える音がする。とにかく今は授業に――。
「理念を持って――」
「けっ。んなもん嘘っぱちだろ。なあカタスト」
「ええと……そうですね?」
「――ということです。つまりですね――」
「けどこっちはちょっとマジっぽいな。どう思うよ黄泉示?」
……そうだった。
この授業は一応、雑談フリーなのだった。後ろを向いたリゲルがちょくちょく俺たちに話しかけて来ていても、学生も講師も何も言わない。
「――」
思わず前の時計を見る。……残り時間は八十分。その間、これがずっと続くのか……。
……
…
「よし。今日は此処までにしよう」
「……ふぅ」
終わりの合図を受けて、板書を写し終えたノートをしまう。二限目に当たる数学の授業。本格的に授業が始まった今日の内容は中々にボリュームがあった。
「……」
横目に盗むようにして見た――フィアの表情はいま一つ浮かない。俺から教わることで前よりは理解できるようになったはずだが、内容の密度が増したことで再び突き放されたような気分になったのかもしれなかった。……今日も帰ったら、また二人で復習をしなければならないのか。
ギクシャクしたままの間柄にぎこちなさと重い気分を覚えながらもひとまず昼飯をどうしようかと、そんなことを考えながら教室を出た――。
「――黄泉示、フィア!」
「……」
瞬間に聞こえてきた声。げんなりした顔で見た先に映るのはスーツにサングラス。……またこいつだ。
「今授業終わりか? 良ければ一緒に昼飯行こうぜ!」
良ければ、などと言っているが……笑顔で駆け寄ってきたその態度は断られるなどとは微塵も思っていないだろう。見るからに行く気に満ちている。
「……り、リゲルさんも今からお昼なんですか?」
「まあそりゃな。俺も弁当じゃなくて食堂派なんだよ。――んで、どこ行くか決まってんのか?」
「……いや、まだ」
「お、なら俺が案内するぜ! 良い場所知ってんだよ。距離はあるんだけどな、そこにしかない特別メニューが――」
……勢いのまま敷地の反対側にある食堂にまで連れていかれた。
「――どうだ? 上手いだろ、この丼!」
「……」
「そ、そうですね……」
無理をして話を合わせるフィア。俺の方はといえば、もはや溜め息さえ吐く気にならない。
――結局この日は一日中、リゲルに付き纏われ通しだった。
「……ただいま」
「……ただいま帰りました」
二人して玄関で靴を脱ぐ。うがい手洗いを順に済ませ、復習をするためダイニングテーブルに並んでつく。いつものように行ったのは、そこまでだ。
「……今日は散々だったな」
「流石にちょっと、疲れましたね……」
挙がる話題など決まっている。無論、今日一日付き纏ってきたあいつのことだ。
――あのあと門前で待ち伏せしていたリゲルに捕まり、結局下校まで付き合わされる羽目になった。ひょっとすると家まで着いて来るんじゃないかと戦々恐々。気が気でなかったところ、途中で別れてくれたのでホッとしたと言うのが正直なところである。……その思考が既に大分毒されているとは思うが、それくらいインパクトが強かった。
「なんのつもりなんだ……あいつ」
「……凄く親しげな感じでしたね」
間にあるぎこちなさを一旦脇に置いて話が進むほど。……昨日のことが切っ掛けになったのは間違いないだろう。
ただ、それにしてもわけの分からない変わりようだ。あの一件で単なるクラスメイトから知り合いにされたのは不本意ながら確かだとしても、それを更に飛び越えて友人どころかいきなり年来の親友のように接してくるのはどう考えても不自然……というよりおかしい。
「……その、思ったより怖い人じゃないみたい……でしたけど」
「……まあな」
昨日の時点でもある程度はそうだったが、今日のリゲルの態度は決して高圧的でも、腕力に物を言わせたものでもなかった。
クラスでの雑談もそこまで声は大きくないし、昼休みに連れていかれた食堂の飯は確かにそれなりに旨かった。あくまでなぜか往年の親友のようなノリと勢いで気さくに接してきているというだけだ。実際にはそれが気さくを通り越して馴れ馴れしくなっているし、場違いに高いテンションと周囲から浴びせられる視線が凄まじい疲労要因になっているのだが。
「……これからもあんな感じなんでしょうか」
「……いや、流石にそれは」
「……でも」
〝んじゃ、また明日な!〟
帰り道。去り際に同じ台詞を言って手を振っていた手袋が思い返されて、身震いする。……落ち着け。
クラス授業を除けば俺たちとリゲルとで被っている授業数はそう多くない。例え毎回昼放課後に絡まれたとしても、今日ほどの疲れはないはず……。
「……そんなことより」
そんなするのも嫌な想像を打ち切って。鞄から出したノートを、机の上に思い切り広げた。
「今日の復習をしよう。いつも通りに」
「そ、そうですね。いつも通り」
互いに努めて意識して、取り繕った態度で数学へと向かう。フィアの取ったノート。丸い字体で疑問点などが記されているノートに目を走らせる。
――まあいいさ。
描かれたグラフを見ながら思う。仮に明日からまた絡んできたとしても、こっちが応じる態度を見せなければいずれは無意味な行為だと気付くはずだ。相手がめげて離れていくまで。それまでの、暫くの辛抱。
出来る限りポジティブにそう考えるようにして、フィアとの会話に意識を集中させる。……あいつもまさかそこまでしつこくはないだろう。たまたま関わることになった相手への単なる気紛れ。きっと大丈夫だと――。
――そんな希望に満ちた予想をしていた、五日後。
「……」
「……」
授業も終わり、昼飯時。……俺とフィアはテーブルを囲んでいる。気分の重いことに、二人だけではない。
「――おっ、今日はベーコンサンドにしたのかよ!」
「は、はい」
並ぶ俺たちの正面に座っているのは、リゲル。一日目と全く変わらない出で立ち。変わらないテンションで俺たちに話しかけて来ていた。
この五日間。被っていなかったはずの授業になぜかリゲルが出席してくることが頻繁にあったのだ。会話の中でそれとなく問い質してみれば、どうやら科目選択を変えて幾つか新しく俺たちと同じ授業を取ることにしたらしい。まさかそこまでやるなどとは思っていなかっただけに、その行動力にまず度肝を抜かれた。……更に。
――めげない。
授業中だろうが休み時間だろうがお構いなしにやたらと話し掛けてくるリゲルに対抗して、俺はなるべく反応を薄くし、直接の声掛けにも気のない返答であしらってきている。どんなにお気楽な人間でももしかして嫌われているのではと不安に思うくらいには、態度で示してきたつもりだ。
……なのになんなんだ、こいつは?
空気が読めないのか? 超弩級のポジティブ馬鹿なのか? ……いずれにせよ脳みそが夢一杯の花畑なんじゃないかと思うくらい、雰囲気を察するということをしてこない。今だって……。
「あはは……」
「だろ? 笑っちまうよな! それでよ――」
応えるフィアの声が乾き切っているのにも気付かずに話を進めている。……まあ、そんな風に笑うしかない話に応えているフィアの側にも、問題があると言えばあるのだが。
「そ、そうですね……」
フィアは無理にでも笑んで見せる。――普段とは違ったこの五日間で分かったこと。
例え好ましくない人間が相手だろうと、振られた会話を繋いでしまう癖がフィアにはあった。お人好しと言うのとはまた少し違うのだろうが、とにかく無視するということが根本的にできないのだ。
相手が何か言えば反応を返してしまうし、暫く沈黙が続けば自分から言葉を出してしまう。……居心地を悪くさせるのに決定的に向いていないその対応が。リゲルが受け入れられていると勘違いするのに一役買ってしまっている。とはいえ。
かく言う俺もこれまで完全な無視はしてこなかった。三語に一語くらいは〝ああ〟とか〝そうだな〟とかの言葉を発している。話し掛けられているのになんの反応も見せないというのは、流石にどうかと思っていたからなのだが。
……いい加減そろそろ限界が近い。
先日の一件以来どことなくフィアとぎこちないままのこともあってか、苛立ちに似た感情が俺の中に募ってきている。相手を気遣うような態度を続けるフィアにも、強く言い出せない自分にも、無遠慮に場をかき回すこいつにも――。
「……リゲル」
そう。そう思ったときには、既に口内から声が出てしまっていた。
「おう、なんだよ黄泉示!」
口角を上げながらこちらを向く。その動作が既に暑苦しく、鬱陶しい。
「……話がある」
「……黄泉示さん」
躊躇いがちな声。制止ともつかないフィアの呼び掛けを振り切って。
「なんだよ。改まって――」
「――はっきり言って迷惑なんだ」
敢えて発言を遮った。上げられていたリゲルの口の端が、受けて平坦まで下げられる。
「あのときも別に、リゲルを助けたわけじゃない。俺たちはただ、捕まってた子どもを助けようとしただけだ」
……黙ったまま。俺の話を聞いているリゲルは、不気味なほど静かで大人しい。その態度に乗じるようにしてキッパリと言い切る。
「もう構わないでくれないか。俺たちに」
「……」
沈黙。互いに無言のまま過ぎていく一秒、二秒。いつの間にかポケットに突っ込まれていた両手。黒々としたサングラスの奥の眼が、どうなっているのかは分からない。
「――なるほどな」
息を吐く呟き。もたれ掛けていた背中を起こし、テーブル上で腕を組み、そこに顎を乗せる。
「一応訊いときたいんだが、そいつはカタストも同じ意見ってことでいいのか?」
「……ええと」
一瞬迷うような素振りを見せたが。双方からの視線を受けて、フィアも躊躇いがちに頷いた。
「うし、分かった」
組んでいた腕を解く。……よし。思ったより聞き分けが良い。これで――。
「――俺と勝負しろ。黄泉示」
「……は?」
流れをまるで無視した意味不明な宣告に、思わず間抜けな声が漏れる。……なんだ?
「なに――」
「そっちが俺と関わりたくねえってのはよく分かったぜ。残念だがまあ、それは仕方がねえ」
こいつは。低く落ち着いた声音に遮られたのは、今度は俺の言葉の方。
「だがよ、俺はお前らとこれからも関わっていきたいと思ってる。できることなら勿論、友人としてな」
蔓に指を掛け、外したサングラスの裏から現れた意外なほど澄んだブルーの瞳。紛れもない強さを込めた眼光が、獲物を見るように俺を見据えた。
「だから勝負だ。そっちこっちで互いの意見が割れてんだから、白黒はっきり付けるしかねえだろ」
「……どうしてそうなる」
訳が分からない。こいつの言っていることは、話として無茶苦茶だ。
「――当人が嫌だって言ってるんだ。仮にそっちが勝ったところで、そんなのは――」
「だからこの学期だけでいいぜ」
「なに?」
……どういうことだ?
「もし俺が勝ったら、苦労を掛けるだろうが今学期中だけは俺と関わってもらう。それを過ぎても関わりたくねえと思うんなら、それでキッパリ終いにする」
「……俺が勝ったら?」
「その時点で俺はお前らに構うことを止める。声も掛けねえし、席も離れた場所に座る。なんなら授業も変えたっていい。なにもかも全部帳消しだ。約束するぜ」
「……」
――なんのメリットがある、と言いたい。
そもそも一方的に俺たちに絡んできたのはこいつの方なのだ。本来ならこんな面倒なことにはなっていなかったはずで、あくまでそれを元に戻すだけのこと。手間が掛かる分デメリットがあるとも言えるが。
こいつの性格からすると、このまま俺が一方的に拒絶するだけでは諦めない可能性がある。下手に不興を買ってこのさき悪絡みを続けられることになればそれこそ堪ったものじゃない。……現状はどうしようもなく、既に問題に嵌まってしまっているということまで考えれば。
勝てば万事上手くいく。負けたとしても明確な期限を設けられる。なにより相手が自分から言い出してきたこととして、言質を取れるのは大きいだろう。
「……フィアはどうするんだ」
「カタストとは勝負しねえよ。怪我させちまっても困るし、お前が代表で戦ってくれりゃあいい。カタストもその方が良いだろ?」
「え、えっと……」
唐突な場の流れに、困惑した様子でフィアが俺たちを見る。
「怪我って、その。……危ないことなんですか?」
「違えって。スポーツだよ。スポーツ」
……スポーツ。
ヒラヒラと振って見せている黒手袋。マフィア関係者の持ち出す勝負事が真っ当なスポーツであるかどうかは大いに疑う余地のあるところだ。……が。
「でもその、ええと……」
言い淀む。向けられる視線は、明らかに俺を慮ってのことで。
「――男だろ黄泉示? 覚悟決めろよ」
誰が目にしてもあからさまなその挑発。その態度で逆に、心が決まった。
「……分かった」
正面から。気迫を込めてリゲルを見据える。
「やってやる。その勝負」
「――黄泉示さん」
「――上等! 悪くねえノリじゃねえか、黄泉示」
「……その名前で呼ぶのを止めろ」
「おっと、悪い悪い」
手を立てながらサングラスを掛け直す。素なのか、挑発しようとしているのかさっぱり分からない。
「んじゃ、授業終わり正門で待ってるぜ。詳しい話はそのときにな」
立ち上がってリゲルは去っていく。時計を見ると忌々しいことに、休み時間の終わりまであと五分しかなかった。
「……行こう」
「……はい」




