第七回
その男はトン、トン、トンと片足で走り、振り返りざまにさっと飛び上がって向きを変え舞うようにして着地した。この動作を繰り返し行い一向に飽きる気配はなかった。顔は見えずその姿は常に後ろ向きなので肩の輪郭だけが春朗の目には軽快に映っていた。小紫が言っていた西の角の家居の前でしきりにその影は飛び廻っているのである。春朗はこの話を聞いたときから斎藤十郎兵衛への興味を持っていたのだがそれが実現したのである。
何という軽業であろうか。さすがはこれが能役者の舞いというものなのか。先ほどから感嘆して眺めているのだ。僅かに疾風が轟きその薄い路地に射す光が彼の気合の入れた呼吸に反射するかのように届いてくる。麻の半纏姿という粗末な稽古着に身を包み肌刺す寒さをものともせずただ一途に練習を続けている。人が近づいてもその動きは臆することなくただ同じ動作を繰り返す。トン、トン、トンと三間進んで姿勢をただしその場にて振り向いたと見せるや否や柔らかく肩を窄めて跳躍し高く浮かんで舞を決めていた。まさしくその男こそ十郎兵衛と思しき人物。春朗は間違いないと確信した。
能には舞いがある。自分がこれほどまでに吸い寄せられる意味が直感として分かっていた。自分の感じたものに間違いがないとすればそれは江戸の歌舞伎には見られない何かをそれは擁していた。眺める春朗の目にはそれが見えそうな気がした。
暫くあって、男は舞をやめ春朗に気付いたのかその場で動かなくなった。春朗の影を一瞥しやがて鋭い眼光を春朗に向けてきた。
「邪魔をして申し訳ない。わたしは向かいの長屋に住む唐辛子売りでございます。先ほどからあなたの余りにも見事な舞に見惚れていました」
春朗が慌てて答えると男は「新顔さんだね」と短く言った。
「去年の暮れに引っ越してきました」
春朗は初めて正面から顔を見た。身は小柄だが精悍な顔立ちでなるほど年恰好は自分と同じくらいに見えた。
小紫の部屋を訪れたときからちょうどひと月が経ち世は不安な幕開けとなった寛政五年の初春、中村座の正月興行もまもなく千秋楽を迎えようとしていたときの出会いだった。