第五回
隣人の女の名は小紫といった。神楽坂の芸者で八高という料亭のお抱えであった。八高いう座敷は文人の会合で知らぬものはなかった。たまにお上の目付け役が姿を見せるほか富豪の町人衆が利用していたが大抵は著名な文人たちの集う場所だった。
黄表紙、滑稽本の著作者で名を売っていた朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝らは昔この料亭の馴染みの客であった。従って小紫は巷の大方の出版事情をよく彼らからいち早く知ることができた。
しかしこれらの文人はみな刑を受けたのである。例の倹約令に抵触したからである。二年前、失脚した田沼意次のあとを継いだ松平定信が老中に就くと倹約令の内容は出版界の統制にもますます厳しさを増した。内容に過激なものや風紀を乱すような著作は作者のみならず出版した版元にも同罪が科せられ処罰された。他にこれらの統制は男女混浴の禁止等、町人の生活にも及びまた歌舞伎界にもその締めつけは広がっていく。お膝元の本櫓の座元とその歌舞伎役者の給与にまで統制が及ぶのである。それは営業時間等の運営の細事に渡って縮小を促し、大物役者に至っては給金を減額する通達だったのだ。これによってついに森田座、市村座はやがて休業せざるを得なくなった。同時に千両役者といわれたものも実在しなくなっていた。
このところ小紫の耳にはたった一箇所だけ残った中村座の行く末を案じる話を聞かない日はなかった。
春朗と会ってからひと月余りが経った頃、小紫は座敷に呼ばれて八高へ赴いた。
その日も朝から凍りつくような寒さで今にも雪が散らつきそうな模様だった。客は珍しく描き屋の集いらしく最初から議論が伯仲していた。集いとはいっても四人だけの小宴で話す言葉尻に上方の風土が漂いこれまで見たことのない一見の客とみえた。小紫は不思議を覚えつつ脇に入って宴を取り次ぐも彼らの議論互いに譲らず、侘びなど寂びなど雅びなどと盛んに論じ合う。
傍らに散らしたる半紙のそれに描きし絵を論じたるものか時折手に取り皆口々に論じていた。
「皆様は上方の方でいらっしゃるのですか?」
小紫の問いにひとりが答えた。
「元はといえば上方の出だが、それが何か」
「いえいえ別にちょっと聞いたまでです。この店には珍しいお集まりなので、それに時折見えるお方のなかに同じ上方訛りに近いひとがいますものでそちらのご紹介かと」
「どなたのことかな」
「文人のお方ですが、日本橋通りの耕書堂にいらっしゃる十返舎一九とかおっしゃいましたかしら」
「知らんな」
四人の代表としてその彼が答えたが、なかに覚えていた者がいて「その者、書き屋であろう。確かに聞いたことのある名前だ」と言った。さらに、「耕書堂といえば蔦屋重三郎がやっている書肆だろう。彼はこの度の件で如何に相成ったか。身上半減といえば大なる打撃であろう」と言った。
小紫は一瞬びっくりした。よもや一昨年の出来事を見ずや知らずの一見の客から聞かれようとは思ってもみなかったからである。
それに蔦屋重三郎とは個人的にも彼女にとってその昔関わりがあった。
「折角築きし十年の年月、元の財産を取り戻せるかどうか、今は苦難の日々だそうですよ」
何食わぬ顔をして答えたが彼女の心のなかは少し複雑に揺れていた。